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第37話 真夏の太陽


「はぁ~冷たくて気持ちー! なんだ、プール最高じゃん!」

「こんなに大きいプール、家の近くには無いし、プールに遊びに来ることもないもんなぁ」


 湊が顔に滴る水を拭いながら言った。


 プールの底まで澄んだ水は冷たく、火照った身体を冷まして心地がよい。輝と湊のいる流れるプールは緩やかな波を作りつつ、人を流れに乗せている。浮輪に掴まり、水の流れに乗ってぷかぷかと浮かんでいるだけで十分に楽しかった。


「──二人だけずるいぞー! 私たちもっ! 行くよっ、美鶴ちゃんっ」

「ま、まって……そんなに引っ張らなくても……」


 大きな悲鳴のような声に振り向くとそこには繭子と美鶴が居た。少し離れた場所にいた繭子がそう叫びながら走ってくる。それに対して、美鶴の表情はどこか硬い。


「まって……繭子、さん!」

「なにぃー? さん付けだと? 繭ちゃんって呼んで?」

「で、できませんっ」

「なんだとぉ! 年下の癖に生意気なっ! よし! いくよっ、とりゃあぁぁあぁぁ──!!」

「──っ!!」


 手を引かれたまま止まれそうもないと悟った美鶴は、覚悟を決めた顔つきになった。


 太陽の光を浴びて水面に影を作りながらジャンプする──そして次の瞬間、二人まとめてザバンッと激しい水飛沫をあげながら水の中に飛び込んでいった。繭子は満面の笑顔。一方で美鶴は顔を塗らし渋い表情だった。


「うわっぷっ!」

「あの女っ!」


 水飛沫を浴びる輝と湊。輝の目に映ったのは太陽の光をバックに自分達の所に飛び込んでくる女の子の姿。パッチリ開いた瞳が輝を見つけて、とても楽しそうに笑っていた。その姿が輝の脳裏に焼き付く。


 ──次の瞬間、ホイッスルが鳴り、監視員と思わしき女の人が繭子を指差して注意していた。


「飛び込みは止めてくださーい!!」

「ごめんなさーい!」


 それに繭子は笑顔で手を上げて謝った。その表情に反省の色はないように見える。


「──まったく、危ねぇだろっ」

「えー。大丈夫でしょ? こんなに広いんだし」

「怪我したら楽しめなくなっちゃいますよ」

「へへっ、それもそうだね。ごめんごめん」


 そう注意された繭子は反省した様子を見せつつも笑顔のまま三人に謝るのだった。


「あの女……全く悪びれてねぇ」

「……強引すぎる」


 それに対して湊が呆れ、美鶴も小声でボヤく。


「ぷはぁっ! あははは! 冷たくてキモチ〜! ね、美鶴ちゃんっ」

「……うん」

「折角来たんだから楽しまなきゃね〜。見てるだけでいいだなんて言うからビックリしちゃったよ」

「う……」


 美鶴は繭子に頭を撫でられても抵抗しない。ただ黙ってされるがままになっていた。その様子を見て、湊がポツリと漏らす。


「……美鶴が相手のペースに巻き込まれてる。晃姉ちゃんといい、あの女といい、相手が強引だと調子が狂うんだろうなぁ」

「うん。でもまぁ……美鶴にはそういう人が必要なんだよ。俺らには出来ないだろ、そういうの」

「それは、まぁ……」


 繭子と美鶴のやり取りを見て輝はそう零した。いつも冷静……というか一歩引いた位置から人を見ていて、あまり他人と接することを好まない妹が翻弄されている姿は珍しいものだったが──そんな姿を見ていると微笑ましく思えてくる。


「美鶴ちゃん。ほら、呼んでみて? 繭ちゃん」

「えっと……」

「セイッ! 繭ちゃん!」

「──ま、繭……ちゃん」

「……まぁ、それで許してあげよう。──じゃあ次は……輝くん! 湊くん! 二人もあれ行ってみようよ!」

「アレって……あのウォータースライダーの事?」


 輝が指差した方向を見て、繭子は大きく頷いた。繭子が言っているのは、巨大なスライダー。曲がりくねりながらも勢いよく加速していくコースもあれば、長い滑り台のようなコースや、浮輪に乗って滑る専用のコース等、複数ある。


