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第30話 怒りの相 後編

 だが──


「──とでも言っておけばいいのか?」

『……あ?』

「絡新婦はどうにも人形遊びが好きらしい。俺はいつまでつまらない一人芝居を見ていればいいんだ? 見てるこっちが恥ずかしくなってくるぞ……」


 やや呆れを滲ませた辰巳の冷徹な声が、醜悪な幻想を斬り裂いた。その断定には微塵の逡巡もない。


「俺の知っている晃が他人に触れられてあんな素直になる筈がない……晃はもっと反抗的で、我が強い。暴れるくらいはするだろうしな……俺を騙したいと思うなら……もっと人を観察してからにするんだな」

『……なんじゃと?』


 辰巳の言葉に絹喰の表情がピクリと動いた。それから何だと言われてもな、と辰巳は続けた。


「見せられた幻術の程度が低い。晃は表情を作れないのに、何で幻影に表情を付けたんだ。気づいていなかったのなら観察不足だし、表現出来なかったのなら単純に力量不足だろ。そもそも無表情のまま雰囲気を出せないと思ったのなら、役者としても脚本家としても三流じゃないか」

『なっ……』


 本人じゃないのがバレバレだと──絹喰がそのいいざまに言い返せずに閉口した。辰巳の言葉が的確すぎる為だろうか。あまりの酷評に、凌辱されていた晃や男達も動きを止める──そこに辰巳の足元から発生した炎が津波となって押し寄せ、晃や男達を丸ごと呑み込んで焼却した。それは辰巳が背負う智火によるもので、幻影は跡形もなく消え去る。


「ただよぉ……俺を怒らせようって意図なら、上手くいったのかもな……見てて確かに腹が立った……晃を虐めんなよ……怯えて可哀相に……俺の弟分──いいや、《《大切な存在》》を傷つけるってなら容赦はしねぇ。これ以上、巫山戯た真似するってんなら……本気で討滅すんぞ」


 今の今まで堪えていた辰巳の表情は静かに、しかし内に秘めた熱量は計り知れないという怒りの形相に変わっていた。それは晃に見せていたような怒りに耐えるものではない、辰巳の正真正銘の憤怒の相。まるで明王を彷彿とさせるように鬼気迫るものだった。


 背負う炎は辰巳の内なる怒りに反応して猛り荒れ狂う。纏う気は世を畏怖させる嵐の如し。もはや絹喰の命運は尽き……行き着く先は討滅のみ。それ以外の結末はあり得ないと、そう想起させる。


 その怒気に気圧された絹喰が、有り得ないとばかりに辰巳を憎々しげに睨み据えた。


『ふ……ふざけるなぁぁぁ!!! ──よくも……よくも人間如きが大妖たるこの妾をコケにしてくれたなぁ!!! その傲慢な態度、万死に値する!!!』


 対する絹喰の顔にも壮絶なまでの怒りが現れ──その激昂に呼応するように禍々しい瘴気を迸らせながら咆哮する。そしてその瞳の白目までもが妖しく黒化し──辰巳を呪殺せんとばかりに睨めつけた。


『──旦那さまよぉぉぉ!!! 貴方がいけないのですぞ?! 大人しく妾に服従し、女を返せとむせび泣いて懇願していれば良かったものを……!!』


 そう吐き捨てる絹喰は全身から悍ましいほどの瘴気を噴出し、山門前の空間を埋め尽くしていく。その濃密でドス黒い霧のようなそれは、まるで生ある者全てを祟り呪ってしまいそうなほどの悪意を孕んでいた。


『この上なく忌々しい……! 聞いておるのかこのボンクラがっ!! どこまで妾を馬鹿にするつもりじゃ……!!』


 絹喰が金切り声で叫ぶも、辰巳の一心は乱れることなどない。苛立ちに満ちた叫びは、その実──あまりにも焦慮に満ちた咆哮。辰巳には精々が虚勢を張った声にしか聞こえていなかった。そして、辰巳が絹喰を微塵も恐れる様子を見せないことで遂に爆発した。


『このっ……恥を知らぬ下等生物がァァッ!! 妾を誰と心得ておるかぁ!!!』


 絹喰が吠えた瞬間、その花魁のような着物の中から長い八本の脚が飛び出した。それは黒と黄の縞の入った蜘蛛の脚。黒曜石のように輝く外骨格は硬質な光沢を放ちつつも生物的な丸みを持ち合わている。


