第3話 月隠山 資料館 8/5
夏の盛り。その昼過ぎの一番熱くなろうかという時間帯。ジージーと蝉の鳴く音が辺りに響いている。
陽炎。太陽に焼かれ、遠くに見えるコンクリートの道路がモヤモヤと揺らめいてみえた。
「あっぢぃ〜……」
生温いというよりはもはや息苦しく感じるような温風を全身に感じつつ、うだる暑さに辟易しながらも僅かばかりの抵抗として団扇片手に歩く。子どもの頃はこんなに暑くなかったと思うのだが、どうやら地球温暖化とかいうので毎年気温が上がってるらしい。おっかねぇなぁ……
古い建物や商店が建ち並ぶ大きな通りを抜け、途中で脇道に逸れればそこにはこれまた古い民家が軒を連ねている。いつだったか、自分が住む町の観光情報を旅雑誌だかパンフレットだかを覗いた時に、この風景を収めた写真を見た事がある気がした。
小径には枝分かれした長い階段があり、その内の一本を登ってゆく。階段の先ではだんだんと民家も疎らになってゆき、次第に畑やら雑木林が増え、道も荒くなってくる。その更に先、俺にとってはある意味縁深い地。神隠しが起こると噂されている場所である御山──月隠山つごもりやまがあった。
月隠山は標高1500メートルとそれほど高くないが、岩場が多く、山頂にまで登るには苦労の多い場所だと登山が趣味だった父さんに昔聞いた覚えがある。その為、昔から御坊さんが山に入っては修行していた場所とも聞いていた。それくらいには歴史のある山だ。
──御山の麓、眼の前に見える凝灰岩で造られた石鳥居の前で立ち止まる。
建立されてから途方も無い年月を経ているのか、苔むし、特に特別な管理もされていない様子で貫や束は失われてしまっている。近くに立てられてある看板には由来やら小難しいことが色々と書かれていたが、一言で言ってしまえば、どうやら国の文化財になっているくらいには貴重な代物らしい。
この石鳥居の奥へ奥へと伸びている石段の登山道は、月隠山の山頂にまで続いているらしい。
俺がこの月隠山に立ち寄っていたのには、ちょっとした理由があった。
□
慈願寺墓地──そこには石動家のご先祖様が眠っている墓がある。
ウチの菩提所でもある慈願寺は、単一の宗派にある巨大な寺院というよりは、幾つもの宗派の寺院の集合体とも言えるかもしれない。
仏教においては、山号という○○山△△寺みたいに名称が付くのだが、ここ慈願寺にも山号がある。
この山号とは、その寺院が位置する周囲の自然環境や地形に関連したり、仏教用語、修行にまつわる歴史的な出来事、背景や修行の過程から派生して名付けられるものらしい。
つまりのこと、要はここでは月隠山つごもりさん慈願寺となり、この月隠山の山内には慈願寺を成す幾つもの寺院があるということなのだ。
世間一般では、その幾つもある宗派の○○院やら○○坊と名の付く建物の集合を総称して慈願寺と呼んでいる訳だ。その集合を成す一つの院──静嶺院がウチが先祖代々お世話になっているお寺さんだった。
一つの寺なのに何で幾つも宗派があるのかって? それには慈願寺の成り立ちに由来があり、慈願寺自体が建立されたのが仏教宗派が出来る前のことらしいのだ。つまり、すんごく古い歴史のある寺院で、建立されてから寺の中で色んな宗派やら派閥が出てきたっていうことらしい。だから慈願寺自体を運営してる坊さんには宗派はあるけど、月隠山慈願寺としては宗派が統一されていないがために無宗派ということになっているのだとか。
とまぁ、ここまで全て婆ちゃんの受け入りな訳で、実際のところ詳しくは俺もよく知らない。こんな事言ったら門前町に住んでる癖に最近の若い奴は……とか近所の爺様婆様方に言われそうだが、此方の俺の知識は中学で止まっているのだから許して欲しい。
──話は戻って。
時は、太陽が登り始めたかという、比較的涼しさを感じられる早朝の時間帯。まだ早い時間ということもあって周囲に人影はない。ここに来る道中にあった門前町の店通りも、日中の活気を思えば未だ勢いを溜めているように思えた。
静かな門前町の脇道を抜け、慈願寺の本尊が祀られている本堂にまで続いている表参道の途中にある、古く巨大な木造の山門の手前。そこにある静嶺院に敷かれた墓地。ウチのご先祖様の眠る、石動家の墓はそこにある。
その日、俺は婆ちゃんに言われて、朝のランニングがてら石動家の墓掃除に来ていた。
まだ日はあるものの盆に向けて墓を綺麗にしておかないとご先祖様をきちんと迎えられないという訳だ。婆ちゃんが言うには午前中に済まさなければならないという話だったので、まだ暑くならない朝の早い時間帯にやってしまおうと小道具を携えてやって来たのだ。
「えーっと、まずは……」
