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第38話 仄暗い水底にあるもの


 ──ウォータースライダーを何周かし終えた輝、湊、繭子、美鶴の四人は、プールサイドに腰掛け、息を整えていた。


 輝と湊は水に濡れた髪をかき上げながら楽しげに話し合い、繭子は満足げな笑みを浮かべながら隣に座る美鶴を見ていた。そして、視線の先の美鶴は膝を抱えるようにして座っている。各々の顔には様々な感情が浮かんでいた。


「──あー、たのしかったー! 美鶴ちゃんはどうだった?」

「……まあまあ」

「あははっ! もうっ、この娘は素直じゃないなぁ!」


 美鶴の口角が僅かに吊り上がっていたのを見て繭子は確信した。美鶴がウォータースライダーの楽しさにハマったことを。美鶴は小さく頷いたが顔には僅かに朱が差していた。それは太陽に照らされて身体が火照っていたこともあるのだろうが、繭子に揶揄われても否定できない自分がいることに気づいて悔しいのだろう。


「でも……ちょっと疲れた……」

「休憩にする?」

「そうだね。喉も渇いたし、ちょっと休もっか」

「賛成~! 自販機ってどこにあるんだっけ?」


 四人はプールから上がり、一息つくことにした。太陽の光は強いが、水に濡れた体に風が心地よく吹き抜ける。


「大きな声出しすぎて喉カラカラになっちゃった」

「──ん」

「おっとっと」


 ずっとプールに入っていたので気づきにくかったが、体の水分はしっかりと奪われていたらしい。プールからあがったところで繭子が少しフラついた。それを輝が咄嗟に支える。


「だ、大丈夫っ?」

「あぁ、ごめん。少しフラついちゃった。はしゃぎすぎたからかな?」

「あっちに自販機あるって。とりあえず飲み物買ってこようぜ」

「そうだね。行こっか」


 輝が指を指した方を見ると確かに屋台があり、その横に自動販売機が置かれているのが見える。屋台ではアイスやチュロス、カキ氷、食事では焼きそばやらフライドポテトなどが売られているようだった。


 ──硬貨を入れて選択すると、ガコンッという音がしてペットボトルが落ちてくる。


 スポーツドリンクを一気に呷ると冷えた液体が喉を通っていくのを感じた。乾いた喉と身体にじっくりと水分が染み込んでゆくのがわかる。


「かぁ〜! 生き返る〜!」

「湊くんは大げさだなぁ。でも喉乾いたときはいつもより美味く感じるよね」


 喉を潤した湊が大げさに背を反らせ、皆が苦笑した。


 プールサイドには陽射しが容赦なく降り注いでいたが、吹き抜ける風は心地よく、濡れた髪を乾かしてくれている。行き交う人々の明るい笑い声や子どものはしゃぎ声が近くから遠くからと響き、ひとときの休憩は夏らしい賑やかさに包まれていた。


「美鶴ちゃんもちゃんと水分はとってね。倒れたら大変だから」

「……うん」


 美鶴は繭子から渡されたペットボトルのキャップを回し、スポーツドリンクを一口含んだ。冷たい液体が喉を通り抜ける感覚にわずかに表情を緩める。


 だがその直後──ふと視線が水面に吸い寄せられた。


「……?」


 視界に映り込んだ『何か』。美鶴の瞳が僅かに揺れる。


 その様子を不思議に思ったのか、繭子も同じ方向を見やりペットボトルを膝の上に置いた。


「……あー。美鶴ちゃんも気づいちゃった?」

「……うん」

「なんとなくそんな気はしてたけど、やっぱり美鶴ちゃんも見えるんだね」

「……繭ちゃんも」


 短く答える美鶴の声は小さいが、しっかりしていた。霊感を持つ者同士の共感とでも言うのか、初めから二人は互いに不思議なものを感じていた。目に見えない何かが触れ合っているような感覚。


 初めはそれが何かは分からなかったが──互いに見えざる者が見えているということで、不思議な感覚は納得と共に受け入れられていた。


 そして──


 美鶴はプールに視線を向けて、よくよくと目を凝らす。陽射しは強い。風も温い。普通なら寒気など感じるはずがない。しかし、背筋に氷をあてられたような感覚を覚えている。水面はきらきらと光を反射して眩しいばかりだが……その下に一瞬、不気味な黒いものが揺らめいたように見えた。