 その八本の脚が絹喰の身体を高く持ち上げ、宙に浮かせた。絹喰は凄絶な笑みを浮かべたまま、更に異形へと変わってゆく──。額が割れ、新たに6つの黒い眼を表出させる。着物の中からは八本の脚の根本となる胸部、そして丸々と太った腹部を露わにさせ大きく大きく膨らませていった。


 絹喰が節くれ立った長い脚に支えられて慈願寺の大きな山門を上り、頭上に陣取る。その姿は上半身は花魁のように妖艶な女性、下半身は黒と黄色の八本の長大な脚、腹部には警戒色の赤の縞模様の入った腹部を持つ巨大な絡新婦という……異形の出で立ちであった。


 その大きさは脚の長さを入れれば山門を丸々と抱えるほどで……悍ましく巨大な絡新婦はその長大な脚を不気味に蠢かせる。


『妾こそ! 伊豆国が天城連山! 浄蓮の滝の主なるぞぉお! 貴様など八つ裂きにしてくれるわぁぁあぁぁ!!』


 その甲高い叫び声とともに──長く鋭い右の第一歩脚が唸りをあげて突き出される。


「──ッ!」


 瞬間、辰巳の身体が反射的に回避に動く。右の第一歩脚に続いて左の歩脚も辰巳へと伸び、その長大な槍の突きのような鋭い連突を順々に避けてゆく。そのまま石畳を蹴って加速し距離を稼ごうとするが──


『おっと……寄るでないわぁぁっ!!』


 交互に放たれる追撃の突きを跳躍して躱す。そして身軽に後退する事で一端体勢を立て直した。


『この華麗なる脚捌きを何度も逃れようとは……くひっ……旦那さまぁ、念のため聞きまするが──妾の婿となる気はありませぬかぁ? 大事に、大事に嬲って死の間際まで可愛がってやりますぞぉ?』


 巨大な蜘蛛が山門の頭上から下品な笑い声をあげて挑発してくる。その脚捌きは確かに洗練されており一流の武芸者のようでさえあった。だがしかし──


「──黙れ、阿婆擦れ」


 それに対して辰巳が返したのは一言のみ。それを絹喰はどうでもよさそうに鼻で嗤い飛ばし、再び右の第一歩脚で串刺しにしようと突き出した。


『そうですかぁ! それは残念ですねぇええ! せっかく飼ってやろうと思っていましたのにぃいい!!』


 その高速で突き出された歩脚に対して──辰巳はギリギリまで引き付けてから、横移動で避ける。歩脚が寸前まで辰巳がいた空間を穿ち──


「ドラァッ!」


 掛け声と同時に鋭い拳撃を歩脚に叩き込む。拳が歩脚に直撃すると強固な外殻はその衝撃に耐えきれずに、硝子細工のように砕け散り──内側の肉ごと抉り削った。


『うぎゃあああああっ!?!? 妾の脚っ! 脚がぁあぁぁぁ』


 凄まじい衝撃に悶えながら絹喰が絶叫する。その痛みに悶絶し、砕けた脚からは黒い液体が撒き散らされ、絹喰の動きが鈍くなる。


「どうした、まだまだこんなモノじゃねぇだろう?」

『うっ……ぐぅ……おのれ……おのれぇえぇ!! 妾の美しい脚を……ユるサヌ……ユルサヌゾォ……ニンゲンンン……!!』


 痛みと屈辱に絹喰が悪感情に満ちたその黒々とした眼を向け……砕かれた歩脚を自ら切り離すとすぐに新たな脚を生やす。


『コドモタチヨ、オイデエェエェェ!! チカラヲ、カシテ チョウダイィ……!!』


 山門上から絹喰の咆哮が轟き渡り──同時に背後の闇から湧き出るように子蜘蛛がワラワラと現出し始める。それらは絹喰に食われた縁繋と同じ、拳大くらいの大きさでしかないが……その数は数百から千を超えるかもしれなかった。


 それら子蜘蛛は母蜘蛛である絹喰の腹の背に乗ったり、山門から糸を垂らしたりしている。子蜘蛛の群体は悍ましく、蠢く様はまるで黒い波か、壺の中の蟲毒のような光景であった。


