第4話 あやかし 8/5
「──石動くん、見えてる、よね?」
驚きと共に目を見開き彼女の姿を視界に納める。発せられたその質問とともに先程まで覇気がなかったというか、薄ぼんやりしていた筈の神楽木さんの存在感が急に増したような気がした。その突然の変化と言葉に動揺してしまう。
「……何が?」
咄嗟に表情を繕おうとし、いつの間にか眼の前の女性を警戒していた。そうだ。何故、神隠しから帰って来た、という体で彼女は普通に話を進めているのか。それに、見えているという言葉は……
自身を害されそうな直感こそ働かなかったが、隠している事を探られるのは、あまり気分がいいものじゃなかった。
「そんな、惚けなくても大丈夫だよ」
そう言うと神楽木さんは手のひらの上を、吐息でフゥ、と細く吹いた。それはまるで、手のひらの上に乗せた木の葉や花弁を吹き飛ばそうとするような仕草。いや、現に彼女が息を吹きかけると半透明な花弁が散ったように幻視した。
──すると、室内だというのに微風が流れ、周囲は森の中であるかのような、爽やかな緑の香りで満ちる。場がある種、異様な雰囲気に変わっていた。
そして、俺はこの空気に覚えがあった。
「ほら、アレを見て」
煙にまぎれるかのように現れる異形。彼女の指差す先には俺の腰丈くらいの身長しかない、明らかに人ではないナニカ。半透明の状態から実体へと移ろうという存在がいた。茶色の肌、一本ないし二本の小さな角、下顎から生える長い犬歯。向こうでは童鬼とも呼ばれていた者達。
彼らは異界では割りとそこらへんを歩いている妖魔の一種だった。八百万の種の住民がいると呼ばれていただけあり、その親玉である鬼も向こうには当然いた。その位置づけとしては穢れとか疫病神に近いとされ、人間にとってはあまり良い存在では無いらしかったのだが……まぁ、童鬼はそれの子分みたいなもので殆ど無害と思っていい。
「ギャ?」
童鬼は五人組で、他の展示物を眺めている観光客に悪戯をしたり、ギャアギャア騒いだり、人の真似をして馬鹿にしたりしていたが、此方と目が合うとヤベッとでも言わんばかりに、観光客の脇をすり抜け一目散に廊下を駆けて逃げて行った。
「──ほら、やっぱり知ってるって顔してる」
クスクスと可笑しそうに笑う声が聞こえる。思うに、神楽木さんは普通であれば見えない筈の物を見えるようする術を持っており、常人にも見えるようにしたのだろう。改めて周囲を伺えば同じ場にいた他の観光客も何事かとざわつき始めていた。
言うなれば、姿現し──それは世界に隠れている影を顕にする術なのかもしれない。
俺が覚えがあると思ったのは、ここの空気感が向こう側の慣れ親しんだ異界のものとどことなく似ていたからだ。つまりは、空気中に拡散した薄い神秘が透明な何か、目に見えないモノをあぶり出しているのだろう。
逆に言えば、神秘という下地があれば化け物は誰にでも見ることが出来る。異界には、この現世では既に薄れてしまった神秘で溢れていたのだから。今ここの空気は、感じられる神秘こそ薄いが異界のものに似ているように感じられた。
「最下級の妖魔。祓うこと自体は苦もないけど、幾ら祓っても何処かから沸いてくるのか、何時の間にか増えてる。手間の方が多い存在。人の世界によく出没する妖怪とも言われたりする」
「……」
「何時の間にか物が無くなっていたり、探しものがどうしても見つからない時は童鬼が悪戯をしたのかもね」
さも、おかしな事などないとばかりに彼女は平坦に宣う。それから一説には彼らのような存在は、人が滅びない限り消えることは無いと言われてるとも、と続けた。
「……神楽木さんは、普段からアレが見えているのか?」
「見えてるよ。石動くんもでしょ?」
「……それは」
「もうっ、惚けなくていいのに」
「……それって普通は、人には見えないものなんだと思ってた」
「そうだよ。だから、見える私たちは普通じゃないってことになるね」
いや、まぁ……ここ迄されたら神楽木さんが一般の人じゃない事はわかる。この世界にも見える人はいると思っていたが、思わぬ所にいるもんだ。しかし、こんな形で知るとは思いもよらなかった。
……てか、他の観光客が変な生き物を見たって現在進行形で大騒ぎしてるんだけど、いいんだろうか。爺婆で、腰抜かして動けなくなってる人とかもいるぞ……
騒いでいる観光客を気にしていたら、俺の言いたいことを察したらしい。神楽木さんは言葉を続けた。
「あっ、だ、大丈夫だよ。たまに観光客には不思議な物を見てもらって、話題にして貰うの。ほ、ほら、そしたらまたお客さんが増えるし。仏教といえば天の邪鬼がよく四天王像に踏んづけられたりしてるでしょ? 童鬼って似てると思わない?」
なんだか、焦っているような気がしないでもないが……大丈夫と言ってるなら、大丈夫なんだろう。
だが、童鬼くらいなら別にそこまで害はない筈だけど、もしかしたら風邪くらいは引くかもしれないね、とのこと。それって本当に大丈夫なの? 絶対この資料館に悪い噂付くでしょ。
「……大丈夫だよ?」
と、神楽木さんが、小首を傾げる。あまりにもな暴論を言っているのは察することが出来たが、彼女の反応に何と返したらいいのか迷う。
一般の人の目に触れさせて、それが体調に異変を齎すのであれば、このような事はやっぱり避けるべきだ。……だけど、それを俺が言ってしまってもいいのだろうか。彼女とは同級生らしいが、注意を促すような間柄にはないのだ。俺が言えば気分を害するだろう。