婆ちゃんから持たされた掃除の手順についてのメモ書きを確認する……といっても、ただ手桶に水を汲んできて水垢やら土埃の汚れを丁寧に水洗いするだけなのだが。
「おはようございます、精が出ますね」
「はい。おはようございます」
花立やら水鉢を取り外し、墓石の上から下の方へ。順に水洗いしていっていると、背後から挨拶の声がかけられた。
そこにいたのは作務衣姿のラフ? な格好をし、竹箒を持った坊さんだった。格好を見るに、この坊さんも境内の掃除をしていたのだろう。静嶺院に勤める僧侶の一人なのだろうか? 石動家の菩提所とは言え、これまであまり僧侶と関わる機会もなかったので、俺はどんな人が静嶺院にいるのか全く知らなかった。
「石動家……ということは、花重かえさんのお孫さんでしょうか」
「はい、石動竜樹の息子の辰巳です」
花重、というのは婆ちゃんの名前だ。門前町に住んでるし、婆ちゃん自身檀家の集まりにもよく顔を出しているみたいだから眼の前の坊さんとは当然顔見知りということなのだろう。
「……竜樹くんの? しかし、竜樹くんの息子さんは……」
「……その、行方不明になってた張本人です、はい……その節は大変ご迷惑おかけしたようで……」
どうやら父さんのことも知っているようで、若干訝しげにこちらを伺う。非常に気まずい。眼の前の坊さんは俺が行方不明になっていた、ということも知っているようだ。
「なんと……本当に竜樹くんの息子さんでしたか。あの時は中々の騒ぎになったことを覚えています。私も御山の捜索に参加しましたからね……とにかく無事であったのなら良かった」
「はい、申し訳ないです……」
思っている以上に俺は周囲に迷惑をかけていたのかもしれない。いや、俺は神隠しに巻き込まれたのであって、全くもって俺のせいという訳ではないのだけど。
婆ちゃんに詳しく聞いた訳ではないのだが、当時は婆ちゃんの知り合いやら同じ町内の人、寺の関係者、警察関係者やら沢山の人が俺の捜索に参加していたみたいだ。……つまり、これから暫く俺はその人たちと顔を合わせる度に気まずそうにして謝らなければならない訳だ。……俺が悪い訳じゃないのに。
「いや、花重さんもお人が悪い。言いづらかったのかもしれないが、お孫さんが無事だったのなら隠さず言ってくれれば良かったものを……」
「は、はは……その、大変に申し訳ないです……ただ、祖母は俺が無事だったことはつい最近まで知りませんでしたので……」
婆ちゃんが知っていてもずっと言えなかった、というのは婆ちゃんの世間体にも悪いだろう。ここは俺が勝手をしていただけで、婆ちゃんはそれを知らなかったという話にしておくのが賢明かもしれない。それに実際に知らなかったので、嘘というわけではないし。
「……そうですか、何やら事情がありそうですね。そういうことにしておきましょう。あの時、貴方を捜索した人にもそれとなく伝えておきましょうか。気にしている人もいるでしょうし」
「すみません……」
「そう謝らなくてもいいのですよ。ただ、もうお祖母様やお母様をご心配させることはしないよう、これからは労ってあげてください。竜樹くんもそう望むはずです」
「はい……ありがとうございます……」
何とか、婆ちゃんの世間体は守られた? のだろうが、坊さんの言葉からは何やら意味深な雰囲気を感じる。
もしかしたら俺の失踪が何か事件性のものがあったのだと思っているのかもしれない。確かに大規模な捜索をしても見つからず、十ニ年も経った後に元気な姿でひょっこり戻ってくるとか、意味不明すぎて日本の現代社会の闇を感じてしまうような……
「でも、神隠しでなかったのなら良かった。……辰巳くんが神隠しに会ったと言われていた場所、あそこは以前から良くない噂がありましたから」
「あー。やっぱり、あそこで神隠しが起こると言われていたんですか?」
「……あまり大きな声では言いたくありませんけどね」
坊さんは苦笑いした。あまり大きな声で言えない、と言うことは口にしていないだけで行方不明者やら失踪者やらが他にも出ていたということなのかもしれない。
そして、それが寺院の近辺で出ているというのも、お寺さんの山号の由来となった場所としての評判的にもあまり良い話ではないのだろう。
「あぁ、ですが気にするほどのことでもないですよ。それ自体の噂の真相は実際には大したことないものですから。たまに誰それの顔を久しく見ていないという人が出てくると、今度は神隠しだ、行方不明だのと言い出す人が現れてくるのです」
「は、はぁ……」
「人と人との繋がりが薄れた弊害とでも言うのですかね。それが現実には長期の出張や転勤だったり、旅行だったりするだけな訳です。今回の辰巳くんのようにね」
いや、俺はマジもんの神隠しでしたけど?