 そして──そのすべてが絹喰と同じように黒い瞳で辰巳を捉えていた。


『ヤツヲ……コロセエェエェ!!』


 絹喰の怨嗟の呻きが山門前一帯に響き渡った。それを合図にして、無数の子蜘蛛達が一斉に動き出す。まるで津波のように山門を下りては石段を伝い降りて辰巳に襲い掛かる。


「チッ……」


 無数の蜘蛛がなだれ込む。その波は異様さもさることながら、凄まじい嫌悪感と危機感を催すのだが──辰巳はその大群の中へと自ら飛び込んで行った。


「──そらァっ!!」


 子蜘蛛達の群れの中へと自ら飛び込む──それは正気の沙汰ではないとしか思えない行為。しかし……辰巳は臆することはない。


 ──背に負った智火が荒れ狂う。


 一歩地を踏み締める度に不浄を焼き尽くす火が子蜘蛛達を薙ぎ払い──それだけに留まらず、そのまま群体丸ごと炎波が呑み込む。ゴウゴウと音を立てて燃え盛る業火の中で──幾百の子蜘蛛達が簡単に灰燼に帰していく。


「──フンッ!!」


 気合い一声。咆哮を上げ、踏鳴──地を踏み鳴らすと同時に、地中から吹き出るように幾つもの火柱が立つ。そして火柱に呑まれた子蜘蛛達は次々と溶けるように燃えて滅され──ただの霊気として世界に還っていった。


 しかし、それでも火の柱によって塵となった蜘蛛は全体のごく一部。数の暴力──子蜘蛛の群れは未だに増え続けており、この数ではいずれ飲み込まれてしまう可能性もあった。


『アァアハハァアッ!! 愚カ者メッ! ソンナチャチナ炎デ全テ消セルトデモ思ッテイルノカッ!? マダマダイルゾッ! モットオイデエェエェェ!』


 まだまだ余裕といった様子で哄笑を上げる絹喰が再び子蜘蛛を呼び寄せた。子蜘蛛の数が増えれば増えるほどに辰巳と絹喰の距離は開いてゆく。


「鬱陶しい……さっさと……晃を返しやがれ……!!」


 辰巳が怒りの形相で吼えた。



 □



 ──闇。どこまでも続いていると思えるほどに深い……深い闇だった。


 目を開いても閉じても変わらない漆黒。音もなく、温度もなく、ただ無限に広がる虚無が晃を包み込んでいる。ここには何もない。光も希望も、そして温もりも。


(寂しい。一人はいやだ。誰も私のことを分かってくれない……)


 晃は膝を抱え、体を小さく縮こまらせた。彼女が最後に覚えているのは、辰巳の真っ直ぐな瞳と、絹喰の妖しく囁く声。そして自分の心が蝕まれていく感覚。それはまるで自分の意思とは裏腹に、奈落へと落ちていくような感覚だった。


『主さまよ……お前さまは一人じゃ。誰からも必要とされておらぬ孤児……』


 絹喰の声が闇の奥から聞こえてくる。手招きするような、甘く、残酷な響き。幻想ではない言葉によって自己の傷を再認識し、それが自分の本質であると思いこんでゆく。


 あぁ、やっぱりそうなんだと──その先には破滅があるのに、苦しむと分かっているのに、闇に堕ちてゆく不思議な安心感がある。言葉が晃の心の最も脆い部分を容赦なく抉り、広げようとする。まるで悪魔の囁きのように、彼女の孤独を肯定し、自己否定を刷り込んでいく。


(そうだ……私は独りだ……家族もいない……仲間なんている意味がない……皆離れてく……裏切る……私を置いて行く……)


 頭がおかしいといわれるようになった日々の記憶が蘇る。竜養寮の仲間でさえも晃が心の病気であると腫れ物に触るように扱い、気を遣っているようでいながら実際にはどこか遠巻きにしていた。晃にとって、その光景が深い傷となっている。仲間だと思っていた皆が皆、面白がるように、嘲笑するように、憐れむように晃を見ていた場面が。