「……沈んでる?」

「うわー……」


 無意識に零れた美鶴の言葉に、繭子は背筋をぞわりとさせた。


 一方で、輝と湊はその存在に気づかず、暢気に空になったペットボトルを回収ボックスに放り込みながら談笑している。今度はそのまま近くの屋台の列に並び、何か食べ物でも買うつもりでいるらしい。


「……あの二人には見えてないんだね」

「うん」

「そっか」


 繭子は実の兄弟である輝と湊が、美鶴の見えているものが見えていないことに複雑そうな表情を浮かべた。繭子が再びプールへと視線を直す。


 ──水面の下、夏の喧騒には似つかわしくない『何か』が潜んでいる。そんな気配が確かにある。


 風に吹かれ、人が遊び泳いで波打った水面は太陽の光を反射してきらめきながらも、時折ふっと『水底』の影を映す。それはまるでプールの底を這いずるように漂っている。


「……呼んでる、みたいな感覚がする」


 美鶴が小さく呟く。唇はかすかに震えていた。


「だよね」


 繭子の声も低くなる。彼女たちの耳──いや、感覚に届くのは、ボコボコと気泡混じりの苦し気な声。


 ──クル、ジィ……

 ──ダスゥゲデェ……

 ──コッチニ゛ィ……ギテェ……

 ──ダレ、カ……ミ゛ィヅゲデェ……


 そして、感覚に集中し──ジッと見ていると焦点が合ったように影の正体が見えてくる。


 視界に映っているのはプールの底に落ちた黒い影から空に向かって伸ばされる幾本もの白い手たち。ゆらゆらと揺れるそれは助けを求めているようにも、生者を彼らのいる『水底』へと誘おうとしているようにも見える。


 ──彼らのいる『水底』とはプールという開放的で爽快なイメージとは真逆に位置するもの。プールサイドの喧騒とは異なる世界。


 水と空とを分け、水面を《《境界》》として区切って存在している異界だ。


 海の底には根の国、底の国、黄泉の国に通じる門──気吹戸があるとされるが、そこは太陽の光が微かに入る程度の薄暗く静謐な空間であり、存在しているのは水に溺れ窒息した苦しみ、海月のように漂いながらも水面に浮上できない亡者の念である魂たちだけ。


 救われない者の嘆きが、水底に留まり澱となって折り重なり、重く溜まっている。窒息という苦しみに囚われた魂が気吹戸の門を渡ることも叶わず、誰にも見つけて貰えないまま彷徨い続けた果てに、苦界となった『水底』へと囚われてしまっている。


 ──そうした魂たちが『水』という縁を通じて、この陽の場に集まって来ているのだ。


 誰かに気づいて貰うために。誰かに救い上げて貰うために──。繭子と美鶴が見ているのはプールの底に落ちた、『水底』の異界の影から伸びている手であった。


「うぇ……気持ちわるっ。……でも気になる……」

「怖い?」

「怖くないもん! ……ちょっとゾワっとしただけで! 美鶴ちゃんは怖くない?」

「わからない。何もされたことないし、変なのが見えるだけだから……」

「え、そうなんだ……何もされたことないってのは羨ましいかな……」

「繭ちゃんは何かされたことあるの?」

「もうしょっちゅうだよ〜。ガラス窓の向こうからこっち見てたりだとか、夜中に急に肩叩かれたりとか、寝ようとしたら金縛りになって枕元に知らないお婆ちゃん居るとか……子どもの頃はよく『変なのがいる〜! 助けて〜!!』って結衣先生に泣きながら助け求めてた。その度に先生が祓ってくれたりしたんだけど」

「それは……大変そう」


 美鶴が首を傾げる。自分には繭子の話すような苦労はなかった。見えているものの正体は分からずとも、ただそこに居る──それだけで、向こうから近寄ってくることは無かったし、いつの間にか消えていることも多かった。


 繭子は苦笑して続ける。


「もうっ! やめて欲しいよ全く〜……そういうのあると夜トイレ行けなくなるんだもん。影とか隙間から何か出てきそうとか考えちゃうし……」


 繭子は自分で言いながらも肩をすくめ、照れ隠しのように笑った。


「……でも、怖いって思う反面、放っておけない気がするんだよね。あの声、すごく苦しそうだから……。先生が霊を祓ってる姿を何度も見てきたから、余計にそう感じちゃうのかもしれない」


