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第35話 龍神信仰

 夏の朝。蝉の声が既に鳴り響く中、辰巳は庭で汗を流していた。


 額から流れ落ちる汗が地面に染みを作る。彼の動きは流れるように滑らかで、かつ鋭い。一瞬の静止から繰り出される蹴りは空気を切り裂き、回転する身体はまるで旋風のようだった。


「ふっ」


 拳を突き出すたびに息を吐き出し、無駄な力を抜いていく。この十年の間に身についた武技は、異界で生き延びるために必死で学んだ技であり、もはや彼の身体に深く刻まれている。


 その動作には一切の無駄がなく、まるで舞踊のような美しささえ感じさせた。だが一方で──その表情には深い集中と苦悩という相反する感情が浮かんでいた。


(告白なんて……どう応えればいいんだ……)


 辰巳の心中では、二人からの突然の告白が渦巻いていた。結衣の澄んだ碧い瞳と、晃の明るい笑顔が交互に脳裏をよぎる。


(……あれこれ考えるのはやめだ、やめ。考えたって仕方ない。集中しろ)


 そう心の中で呟くと同時に連続技へ移行する。


 敵対者のイメージ──上下左右全ての方向から襲いかかる攻撃の幻影に対応するため、全身を使い一手一手的確に貫手で貫いていく。その姿からは残酷さすら感じ取れ、感性が豊かな者が見れば寒気を覚えたことだろう。


 さらに速度を上げて連続技を放った後、最後の一打を放とうと気を溜める。そして──その最後の一撃は、様子がこれまでとは異なっていた。


 辰巳の足元から突如として風が渦巻き始め、彼を中心として周囲に吹き荒れる。


「っ!? しまった……!」


 自分でも意図せずして発動してしまった超常的な現象。それは間違いなく異形の身に宿った権能によるものだった。慌てて暴風を上空へと逃がす。目には見えない上昇気流は蒼天へと昇っていった。


 天高く昇りゆく風によって木々の枝葉が揺さぶられている。それを見上げながらホッと息を整えた。


「こんなんじゃ、おちおち鍛錬も出来ねぇ……」


 安堵と共に呟いた矢先だった──視線を感じた。


 ハッとして辰巳が振り返る。そこにいたのは二羽の烏だった。


「なんだ烏か……」


 烏達は興味津々と言わんばかりにジッと辰巳を見つめていた。何か珍しい物でも見たかのように首を傾げたり、クルリと辰巳の周囲を回ってみせたりしている。しかし逃げようする素振りもなく、困惑したままの辰巳は眉間にシワを寄せた。


「まさか……また何か厄介事の前触れじゃないだろうな……」


 嫌な予感を覚えつつも烏達を無視していると──片割れの烏が羽を羽ばたかせて近くまでやってきた。そのまま足元へ降り立ち何か言いたげにこちらを見上げてくる。


「一体なんだっていうんだ……」


 怪訝そうな顔をしているともう一方の烏も近寄って来て、その嘴に咥えていた蝉をポテリと辰巳の足元へと落とす。翅が毟られているのか飛ぶ事は出来ないようで、少し弱った様子であるがまだジージーと鳴いていた。それから烏達はまたジッと見上げてくる。


「くれるってか? いらんよ……」


 拒否するような仕草を見せると、不満げにカァカァ鳴き始めた。何やら訴えかけるような意思を受け困惑するばかりである。


「えぇ? 何? 何だよ?」


 そんなやり取りをしていると、少し離れた位置から今度は別の人物の声が聞こえてきた。


「──辰巳お兄さん……私、見ちゃいました」

「っ!」


 振り向くとそこにはまだ寝間着姿の少女がいた。辰巳の従妹である美鶴だ。長い黒髪を一つに束ね、落ち着いた雰囲気を纏っている。しかしその眼差しには明らかな好奇心と興奮が入り混じっていた。


「み、美鶴ちゃん……」

「トイレに起きたら、ちょうどお兄さんが鍛錬してて……こっそり見てたんです。でも、さっきのあれ……何ですか? すごい風が集まってブワーッて……! しかも烏と会話までして……!」