『主さまは誰からも愛されぬ……お前さまを拾ってくれた養母も死んだ。きっと拾ったことを後悔したろうなぁ……何せ、お前さまのせいで死んだのも同然じゃからのぅ』


 晃を庇って死んだ。大妖を封じる為に命を捧げて。晃の孤独感と無力感が増す。心が沈む。沈んでゆく……深い深い闇色の水底へ。息がつまる……苦しい……辛い……呼吸も出来ていない気がした。それはまるで水圧に押し潰されるかのような心地。身動ぎしても、藻掻いても、何の意味もない。ただただ、無抵抗に光の射さない深海の闇へと堕ちてゆくような……


 そんな精神が苛まれ喘ぐように苦しんでいる最中でも──心の中にずっと残っていて……ふと、脳裏に浮かんでは縋りたくなってしまうのが辰巳の存在だった。


 幼い頃の自分に安心感をくれていた存在。大好きな人。神隠しでいなくなって、でもずっと再会出来る日を待ち望んでいた。そして、辰巳は帰還し、晃と再会を果たした。だが──


(タツ兄も結局は私から離れようとしている……)


 胸の奥がズキンと痛む。辰巳が自分を見捨てたわけではないことは頭ではわかっているはずなのに……パートナーに選ばれないことが、家族になれないことがどうしても受け入れられない。


『所詮男など……女を道具のように扱い捨てる生き物。あれもまた、そういう類いの奴よ……信じるなど愚かというもの……』


 辰巳への期待と不信が入り混じる。心の支えだった人でも、やはり自分を裏切るのではないかという恐れ。自分は辰巳からも必要とされていないのではないかという諦観。様々な負の感情が湧き出してきては心を絶望に染め上げてゆく。


『ホホホホ……主さまの心は傷ついておりますな……そうでなくては妾の復讐も意味がないというもの……愛らしい主さまの絶望が妾を癒してくださる……』


 絹喰がクツクツと嗤い、晃の心を弄ぶ。その声は晃の心を囚え、毒のように蝕み少しの希望さえも奪い去ろうとしていた。


(タツ兄……)


 心が擦り切れてゆく。涙が溢れるが、暗闇の中に吸い込まれてはどこかへと消えていった。私はこんなにも弱い、私はどこで間違えたのだろう──無力感と悲しみに支配され……思考も次第に麻痺してきていた。


(全部……全部……消えてしまえばいいのに……)


 意識が曖昧になり始める。自我が闇に溶け込むような感覚。それでも心のどこかでは、まだ助けを求めていた──


『──晃』


 その声が聞こえ、晃はびくりと肩を震わせた。闇へと呑まれ掛け、薄れていた自己を認識する。


『──俺はお前の味方だ。これからもずっと』


 それは間違いなく辰巳の安心する声。遠くから響くように、しかしそれは確実に晃の心に届いていた。──しかし、それと同時に絹喰の疑う声も聞こえている。


『そんな言葉を信じるのかえ? 今まで同じ言葉を吐いた者がどれだけいた? どれだけ裏切られてきたのかを、もう忘れてしまったと?』


 頭を振って疑念の言葉を否定する。


『──俺が全て受け止めてやる──お前の気持ちを全て俺にぶつけろ。お前に過ちなどさせはしない』


 身を縮こまらせながら耳を澄ます──幻聴かと思ったが……しかし、再び聞こえたその声は明瞭で、力強く、確信に満ちていた。闇の中で感じる唯一の憧憬の光。


 手に入れたい。諦められない。愛したい、愛されたい。家族になりたい──そんな生きる希望にもなり得る心からの欲求。そして、それは晃を悩ませ、苦しめている渇愛でもあった。


『所詮は口だけ。ぶつけた処で何になる。相互理解? 助け合い? 互いの成長? ──主さまには無理じゃよ。それは互いの信頼の上に成り立つ関係だからのぅ』


 ……全てを信じることなどできない。辰巳の言葉が心を照らそうとも、隅には不安や猜疑心が残っていて……どうしても過去の傷や孤独感を消すことなど晃には出来なかった。光が遠退く……再び深い闇の底へ沈んでゆく……


(あぁ……そう……やっぱり……私なんか……誰も……)



 ──カランカラン……カラカラカラン……


 再び塞ぎ始めた晃に、唐突に聞こえてきた不思議な音色。それはなんだったか──遠い記憶に聞き覚えがある気がした。そう……それはまだ子どもだった頃、よく見ていた明晰夢の中で聞いた珊瑚の風鈴の音色に似ていた。