「あぁいうの好きなの?」

「大好き。ジェットコースターとかも好きだけど、ウォータースライダーも絶対楽しいよ! みんなで行こ!」

「別にいいけど……どうする?」

「俺も行く! 絶対楽しいに決まってるじゃん、あんなの!」

「……わ、わたしは……ちょっと──」

「よし! 決まりっ。ほら行くよ〜」

「ま、まって……私は下で待ってるから……」

「大丈夫、大丈夫! 一回やってみたら絶対好きになるから!」

「……っ!」


 美鶴は拒否をする暇を与えられず繭子に引っ張られつつ、プールの水流に流され──抵抗虚しくウォータースライダーへ向かうことになった。


 ──ウォータースライダーの階段を上がり、上部へと辿り着いたときの景色は絶景だった。一面の青空と眩しい太陽、眼下には泳いでいる人たちが豆粒のように見える。輝や湊は高い所が怖いというよりもワクワクが勝っていたので恐れることは無いのだが──隣にいる美鶴は震え上がっていた。


「た、たかいっ……むり、むりっ……!」

「高いなぁ。実際登ってみるとこんな高かったのか……」

「落ちないように手摺にしっかり掴まっていれば大丈夫だって!」

「でもぉ……」


 湊は自信満々に美鶴を励ますが本人は半泣き寸前の状態であった。


「あっ、美鶴アレ見てよ。辰巳さんたちじゃない?」


 眼下に小さく映るのは従兄弟の辰巳とその友人? の結衣、そして晃。相変わらず結衣と晃は間に辰巳を挟んで何か言い争っているように見える。


 上から見るとよく分かるが、それなりの人混みだというのに三人の周囲だけポッカリ避けられているように人が寄り付かなくなっていた。あの三人は妙な雰囲気を持っているので、周囲の人もそれを感じて避けているのかもしれないと輝は思った。


「なにしてんだ……?」

「あっ、晃さんが掴みかかった」

「うーん……暴力はいけませんね、暴力は」

「あ、晃お姉さん、頑張れっ」


 輝たち三人は訝しみながらも暫く眺めていると、突然晃が結衣に掴みかかりそうになったが、辰巳が制止するのが見えた。また痴話喧嘩が始まりそうだったので早々に離れたのは正解だったと輝が溜息をつく。


「でもさ、ほんと何で付き合わないんだ?」

「さぁ……辰巳さんだって嫌いって訳じゃなさそうだけど……」

「うーん、どっちか選べないとか?」

「色々あるんだろ。大人になると」

「石動さんって鈍感と奥手が合わさってるみたいなんだよねぇ。あんな強面なのに。前に食事に招いて結衣先生が好物作って出した時だって美味しいで簡単に済ませちゃったし! 十年研究したっていうレシピをだよ!? その癖、ご飯食べた後は結衣先生のお父さんとずっと話してるし! もっと他にあるじゃん!」

「お、おう……」

「それはそれは……」

「晃お姉さんはもっと酷い。久しぶりに再会したら誰だか気づいて貰えなかったって言ってた。それに子どもの頃にした大切な約束も忘れたまま思い出せてないって……」

「何それ、サイテー!」


 ──そうしてケラケラと笑いながら雑談をして待っていると遂に彼らの番がきた。


「よーしっ! 一番乗りいただきだー! いくよっ、美鶴ちゃん!」

「む……むりっ!」


 美鶴はへたり込んで拒否しようとするが繭子に強引に腕を引っ張られ、そのままウォータースライダーの入口に連れて行かれてしまった。


「ほらほら、そんな顔しないでさ〜。一緒に行ってあげるから」


 繭子は笑顔だが、美鶴は顔を引き攣らせて頷くばかり。係員からOKのサインが出──二人の乗った浮輪は始めはゆっくりと、しかし次第に勢いがのり、なかなかの早さで滑り降りていく──そのスピードが想像以上のものだった為か、二人からは歓声と悲鳴が上がるのだった。