俺が二の句を継げずに口をモゴモゴさせていると彼女は何故か懐かし気な様子で微笑みを浮かべた。
「……石動くんは昔から変わらないね。ごめんね、もう石動くんの前でこんな事しないから。でも、どうしても確かめたくて」
「え? ……あーっと……」
眉間に皺を寄せ、どういう意味かを考える。
確かめたいというのは多分、神楽木さんは常人にも彼らの存在が見える状態にすることで、俺がどのような選択を取るか試したのだと思う。しらを切るか、白状するか。
でも、俺が見える筈の無いものの存在を知っていると明らかにしたとして、それからどうしたいんだろう。そもそも、本来、此方ではああいった存在は隠されているものなのだと思っていた。知る人は知っている。知らない人は、彼らのような存在には一生関わる事もない。
困惑して二の句が継げない俺の様子がよっぽど可笑しかったのか、当の彼女の含み笑みが止むことはない。
「ふふ、本当に懐かしい……大人になっても、曲がったこととか嘘が苦手なところ、変わってないんだね。……石動くんが変わってなくて、本当に良かった」
確かに嘘が下手とは子どもの頃から言われていたし、嘘をついても直ぐにバレた。異界にいた時の仲間からもその事でからかわれたことがある。正直者。腹芸に向いてない。分かりやすい、と。
ただ、神楽木さんとは学生の時にも話したことは無かったと思う。当然、彼女に嘘をついたことなんて無かった筈。……多分、話をしたことはないものの、人となりは見られていたということなのだろう。彼女が言うには隣の席になった事もあったというし。
でも……それよりも不思議だったのは、彼女の発した言葉にはその意味以上の深い感慨や安堵の情が乗せられているような気がしたこと。そのことに戸惑ってしまう。
──本当に、神楽木さんの目的は何なのだろう。
「っ、わ、笑っちゃってごめんね、石動くん。それに騙し討ち……無理矢理に確かめるような事もしてっ。た、多分、隠してたんだよね。厄介事になることもあるかもしれないから……」
昔を思い出していたのか、雰囲気を柔らかくしていた神楽木さんだったが、ハッと我に返ったように碧い瞳に動揺を走らせた。それから申し訳無さそうに、ごめんね、と繰り返し謝り目を伏せる。
「はぁ……それはまぁ……でも、何でそんなことしたのか聞きたくはあるかな」
彼女に隠し事を暴かれ、俺もこれ以上は誤魔化せないと諦めがついた。
……そうだ。確かに俺は神楽木さんの言うとおり、彼らが見えるのを隠していた。向こうでは当たり前にいた存在たちが、此方にも数は多くないが存在していることを知り驚いたものだったが、そんなものかと納得はしていた。
何しろ元々が八百万のカミと言うくらいだ。何処にでもそういった存在はいるものなのだろう。ただ向こうにはいなかった、死んだ人間の霊とか悪霊っぽい奴の方が此方では多く見られ、当初、帰る場所を間違えてしまったのではないかと不安になったくらいだった。
記憶にある故郷に、そんな一面があるなどと、昔の自分は知らなかったのだから。
「うん、説明します。……あのね、その前にもう一つだけ、どうしても石動くんに聞きたいことがあって。というよりも、これがその理由にも関わるのだけど……」
どうにも端切れが悪い。その彼女のもう一つ聞きたいこととは何だろうか。
「聞きたいこと?」
「うん」
「聞かれても、答えられないかもしれないけど……」
「それでもいいの。でも、出来たら教えてくれると嬉しいな」
何だろう。こういう言い方をされると、どうにも断りにくくなる……。いやまぁ、無茶な事でもない限り断る気もないんだけど。それに俺も神楽木さんには聞きたいことがあるし。
でも、これまでの経緯からすれば、何を聞かれるのかと内心では身構えてしまう。多分というか、確実に異界関係のことなんだろう。
若干緊張しながらも俺が通路に置かれていた休憩用の椅子に腰を下ろすと、神楽木さんも少し距離を空けて俺と隣り合うように座った。
「……それで? 何が聞きたいの?」
「うん。ねえ、石動くん……」
緊張感をはらんだ彼女は一度言葉を切ると、俺の眼をジッと見た。その眼鏡の下の碧い眼には此方の考えている事の一切を暴こうという気迫さえ籠っているように見える。
「私の双子の姉に向こうで会ったりしなかった、かな?」
「え……?」
「礼衣って言うんだけど……覚えてない?」
まさかそんな質問が来るとは夢にも思わなかった。一瞬思考が停止した後に、彼女の姉に会った記憶があるとも思えなかったがために、少し時間をかけて考えてみる。
……何故だか、双子、という言葉に引っ掛かりを覚える。それにこの展開には既視感があるぞ。
中学校。同級生。女子。双子。
あっ。
「あぁ! 思い出した!」
「えっ、嘘、本当に……? 礼衣は向こうにいたの……?」
「ん、あ、いや、ごめん。そうじゃなくて……」
「?」
パッ、と神楽木さんの表情が真剣な色に染まるも、俺の歯切れが悪かったことで、彼女は怪訝そうにした。
「神楽木さん達の事を思い出したっていうか。礼衣とは昔話した事があったから」
俺がそう言うと神楽木さんはキョトンとした後、少し寂しそうに表情を曇らせた気がした。というより、だんだん彼女の纏う雰囲気が暗い、重苦しいものに変わっていっているような気もする。