 興奮気味に話す美鶴。昨日までの塩対応など影も形もない。もの凄い勢いで捲し立てられる。目を輝かせている様子を見る限り、どうやら一部始終を見られていたらしい。


「いや……その……」


 誤魔化そうとするが上手く言葉が出てこない。


「すごいですっ、風を操れるなんて……それってまるで……本物の……!」

「あ、いや、さっきのは本当に……偶然……」


 辰巳はどう説明したものかと口ごもる。美鶴は興奮のあまり辰巳の声など聞こえてはいなかった。


「私知ってますよ? 漫画とかアニメとかで見ました。 晃お姉さんと一緒で、お兄さんも魔法使いなんですよね? その烏たちはお兄さんの使い魔ですか?」

「待って待って! こいつら本当にただの野生の烏だし!」

「でも、全然逃げませんけど」

「……ほらっ、お前らもう行けっ、しっしっ!」

「それに、さっきの風とか絶対に不自然ですよね」

「……いや、あれは偶然で」

「お兄さんがフンってしたら、風が空に逃げて行きましたけど」

「……えっと、あれは」


 追い払おうとするも烏達は少し距離を空けるばかりで逃げる素振りも見せず、美鶴は辰巳を詰めに掛かっている。辰巳は頭を抱えるしかなかった。


「お兄さん……私にも風の魔法教えてください」

「美鶴ちゃん、頼むから少し冷静になって聞いてくれ……」

「私も魔法使えるようになりたいんです」

「あのな……」

「晃お姉さんは真剣にお願いしたら蜘蛛さん紹介してくれるって言ってくれました。それに上手くお兄さんとの仲を取り持ったら使い魔? シキガミ? の契約の仕方も教えてくれるって」

「晃ァ……! 話が違うぞ……!」

「お願いしますっ」


 勢いよく頭を下げる美鶴。その真剣な眼差しに辰巳はタジタジだ。晃の件と合わせてこれはもはや手遅れな気がしてきた。


 美鶴の目は期待と興奮でキラキラと輝いているが、辰巳としてはそんな気楽に構えていられる状況ではない。


「……あのな、美鶴ちゃん。俺が風を起こしたのを見て興奮してるみたいだけどな。それは単なる偶然だ。別に魔法でもなんでもない。現実を見てくれ。俺はただの人間だ」

「でも、さっきの風、絶対に普通じゃないです。それに烏さんたちもお兄さんに懐いてるし!」


 美鶴は全く引こうとしない。むしろ辰巳の否定する姿勢に意地になってしまっている様子だ。


「だから、あれは──」

「──内緒って言われましたけど、私、知ってるんですよ? お兄さんが行方不明になってる間、こことは違う場所にいたって」

「な……晃から聞いたのか?」

「いえ? 友達に教えて貰いました」

「友達……?」


 それからコソッと声を小さくして美鶴が囁くようにして言った。


「……これ本当は内緒なんですけど、私の友達、ドラゴンなんです」

「ど、どらごん……?」

「ながーいニョロニョロで大っきい蛇みたいなドラゴン。蛇みたいって言うとリュウだって怒るけど、すごいお喋りなんです。お兄さんのことも知ってたみたいですよ。奴はこの月隠のグヒンになる定めなのだって。グヒンって何ですか? 聞いてもバカにして教えてくれなくて……」

「……」


 辰巳は戸惑いの色を隠せない。グヒン──狗賓のことであろう。狗賓とはつまりは天狗のこと。辰巳自身の他にも、正体を知っている存在がいることに驚愕し、思考が止まった。


「っと、そんなことより魔法です魔法!」

「美鶴ちゃん、それは……」


「──辰巳さん? あっ、美鶴もいた。二人ともどうかしましたか?」


 美鶴が中々部屋に戻って来ないことで、探しに来たのだろう兄の輝が縁側から二人に声を掛けた。


「……何でもない。じゃあ、お兄さん。さっきの考えておいてください」


 そう言ってアッサリと兄の元へと歩いて行った。


「──何の話してたの?」

「──お兄さんが武術の鍛錬してたから見てただけ」

「──へぇ、辰巳さん、武術の経験があるんだ。明日もするなら僕も見てみようかな」


 そんな二人の会話が辰巳の耳に入って来る。どうやら兄である輝には辰巳の秘密について話す気は今の所ないようであった。


 それを聞いていた辰巳は内心で安堵の息をつく。だがすぐに疑問が湧いた。


(──しかし、美鶴ちゃんの友達にドラゴン……? 一体どういうことだ……? それに何故、俺の正体が天狗だと知っている……?)