「きゃあああっ!!」

「〜〜っ!!」


 聞こえてくる二人の絶叫に驚いた輝と湊は思わず顔を見合わせたが、スライダーの終わりに近づいた頃には二人の悲鳴は徐々に収まって──そして最後には笑い声に変わっていた。


 ──繭子の強引さには敵わない。輝と湊は苦笑しながらもスライダーの出口から二人が抜け出てきたのを見ていた。


 繭子が二人に向かって手を振っている。


「俺らも行こうか」

「おうっ」


 そうして──輝と湊も先に行った二人の後を追うようにして、スライダーの入口に身を投げ入れたのだった。


 □


 ──ザッバーン! という水飛沫が上がる音と、スライダーを楽しんでいる子どもたちの歓声を聞きながら、俺はプールサイドで未だ結衣さんと晃にくっつかれていた。両腕に絡みつく温もりに挟まれ、頭がくらくらしそうだ。


「あの……二人とも、くっつき過ぎではっ……? 少しでいいから離れてくれませんかっ……?」

「ヤダ。離れない」

「わ、私だって離れたくないです」


 ぎゅっと片腕ずつ抱きしめられ、二つの双丘の感触がムニュリ、とモロに伝わってくる。意識しないよう、見ないようにするが……感覚はますます鋭敏に捉え、脳に得も言われぬ快感として送られてくる。


 や、やめろ……はなれてくれっ……! 身体が、身体が反応しちゃうからっ……! もしもこんな人が大勢いる所で『成って』しまったら。最悪だ。恥ずかしくて死ぬ。恥ずか死ぬ。


「タツ兄は触りたいって言った。それに……私もタツ兄にもっと触りたい」

「な、ちょっ、晃っ、こんなとこでっ」


 そう言って晃が俺の真正面に回り、胴体に腕を回すと胸に頭を擦りつけてくる。晃の胸が潰れる感触と、短い髪が肌をサワサワと撫でるくすぐったさを感じた。……あぁ、終わった。半身に熱がこもってゆく。


「──っ!」

「晃、悪い……」


 目を開いて驚くような晃の反応に思わず謝ってしまった。そんな驚かないでくれ……そりゃそうなるって。仕方ないんだって……


「ちょ、ちょっと……! あなた、流石にそういうのはっ……辰巳くんが困ってるでしょ? 離れなさい!」

「……ヤダ。タツ兄は嫌がってないし。むしろ……すごく元気になってる」

「やめてくれ……何も言うな……」

「……っ!」


 結衣さんの顔が真っ赤になって、俺を睨む。もはや諦めの境地だ。あー、ふくれっ面がかわいいな〜──いやいやいや、俺のせいじゃないよ? 離れてって何度も言うたやん! 生理現象だよ、生理現象。


「は、離れなさいっ!! 今すぐっ!!」

「むりむり。今離れたらタツ兄が恥ずかしいことなる。お腹に当たってるスゴイのが……出てくる。そんなことさせられない」

「な、なっ……!」

「……そんな露出してるみたいな言い方すんなよ……」

「じゃあ、離れてみる?」

「うっ……」

「今離れたらタツ兄の社会的地位は終わったも同然……たくさんの人に見られて変態のレッテルが付く。私がタツ兄を守ってる。これはもう一生離れるなって思し召し。運命。結婚する。はい、今結婚した」

「お前……何言ってんだ」

「そんなっ……」

「え? 結衣さん、ショック受けてる? 冗談だよね?」


 二人ともどういう思考回路してんだ、と戸惑っていると俺の腕を解放した結衣さんが今度は背中に張り付いてきた。


 背中に当たる魅惑の感触に……背筋が伸びた。それと彼女の低めの体温が生々しく伝わってくる。結衣さんの手が俺の腿の際どい位置に置かれ……ソワソワ落ち着きなく動いているのがわかる。