「そっか。思い出してくれて嬉しいよ。……礼衣のついでだとしても」
「え? あ、あぁ」
へっ、という捻くれたような、嫉みやら僻み、不満の感情がついでという言葉込められているように感じられた。神楽木さんはそう言うと卑屈気に口元を小さく歪めた。
どうにも、神楽木さんに失礼な事を言ってしまったようだ。神楽木さんの視点からすれば、姉の名前はすぐに思い出せたのに、自分のことは思い出せなかった。しかも、姉の名前で妹である彼女を思い出したとくれば。
これでは眼の前の人物は姉を通して自分を記憶していた、姉のオマケとして見られていると取られても仕方ないだろう。
……彼女を傷つけてしまったみたいだ。でも、正直なところそれは仕方ないんじゃないかと思う。だって今の神楽木さんを見て、思い出せる訳がないのだ。
「そ、それは神楽木さんが、昔と比べて大分変わったからさ。だから正直分からなかったんだよ」
昔の神楽木さんは今のように前髪を切っておらず、目元を完全に隠していた。というより、今よりももっと、かなり髪の長さがあったと思う。あぁ、そうだ。おまけに無口で物静かだったこともあってサダコとかオバケって影で言われていたことまで思い出してしまった。
そうそう。隣の席になったことも思い出した。恥ずかしながら、教科書忘れとかが多かったから何度か見せて貰ってたような記憶がごく薄っすらとある。
ちなみに姉の礼衣の方は明るく社交的で、クラスでも中心だっただけに、並べて見ると対照的だったように思う。陽と陰、昼と夜、良く言えば太陽と月みたいな。
ただ礼衣はなぁ……態度がデカかったし、物事を決めたがるというか、自己中心的というか……何となく苦手だった覚えもある。
「今は出してるけど、前は髪で顔隠してたよね」
そう言って神楽木さんの方──髪をジッと見つめると、彼女は動揺したようにその碧い瞳を揺らした。
「ふぁっ?」
艷やかでいて、しなやか。しかも、よくよく見なくても傷みなど一切ないことが分かる。向こうでは妖怪から神まで問わず、女性の髪の美しさを表すのに黒烏の濡れ羽色と言っていたが、正に神楽木さんのような髪のことを言うのだろう。
「あっ、あっ、あっ……」
「?」
そんな事を考えていると、何故か神楽木さんはウチの家庭菜園にあるトマトみたいに赤面して手で顔を覆って震えだした。
「そうだ。昔、神楽木さんの髪が綺麗だなって思ったのを覚えてるよ。切ってしまったのが少し勿体ない気がする」
「ひゅっ」
許されるなら試しに触ってみたいくらいだ、きっとサラサラなんだろうな、と心の中で思う。
「も、もうっ! 石動くん向こうではそんなことばっかり言ってたのかな……? 許可無く女の人の髪に触れたら駄目なんだからねっ。下手したら捕まっちゃうよ!」
「えっ? あ、うん」
アレ? 気のせいかな……触りたいとは口に出してないと思ったのだけど。もしかして、無意識の内に口に出ていただろうか?
赤面を隠すように顔を覆っていた手を外すと、神楽木さんが一つ咳払いし、先程話していた時よりも声の音量をかなり大にして言った。
……なんだか機嫌が上向いた気がする? というか、しないけども、ちょっと髪触ったくらいで逮捕までいっちゃうのか。日本ってそんなに厳しいんだ……向こうでの生活が長かったせいか、時たま常識がズレることがあるみたいだ。
まぁ、向こうも日本の神様とか縁ある者達が生活しているとあって、常識は互いに通じるものがあるとは思うが。いや、ないか。あったとして人間にとっては遥か昔の常識か。
「はぁ……む、昔はとにかく髪を伸ばすようにって言われてたから。顔を隠してたのは、この目が目立つから……って、そんなことはどうでもいいから答えを聞かせて欲しいなっ」
神楽木さんが纏めた髪を手櫛で撫で付ける。
どうやらサダコだったのは家の方針? らしい。よくわからんが。ただ目の色を隠す為に前髪を下ろしていたと言うのであれば理解出来た。多感な時期だ。周囲に一人だけ違う目の色の事を言われるのは嫌だったのだろう。まじまじと見る。こんな綺麗なアオミドリ見たことない。宝石みたいだ。いや、お世辞抜きに。
「あうぅぅっ、もうっ! あんまり、みないでっ」
ちょっとならいいのだろうか? と内心思ったが言わなかった。彼女の焦ったような様子を見ていると、既に当初あった彼女に対する陰気、という印象は無くなっていた。
□
──その後、彼女が落ち着くのを待って話を本題に戻した。
「……あぁ、申し訳ないけど会ったことないと思う」
暫しの間、記憶を探る。宙を彷徨わせていた視線を下げ答えた。会ったことは無い筈だ。本当に極稀に現世から流れてくる人間もいるらしいが、少なくとも俺は向こうで人に遭遇したことはない。それに異界では人間は異物であり異質なので正体がバレると騒ぎになる。
すぐに始末しろやら、そのまま食ってしまえだとか。あまり人間に親切な世界ではない。俺は保護されてたから何とか大丈夫だったものの……おっかない場所ですよ、ホント……なので、もしも異界に行って誰かに見つかっていれば大騒ぎになるし噂も立つからわかりやすいとは思う。
「うーん、そっか」
俺の反応に神楽木さんは軽くため息をつき、肩を落とす様子を見せた。やはり俺が嘘をついていないと彼女は判断しているらしい。もう少し疑うという事をしてもいいと思うのだが……俺ってそこまで、わかりやすい?