 辰巳の脳裏に美鶴の言葉が反芻される。彼女の言葉には不可解な点はあるものの、それらが嘘だとは思えない。


 ──それに、『龍』の存在に心当たりがない訳ではなかった。辰巳の住んでいる地域では龍神信仰を伝えている家があり、石動家もまたその内の一つであったから。


 現に、石動家の部屋の一つには龍神の掛け軸が掛けられており、御前には御供え物もされてある。それは辰巳が子どもの頃から見慣れた光景だった。


 とは言え、元々が日常の風景の一場面。さして信仰心など無かった身としては特に気にも留めたこともなかった。それ故にどういう謂れがあるのかすらも知らなかった。


「……後で婆ちゃんにでも聞いてみるか」


 と、辰巳はそう一人ごちると、力を暴走させないように再び身体を動かし始めるのだった。


 □


 朝食後のこと。辰巳は祖母──花重に龍神信仰のことを尋ねてみることにした。


 縁側の廊下を通って祖母の部屋へと向かうと、祖母は文机へと向かって何やら書き物をしている最中のようであった。


「なあ婆ちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいか?」

「あぁ、どうかしたかい辰巳」


 辰巳が声をかけると祖母は机上から顔をあげて、こちらを見た。


「いやぁ、ふと気になったんだけどさ……部屋の壁に掛かってる龍の掛け軸って、どんな謂れがあるのかなって 」

「──ほう。いきなりどうした。藪から棒に」


 祖母は興味深そうに辰巳を観察した後、筆を硯箱へ置きながら問い返してくる。そこで辰巳が今朝のことを掻い摘んで説明すると──


「ふぅん。美鶴の友人にねぇ……確かに竜臣に言われて知り合いのおっさん(寺の住職)に相談したことがあったし、美鶴がそういう勘を持っているとは知ってたが……しかし、まさか龍神様がついてるとはねぇ」

「いや、まだ確証はないから美鶴ちゃんの想像上の産物かも知れないけど」

「……それでも有り得ない話じゃないだろうさ。……あぁ、それであの龍の掛け軸のことだったね。……あれは代々家に伝わってるもので、来歴は私にも分からん。お前の曾祖父があぁして祀っていたのが私にも記憶にあるくらいで、いつからあるのかも分かってないんだよ」

「婆ちゃんでも知らないのか……」

「でもねぇ。曾祖父からはちゃんとお祀りするようにとは言われてた。丁重に祀らないとお怒りになるってね。そもそも龍神っていうのは水神や土地神に通じると言われている。あの掛け軸の龍神様も多分この地域一帯を守る水神なんだろうさ」

「へぇ……じゃあ、やっぱりあの掛け軸って昔から彼処にあるんだ」

「そういうことだね」


 祖母の説明を聞いて納得しつつも、やはり気になることがあったので辰巳は質問を続けた。


「ちなみに、龍神様の怒りを買うとどうなるのかって聞いた事ある?」

「さぁ……曾祖父からはそんなこと聞いとらんねぇ……いや、竜司が物投げてぶつけた時があった。その後に竜司にすごい高熱が出て、慌てて酒を供えて謝ったことがあったか」

「そんなことが……」

「ただ龍神様は気位が高いが、粗相をしてもちゃんと謝れば分かってくれるよ。だから命に関わるような祟りにあったとは聞いたことがないけども」

「いやいや、十分ヤバいよ」

「竜司は子どもの時分に高熱出したってだけで今はピンピンしてるし……龍神様も子どものしたことと、叱ってお許しになったんだろうさ」


 祖母は他人事のようにケラケラ笑いながら言った。ちなみに竜司というのは父さんの上のお兄さん。婆ちゃんの二番目の息子に当たる人だ。


「……でもさ、なんで美鶴ちゃんに? 何か関わりでもあったのかな」

「さぁねぇ。ただ龍神様はきっと美鶴を気にかけてくださっているんだろうよ。元々はこの家で生まれ育った子には『龍』か『竜』の字の入った名前が付けられる慣習があったんだが……それも龍神様の力にあやかろうとしていたのかもしれない」