 前後、女の子に挟まれてるせいで理性が削られる……なんやこの状況。


「タツ兄……すごい」

「……」


 周囲からの視線が痛い。男からは嫉妬心にまみれた目を向けられ、女からは軽蔑に満ちた目を向けられる。居心地が悪い。本当、どうしてこうなったのだろうか……


「私だって……私だって、辰巳くんと結婚するっ。今、結婚したっ」


 いや、もう付き合うとかそういう段階飛び越しちゃってますけどっ? そんなことに張り合わなくても。結衣さんの印象、何か変わってきたな……


「あの……結衣、さん……?」

「……だ、だって、方丈さんばっかりずるいから……」


 背後から聞こえてくる結衣さんの声はか細かった。姿は見えないが恐らく耳まで真っ赤にしている様子がありありと脳裏に浮かぶ。本当はこんなことするタイプじゃないってのは、普段の結衣さんを見てればわかる。


 押し付けられた、背中に伝わる鼓動を強く感じた。結衣さんが本気で言ってるのだと分かって、俺は──


「辰巳くん、もっと私のこと見て……」


 結衣さんが可愛すぎなんだが? 


「ふーん……」


 晃が猫のように目を細め、不機嫌そうな相槌をした。


「タツ兄には私がいればいい。そうでしょ? タツ兄は私の。他の女になんか渡さない」


 抱き着いていた晃がギュウッと更に強く腕に力を込める。晃はまた俺がどこかに消えるとでも思っているのだろうか? そんな必死さに近いものを感じる。


 再びグッと身体を押し付けてきて──下腹部に晃の柔らかな感触がする。目を細めた晃と視線が合った。その目は悪戯気で……しかし、目の奥には得体の知れない何かドロドロとした熱量のあるものが見えた気がして……少し怖じ気づいてしまう。


「もう、やめろって二人とも……人目があるんだぞ……」

「じゃあ、人目がない所ならいいってこと?」

「はぁっ!?」


 俺の声は情けなく裏返った。周囲の視線がさらに集まってくる。小学生くらいの子どもが「お母さん、あれなにしてるの?」とか聞いてるし、親御さんは「見ちゃダメです」って俺らを避けて歩いていくし……これ以上はほんとに社会的に死ぬ。


「人目のつかないとこ──行く?」

「ぅ……」


 ゾッとするほどに、恐ろしく艶めかしい声音だった。


「ば、馬鹿言わないでくださいっ! そんなことっ」


 背中から結衣さんが慌てて声を張る。


「辰巳くんが困ってるのが分からないの!? そんな……は、破廉恥なっ……!」

「はれんち? へー……じゃあアンタはそーゆーの興味ないんだ? そっちもタツ兄にくっついてるくせに?」

「そ、それはっ……た、辰巳くんがっ……」


 背後の結衣さんの声の震える。背中越しの荒い吐息と鼓動を強く感じ──俺の腿に置かれた結衣さんの手がさわさわと落ち着きなく蠢く。


 ? 


 気の所為かな……もしかしたら、徐々に徐々に下腹部に近づいてきてないか……? 