「神楽木さん?」
「あ……ごめんね、急に黙り込んだりして」
俺は静かになった彼女に、何と声を掛けたら良いのか迷った。
「神楽木さんの姉の……礼衣も神隠しにあったってことなのか?」
「……もしかしたらね。今年で五年になるかな」
今はニ十七だから二十ニの時に行方不明になったということだろうか。でも、二十ニともなれば立派な大人だろう。黙って家を出た、とかでは……ないのだろうなぁ。未成年の家出娘じゃあるまいし。
「……姉だもんな。そりゃ心配にもなるよな」
「心配かぁ……うーん、そういうのじゃないの。礼衣が大人しく行き倒れてるなんて想像し辛いし。それに一応は姉妹だからなのかな、何となく生きてるって気がする」
どこに居るかまではわからないけど、と双子の片割れだろうに中々に辛辣な物言いだった。
「じゃあ、何で聞いたの?」
「それは……もしも異界にいるなら、もう礼衣に会わなくて済むとでも思ったのかも? 私、礼衣のこと嫌いだから」
……重い。重いよ。てか、実は仲が悪かったのか。普通、双子って仲がいいモンじゃないのか。
「なんかね、もう顔のつくりが似てるって言われるのも嫌かな。昔のことだけど、学校で私の悪口広めたのは礼衣だし。覚えてない?」
「覚えてないかな……そう、なの?」
「そうだよ。サダコってあだ名付けたのもそう。私の秘密バラして笑ってたのも知ってる」
だからね、向こうにいるなら帰ってこなければいいのにな〜って。行方が分からないと何か安心できないんだ──と。女ってコエー……その呟きだけは聞こえないフリをするのが正解だと思った。
「と、ところでさ、俺からも聞いていい?」
「うん。大丈夫だよ」
それでも、平然としている彼女を見ていると皆色々あるんだなぁ……と思わざるをえなかった。
「何で向こうの事を知ってたの?」
「あー。それはね、私の家がそういう家系だから。一応、神職の家系。ここらの地域は寺院の影響が強いからウチは殆ど没落したようなものだけどね。古い家ではあるから昔の話が色々と伝わってるんだよ」
と、苦笑い。
となると、神楽木さんは巫女となるのだろうか。そう聞くと、神職の資格──階位と言うらしい──を持っている神職であり巫女でもあると笑われた。神職と巫女ではどう違うんだ。よく分からん。
「石動くんは知らなかったみたいだけど、実は見えるだけ、感じるだけって人なら、それなりにいるんだよ。ただ、霊に関するトラブルに対処したりってなると一気に数は減るの。殆どの人は干渉する力まではないから」
過去に何かが混じったり、何処ぞの神の加護を受けている家系は勿論として、事故で生死の境を彷徨ったりして結果的に見えるようになることもあるらしい。霊媒体質とでも言えるのだろうか。特殊な家系でなくとも、死後の世界など異界に関わりを持つとそうなってしまう事が多いらしく、それなりに感じる人はいると。現に俺も向こうの世界に渡ってからハッキリと見えるようになったし。
神楽木さんといえば、来歴ははっきりとしないがご先祖様に特殊な出自の人がいたらしい。知る人は知っているとの事だが、そうした家系の一部の人には時に分かりやすく特徴が出ることもあるらしく、神楽木さんの碧い眼もそうだと。
──そして、そうした人の中には、自身がカミの末裔であることの証と自負している人もいるのだとか。
カミ──つまりはこの国の古代に力を持っていた超越者や権力者達の血筋であり、自身はその特性を色濃く映した先祖返りであると。
「本当に馬鹿馬鹿しいよね」
本当かどうかも怪しい憶測や思い込みを誇りにして、現実には誇れるような大した力なんて持ってる訳でもないのに……そう言って神楽木さんは笑った。
彼女曰く、どうやら神楽木さんのように眼に表れるというのは先祖返りの中でもたまにあることで、他にも四肢が不随になったり、身体に欠損が起きたり、嗄声になったりすることもあるらしい。
そして、そうした代償を支払った者たちは、大なり小なり何かしらの力を得ているのだと言う。例えば、見た者に呪いや魅了を掛ける邪眼、限定的な未来の予知、犬神などを操る獣憑きとしての能力など……
──それはカミの末裔であると自称する者たちが言うに、不具であることこそ古いカミの似姿なのだと。似姿となったことで、カミの神性の一端を身に着けた、という論理らしい。