『──かなさんどー、あーきー。ぬーがあてぃん……』


 それに、久しく聞いていなかった夢の中の女性──母の声も。その言葉は優しく、溢れんばかりの愛が詰まっている。あなたは愛されているのだと。この先、どんな事があろうとも母の愛は不変であると。どうか忘れないでという意志が、その言葉には込められているような気がした。


 夢とも現とも判然としない闇の中。母の声が聞こえたということは、此処は晃の心の中でもあるのかもしれない。記憶の一欠片──だが、その声は闇に呑まれようとしている晃を確かに救った。愛が闇を退け、心に仄かな熱を伝えて希望を持たせたのだから。


『主さまを捨てた者の言葉など何故聞く必要がある! 信じるに値せぬ!』

『──晃を虐めんなよ……怯えて可哀相に……俺の弟分──いいや、《《大切な存在》》を傷つけるってなら容赦はしねぇ──』


 そして──夢と現の《《境界を越えて》》、現実の辰巳の声が闇に囚われた晃にまで聞こえてくる。その言葉は鋭く、真っ直ぐに晃の心に突き刺さる。ドキリ、と思わず心臓の鼓動が早く、強くなる。


(嘘だ……嘘だ……)


 否定しようとすればするほど……その言葉は晃の中で意味を増していく。彼女は必死に耳を塞ごうとするも──辰巳の言葉はあまりにも真っ直ぐで揺るぎない。それは嘘偽りない辰巳の想いであった。彼女が求め続けたものそのもの。晃はずっと辰巳の特別になりたかったのだから。


『聞いてはなりませぬ──!』

『──これ以上、巫山戯た真似するってんなら……本気で討滅すんぞ』


 再び聞こえた辰巳の声には耐え難い怒りが宿り、一方で滲むような優しさもまた感じられた。そして何より危険を冒してでも晃を助けようとしているという事実──それは『大切な存在』である事の証として、晃にとって何よりも強い心の支えになる。


(タツ兄……タツ兄は……私を大切だって思ってくれてる……?)

(大切な存在……)

(大切な……)


 その言葉が何度も何度もリフレインされる。辰巳が自分を必要としている。その事実に、晃の心が震えた。晃の芯に熱が戻ってきて──心の奥底に澱んでいた念が溶け始める。その太陽のように眩しく暖かい熱によって。


『──さっさと……晃を返しやがれ……!!』

(タツ兄……! 会いたい……! タツ兄のとこに行かなきゃ──)


『何を言って──主さまには居場所など──行っても無駄──この闇こそが主さまの──』


 諦め悪く呪縛の声が聞こえていたが、晃はもう気にも留めなった。


『晃……!!』


 ──呼んでいる……強い感情の込められた声にハッとして、晃の目に光が戻る。かつての天真爛漫な子どもだった時のような頑固で、でも純粋な明るい光が。その光は闇の中にあって尚強く存在を示し──晃は声を目指して闇の中を浮上してゆくのだった。



 □



『──フン……』


 辰巳の咆哮に対して絹喰が鼻で笑う。その表情は酷く不機嫌で悪意に満ちていた。


『……主サマヲ返セトォ? 主サマハ闇ノ中……ソコデ絶望ニ浸ッテオル。旦那サマガ イクラ喚コウトモ届キハセヌ。マァ──旦那サマノ命ガ終ワッタ後……妾ガ直接死ンダト教エルノハ吝カデハアリマセヌガナァ』


 絹喰が口の端を歪めて、クツクツと嗤った。その態度に辰巳は眉を顰める。


 辰巳と絹喰の距離は離れている。そして絹喰の周囲には無数の子蜘蛛達。数の上では圧倒的に不利。そして、絹喰に近づくには、まず子蜘蛛の包囲網を突破しなければならなかった。


「ぬかせッ!」


 晃は絹喰の闇に呑まれて以降、無事が分からない。早く救出しなければと──辰巳が焦りからか事を急き、絹喰を討つべく捨て身の体で死地へと飛び込んだ。


 絹喰に向かって一直線に山門までの道を駆け上がる。子蜘蛛達を全て無視して突破し、山門上に陣取る絹喰の腹部に致命の一撃を叩き込もうと跳躍した。


『オット……サセヌゾ!』


 だが、対する絹喰も甘くは無い。瞬時に反応し、長い第一歩脚を活かした攻めが宙を舞った辰巳を襲う。鞭のような叩きつけ──半身となり掠めるように過ぎ去った脚が強かに地面を叩き、戻ってゆくのを見た。