 その横顔には、年齢に似合わない真剣さが宿っていた。


「だから──助けてあげられればいいんだけど」

「助、ける……?」


 そうした思考になってしまうのは、霊の事情や祓の知識を繭子が師である結衣から学んでいたせいもあるのだろう。現に、美鶴にとっては助けるという発想自体がそもそも浮かばなかったので驚いた顔を繭子に向けていた。


 美鶴にとってそうした存在は、見てしまっても出来るだけ関わらない方が良いもの、触れない方が良いものだという認識だったのだから。


「助け、られるの?」

「出来るよ。私も……結衣先生に習ってるから。ある程度はね」

「すごいっ……!」


 繭子は見栄を張った。年下で自分と同じ見えざる者を見る力を持っている。そんな存在に対して、お姉さんぶりたくなったのかもしれなかった。


 ──繭子はいつも姉のような、頼りになる師の背中を見て来た。憧れの背中だ。いつか自分もそうなりたいと願っている。だから、今の自分でも誰かを助けられるということを証明してみたかったというのもある。師匠に知られれば、未熟な存在が軽々しく手を出そうとするなと、激怒されることなどわかりきっていたのに。


 それでも──今も苦しんでいる、水底に沈んだ亡霊たちを見過ごすことは繭子にはできなかった。今の彼女を、後輩となるかもしれない少女が見ているのだ。だから先達として精一杯の背伸びをした。


「じゃあ……見ててね?」

「……えっ、待ってっ」


 美鶴が止めるのも聞かず、繭子は一つ大きく深呼吸するとプールの中へと入ってゆく。


 美鶴は慌ててその背中を追いかけようとしたが一歩遅かった。


「……っ!」


 バシャンッ──と入水時に小さく水しぶきがあがり、美鶴の表情が曇る。普段は淡々としている彼女の瞳が不安と動揺を宿していた。


「戻ってっ、危ないよっ」

「大丈夫っ。危なくなったらすぐに戻るから!」


 繭子は強がるように笑ってみせたが、実際には緊張していた。水面から伝わってくる気配は、さっきよりもよほど濃い。水底の影から突き出て、水面へと向かって伸ばされた白い手が、繭子の存在に気づいているかのように水中で揺らめいていた。


 ──半面、手の揺らめくプールでは現在進行形で多くの人々がその存在に気付くこともなく泳ぎ回っている。


 場に満ちる子どもたちの甲高い笑い声。カップルの甘ったるい空気感。浮かれた若者たちが誰が一番早く泳げるか競争し、はしゃいでいた。


 そんな陽気な光景の中に異常が紛れている。


 広く巨大なプールの中に、誰もが無意識下に避けている空間が空白のように《《まあるく》》存在しており、その中心に『水底』の世界の影がある。


 周囲の人はその《《まあるい》》空白空間の異常に気付くことは出来ないが、霊感を持つ繭子や美鶴だけはその異常を認識することが出来ていた。


 繭子はそんな異常を瞳に映しながらも意を決して水の流れに逆らうように、掻き分けながらゆっくりと進んで行く。


 そして、その《《まあるく》》切り取られた空白の空間へと侵入する前に一度立ち止まった──


 もう一歩踏み込んだその先は、一種の異界。只人が気づけない、日常に紛れ込んだ異常な空間。従姉であり、師でもある結衣が神社の神域で行使する結界術とは似て非なるもの──完全に閉じた空間ではなく、侵入することも退出することも可能ではある筈だが、現世とも言えない曖昧な領域。


 周囲の楽し気な声は聞こえるが、目の前のポッカリとした空間だけがただ静寂を保っていた。


「……集中しなきゃ」


 繭子は意を決してそっと足を踏み出し……その瞬間に繭子は現世から消失したのだった。


 □


 巨大なプールの水はどこも同じはずなのに、その《《まあるい》》空白へと侵入した瞬間、全てが違って感じられた。


 ──まず、匂いが変わった。プールの塩素の匂いに紛れて、澱んだ池や泥水のような生臭さや、カビ臭に似た臭気が鼻を掠める。それはシーズンオンのレジャープールには存在するはずのない匂い。