「へぇ」

「ただ……皆外に出て、長らく子どもが住んでいなかったという事情もある。美鶴には霊感があると言うし、気に入られたのかもしれないし、龍神様も寂しかったのかもしれないね」

「……子ども好きの龍神様かぁ」

「まあ、それはどうか分からないが。名付けの伝統も龍神様への信仰も……昔からの伝統的なものっていうは、昔の人が何かしらの意味やら繋がりやらを考えた結果、今の今まで残っているのだろうしね。私らが忘れてしまっただけで、過去には龍神様との関わりで何かがあったのかもしれない」


 祖母は肩をすくめてそう言うと、机の上に置いてあった湯呑みを手に取り一口飲んだ。それから姿勢を正し、また机に向かって書き物を再開したのだった。


 ──祖母との会話を終えた辰巳は、一度自分の部屋へ戻ることにした。廊下を歩きながら、美鶴の友達だという龍の話や龍神信仰のことを考える。


(美鶴ちゃんの話は本当なのか……? 龍神様がついているって……少なくとも俺が帰って来てから龍を見たことなんてないぞ)


 疑問を抱えながらも、答えがすぐに出るわけではない。祖母は来歴は分からないと言っていたが、代々龍神への信仰がこの家に伝わっているということは確かだった。


 もしかしたら、蔵にあるかもしれない祖母も知らないような古い文献であれば何か手がかりがあるのかもしれないが、それを調べるのは容易ではないだろう。何より、辰巳は蔵に入ることを面倒臭がっていた。


(まぁ、まずは美鶴ちゃんのことを優先して考えるべきか……)


 美鶴の友達が龍だというのは、単なる子どもの空想だとは言い切れない。結衣や晃、辰巳自身のような力を持つ者がいる世界だ。それに辰巳は龍が実在することも知っていた。


(問題は、この龍がどのような存在であるのかだな。ウチで祀られてた存在だから大丈夫だろうけど、念のため。もしも祟るような存在だったりすると大変だ……)


 そう考えた辰巳は、結衣にも話を聞いてみることにした。特に結衣は神社の娘で神秘的な力を持つ。それに、たしか資料館に勤める学芸員でもあったと思う。地域に伝わる伝承や龍神信仰についても詳しいかもしれない。ただ……


(俺は普通の顔して話せるんだろうか……)


 思い出すのは昨日の電話でのこと。


『もしも……嫌いになったら──そんなの耐えられないから、その時は私を殺して?』


 向けられた感情は重く、ちゃんと話せるか……それだけが心配の種だった。


 □


 時間が経つのは早く、レジャープールへと出発する予定の時間に近づいていた。天気は晴れ、天気予報によれば気温もグングン上昇してゆくらしい。絶好のプール日和という奴だろう。


 石動家の玄関先には、既にニ台の車が停まっている。デカいピックアップトラックに、初めて見るミニバン。ミニバンは皆で乗れるようにと結衣さんが父親である衣弦さんの車を借りて来てくれたものだった。


 その車の持ち主達は時間前に既に集合しており、家の中で今日行く予定のメンバーの面々と談笑を始めていた。


「──今日はお誘いありがとう。プールなんていつ以来かな。中学の時が最後かも」

「先生が心細そうだったので、私もオマケで来ちゃいました! 今日はよろしくお願いします!」

「……別に心細そうになんてしてないよ? 繭子がどうしてもって言うから……勝手に人数増やしてごめんね、辰巳くん」

「ははは……それは大丈夫。人数多い方が楽しいだろうし」


 繭子が悪戯気な顔をして結衣さんはバツが悪そうに顔を背けた。


「でも、衣弦さんに車まで借りて来て貰っちゃって……申し訳無い」

「それこそ気にしないで。あの車は神社の外回り……外祭の時に使ったりするくらいだし。お父さんも自分の持ってるから」

「そ、そうなんだ」


 いったい幾つ車があるのか。景気が良さそうで羨ましい限りだ……しかし、昨日の電話でのことがあってから心配していたが、話していても雰囲気は悪くない。俺も結衣さんと普通に話が出来たことに少し安堵した。


