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番外 民俗備忘録 奥滝の絡新婦

 伊豆半島を南へ下るタクシーの窓から、里中真澄は流れる山肌を眺めていた。まだ三月の終わりだというのに、木々の梢は新緑にけぶり、春の気配がそこかしこに息づいていた。


 運転手が何気なく呟いた。


「今日は天気がいいから、滝も綺麗でしょうな。浄蓮の滝。よう知られてますけどね、あれは表の顔で……」

「裏も、あるんですか?」


 何の気なしに問うたはずだった。だが運転手は、ルームミラー越しに真澄をじっと見てから、失敗したとばかりに急に仏頂面になってぽつりと漏らした。


「……奥に行った女は、戻ってこないことがあるんですわ」


 その言葉の意味を問う前に、タクシーは停車した。


 今回の調査に同行するのは、同じ大学のゼミ仲間である女性三人──日高、緒方、田島。いずれも民俗学を学ぶ者で、それぞれの視点で「女にまつわる怪異」を卒業研究のテーマに据えている。


 真澄はその中でも特に、『女しか喰わない妖怪』に惹かれていた。


「本当に来ちゃったね、浄蓮の滝」


 日高が笑いながら言った。彼女は都市伝説系に強く、怖い話を収集するのが趣味だった。


「でもさ、ここ観光地じゃん。怪異にまつわる話なんてあるのかなあ」

「観光客に見せる顔と、本当に隠したいものは別よ」


 田島が低く言う。地元の伝承を深掘るのが得意な彼女は、あらかじめ役場や資料館で記録に『載らない伝説』を調べていた。


「奥滝のこと、調べた?」


 緒方が声を潜めて言った。その単語に、真澄の心がわずかにざわめく。かねてより調査していた『絡新婦伝承』に記された、ある記述を思い出す。


 ──奥滝ニ、女近ヅクベカラズ。声ナク、糸引ク女アリ。


 地元では秘され、外に語られなくなったその場所。大学の先生の紹介で訪ねた古老の家は、ひっそりとした谷あいにあった。


 杖を突いた老人は、真澄の問いに対して、しばらく黙していたが、やがて口を開いた。


「絡新婦、言うのか。あれはな、女にだけ喰いつく化けもんだ……」


 うっそりとした声だった。


「男は見えんらしい。だが、女は見る。声を聞く。糸を手繰られる」


 真澄は黙ってメモを取った。だが老人は、顔を顰めた。


「やめとけ。調べりゃ、引かれる。糸は目に見えんが、心に絡む。特に、お前みたいな女は……」


 その『お前みたいな』が、どういう意味か、真澄は問うタイミングを逃した。調査の終わり際、古老はぽつりとこう呟いた。


「奴はな、喰うんじゃない。病ませるんだ。心をな。喰われるより、おっかねえぞ」


 その夜、真澄はひとり、旅館の薄暗い廊下を歩きながら、ふと手帳を開いた。かつて同じテーマを研究していた大学の先輩が残していった手記。そこにあった最後の言葉が、手帳の片隅にボールペンで書きつけてある。


「水面に、わたしがいた」


 意味の分からない言葉だ。ページの余白に、真澄は少し考えて書き足した。


「絡新婦は、女を祟っている?」


 遠くで、滝の音が聞こえた気がした。その音は、木々の葉擦れの音にも、何かがざわめく声にも似て、しばし真澄を眠らせてはくれなかった。


 §


 翌朝、空はやや霞んでいた。花粉が混じる春の風が杉林を揺らし、鳥の鳴き声がかすかに響く。真澄たちは観光客の目を避けるようにして、浄蓮の滝から外れた登山道へ足を踏み入れた。


 手にする地図は、田島が市役所から借り出した昭和初期のものだ。現在の地図には載っていない、もう一つの滝──『奥滝』と呼ばれる場所が、かすかな輪郭で記されていた。


「こっちの踏み跡、獣道みたいだね。……でも、滝の音? が聞こえる」


 緒方が振り返って言う。その声音には、明らかに緊張が混じっていた。日高は肩で息をしながら後ろから続いている。空気は冷たいが湿った空気のせいか、みんな額にうっすらと汗を浮かべていた。


 やがて、一同は木立の向こうにそれを見た。


 岩肌に這うようにして、細い滝が落ちている。浄蓮の滝のような豪快さはない。ただ、まるで誰かが絶え間無く涙を流しているような、静かで湿っぽい水の流れ。


「……あれが、奥滝?」


 田島が小さく呟いた。誰も返事をしなかった。全員が、そこに立っていた『何か』に目を奪われていたからだ。


 ──滝壺の縁に、背の高い女がいた。


 赤い胴抜き。濡れた黒髪。手には、細くほとんど見えないような透明な糸を巻いた巻き枠のようなものを持っている。

 顔は、見えない。ただ、静かにこちらに背を向け、何かを手繰るように、糸を引き続けていた。


 風が吹いた。女の髪がふわりと浮き、その首筋の青白さがちらりと見えた刹那──


「ね、ねぇ、帰ろ」


 緒方が震えた声で言い、背を向けた。日高も無言で足を踏み出す。だが真澄は、一歩だけ前に出ていた。なぜか目が離せなかったのだ。その女が、何かを呼んでいるように思えた。