 次いで、感じたのは音の変化。背後からは子どもたちのはしゃぐ声が聞こえるはずなのに、耳に届くのは水中にいるように酷く遠く、くぐもった音。水面より上の視界も明瞭ではない。まるで周囲の光景が霞んでいるかのようにぼやけていた。


 そして何より異なっているのは──水の感触。皮膚を撫でる水は繭子の動きを阻害するように重く、冷たさが肌を刺す。それはさっきまでの心地よい冷たさではなく、まるで井戸の底や川底、暗い海の底の水のようなイメージを抱かせる、鋭い冷たさであった。


 ──一瞬にして全身の毛穴が縮まり、鳥肌が立つ。繭子の胸がバクバクと鼓動を早くした。


 急激に視界が狭まり、目の前の亡者だけしか映らなくなった。空気がずしりと重く感じ、呼吸がしずらくなった気がした。まるで肺の奥にまで水が入り込み、少しずつ窒息してゆくような感覚。


 ここは、《《表の世界》》の明るいレジャープールとは違う──救われることのない亡者たちの魂が彷徨う『水底』という異界の影の領域。そんな場所に繭子は一人立っていた。


 ──恐怖はある。しかし覚悟もまた存在していた。手を胸元に当て、深く息をつく。


「……できる。私ならできる。先生みたいになれる」


 繭子は手を胸元に添え──それから結衣が実際に行っていた祓詞を、これまで繰り返してきた修行を思い出しながら紡ぎ始めた。


「掛けまくも畏き──」


 ここには神楽鈴も扇もない。まして、榊や供物だって存在しない。ただでさえ未熟な見習いが万全な準備もなしに祓えを行うなど、傲慢であり自惚れを通り越して無謀でしかなかったが……繭子は本気だった。


 教わった通りに心を込めて祓詞を奏上し──声を紡ぎ始めると水面が不自然に波打つ。それはプールの水の流れではなく──水の中から揺さぶられたことで波立っているようでもあった。


 水底の影がざわりと揺れ、そこから伸びる幾本もの手が一斉に繭子へ向きを変えた。祓詞に応じるように、呻き声がより鮮明に、繭子の感覚へと響いてくる。


 ──ダズゲデェ……

 ──ゴッヂィ……

 ──グゥルシィイ゛ィ……


 繭子の喉がひくりと鳴る。伸ばされた手が水中を漂い、繭子に殺到しようとしていた。心臓が早鐘のように打つ。だが繭子は目を逸らさなかった。


 それは目を逸らせば、すぐにでも掴まれ水中に引きずり込まれてしまうと予感していたからだ。


「いくーたまー!! たるーたまー!! たまーたまるーたまー!!」


 幾つもの手が繭子に縋ろうとしている中、彼女は言霊を叫ぶと共に丹田に活を入れた。そして……


「えーいっ!!」


 印を組んで頭上高くに振り上げた両手を一気に振り下ろした。すると、繭子の掌から優しい光が溢れ水中へと落ちる──その光が暗闇の中に灯る灯火のように暗い水底を仄かに照らした。


 ──ア゛ァ……アタタカイ……

 ──アカ、ルイ……トドイタ……


 繭子の掌から溢れた光は決して強いものではない。けれども冷えきった暗い水底に仄かとは言え光を届けたそれは、彼らにとっては確かな救いと成り得た。


 光に触れ、僅かな安らぎを得られた手はそれだけで救われた。それはずっと助け求めていたことに気づいて貰えたことや、苦しむ自身を救おうとしてくれた者が確かにいたことで安堵したからなのだろう。


「えーいっ!!」


 祝詞を繰り返し、手から溢れた何度目かの微光。繭子の必死の願いが通じたのか徐々に手の数は減ってゆく。だが──


「やっ、たっ……! で、できるっ! 私にもっ!」


 その中途半端な成功は、水に沈んだ霊《《程度》》なら自分にでも救えるという慢心となってしまったのだろう。


「待ってて! 私が助けて《《あげる》》!」


 繭子は必死に声をあげた。祝詞を息つく間もなく奏上したため呼吸は苦しい。精神的な疲労が積み重なる。だが光に触れた手が一つ、また一つと安らぎを得て消えていくのを確かに感じたことで、繭子は仮初の万能感に酔い痴れてしまっていた。