「ちっ……」


 それに間を開けずに伸びてくる鋭い突き──身を捩るように掻い潜るがあまり余裕は無い。その黒と黄の長い脚を踏み場に、再度跳躍──絹喰の前へと躍り出る。そこで、一撃を叩き込もうとした。しかし……


「てめぇ……!」

『ホホホホ──ドウシタ? 主サマヲ助ケタイノジャロゥ?』


 人型の名残を辛うじて残している絹喰の上半身──その腕の中には先程闇に呑まれた筈の晃がいた。その晃を盾のようにして前面に抱えていた。


「困ッタコトニ、闇ノ中カラ出テキテシマイマシテナァ。妾ノ言葉モ聞カズ……全ク、生意気ナ主サマヨ」

「うぅっ……」

「晃……!!」


 見せつけるように晃の首を絞め、苦しそうな声が漏れ出た。辰巳がその様子に動揺を見せ──絹喰はその隙を見逃すことなく追撃した。


『ホレ』

「がっ……!」


 異物を払い除けるような動作──咄嗟に身を固めたものの、身体の前に構えた腕に鋭い衝撃が走る。その威力は想像を絶するものであり、辰巳の体は元の位置まで大きく弾き飛ばされたのであった。


『ヒャッヒャッヒャッヒャッ! コレハドウシタコトカ! サッキマデノ威勢ノ良サハドコヘ行ッタノヤラ。主サマガ居テハ打ツ手無シジャノゥ?』


 辰巳が苦悶の声を漏らしたのを聞き逃さず、絹喰が追い打ちをかける。


『ソレ、子ドモタチヨ。今ジャ、ユケイ』


 子蜘蛛達が辰巳の後を追うように一斉に宙を舞い、地を駆け、張った糸を渡り──地へと足を着いた辰巳に襲いかかろうとした。


「──っ、智慧の火よ。遍く障りを退け給え」


 物量任せの攻め──その多くは辰巳の行使する荒れ狂う智火によって焼かれ、簡単にその身をただの霊力へと還元してゆく。


 しかし──辰巳に向かって飛び込んだ子蜘蛛の内の一匹が迎撃の隙間を突破し、辰巳の身体に到達した。


 その子蜘蛛がしたのは、鋏角を突き刺して麻痺毒を流し込むでも、自慢の糸で拘束しようとするでも無く、ただ辰巳の片足に輪を作った糸を括り付けただけ。そして糸を括り付けると、子蜘蛛はすぐに智火に燃やされ世界に還った。


 ──だが、それこそが絹喰の狙いであったらしい。


『ヨウヤッタ』


 絹喰が恐ろしげな笑みを浮かべ、既に残滓となった子蜘蛛を褒める。それから自身の歩脚に括られた一本の糸──辰巳の足へと繋がっているそれを手繰り寄せ、ビッ!! と一本釣りのように勢い良く引いた。


「っ!!」


 瞬間──辰巳の身体が引っ張られる。その引く力は凄まじく、抵抗など意味をなさない。何が起こったのかもわからないまま宙高く放り上げられ……反動で地面に叩きつけられそうになる前に──咄嗟に足に括られた糸を焼き切った。だが、地面に叩きつけられることこそ回避出来たものの、身体は空に打ち上げられる形となり、その体勢は無防備となってしまっていた。


『ムゥ……惜シカッタガ……逃サヌ』


 蜘蛛の糸に引かれたことで、幸か不幸か絹喰との距離は縮まった。そこで再び繰り出される鋭い槍のような刺突……それを辰巳はタイミングを見計らい、身を捻って空中で回避を試みる。紙一重──何とか直撃は免れたものの、体勢が悪く完全には避けきれなかった。鋭い爪が辰巳の脇腹を掠め、抉り取られ、赤い血が舞った。