「ふぅ……ふぅ……も……もう……ちょっ……」


 あ、確信犯でしたわ、これ。そうかそうか……結衣さん──いや、もう結衣でいいや。実はムッツリだったのか……なんかイメージぶっ壊れたわ……


「ふ、ふふ……辰巳くんが……辰巳くんが悪いんだから。こんな……こんなえっちで……私を誘って……」

「あー、それはそう。エロい身体してるタツ兄が悪い。もう全部。そんな格好で誘うなんてさ。反応しない方が失礼でしょ」

「エロいって何が?! なんで俺が悪いんだよ!? てか、誘ってないし!? 俺、ただの被害者だろこれっ」

「辰巳くんも私の体、弄ったでしょ? お相子だよ、お相子……」

「いや、何の話!? そんなことした覚えないんだけど!?」

「そんなっ、忘れちゃったなんて酷い……思い出して大変なんだから……」

「いやほんとに何の話ですか!? てか、アンタ急に性格違うんだけど、さらけ出しすぎじゃないですかね!?」

「うっわー、覚えてないとかタツ兄、マジでサイテーじゃん」

「女こわっ! 女こわっ!!」


 この変態共が……何かドキドキしてたのが馬鹿馬鹿しくなってきた。


「えぇい! いい加減、離さんか色ボケ共! もう耐えられんっ!」

「あぁっ! 待って、まだっ」

「わっ! 逃げるな、タツ兄っ」


 強引に二人を振り解く。そして──目の前に広がる流れるプールへダッシュして、そのまま飛び込んだ。


 ザッバーン! と、冷たい水が一気に全身を包み込み、火照った身体を冷やしてくれる。


「ぷはっ……! 冷たくてキモチイイー!」


 太陽の光を反射している水面から顔を出すと──


「待ってー! 辰巳くんっ」

「受け止めろー! タツ兄!!」


 プールサイドから聞こえた二人の声。次の瞬間──俺目掛けて結衣と晃がダイブしてきた。


「ちょっ!?」


 水飛沫が上がり──二人を受け止めると同時に倒れ、なすすべなく水中に引きずり込まれた。水面から差し込む光によって照らされた結衣と晃の肢体が水の中で輝いていた。水の中で出会った二つの美しい姿に見惚れてしまう。二人は──呆けている俺へと視線を向けニヤリと笑い……そして、ほぼ同時に俺に抱きついてくる。


「ごぼぼぼぼっ!」


 水の中にいて人の目から逃れているせいか、二人はもっと大胆になっていた。二人の身体が密着していて……その肌の柔らかさと滑らかさが五感を刺激する。さっき以上に危険度が跳ね上がる。


 眩しいチチ、シリ、フトモモ。鷲掴みにしたい欲求に堪える。


(あー……だめだ。これはもうほんとに理性が保たないやつだ……!)


 ──絡みつかれながらも体勢を整え、水面に浮かび上がろうとした。


「──ぷはっ……! お、お前ら、ほんとにやめ──ごほっ!」


 水面に顔を出して息継ぎした瞬間、抵抗にあう。肩と腕を掴まれて再び水中に沈められた。視界に映るのは二人の楽しげな笑顔。


「ぶはっ……! 二人とも、溺れるだろうがっ」

「ふふっ、辰巳くんが逃げるから悪いんだよ。さぁ、観念して?」


 濡れた髪を頬に張り付かせ、結衣が勝ち気に微笑んだ。彼女の碧い瞳がよく見える。明るい水底の色。太陽の下で見ると、より透明に、より輝いて見えた。


「捕まえた♪」


 その宝石のような輝きに魅入っていると、そのまま距離を詰められて胴に腕を回される。すごく距離が近い──結衣と真正面からこの距離感で向き合うのは初めてのことだったが……まさか、結衣から抱き着かれるとは思わなかった。


「あの、辰巳くん……」

「……?」

「あたってます……♡」


 てか、本当に性格変わりすぎじゃありません? あれか。これも本当の私とか、サイコパスって言ってた奴なのか。女はみんな女優って聞いたことがあるけど、こういうことなのか……


「タツ兄!」


 ──そんなことを考えていると、同時に背中に衝撃が走った。


「タツ兄の背中久しぶり……あー、やっぱり安心する……」


 衝撃の原因は晃。晃は俺の背中に乗り、安らいだ表情を浮かべている。……思えば、晃を背負うのは子どもの時以来だったか。


「ははっ、重くなったな、晃」

「むぅ……女の子に重くなったは禁句だって知らないの?」

「すまんすまん」


 背中にしがみつき、晃の髪先から滴る水滴が俺の首筋を伝って流れていく。記憶のかなたにある小さな頃の感触じゃない。女として成長した晃の体温が直に伝わってきて、どうしようもなく意識させられる。