「わたしにもできるんだ……!」


 胸の奥に熱が広がる。これまで抱えてきた劣等感が、ほんの少し剥がれ落ちるような感覚。


 師である結衣ほどの才能もなく、修行しても思うような進歩は見られない。思い悩む師の姿。憧れの存在にちゃんと《《弟子》》として認められたいという一心で。未熟でも、見習いでも、アナタの弟子はちゃんと誰かを救うことができると証明したかった。


 ──だが、慢心したからこそ、自らの実力を客観視出来ずに引き際を見誤った。


「アタタカイ……」と満足して消える声の隣で、眼の前で光が失われ「ドウ、シテ……」という怨嗟も募ってゆく。光を手にできなかった救いを求める魂が、「タスケロ……タスケロォ……!」と執着を見せ始めていた。


「祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸わえ給え! えーいっ!」


 ──もっと……もっと助けてあげなきゃ……! 


 そして、溺れる者は藁をも掴む──何としても苦しみから逃れようと、自身だけは救われようとする亡者の執念は……『水底』の影から溢れ始め、その数を増してきていた。


 ──ダズゲロ゛ォ……

 ──ダァ゛ズゲロ゛ォ……! 

 ──ダズゲェロ゛ォ゛ォ゛……!! 


 感覚に響いてくる亡者たちの狂気の波濤に、繭子の顔は青褪めていた。


「祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸わえ給えっ!」

「祓え給いっ、清め給えっ、神ながら守り給いっ、幸わえ給えっ……!!」


 必死に祝詞を唱え続け──次の瞬間、繭子の足首を水中の冷たい手が強く引いた。


「はらえどの──っ……!」


 ──ザバンッ! と繭子の脚が何者かによって浚われ、あっという間にバランスを崩して水底に引き込まれてしまう。


「──繭ちゃんっ……!」


 倒れる間際、名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。咄嗟に振り返れば霞む光景の奥で──美鶴がプールの縁で前のめりになり、絶望の表情で繭子を見ていた。しかし、その姿も一瞬にして視界から消えてしまう。


 ──水面という境界を潜り、『水底』という異界へと引き込まれてゆく。


 身体は救いを求める亡者達の無数の手によって絡みつかれ……パニックとなった繭子が無意識に息をしようと水中で口を開けば、大量の水が肺へと入り込み……死への恐怖と苦しさが精神を圧迫し焼き焦がす。


 必死にもがいて水面に映る光に向かって手を伸ばすが──その光に手が届くことはない。それでも諦めきれずに手を伸ばし続ける。


 手に引かれながら沈んでゆく水底はどこまでも深く、冷たく、暗く……繭子は窒息の苦しみで精神を焼き焦がしながら意識を薄れさせていったのだった。


 □


 プールサイドに取り残された美鶴は、縁にすがりついたまま硬直していた。繭子が人の寄りつかない《《まあるい》》空白に足を踏み入れると──フッとその姿が消えてしまったせいだ。