 いや──違う。引いているのだ。


 糸の先には、私? それとも他の誰か? 不意に、滝の轟音が耳の中で大きくなったように感じた。頭の中を掻き回される感覚に襲われそうになり──


「真澄、早く!」


 緒方の声に我に返り、真澄はあわてて踵を返した。


 山を下りるまで、誰も何も言わなかった。まるであの場で声を出すことが、何かを確定させてしまう気がして。旅館に戻った後も、みな無口だった。


 その夜──真澄は夢を見た。冷たい水音。涙を流すような細い滝。滝壺の鏡のような水面に、誰かが映っている。


 自分だ。水面に、わたしがいた。


 けれど、水面に映る自分の顔は、どこかおかしかった。目元が異様に黒ずみ、焦点が合っていない。口元は笑っているのに、目は泣いていた。不思議に思っていると、知らず自分の口から言葉が出た。


「わたし、誰に裏切られたんだっけ?」


 何故口にしたのか、その意味もわからない。けれど、心臓が強く脈打ち、耳の奥で水の音が膨らんだ。


 ぱちり、と目を覚ました。布団の中、息が乱れている。スマホを手に取る。午前三時過ぎ。通知はなかった。……水の音が、まだ頭の中で響いている気がした。


 ……いや、確かに、何かが聞こえている。


 すぐ隣の部屋、緒方が泊まっているはずの部屋から、その何かが壁越しに伝わってくる。微かな声。笑っているような、泣いているような。


 真澄は立ち上がり、そっと襖に手をかける。襖の向こうから、はっきりと声が聞こえる。


「ごめんなさい、私が……私があの子を、殺した……」


 襖の向こうから、はっきりと声が聞こえた。


「ごめんなさい、私のせいで……」


 声は途切れ、嗚咽に変わった。それは紛れもなく緒方の声だった。真澄は凍りついた。殺した? 一体誰を? 


 襖の取手に手を掛けようとした次の瞬間、緒方の部屋の襖が突然バンッ! と叩かれるようにして大きく揺れた。そして──沈黙。


「緒方さん?」


 真澄は震える手で襖に手をかけ、ゆっくりと開いた。部屋の中は暗かった。灯りは消され、カーテンの隙間から微かな月光が差し込んでいる。中央には布団が敷かれているが、緒方の姿はない。


 代わりに──床に落ちていたのは、一枚の紙きれだった。それは真澄が昼間手に入れた古い本の民話を書き写した一部。消えかけたその文字列が、ぼんやりとした月明かりの中で浮かび上がっていた。


『奥滝ニアル女ノ事』

 当村ノ名家ニ嫁シタル某女ハ

 村ノ女衆ニ妬マレ裏切ラレ

 トウトウ村ヲ追イ出サレタリ

 最期ノ刻 女ハ呟キリケリ

「女ハ女ヲ許サヌ。ナレバ私モ喰ラウダケ」

 ソノ後 村ニ現レタル赤装束ノ女郎

 手ニ持ツハ生糸ニ非ズ

 心ノ弱イトコロニ忍ビ入リ

 綻ビヲ絡メトリケリ

 逃ゲル術ナシ


 緒方はこれを読んでいたのか。真澄はそう思った。ふと、部屋の奥にある古い鏡台に目を留めた。その鏡面には──自分が映っていた。いや、正確には別のものが重なって映っているように見えた。


 顔は同じ。しかし表情が違う。卑屈に微笑みを浮かべた『もう一人の自分』が、その唇を動かした。


『逃げられないよ』


 §


 ──朝が来た。だが真澄は昨日のことがあって、あまり眠れていなかった。他のメンバーはどうだっただろうか。食堂に向かうと、日高と田島の姿があった。二人とも青ざめた顔をしている。


「……いたか?」


 日高が小声で尋ねてきた。真澄が首を振ると、田島が低く言った。


「緒方さん、どこ行ったんだろう」


 昨夜以降、緒方の姿を見た者はいない。荷物もそのまま。警察に届けようという意見も出たが、田島が首を横に振った。


「……待って。あの場所のことをどう説明する? 幽霊に連れて行かれたって? 大学で変な噂が立てば……」


 真澄は朝食を食べながら考えていた。あの女が絡新婦と呼ばれる存在なのだろうか? 


 いや、もうひとつ気になることがある。「女ハ女ヲ許サヌ」というメモ書き。そして弱い心の綻びを捉えて絡め取るという内容。


 その伝承を聞いたせいか──あの女を見てから真澄自身の中の、とある記憶が疼き始めていた。


 高校時代の親友、美咲。華やかで聡明で、常にクラスの中心にいた彼女に、真澄は密かに憧れていた。同時に、羨望も嫉妬も抱いていた。彼女のように上手く生きられない自分に対する苛立ち。そして、ある日を境に……。


 真澄は箸を置いた。胸の奥で何かが蠢く。忘れていた感情が引きずり出されるようだった。


(私は──美咲を憎んでいた?)