 それよりも今一番の問題は……子どもたちと一緒にいる晃が不機嫌そうな雰囲気を纏い、結衣さんの方を見ていたことだった。


「……どうして、その女がいるの?」

「……皆で行った方が楽しいだろ? なぁ、輝、湊!」

「えっ! あ、はい、まぁ……」

「いいんじゃねーの? 俺らは別に気にしねーし」

「ふーん……そういうこと言うんだ。うりうり。お前ら誰の味方なの? 言ってみなよ、ん?」

「あっ! ちょっ! 晃さんやめっ」

「晃姉ちゃん止めろって! 味方とかじゃねーし、勝手に俺らを巻き込むなよ! 辰巳さんもコイツなんとかしてくれよ!」

「それは無理。大人しく生贄になってくれ」

「アンタの女だろぉ!!」

「違います」


 晃が鬱憤を晴らすかのように輝と湊にくっつき、ほっぺをムニムニ引っ張っている。他にも戯れている際に不意にオッパイが押し付けられたりで……年頃の男子には年上女性の色香は辛そうだ。しかも晃は肌の露出が多目だ。輝と湊は嫌がっているのか恥ずかしがっているのか……抵抗できずにされるがままだった。


「方丈さんも今日はよろしくね」

「……別に私はよろしくするつもりはないけど」

「そんなにツンケンしないで欲しいかな。折角皆で遊びに行くのだし、《《わざわざ》》雰囲気を悪くすることはないでしょう?」

「は、見た目は良い子ちゃんだな……來良が言ってたけど、本当に胡散くせー」


 結衣さんが晃に声を掛けた。結衣さんは流石に大人の対応だが、晃は機嫌の悪いまま。二人がそんなやり取りをしていると、他の面々が緊張と興味半々くらいの様子で見ていた。


「おいおい……せっかく遊びに行くんだから喧嘩しないでくれよ……」


「だってさぁタツ兄、この女が──あ?」

「辰巳くん、私は喧嘩なんて。彼女が──む……」


 お互い言葉が重なって一瞬睨み合ったのを見てると頭痛がしてきた。


「……輝、湊、美鶴ちゃん。昨日も会ったと思うけど、結衣さんと繭子ちゃんだ。今日一緒に行くことになったからよろしくな」

「よろしくね、3人とも。今日ははしゃぎ過ぎて怪我しないようにね」

「よろしくね〜」


 結衣さんと繭子ちゃんも続けて挨拶する。


「よ、よろしくお願いします」

「しゃーす」

「……」


 輝は緊張気味なのか若干挙動不審なまま頭を下げた。湊は砕けた様子で返し、美鶴ちゃんはただペコリと黙礼したのみだった。


「輝は中学二年って言ってたから、繭子ちゃんと同じだっけ?」

「あ、そうなんですか? なら同い年だね。よろしくね、輝くん」

「よ、よろしく」


 繭子ちゃんから向けられた笑顔に輝は顔を赤くしながら俯く。その横で湊が呆れた顔をしていた。輝は大人の女性はともかく、同年代の女子に対する免疫が少ないのかもしれない。


「……輝、キモ」


 ……そして、美鶴ちゃんはやはり辛辣だった。


 とはいえ繭子ちゃんもアイドルばりに可愛い子ではあるから、仕方ないと言えば仕方ないのだが……繭子ちゃんなら自分の容姿を分かってて、わざとからかいそうなイメージがあった。


 繭子ちゃんを見れば……案の定、彼女は猫のような目で輝を眺めて楽しんでいるようだった。


 ──互いに挨拶も済ませ、そろそろ出発という頃になった。車に荷物の積み込みも終え、あとはみんな乗り込めば出発できる。


「じゃあ婆ちゃん、行ってくるよ」

「いってきまーす!」

「あぁ、気をつけてね」

「お婆ちゃん、行ってくるね」

「御婆様、お邪魔しました」

「あぁ、またおいで。アンタたちも気をつけてね」


 座席であるが、結衣さんが運転し、俺が助手席。それには晃が反発するかと思ったが、湊が暇潰しにゲームを持ってきていたようで、晃共々二人でゲームに夢中になっていた。二人は一番後ろの席。


 残る三人が真ん中の席に座るが、繭子ちゃんは間に美鶴ちゃんを挟みつつ、輝と会話しながら誂って遊んでいるみたいだ。美鶴ちゃんは二人の会話には興味がないのか話を振られても素っ気ない。