『アヒッ……ハヒャハハハハハッ! 無様ッ! 無様ジャア! ヤハリ妾ノ方ガ一枚上手ッ! ヒャッハッ、ハハハハハ!!』


 そして、それも絹喰の指示だったのか、子蜘蛛の群れが重力に従って落下してくる辰巳を待ち構えており──栞糸を出したまま辰巳へと次々と襲いかかる。


「っ!」


 辰巳は振り払おうと応戦するものの……多勢に無勢。加えて、ベタベタと粘り気のある蜘蛛の栞糸が手脚に絡みついて行動を邪魔した。


 ──それ故に、その隙に予想外の方向から打ち出された一撃を回避することは至極困難であった。


『クタバリヤァ!!』

「……ガッ!!」


 その叩き下ろしは子蜘蛛諸共、辰巳を狙って放たれた。辰巳の肩口から腹部にかけて痛みが走る──歩脚の脚先にある鋭利な鉤爪によって線を引くように斬り裂かれ、鮮血が辰巳の身を覆う衣服を汚す。


 それに追い打ちを掛けるように強かに薙ぎ払われ……辰巳の身体がまるでバットで打たれたボールか人形のように跳ね飛ばされた。


『コレニテ終イヨ!! 主サマハ妾ガ確リト躾ケ、面倒ヲ見ルデノゥ……! 安心スルガ良イゾ──何セ久方ブリノ玩具ジャ。身モ心モ、襤褸布ノヨウニ擦リ切レルマデ嬲リ倒シテ、可愛ガッテヤロウ……!!』


 放物線を描くように辰巳の身体が飛んでゆき──暗い空から地に落ちてゆく最中、耳障りな戯れ言が聞こえた。


『マズハソノ手始メトシテ……旦那サマノ骸ノ前デ、主サマノ心ニ深イ絶望ヲ刻ミ込ムトスルカノ? ソウヨ──旦那サマノ前デ慰ミ者ニデモスレバ従順ニナリ……サゾ美味ナル絶望ガ生マレルデアロウナァ!』


 下劣な嗜虐心を口に出し、悦に浸る声に腸が煮えくり返る。


『──嗚呼……ダガ、妾ノ受ケタ屈辱。万倍ニシテモ到底足リヌ。ナレバ……主サマダケデナク、ソノ子々孫々ト、妾ガソノ行ク末ヲ見守ロウゾ!! 主サマノ子孫ガ幸福トナル事ナド許サズ……絡新婦ニ呪ワレタ血筋トシテ、絶望ノ泥ニ浸カリ苦悩ノ中デ世ヲ恨メバイイ……!』


 汚泥のようにドロドロとした怨念と執着。そんな呪縛に囚われた未来をいったい誰が受け入れるというのか。その口上に対し……怒りを超え──憤怒、憎悪、殺意の念が心の底から噴き上がった。


『ヒッヒッヒ……ソレニソノ毒ヲ受ケタ女モナ、残念ダノ? 結局ハ助カラン。ソノ女ニハサシテ興味モアリハセヌガ……妾ノ下婢トシテ、無聊デモ慰メテ貰ウトシヨウカノォ──ホホホホホホ』


 絹喰が山門上から哄笑している。辰巳や晃、結衣に至るまでを虫ケラの如く見下して。無意識下に身体が反応する。落下する途中で《《空中》》を蹴り、身体を一回転。地面から夜空に向かって風が巻き上がった。その風に乗るように、重力を感じさせることなく軽やかに着地した。


 遠く視線の先には未だ絹喰に抱き竦められている晃の姿。ぐったりと力が抜けている。苦しそうに呼吸しているが、生きていることが分かり一先ず安堵する。だが、その顔色からは疲労と絶望の影が伺えた。


 または──荒く息をする結衣。絹喰の子蜘蛛である縁繋の毒を受け、意識を失ったまま横たわっている。夏だというのに、その雪のように白い肌が青褪めて見えるほど苦しんでいる。すぐに対処しなければ一刻の猶予もない。


 当の絹喰は状況を楽しみつつ既に勝った気でいる。今も──辰巳を甚振り、その屍を見せて更なる絶望を晃へと与える算段をつけているのだろう。晃の心を壊し、傀儡として手中に収めようという画策。そして……その悪意が結衣にまで向いていることも癇に障った。ギリ、と歯を噛みしめる。