 昼過ぎに旅館を出た一行は、再び奥滝へと続く道を歩いていた。もしかしたら奥滝に緒方がいるかもしれないと思ったためだ。だが、真澄達の足取りは重く、ずっと頭の中に響く声がある。


『逃げられないよ』


「……やっぱり行かないほうが良かったんじゃないか」


 日高が震える声で言った。緒方の失踪によって、一行は何かがおかしいと感じていた。田島は黙って首を横に振った。


「行かなきゃわからない。昨日見たのが何だったのか」


 歩きながら真澄の心はぐらぐらと揺れ、頭の中では高校時代の記憶が鮮明に蘇っていた。


 美咲。あの完璧な笑顔。あの明るい声。「一緒に帰ろう!」と誘われた日、真澄は嬉しくてたまらなかった。


 しかし、何時しか美咲は別の友人と楽しそうに笑うようになっていた。真澄が声をかけようとすると、二人は何かを囁き合い、くすっと笑う。それは悪意のある嘲笑に感じられた。あの瞬間から、美咲との距離は広がった。


 そしてある雨の日。図書室で勉強していた真澄の目の前に、美咲が現れた。


「これ、落としたよ」


 差し出されたのは、真澄が大切にしていた文庫本。しかし表紙が破れていた。「私じゃないよ」美咲は憐れむような顔をした。


 でも、真澄にはわかっていた。彼女はわざとやったのだ。あの目がそう言っていた。その本を投げ捨てたくなるほどの衝動に駆られた。


 そんな記憶が次々と湧き上がる。心の奥で封印していた感情が溢れ出し、呼吸が苦しくなる。真澄は立ち止まり、肩を震わせた。


「どうした?」


 日高が心配そうに寄り添う。


「……私は……」


 真澄は震える声で呟いた。


「美咲を──」


 §


「──そこに奥滝はもうなかった」


 その後の話になるが、真澄たちが辿り着いた場所は、かつて滝と滝壺があったであろう場所に変わり果てていた。岩が崩れ落ちたのか、滝は止み、そこにはただ薄っすら湿った地面と、緑の苔だけが残されているばかり。あの静かで悲しげな水の流れの面影はなく、空間には奇妙な静寂が漂っていた。


「地元の住民に詳しく聞いてみると、奥滝と呼ばれた場所は既にもう何年も前に枯れているらしい」


 奥滝にいたはずの絡新婦の姿もなく、彼女はどこへ行ったのか。いや、そもそも彼女が人間であったのかさえ確信が持てない。夢か幻か、あるいは現実だったのか。だが……真澄の脳裏には未だに、あの赤い胴抜きの姿が焼き付いて離れない。


「私達が見たものは何だったのだろうか」


 奇妙な経験だったが、真澄は今回の調査で得られた話を研究としてまとめることにした。あれから緒方の行方を探してみたものの分からないまま。風の噂では夜の街で目撃したとも聞くが……


 他の日高と田島二人も大学を辞めて連絡がつかなくなったり、ゼミに来なくなったりしていた。


 あの日から──何かがズレ始めていた。


「奥滝の絡新婦──それは女の肉体を喰らうのではなく、女に憑き、女の精神を狂わせるという怪異」


 それよりもまずは奥滝に関する資料を整理しなければならない。そうしなければならない。伝えなくてはならない。そうでなければ、なんの為に……


「元々は奥滝と呼ばれる神秘的で玄妙な『何かがありそうな』だけの場所に、過去の事件が結びついた。その後に地域内で起こった幾つかの事件の原因として祟りが語られるようになり、何時しか『奥滝の絡新婦』という民話の形を取ったのかもしれない……」


 §


 数ヶ月後。春が終わり、初夏を迎えた頃。真澄は論文を仕上げた。タイトルは『女と女を繋ぐ怪異の民俗学的研究~絡新婦伝承の一例について~』だった。


「奥滝」での出来事は詳細に書かなかった。ただ、『女同士の怨念や嫉妬にまつわる怪異』という概念を中心に、日本各地で発見された類似の伝承と比較しながらまとめ上げたのだ。論文の最後に、こう付け加えた。


『その怪異は、現代においてもなお、女性同士の関係性の陰で息づいているのかもしれない』


 完成した原稿を教授に提出した帰り道。疲れた真澄はふらりと立ち寄ったカフェでコーヒーを飲んでいた。ガラス越しに見える街の風景がいつもよりぼんやりしている。──その時だった。


「──久しぶりだね」


 背後から声がかかった。懐かしい声だった。驚いて振り返る。そこには──高校時代の親友だったはずの……二度と会いたくはなかった美咲かいる。


『逃げられないよ』


 ──心は、既に憎しみに捕らわれていた。

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