「じゃあ、出発するよ?」

「あぁ。よろしく、結衣さん」


 そんなこんなで俺達はレジャープールに向けて出発したのだった──。


 □


 車でのドライブの道中は快調。窓から見えるどこか見覚えのある景色がどんどん変わってゆくので飽きることはない。


 会話も弾んだ。後ろ席では繭子ちゃんが都会での暮らしの事を輝に聞いたりしていて、たまにこちらへ質問が飛んでくる。


「繭子ちゃんも将来は都会で暮らしたいとか思う?」

「う〜ん、憧れますけど……それよりは先生の手伝いがしたいので資格を得るために都会の学校には行くつもりです。それくらいですかね」

「学校?」

「うん。神社関係の資格を取るための大学があるんだって。私もそこに行ってみたいなぁって思ってるんだ」

「へぇー。神社のこと専門に勉強する場所があるんだ」


 輝君は繭子ちゃんの言葉に耳を傾けながらうんうんと頷いている。


「輝くんはどうなの? 将来目指してるものとか」

「ぼ、僕? 僕はそうですね、パパ──父さんみたいに弁護士になりたいって思ってるよ。あとは……母さんは高校生になったら経験のために留学してみたらとかも勧めてくるけど……」

「留学! すごーい! どこに行くの?」

「え? そ、そうかな? ……へへ……どこに行くとかはまだ決めてないんだけど、知らない場所にいってみるのって何だかワクワクするよね!」

「……家では嫌そうな顔してた癖に。ニヤニヤして、キモ……だからフラれる」

「ちょっ、みつるっ」

「あはははははっ」


 後ろの席で間に挟まれている美鶴ちゃんがポツリと言ったのが聞こえた。そんな盛り上がる声を聞きながら俺は結衣さんに小声で話し掛けた。


「──そう言えばなんだけど……結衣さん地域の伝承とかに詳しいよね? 結衣さんに聞きたいことがあったんだ」

「え? 私に答えられることだといいんだけど……」


 レジャープールに到着する前に一旦結衣さんに龍神信仰のことを確認しておくことにした。


「理由は後で話すけど、ちょっと御山周辺に伝わってる龍神についての昔話とか知ってたら教えて欲しいんだ」

「龍神……龍神かぁ。あぁ、そういえば知ってる民話があるよ」


 結衣さんはそう言うと、フフと笑う。それから、まるで何処かの噺屋のように流暢な口調で語り出した。


「こんな噺があります」


 ──『月隠山の龍神池』


 月隠山の頂には広い湿原があり、その真ん中に「龍神池」と呼ばれる池があった。

 この池は見た目こそ浅く澄んでいるが、一度落ちれば、どんな泳ぎの達者でも二度と岸へ戻れない──そう伝えられていた。


 ある年、何日も雨が降り続き、山から流れ出る水で川があふれ、麓の村が水に呑まれかけた。

 そのとき、村の一人の若い娘が家を抜け出し、雨の中を山へと登った。

 娘は昔から不思議な夢で池に住まう龍に呼ばれ続けており、そこへ行けば村を救えると信じていたのだ。


 厳しい道のりを越え、何とか龍神池にたどり着いた娘は、冷たい雨に打たれながら祈った。


「どうか、どうか、村をお救いください」


 すると池の水が渦を巻き、白銀の鱗を持つ龍が現れた。

 龍は娘をじっと見つめると、一息で山を覆う雨雲を呑み込み、谷川の水を吸い上げた。

 水害はたちまち収まり、村は救われた。

 そして娘に告げた。


「我が加護を受ける代わりに、この池を守れ」


 娘はうなずき、村の人々は感謝して龍神を祀り、池を聖域とした。そしてそれ以来、村では水を濁さぬ禁忌が定められている。

 ひとつ、龍神池に手足をいれること。ふたつ、石を投げ入れること。みっつ、周辺で声を荒げること。禁を破れば龍神の怒りが嵐や熱病となって降りかかると恐れられた。


 やがて娘は人々の前から姿を消したが、迎え盆の夜明けの時間、霧立つ池に龍の背に乗った娘の影が映ることがあるのだという。

 村人たちはそれを「龍の霊迎え」と呼び、今も池を聖域として伝えている。


「──私は写真でしか見たことないけど、山頂付近には湿地帯が広がっていて大小沢山の湖沼があるらしいね」

「あぁ。山頂まで行ったことがあるっていう父さんに俺も聞いたことがあるよ」


 曰く、足場の悪いガレ場や沢、万年雪のある雪渓を越えてゆくと、山頂付近には別世界が広がっていると。


 山の標高の高い場所では高山植物が自生し、低層では見慣れない花々が咲き乱れている。遠く一面に広がる高層湿原や幻想的な池塘。頂上からは遠くの連峰や下界の様子が遥か彼方まで望む事が出来る。