 ──気が付けば結衣が笑いながら俺を見上げていた。その表情は資料館で出会ってから今まで、一番楽しげに見える。


「どうかした?」

「ううん……こうして遊べるなんて……なんだか不思議で。夢みたい。すごく、楽しいの」

「夢みたいって……なんだそれ」

「だって私、子どもの頃はずっと辰巳くんのこと遠くから見てるだけだったから……」

「見てるだけじゃなくて、声かけてくれれば良かったのに」

「えっ? 声を掛けるなんて、そんな……無理無理無理! 絶対無理っ! 何て声掛けたらいいかわからなかったもん! 緊張で話せなくなっちゃってたよ!」

「なんだそれ、意外すぎ」


 その可愛らしさに思わず笑ってしまう俺に、結衣は耳まで真っ赤に染めて視線を逸らした。


「わ、笑わないでっ……でも……だから今日こうして、一緒に遊べてるのが……すごく幸せ。思ったのとはちょっと違うけど、頑張ってきて良かった」


 か細い声。けど、その奥にずっと押し込めてきた想いが滲んでいた。


「結衣」


 名前を呼んだ瞬間──ハッとしたように向いた彼女の碧い瞳が、また俺を真っ直ぐに射抜いてくる。その瞳が驚きの感情を映していた。俺が『さん』づけを止めたからだろうか。


「俺も楽しいよ。今日は付き合ってくれてありがとう。たくさん楽しもうっ!」

「はいっ」


 結衣は水滴を散らしながら笑った。その笑顔は眩しくて、見てるこっちまでつられて笑ってしまう。


「──ふーん……二人で盛り上がっちゃって……楽しそうだねー。私もいるんだけど?」


 背中から晃の声がした。拗ねるような声音だ。子どもの頃、晃が不機嫌になるとよくそんな声をだしていたことを思い出す。


 首に回された腕がきゅっと締まる。


「晃、そんな拗ねるなって」

「拗ねてない。タツ兄、昔は私のことちゃんと見てくれてたのに……なんか、今はその人のことばっかり見てる」


 耳元に囁く声は少し寂し気にも聞こえた。


「……晃」


 名前を呼んだが、言葉はそこで詰まった。何をどう言えばいいのか分からなかった。


 俺たちは恋人でも何でもない。好意を持たれているのは知っているが、俺たちの関係性は少し年の離れた幼馴染でしかないのだから。


「──方丈さん」


 結衣が正面から俺と肩口から顔を覗かせる晃を見据えていた。水に濡れた髪を一束頬に張り付かせ、真剣な表情の碧い瞳で俺たちを射抜いていた。


「……辰巳くんを独り占めしたい気持ち、よく分かります。でも……私だって、辰巳くんを想ってきた時間は負けてません」


 その言葉に、晃の腕がさらに強く俺を締め付ける。


「……タツ兄は私の。ずっと一緒にいたのも私……! 私はタツ兄が帰ってくるのずっと待ってた……!」


 晃の強情な返答に結衣が気圧された。けれど、その碧い瞳はすぐに強い光を取り戻す。


「知ってます。……なら、勝負しませんか?」

「勝負……?」


 晃が眉を訝し気な声を出す。


「どっちが辰巳くんに恋人として受け入れられるか……それで勝ち負けを決めましょう」

「っ!」

「勝ったら、辰巳くんを諦める……って言っても、あなたが辰巳くんを諦めるなんてこと、実際にはないでしょうけど」


 苦笑気味に結衣は柔らかく、けれど確信を持った声でそう告げた。


「当たり前! 私が諦めるなんてあり得ない!」

「私だってそうです。もしこの先、私が辰巳くんに受け入れられなくても、諦めることなんてできない。この想いはずっと変わらない。死んでもずっとずっと想い続ける……だから、辰巳くんを想う気持ちでは、あなたと私ではきっと差なんてないんです」