戻って来たばかりでこちら側の事情には疎い。そんな事情があることも、特殊な家系があることもこれまで知らなかったのだが……望んでもいないのに不具を押し付けられるとは中々に重い話だ。
「じゃあ……神楽木さんにも何かしらの力が?」
だから不思議に思って聞いてみた。神楽木さんのは目の色が変わるというもの。太陽光には弱くなるかもしれないが、不具という程でもないと思ったから。不具とは微妙に言い辛いそれは運が良かったからなのか、と。
すると神楽木さんは、ふと笑みを浮かべて言った。
「──知りたい? 私の力のこと」
「えーと……秘密ってなら無理には……ただカミが異形だったとして……それに近づくことで力を得るということなら、神楽木さんのは少し違うのかなって思っただけだよ」
驚いたような、緊張を隠しているかのような笑みのように俺には思えた。
「無理じゃないよ。無理じゃないんだけど……私の力は……もう少し仲良くなってからでもいいかな? まだ、心の準備が必要だから……」
どうにも神楽木さんにも何かしらの事情があるようだった。それは彼女の持つ力が人には知られてはならないものなのか、もしくは彼女がその力を受け入れられていないからなのか、はたまた俺に対する信用が足りていないからなのか……どちらなのかは分からなかったが、今俺が無理に聞くべき内容ではなかったみたいだ。
「そっか……じゃあ、またいつか」
「ごめんね。またいつか、私の心の準備が出来たら……その時は聞いて欲しい」
そこに何とも寂しげな雰囲気を感じた。どうしてそう思ったのかは俺にもよく分からないが、彼女の準備が、出来たその時には受け入れられたらと思う。
そこから少しの沈黙が場を支配した。だが別に気まずいとかではない。自然にその話がそこで終わって、次に気になっていた話題を出そうと思っていた所だった。
「──そういえば、石動くんはどんな風に世界が見えてるの?」
神楽木さんから投げかけられた質問。どんな風に、とは不思議な質問だ。それではまるで、人によって世界の見え方が異なっているかのような言い方だったから。
「向こうじゃ八百万の精っていうのかな。動植物とか自然の化身みたいなのが人型になったり動物の姿になったり……妖怪と言われる存在も普通に暮らしてたけど、此方ではまだあまり見てないかな。むしろ此方では人間の死後の霊とかが恨めしげに彷徨ってるのを見かけたりってのが多くて驚いた」
「そっか。人によって見え方も違うらしいからね」
そうなのか。向こうではそんな事気にもしなかったし、此方に戻ってからは周囲に見える人なんていなかったから気が付かなかった。彼女が言うには、俺とは見え方が違うということなのだろう。
「神楽木さんにはどう見えてるんだ?」
「うーん……私の場合は、人間の死霊はわりとグロいというか、化け物? 一応人型だけど頭とか手とか口とか目が複数あったり、目の奥が闇になってたり、基本的に死の穢れっていうか、魂が汚れてるような、匂いがしたら臭そうでコッチまで病気になりそうな感じ、で映るかな?」
「見え方違いすぎじゃない?」
「私も詳しくは知らないけれど、個人の意識が見え方に影響する場合もあるらしいから」
それって最早人型じゃないよね。明らかに俺が見えてる死霊の姿とは違うのですが。個人の意識とは言うが、何で人によって見え方が異なるんだろう……
「だからどちらかと言うと妖怪達の方が人型だったり動物の姿を保ってたりして目に優しいかな」
ただ神楽木さんが言うには、不思議なことに妖怪が見える姿は皆同じなのだという。
俺の目にはやはり人は人として映るし、妖怪もモノによっては人型もいるが、目に優しくない異形もいるとは思うし……それほどまでに、神楽木さんは死霊が悍しい化け物に見えているのだろう。
「なんか精神的に悪そうだ……大丈夫?」
「優しいね、石動くん。ありがとう、慣れてるから大丈夫だよ」
そう返す神楽木さんは本当に何とも思っていないようだった。俺だったら世界がそんな風に見えてたら速攻で病む自信があるよ。
「ところで聞いて無かったけど石動くんは此処にはどうして?」
「あー……元々は神隠しのことを調べてたんだ。此方ではどんな風に伝わっているのかなって。寺の坊さんと話した時には神隠しなんて迷信だみたいなこと言われたからさ。目の前にその当事者がいるってのに」
「ふふ、その人は見えない人だったんだろうね。見えない方が絶対にいいと思うけど」
神楽木さんがそれを言うと全く笑えないんですが?