 そこは現実とは思えない、まさに想像上のあの世や浄土に近い風景が広がっている場所があるのだとか。


 結衣さんのいう大小沢山の湖沼というのは、父さんの言っていた池塘のことなのだろう。


「えぇ! すごいね! 私も何度か試しに登ろうとはしてみたんだけど、体力も運動神経もないから……遭難する前に途中で諦めちゃった」

「ま、まぁ簡単には行けない場所だって言うし、無理はいけないよ……」

「修験者とか慈眼寺の僧侶の修行場になってたくらいだからね。私には無謀だったかな……」


 結衣さんは苦笑いを浮かべていた。


「──少し気になったんだけど、その民話に出てくる禁忌って御山の上にある龍神池についてだよね? 大体の人は頂上まで登ることなんて出来ないと思うんだけど何で態々定めたんだろ……」


 禁忌、それはつまりは『ひとつ、龍神池に手足をいれること。ふたつ、石を投げ入れること。みっつ、周辺で声を荒げること』──の部分。


「あぁ、それはね──確かに聖域としての龍神池は御山の上だけど、月隠山から流れる雪解け水が伏流水になって下界で湧き出る湧水池になってる場所があるの。慈願寺の敷地内にある池、知らない?」

「え? 慈願寺の池? それはまぁ知ってるけど……」


 慈願寺の境内にある池。確か、縄が張られて実際に立ち入ることは出来ないが、観光スポットになっている池があった筈だ。


「あそこも龍神池って呼ばれてるんだよ。御山の龍神池と慈眼寺の龍神池は湧水で繋がってる。だから、村で定められた禁忌の対象はどちらかと言うとお寺の龍神池の方なんだと思う」

「へぇ! なるほどなぁ。湧水池か……確かに綺麗な水の池だったしな」

「龍と仏教も深い関わりがあるし、慈願寺が池を汚すと龍神が怒ると禁忌の噺を広めた可能性もあるね。それに、畏れは信仰の一部。人は畏れ、崇め、その存在に帰伏しながら超常の力にあやかることを願う。龍神池があることでお寺も信仰を集められる利点があったんじゃないかな」

「へぇ」


 結衣さんから聞いた話は興味深かった。聖域と人の営みの境界、そこに禁忌という習俗が存在している。その禁忌が地域の人々に龍神の存在を強く印象付けるとともに、規範として信心深さや地域の連帯を育てたのだと言う。


「ただ、この噺の面白いところは禁忌だけでなく、もっと古い根源的な伝説も含まれてること。『龍の霊迎え』がそうだね。この時期、低地の池で霧が立つことなんて考えにくいから、この部分は山の上にある聖域としての龍神池の伝承を意味してるんだと思う」

「民話の中に新しい部分と古い部分が混ざってる?」

「そうだよ。前に言ったっけ? 民話は地域の古老達が何代もの子どもを楽しませながら教育し、話を洗練させていったって。それはつまり、語り口が徐々に変化していったってこと。子どもたちを楽しませるために新しく付け加えたりしてね」


 結衣さんの話を聞きながら、腕を組んでうーんと考え込む。


「……婆ちゃんから昔話は聞いたことないけど、ウチには龍神信仰が残ってるみたいなんだよね。龍神の掛け軸が飾られてて、お供え物もしてある」

「あ、やっぱりそうなんだ。部屋を見た時にもしかしてって思ったんだ。月隠山周辺の古い家では龍神を祀ってるって話を聞いたことあったから」

「婆ちゃんは曽祖父に大事に祀るように言われてたらしい。いつからあるのかは分からないみたいだけどね」

「そうなんだ……でも、そういうものだよ。そういうのって少しずつ意味とか理由とか……習俗そのものだって忘れられていくものだと思うし」


 結衣さんは柔らかく、どこか寂しげに微笑みながら言った。


「それでも──由来を知らないものがずっと祀られ続けてるって、つまりそれだけ畏れや敬いが代々人の意識の根底に伝えられてきた証だと思うの」


 人は未知が存在する時には畏れを感じるもの。例えば生と死、此岸と彼岸、人里と山海。慣れ親しんだ此方側と『境界』の向こう側にある『何か』に対して。人はそこに畏れを想像し、生活の中に禁忌や習俗という様式を形作った。