「……っ」

「──これは、お互いの覚悟を示すだけの勝負。譲れない想いをぶつけ合って……最後は辰巳くんに選んでもらう。それだけの勝負です」


 結衣の碧い瞳は真っ直ぐで力強い。晃の病的な独占欲にも臆さない光を帯びていた。


 晃は一瞬言葉に詰まったようだが、やがて面白げに、しかし威嚇するように声を低くして答える。


「……いいよ。その勝負、受けて立つ。まぁ──勝つのは私以外ありえないけどね!」


 そう言うや否や、晃は俺の背に乗ったまま足で水を掬い蹴って──ばしゃっと結衣にぶつけた。


「きゃっ!? ちょっと、何するんですかっ!」

「勝負って言ったのは《《結衣》》の方でしょ?」

「……ふふ。なら、こっちだって! 覚悟してね、《《晃》》さん!」

「うわっ、このっ!」


 すぐさま結衣もやり返し、水面に大きな飛沫が弾けた。俺を真ん中にして、二人の水かけ合戦が始まる。当然被害が一番大きいのは俺だったが。


 ……というか、本人目の前にして告白合戦しないで貰いたい。恥ずかしくてしょうがない。


 でも──そこまで好いてくれているなら……俺の変化を二人が受け入れてくれることもあるのだろうか? わからないが。


「ぶはっ──! ちょ、やめろって! 俺にまでかかってんだろ!」

「こらー! タツ兄背向けて逃げるな! 結衣に立ち向かえー!」

「お前が背中から降りればいいだろうがっ」

「イヤ!」

「ふふ、真ん中で全部受けとめてくださいね」

「そうそう、これはタツ兄のせいでもあるんだから!」

「なんでだよ!」


 結衣と晃は俺を盾代わりにしながら、水を掬っては掛け合っている。ばしゃん、ばしゃんと飛び散る水しぶき。俺は顔にかかる水を拭いながら必死に避けようとしたが、二人の勢いに飲まれて結局ずぶ濡れだ。


「まったく! 勝負とか言っておいて、ただの子どもの喧嘩じゃねぇか!」

「子どもの喧嘩じゃありませんっ!」

「そう! これは恋人の座をかけた真剣勝負! ちゃんと受け止めろっ!」

「いや、だから勝手に俺を巻き込むなって……!」


 結衣と晃は容赦なく水をぶっかけてきて、俺はとうとう観念するしかなかった。


 でも──二人の楽しそうな顔を見ていると、心の奥が不思議と温かくなる。ぐちゃぐちゃに絡まっていた糸がほどけていくような、緊張がほどけていくようなそんな心地になる。


「……ほんと、俺なんかを……馬鹿だよな」

「うん、辰巳くんは馬鹿です」

「タツ兄はバカ」

「おい!」

「ふふっ……でも、そんな馬鹿な辰巳くんが好きなんです」


 結衣が水滴を拭いながら微笑む。


「そうそう。バカだから放っとけない。私が見守っててあげる」


 晃は背中に顎を乗せて得意げに言った。


「お前らなぁ……」


 呆れ半分、けど頬が緩むのを隠せない。──次の瞬間、結衣がぱしゃっと水をかけてきた。


「うわっ!? おい、だから俺にかけるなって!」

「ふふっ。辰巳くんの慌てる顔、なんか可愛くて」

「タツ兄、ほらっ! いくよっ」


 晃まで加勢して、水を蹴り上げる。俺の顔にばしゃっと水がかかった。


「ぶはっ……お前、今の絶対わざとだろっ!」

「うん。わざと」

「ふふふっ」


 声をあげて笑う結衣。……やれやれ。完全に遊ばれてるじゃねぇか。でも──こういうのも悪くない。


「──ふんっ……! お前ら覚悟しろ……!」

「やんっ、ちょっと……!」

「ふふ、あははは! 晃、今からお前は俺の肉盾だ。俺が大人しくただやられてるだけかと思ってるなら、それは間違いだぞっ」

「は、離せ、この外道っ! 悪魔っ! 変態っ!」

「は、は、は、何とでも言えっ!!」

「ず、ずるいっ! 私も辰巳くんの肉盾になりたいですっ」

「いや、それはどうなの?」


 背中にいた晃を片腕に抱えると、俺はもう一方の手で水を掬って結衣にぶっかけてやる。


 キャーキャーと弾む声。水面に反射する太陽の光が眩しくて、目を細めながらも、その笑顔を焼き付けるように見つめていた。


(……あぁ、なんだかんだ言って、楽しいもんだな)


 子どもの頃に戻ったみたいに──俺たちは夢中になってはしゃぎ合ったのだった。


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