「良かったら案内しようか? 私、此処の職員だし」
「此処の職員だったんだ。あれ、でも神職とか巫女さんって神社とかの仕事があるんじゃ……?」
「言ったでしょ、ウチは殆ど没落してるって。管理してる社はあるけど、氏子も少ないし新しい参拝客なんて殆どいないよ」
「そ、そうなんだ……」
またまたクスクス笑われてしまった。馬鹿だと思われているのかもしれない。実際、頭は悪いけど……神職の家系でも、神社としての仕事がそこまでないから外に勤めに出ているということなのかな。
「まだ仕事中なんだろうけど、大丈夫?」
「いいのいいの。解説するのも私の仕事だから」
「そう……? なら、お願いしようかな」
神楽木さんがはい、任されました、と笑みを浮かべた。
「ンンッ……では、お客様こちらへどうぞ」
□
──その10分後、俺は神楽木さんの案内を思考停止状態で受けていた。
「──でね話は戻るけど、この月隠山周辺の地域には山や海が常世……石動くんの言う異界に繋がっているという考えが昔からあったの。それを示唆するような民話伝承も幾つか残ってて……」
展示物の一つを指差して、まるで学校の先生のように授業が続いている。
最初は慈願寺由来の品で、丁寧に誰々由来の〜とかの薀蓄を時間かけて話してくれていたのだが、俺の片耳から入って反対側の耳から抜けて行っているのが目に見えて分かったらしい。
明らかに失敗したって顔でサッサと神隠しに関わるような、月隠山の伝承とかの話に移ってくれた。……のだが、それも正直よくわかっていない。多分、俺の元々の知識が圧倒的に足りていないのだと思う。
「民話……」
「そうだよ。民話を参考にするとその土地その土地にある風土慣習や価値観が垣間見えてくるの。面白いよね。まぁ、中には本当になんの意味もない、しょうもない話とかもあるんだけど……」
なんと言うか、神楽木さんは民話マニアの側面があるらしい。ちなみに大学も出てて、その時の授業を受けて興味を持ったのだとか。あと、そこで神職の資格やら学芸員やら教員の免許も取得したらしい。頭いいんだろうなぁ。俺も行ってみたかったなぁ。
参考までにその民話の事を聞いてみた。簡略化すれば、山で迷った男が罠に掛かって怪我をしていた兎を助け、そのお礼に屋敷に招かれるという話のようだ。
なんだか昔読んだ日本昔ばなしのパチもんみたいな話だ。ポロッとそう溢したら、否定はされずそういうものだと返ってきた。全国に存在する民話伝承には類似する話も多いらしい。
てか、人の罠弄って獲物逃したら駄目だろうに。罠の持ち主がブチ切れるぞ。そう感想を言うと神楽木さんは困ったように愛想笑いを浮かべた。
「ま、まぁ、月隠山は当時から聖域でもあったから殺生は忌避されていただろうし、昔はそういう規則も今よりもずっとずっと厳しかったと思うから……」
なるほど。そもそも罠仕掛けちゃいけない場所だったと。それなら罠壊されたとしても何も文句は言えないな。
「あはは……ちなみにだけど、神隠しに類似する……異界に迷い込むという話は日本全土のみならず、世界的にもある話なんだよ。それこそ解釈次第では沢山」
全国的に有名なところでは『浦島太郎』やら『ネズミの浄土』といった昔話、世界的には『ヘンゼルとグレーテル』などのグリム童話も見方によっては常世/異界に渡って、元の世界に帰ってくるという解釈が出来るらしい。
はぇ〜。日本昔ばなしもそうなんか。色んな場所にそうした話があるってことは、もしかしたら異界への入口なんて、実は俺が知らなかっただけで、月隠山以外にも幾つもあるのかもしれない。
「ちなみに、そうした物語はだいたいが善人はお宝を得て戻ってくるけど、悪人は手痛く懲らしめられるという教訓を含んでたりするの」
だから、石動くんは無事に帰って来れたから良い人だね、と笑う。……俺もだいぶ、苦労した覚えはあるけどね?
そしてもう一つ。神楽木さん曰く、常世/異界から戻ってくるのに、迷い込んだ人物が善人か悪人かの基準で計られる他、常世/異界の主に気に入られるかで結果が変わったり、働き者か怠け者か、登場人物の言動によって褒美を受け取るか罰を受けるかも変わったりするらしい。
……うーん。向こうで似たような覚えがあるような、ないような。
「全てがそうでは無いのだけど、こうした昔話が伝えられて来たのは、忘れてはいけない警句として、集落や村、町といった共同体に属している子ども達への教育装置になっていた面もあったんだよね」
「へぇ」
「例えば、悪い事をしたら報いを受ける。欲張りは身を滅ぼす。夜は危険なオニが出る。帰ってこれなくなるから、特定の日には山に入ってはならない。……そうやって古老達が民話に警句を織り交ぜ、何代もの子どもを楽しませながら教育し、話を洗練させていったの。こういう地域の民話を一つ知るたびに、昔はどんな意味合いが込められていたのかなって考えられて楽しくなる」