 いや、よくよくと感覚に集中して目を凝らせば繭子の姿は見える。しかし、霧か靄に邪魔されるように繭子の姿は希薄だった。


「繭ちゃんっ……戻ってっ……!」


 その姿に恐ろしくなり、何度も呼び掛けた。しかし向こうには聞こえていないかのように、繭子が美鶴の方を振り返ることは無い。


 そして──唐突に繭子が態勢を崩し、姿が水面の下に消えてしまった。その最後の一瞬にだけ、目があった。恐怖に染まった助けを求める目と。


「……はぁ……はぁ、っ……!」


 その衝撃的な場面に、心臓の鼓動が激しく打ち、呼吸が浅く速くなっていく。どうすればいいのか分からない。助けを求めるという判断ができないくらいに混乱していた。


「ぁ、っ……てるっ……! みなとっ……!」


 兄たちの姿を認め、ようやく絞り出した言葉は、兄たちの名前。しかし、二人のいる場所は離れており、美鶴の助けを求める声は震え、掠れ、周囲の喧騒に容易く掻き消された。


「だ、だれかっ……! だれか、たすけてっ……!」


 オロオロと必死に声を上げても、周囲に満ちる子どもたちの笑い声やスピーカーから流れる音楽の音、滝のように流れるウォータースライダーの水音が邪魔をする。


 初めて眼の前で感じる濃厚な人の死の気配──心臓が嫌な鼓動をしている。美鶴の視界は揺れ、呼吸は荒く、恐怖で全身から力が抜けそうになった。


 そんな時だった──水中を走る何かが太陽の光を反射して弾いたのは。


 その刹那、水の匂いが変わった気がした。漂っていた塩素の匂いが消える。まるで伏流水のように澄んだ水へと変貌したように。


「……ぁ……」


 視線は水面へと釘付けになっていた。そこで揺らめいたのは、魚などではない。太く長くうねる影──白銀とも蒼ともつかぬ鱗が一瞬だけ神秘的に煌めき──その影がキラキラと光の尾を引きながら《《まあるい》》空白にむけて快泳していったのを確かに見た。


「……《《アオっ》》……!」


 その正体を美鶴は知っていた。それは夢の中でだけ姿を見せる友だち。彼が美鶴の求めに応えて、助けに来てくれたのだと気づいた。美鶴の喉がひくりと鳴った。涙が込み上げてくる。


 ──それとほぼ同時に、空気を裂くような声が背後から響いた。


「──美鶴ちゃん!」

「っ!!」


 振り返った瞬間、視界いっぱいに広がる大きな影。次の瞬間には、辰巳の腕が彼女の肩をしっかりと掴んでいた。そして、その背後には結衣と晃もいる。


「どうした、大丈夫か!?」

「お……おにいさんっ……! た、たすけてっ……まゆ……まゆちゃんがっ……すがた、みえなくなってっ……!」


 美鶴の声は小さく震えていた。そして、そこで張り詰めていた不安の緊張の糸がプツリと切れたかのように、目から涙が零れる。それでも必死に繭子の消えた場所を指差す。


「え……ま、繭子……?」

「もしかして、一人で祓おうとしてアレに近づいた……? 今の時期は水辺に霊が寄ってきやすいから危険っ」

「な……まさか」


 結衣が動揺を顕にさせる。辰巳は晃のその推測を否定しようとしたが、次の瞬間には状況を悟った。


 時期的な要因でもあるのか、この場に『水底』の異界の影があり、救われない『水に沈んだ霊』が集まっていることには当然気づいていた。


 だが、普通の人は無意識にそうした場所は避けるし、まして、認識できる彼女達が自ら危険に近づいていこうなどとは……繭子が異界の影に呑まれようなどとは思いもしなかった。


「っ、クソがっ! ここで待ってろ! 結衣、晃っ、美鶴ちゃんを頼むっ!」

「わかった!」

「た、たつみくんっ」

「大丈夫だ。俺が連れ戻してくる」


 その乱暴な声には、苛立ちと焦燥が滲んでいた。辰巳は美鶴を庇うように結衣と晃の二人へと押しやり、迷うことなくプールへと身を投じる。


 跳躍とともに派手な水柱があがり、周囲の視線が一斉に集まった。


「飛び込みは──」


 監視員が笛を吹きながら駆け寄ろうとする。だがその声は、すでに水中へと潜っていた辰巳には届かない。


 ──水面という『境界』を越えて水中に潜り込んだ瞬間、辰巳が感じたのは陽気なプールの水の感触ではなかった。


 重く、澱んだ負の念。救いを求める亡者たちの渇望を──水に溶けた重苦しいほどの思念を辰巳は肌で感じていた。


 プールの中とは思えない程に奥行きの広く感じる空間。そして暗く、深い、底の知れない水底。境界を超えた此処は、既に異界の只中であった。


 辺りを見回し、繭子の姿を探す──すると、辰巳のいる位置よりも更に深い場所でキラリと何かが光を反射した気がした。


 その正体を明かす為に辰巳が眼を細めると、人外の本性を現すように赫赫とした不吉とも思える光が宿り、水底の光景を見通す。


 そこに在ったのは水底から伸びる無数の手に群がられ、絡め取られ、深みに引きずられようとしている何か。


 ──その何かに向けて泳ぎながら目を凝らす。


 そこにあるもの。幾重にも水底から伸びている手の中心に、繭子がいた。同時に──繭子は水底へと引き込もうとする無数の手から守られるように、白銀と蒼の存在に包まれている。


 それは太く長い胴をくねらせ、繭子を覆うように巡る龍の姿。龍は繭子を抱き込むようにその身を巡らせ、尾で彼女に縋ろうとする手を払っていた。


(……龍が人を守っている?)