「──許せネェ」


 ──意識が塗り替わる。山門の頂へと向けたその双眸は文字通り、殺意によって紅く炯々と光芒を放ち……絹喰への敵愾心を剥き出しにしていた。守りたいと思った者たちが害されると想像すると……激情の炎が心を支配して抑えきれない。堪忍袋の緒などとうに切れていた。


 その殺気の奔流に周囲の空気がビリビリと振動し震え上がっていた。


『ハッ──? ナ、何ジャ……何ナノジャ、ソノ眼ハ……』


 眼下から感じる異常な殺気に、絹喰がソレを認識した。その視線を受けた絹喰が得体のしれない畏れを感じたのか哄笑を止め、表情を強張らせる。


 そして見た──辰巳の額に、先程までは無かった第三の目が、額を縦に割るようにして浮かび上がり……赫赫と不吉に輝くのを。


 その《《燃えるように赤い三つの眼》》に射竦められ、絹喰はまるで心臓を握られているかのような心地になっていた。異形の徴となっている三番目の眼とは、仏教においては神性や叡智、悟りの象徴ともされるが……その姿は異様に過ぎる。


『何者ジャ……オ主ハ一体……一体、何者ナノジャ……!!』


 畏怖。戦慄。恐怖に震える声で絹喰が叫んだ。だがソレは何も答えない。静かに佇んだまま山門の頂に在る──絹喰を見据えるのみ。


『マサカ──』


 ──はと、と思い出す。そのような存在について、長く生きてきた絹喰には覚えがあった。手を出してはならぬ存在の一つ。強大な力を持ち、現世と異界の境界に住まう者──眼下にある異様な存在を映す黒い目には明確に怯えの色が見え、その声は震えていた。


『ヒ、ヒヒ……ソウカ、オ主……──既ニ……人ヲ捨テテオッタカ』


 そして、その正体に気づいてしまい──後悔した。目の前の存在が元より『人間』とは異なる存在であり、自身が手を出してはならない領域に知らず踏み込んでいたことを。永きを生きた妖である絹喰よりも格上の存在であると感じ取るのが遅れたことを。


 ──唵 摩訶 波羅尼留蜜多 和舎縛爾帝 羅闍 三摩耶 發吒 娑縛訶

 ──唵 有摩那天狗 数万騎 娑婆訶 唵 毘羅毘羅欠 毘羅欠曩 娑婆訶


 ソレの喉から発せられる低い声が夜気を震わせた。呪言を終えた瞬間──それの背後に渦巻いていた智火が爆ぜるように膨れ上がり、空間そのものを焦がすかのような熱量を帯びる。


 膨れ上がる炎に夜が煌々と照らされ、背負う智火が剣を象る。それは炎の剣であり、かの明王の化身──ただそこに在るだけで空間を浄化し、振り祓えば魔は断たれる智慧の剣。


 辰巳の形をした異形が火で象った倶利伽羅剣を肩に担ぐように構えた。


 そして──まるでそこに道でもあるかのように《《空》》を蹴って吶喊。その勢いは正に風の如く。その疾走を何人なんぴとたりとも遮る事能わず。


 壁のように並ぶ子蜘蛛の軍勢へと肉薄し、前方から雪崩のごとく押し寄せる黒い大波を、纏う大風の気で吹き飛ばす。塵芥のように宙を舞う小蜘蛛たちを容易く置き去りにした。


『ヒ、ヒヒ……明王ノ権能ヲ我ガ物トスルトハ……傲慢ジャノ……上手ク人ニ化ケタ物ヨ……ダガ……忘レタ訳デハアルマイ……妾ノ腕ノ中ニハ主サマガ──』

「──オ前ラノ考エル事ハ、皆同ジダナ。斬ル者ヲ選ブクライ、造作モ無イ」


 ──とうとうソレが絹喰の眼前に躍り出る。絹喰の黒い八つの単眼に映るソレは、明らかに《《人の形相》》をしてはいなかった。


「──晃ハ返シテ貰ウ」


 そして放たれた火の尾を引く一閃──滅尽滅相。輪廻消滅。転生崩壊の理。


 宿業と因果の一切を断ち、輪廻を巡ることすら許さぬその一振りは……晃を傷つけることなく絡新婦だけを塵と消し──呆気なく六道の世から滅ぼしたのだった。

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