それから、今はもう、連綿と続いてきた習俗は途絶えて、現代を生きる子どもがそういう古くからの知恵に触れる機会すらなくなっているのはとても寂しいことだけどね、と続けた。
「他にも、この地域には直接的に異界としての常世が出てくる話もあるよ」
──『霧の里』
静かな霧に包まれた里があった。この里の近隣では、神隠しが頻繁に起こり、亡くなった伴侶を悼む者たちが幽世(常世)との交わりを求めて訪れることがあったという。
ある日、青年が里の境に現れた。青年は悲しみに暮れ、亡き妻のいる幽世への旅を望んでいた。青年の悲痛な嘆きに、里人は憐れみ、悩んだ末に彼を幽世(常世)へと続くとされる場所へと導くことにした。
里の長老たちが、霧の里の奥深くにある社に彼を案内する。すると、そこでは彼の亡き妻が夫である青年を待っていた。里人たちはその姿を見て驚いたが、感泣する青年の悲しみに触れ、彼らの運命を尊重することにした。
青年は亡き妻の霊魂と再会し、旅立った。以来、霧の里の社は死者を悼む者たちが多く訪れる信仰の地に成長したという。
「……羨ましいよねぇ。死後も自分のことだけを想って悲しんでくれて、しかも追い掛けてきてくれるなんて……純愛、なんか憧れるなぁ」
物語に思いを寄せているようにも見える神楽木さん。何だろう。神楽木さんも女性だけあって、こういう話は好きなんだろうか。普通の恋愛話ではないところがアレな気がするが……
他にもこんな物語があるという。
──『桜の魂』
あるところに美しい桜の木が咲く村があった。この村では、春になると桜の花が満開になり、その美しさは他を圧倒するほどのものだったという。
ある年の春、若い女性が突然病に倒れた。彼女は村人たちの間で愛され、彼女の幸せを願っていた多くの人々が深い悲しみに包まれた。そして、女性が亡くなり、彼女の死後、毎年、桜の木には不思議な輝きが宿るようになった。
寺の御坊が言うには、その桜の木は十五夜になると仄かに光る花を咲かせ、隠世(常世)へ繋がる道を開くのだという。村人たちはその話に驚いたが、彼らは女性の魂が桜の木に宿り、隠世(常世)との繋がりを保っているのだとと噂したという。
ある年のこと。女性の恋人が彼女のことを忘れられず、十五夜の桜の木の下で夜を過ごしていた。すると、女性の魂が隠世(常世)から舞い戻り、恋人と再び対面することになった。彼らは驚きと喜びに包まれ、生死を超えた一時の交わりを結んだそうだ。
次の年、その桜の木の下には見知らぬ赤子が捨てられていた。男はその赤子を自らの子だと引き取り、夜見子(黄泉子)と名付けたという。
「夜見子(黄泉子)っていうのは、生者と死者との子のことなんだけど、黄泉子の話は日本だけじゃなくて世界で見ても沢山あるね。こんな風にここの地域には常世関連のお話が多く残っているんだよ」
「そうなんだ……黄泉子なんてのもいるんだな……今でもそういう存在はいるのかな?」
「さぁ……どうだろ? もしいるなら、案外人に紛れて普通に暮らしてたりするのかも」
少しだけ考えるように上を向いて彼女は答えた。ちょっとした興味で聞いてみたことだが、妖怪という裏の世界を知っている神楽木さんが言うのだ、いくら不思議な力があっても死者との子というのはそうそういるものではないのかもしれない。
「黄泉と言えば……坊さんに聞いたんだけど、月隠山の頂上に続く登山道、夜見平坂って言うんだってね。俺、初めて知ったよ」
「そうだよ? 古い山の坂とかにはそういう名前がついていることがあるね。ちょっと安直すぎてどうかとも思うけど」
曰く、かの有名な黄泉比良坂だとされる場所も、そもそもがその名では呼ばれておらず、黄泉比良坂とは現世と黄泉の国の間にある概念としての名だとか。
なので、元々は別の名前がついていたが、何時の間にか忘れ去られ異名に取って代わった可能性もあるという。そういえば、坊さんもそんなような事を言っていたような気がする。
「一応、寺院の聖域だってのに神道で有名な名前が出てくるなんて不思議に思ったんだよ」
「あぁ、それはね」
神楽木さんが俺に話し掛ける直前まで見ていた展示物の絵を指した。
「月隠山の山頂に建物が立ててあるでしょ? あれ今でこそ奥の院なんて言われてるけど、元々は神社だったんだよ。それに登山道──参道の入り口には古い鳥居があって、それが元々神社があった名残になってるの」
「あー! 確かにあった。でも、そんなことってあるの?」
つまり、神社が寺に変わったってことだよな?