 辰巳はその光景に一瞬息を呑む。龍とはただの霊獣ではない。


 それは自然の化身。絶え間なく流れる川や普遍的に存在する湖沼に対する信仰の対象であり、生きとし生けるもの万物に宿っている『水』に対する思想を体現する存在。


 古より人は、川の流れに龍の姿を見、一度荒ぶれば洪水を呼び畏れた。万古不易に清澄を保つ池に神秘を感じ、それが濁れば天変地異の前触れと恐れ慄いた。はたまた、底の見通せない湖沼の深みには、人知れず龍が住むのだと想像し、そこに祈りを捧げた。


 龍は洪水を引き起こす存在と畏れられた反面、正しく祈りを捧げれば豊穣を与えてくれると考えられてきた。畏敬と感謝、そのどちらをも背負っている存在こそが水神としての龍であった。


(……そんな龍が、ただの人である繭子ちゃんを……?)


 辰巳の胸に震えが走る。


 本来、人の領域に近づかぬもの──それが龍……である筈なのに、人の子をこうして抱き守ろうとする姿を目にする日が来るとは思わなかった。


 白銀と蒼の鱗は、まるで水面に反射する日の光を示すかのように煌めいている。うねる胴は水流そのもので、尾が荒ぶって一閃すれば生きていようと死んでいようとヒトの想いなど簡単に押し流す。


 その姿はまさに水を司る龍、祈りの対象として語り継がれてきた神に他ならなかった。


 ──速秋津淵青主


 その名を胸の中で呟く。恐らくは、結衣から聞いたばかりの伝承の存在。辰巳の家に受け継がれてきた龍神信仰の主が、今この水底で繭子を守護していた。


 辰巳は数瞬の間、目の前の光景を我を忘れて眺めていた。


 しかし──ハタ、と目的を思い出すと水を蹴って速度を増した。


 一刻の猶予を争う場で、呆然としているなど許されない。水底の亡者たちから龍に守られているとは言え、繭子が生命の危機にあることは変わりない。


 辰巳は一気に水を掻き分け、龍の側──繭子に手の届く場所にまで迫る。見れば、彼女は完全に意識を失っており、青白い顔を俯かせていた。


『遅いぞ 月隠の狗賓よ』


 龍から辰巳へと念が伝えられる。


 辰巳は眉を寄せ、水中でその宝玉のような眼を見返した。その眼は、辰巳を責め立てているものではない。ただ事実を告げていた。もっと早く動けたはずだ、と。


(……何でお前は俺の正体を知っている?)


 龍は辰巳の疑問に答えることはない。しかし、その代わりに龍は繭子を辰巳に託すように胴をほどき押し出す。それを受け、力強く繭子の身体をしっかりと抱きかかえた。


『《《願いは叶えた》》 連れ帰るのは其方の役目』


 龍は繭子を引き渡すと水底へと視線を向け、再度うねりながら周囲の亡者の手を薙ぎ払う。そして全身を包む鱗を発光させ、神気を発露させる。


『それを知りたければ訪ねるがいい』


 そう言うと、ゴゴゴゴ……と水が唸る音が低く響いて聞こえた。


 それは水の流れる音だ。ただし、ただの水の流れではない。それはまるで下降海流のように莫大なエネルギーを秘めた奔流。その大きな流れが、亡者たちの手を水底に押し返し、手を伸ばし縋ろうとすることを許さなかった。


(……っ!)


 辰巳は目を見開いた──その強大な力に。そして龍は……白銀と蒼の鱗をきらめかせ、冷たい水の奔流にのってより深い底へと潜ってゆく。


 残された辰巳と繭子を包む水の空間には、静けさが戻り……頭上から強い光が射し込んでいた。


 辰巳が上向いて見たのは水面に輝く強い光。それは水中に一条の光として射し込み、まるで辰巳に帰り道を示しているかのように幻想的な光景をつくっている。


(繭子ちゃん、もう少しだっ、頑張れっ!!)


 辰巳は繭子を抱え直し、その光へ向かって全力で水を蹴った。仄暗い水底を離れ、一筋の光に導かれるように──二人は急浮上してゆくのだった。

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