 そういう積み重ねが、龍を神という存在に押し上げているのだと──結衣さんは言った。


「……なるほど」

「──あとはそうだなぁ……さっきの民話だけど、視点を変えると少し怖い見方も出来るんだよ」

「……怖い、というと?」

「それはね──娘が龍神に捧げられた《《生贄》》だって見方」


『生贄』という単語に思わず結衣さんの方を凝視してしまう。


「え、えっと……辰巳くん、どうかした?」


 俺が結衣さんの方を見ていると、彼女は運転に注意を払いながらも俺の様子が気になっているのかチラチラと伺ってくる。


「あ、あの……何か気に障るような事言っちゃった……?」

「あ、いや……ごめん」


 そうだ。結衣さんは、美鶴ちゃんの事情をまだ知らないのだった……夢に龍が出てくることも、友だちだと思っているということも。それに勝手に噺の中の娘と美鶴ちゃんを重ねて見ているのは俺の方だ。


「その……確かに怖い見方だと思ってさ」

「そ、そう? ごめんね。変な事言ったみたいで……」

「そんなことないよ。それで?」

「う、うん。……えっとね、噺の中ではその娘の願いが聞き届けられた事で龍神が水害から村を救ったとしているけれど、実際には村の人たちが水害を鎮める為に娘を犠牲にしたんじゃないかという解釈もあるの」


 結衣さんは運転をしながら語る。


「昔から人は自然災害を神の怒りと捉え、生贄──《《人身御供》》することで怒りを鎮めるように祈った。龍神池に娘の魂の影が映るっていうのは……池に身を捧げた、その隠喩の名残なのかもね」


 人身御供……嫌な響きだった。


 結衣さんは噺の語り口は変化すると言っていた。彼女の認識では噺の中の『やがて娘は人々の前から姿を消した』の一文は、『人身御供として池に身を投げた』と同義なのだろう。


 結衣さんは知識も豊富で頭も良いが、どこか悲観的で……しかし、それでいて淡々と語るその表情に暗い影は何ら見えない。まるで人とはそういうモノだと捉えているように。


 そのあたりが、彼女自身がサイコパスだと、知られれば嫌われるかもしれない本当の私、と自称する所以なのだろうか。


「……」

「月隠山周辺に伝わる龍神信仰の成り立ちについては諸説あるみたいだし、必ずしも私の考えが正しいって訳じゃないと思うけど。ただ……その娘が噺の通りに自ら龍に願ったのか、それとも村人に人身御供として捧げられたのか……それだけの違いでも随分と物語の見え方が変わってくるよね」

「……確かに」


 小さく相槌を打ちながらも、俺の胸の奥にはモヤついた感情が残っていた。結衣さんは二つの可能性を上げたが、気になる視点はもう一つある──それは《《龍神が果たして生贄を望んでいたのか》》、ということ。


(龍に願った娘と、娘の願いを叶えた龍……それは龍神信仰の原点かもしれない。婆ちゃんは命に関わるような祟りはないと言っていたけど──もしも龍に望まれた生贄だったとしたら?)


 美鶴ちゃんが口にした友達のドラゴンという言葉と重なって、嫌な連想を呼び起こす。美鶴ちゃんも物語の中の娘と同じく夢に龍を見ている。もし彼女が龍神に選ばれているのだとしたら……


 連れて行かれてしまうかもしれない──考え過ぎなのだろうが、そんな最悪な結果を思い浮かべてしまう。


「……その龍の名前は伝わってるのかな?」

「名前? そうだなぁ……龍神池に住むって言われてる龍だったら確か──」


 ──速秋津淵青主ハヤアキツフチアオヌシ


 と、結衣さんはそう答えたのだった。

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