彼女はどこか複雑そうな眼差しで絵を眺めていたが、すぐに元に戻した。
「稀にね。昔は寺院の境内でも神道の神様が祀られてたりもしたんだけど、当時の政府が出した神仏分離令の後に境内から社が撤去されるようになったとされてるね」
反対に神社では仏が祀られてたりしていたが、分離令の後は仏像も寺に受け渡されたり、仏像そのものが燃やされたりする事になった。この神仏分離が起こってから百数十年ほどなのだとか。それを昔ととるか、そうでないと取るべきなのかは分からないが……
そして、神社が寺院に変わったという話だが、この神仏分離令に合わせるように、政府の神道国教化が進められた事で各地にいた神職が民衆や勢力を扇動、寺院を襲撃して排撃する廃仏毀釈の運動が起こったという。
それには長く仏教優位で神職や民衆が不満を溜め込んでいたという事情もあるが、時の政府に対する地方権力者の忖度もあったのだとか。
「この廃仏毀釈の波は全国に広まったとされるんだけど、ここ慈願寺も例外ではなかったみたい」
「へぇ、そんなことが……」
「……特にこの辺りの地域ではね、仏教の慈願寺勢力と、神道の勢力。2つが紛争になった歴史があるの。表と裏、両方で、ね」
月隠山山頂の建物が仏閣であるということは、紛争で勝ったのは慈願寺勢力ということになるのだろう。
あまり知られていない事だが仏教と神道が直接的に武力衝突した例は稀で、それによりこの地の神道の勢力は聖地である月隠山周辺から追いやられ、元々あった山頂にある社は廃され、奥の院という形で仏閣に替えられたのだという。
そして表と裏──神楽木さんの言う表というのが一般の人が暮らす日常の世界だとしたら、裏とは悪鬼悪霊の存在を知る神楽木さんのような人たちのいる隠れた世界と呼べるだろうか。
その両面において争いになっていたとは。当たり前ではあるが、全然何も知らなかった。
「慈願寺にとっても、神道の勢力にとっても、月隠山は聖地と言っても良かったから……元々それなりに上手く折り合いをつけていた筈の両者は、政府の下した神仏分離令によって完全に関係が悪化。分断された両者は聖地を確保するために、互いに引くことは出来なかった。……その結果、表の歴史に残るくらいには凄惨な光景になったみたい」
新たに指をさされた先には、地獄を描いたような絵図がある。しかしそれは仏画の一つである六道絵ではない。火に焼かれ、いずれ崩れ落ちるだろう社に、血を流し伏せる神職の姿。逃げ惑い、男達に群がられる巫女。武装した僧や民衆、明治初頭にはまだいたのだろう武士──多分、足軽がそれを狂ったように追い立てている一揆とも言える光景だ。
これを描いた人は何を考えていたのだろう。凄惨な事実を後世に残し、この地で起こったことを忘れてはならないという戒めにしたかったのだろうか……俺にはそんな気がする。
「夜見平坂っていう名前だけど──要は、月隠山にはまだ神仏習合してた当時にあった神道の名残りが残っているんだよ」
そう寂しげに話す神楽木さんの表情が、何故だか動揺を誘われるほどに印象的だった。そういえば、彼女の家が管理する神社は没落していると言っていたが──
「これでだいたいの解説は終わりかな。は……えぇっ……もうこんな時間……!」
神楽木さんが何となく左手の内側に巻かれた腕時計を見て驚いていた。俺も壁に掛けられた時計を見たがもう4時近かった。長い事話してしまっていたらしい。
「仕事中なのに時間取らせて、ごめん。大丈夫だったかな……?」
「あ、はは……まぁ、大丈夫じゃないかな……?」
それはどっちの意味で? だいたい2時過ぎにここに来たから、2時間近く神楽木さんと話をしていた事になる。彼女も流石に不安そうだった。
「あ、あの、それでね、石動くん、もう帰る?」
「あ、あぁ、うん。此処の中はだいたい見ることが出来たし……神隠しのこととか月隠山のこととか知れて良かったよ。今日は案内してくれてありがとう、神楽木さん」
「どういたしまして……って、それはいいんだけど……!」
……けど?
神楽木さんはケータイを握り締め、何かを言いたげにしていた。
「ほ、ほら、今日は歴史とかのことしか話せなかったし、石動くんが不在だった時の話とかも気になるでしょ? それで……よ、良かったらスリードの交換なんて……」
「ごめん、スリードって何?」
「えっ」
目を点にして何かを驚いているようだった。俺は彼女が何を驚いているのか分からなかったが、スリードとは俺が失踪したあたりからシェアを伸ばし始めたケータイのアプリのようだ。ホント、時代に取り残されてんなぁ、俺。
「……ごめん、俺、ケータイ自体持ってないから……」
「あっ……そっ……そう、なんだ……あっ、な、なら今度買いに行かない? お店のことなんて久しぶりで分からないよね? スマホ買うときって契約とか結構面倒くさいんだよ? 私、お役に立てると思うよ?」
「あー……その、恥ずかしいんだけど、金が無いから……今仕事探し中なんだ。現状あては全く無いんだけどね」
アハハハ。
そして、婆ちゃん曰く、最近のケータイは馬鹿みたいに高いらしい。金もなければ仕事もない。俺の人生、つんでる〜。俺の現状を理解したのだろう、神楽木さんは動揺したように、視線を彷徨わせた。
「そ、そう、なんだ。ごめんねっ、そうだよね、帰ってきたばかりだもん……仕事っ……そっ、そうだっ、私お仕事紹介できるよっ……!」
「えぇ? ホント? あ、でも、そんな、悪いし……」
神楽木さんが紹介できる仕事とはどんなものなんだろう? この資料館のアルバイトとか、だろうか。
神楽木さんなら俺が失踪した事情も知っていることだし……と今現在、そもそも戸籍すら無い事を伝える。俺を紹介された側としても戸籍がないなど想定外のことだろう。すると彼女はまた呻いて、居た堪れないという顔をした。なんか逆に申し訳ねぇ。
「あ、あのね、私たちみたいな人しか出来ないお仕事があるんだよ。……ちょっと危険はあるかもしれないけど、普通のアルバイトよりは短時間で稼げると思う。戸籍がないってことは、身分証も口座もないってことだよね? ……それなら私の紹介ってことで、ウチから現金支給にしてしまえば……」
何やら難しそうな顔をしている神楽木さん。
彼女は私たちみたいな、と言った。それはつまり見える者向けの仕事ということか。……でも、もしかしたらこれは、俺の得意な分野……悪鬼悪霊退治の案件ということなのかもしれない。少しだけ希望が見えて来た。