眼の前の坊さんは非現実なことはあまり信じていない質らしく、神隠しの噂がたえないことに軽くため息をついた。やけに現実的で合理的に考える坊さんだ。というか、そういう姿を一応信者、というか檀家の家族に見せても大丈夫なのだろうか。
勝手なイメージだが、坊さんというのは、時に怨霊とか呪いだとかのオカルト地味た非現実的な現象への対処もするものだと思っていたので、その物言いには少しガッカリというか、坊さんと言えど普通の人なのだなと思った。
その坊さんだが、ふと思い出したことがあったのか、やや困った様子でポツリポツリと世間話のように話しだした。
「──しかし、噂というのは中々消えないものですね。私のお師さんもそうでしたが、地域の翁方があの登山道は常世に繋がっているのだとよく冗談で言っているせいもあるかもしれませんが……」
「常世?」
「おや、聞いたことありませんか?」
坊さん曰く、常世とは幽世、死後の世界、変わることのない永遠の世界、黄泉の国──そして、理想郷や異郷、浄土という、ここではない場所を意味して使われることがあるのだそうだ。
神隠しにあうという話はよく耳にするが、あの登山道が明確に常世に繋がっていると聞いたのはこっちに戻って来てから初めて聞いた気がする。
「古い話ですが、昔は山や海はそうした此処とは異なる世界に繋がっていると信じられていたのですよ。そして一度、常世に迷い込んでしまったら戻ってくることは難しい。そういう迷信があるのです」
「へぇ」
「──だからなのか、あの道は神話の黄泉比良坂にあやかったのか、夜見平坂と呼ばれていましてね……」
坊さんは、そう困ったように話した。
黄泉比良坂といえば神話など禄に知らない俺でも聞いたことのある名称だ。確か、神話では生者の住むこの世界と、死者の住む異界の狭間にある坂のことを言った筈。昔の人も月隠山が異界に繋がっていると知っていたのだろうか。
「……あの登山道に名前があったんですね。初めて知りました」
俺の知っているあの坂の向こう側の世界は此方と比べて、人が生きてゆくには厳しい世界だった。それこそ妖怪やらに生きた人間など食われて終わりだろう。死者の世界と呼ばれても何ら不思議ではないと思う。
昔の人は知っていたのだろう。あの坂を通って居なくなった人は帰って来ない。つまりは、向こうの世界は死者の国なので帰って来られない。向こうに渡った者は皆、死者となるのだと。
だから坊さんに、黄泉比良坂にあやかっているということは、昔からここらに住む人は坂の向こうに死後の世界や死者の国があると信じていたのかと尋ねてみた。
「え? あぁ、いや、うーん、それはどうなのでしょう。ただ、夜見平坂と呼ばれるから、その先が黄泉の国に繋がっていると信じられていたと合点するのは早計かもしれません」
「え、そうなんですか……」
しかし、俺の考えと坊さんの考えは異なっていたらしい。俺は黄泉比良坂イコール死者の世界との間にある場所と捉えていたのだが、実際の観念としては諸説あるらしい。
「実のところ黄泉比良坂という名称は日本神話や古事記の中では度々登場しています。黄泉の国との境界の話は有名ですが、素盞嗚命の治める地下または海の彼方や海の底にあるとも言われる世界……根の国との境界にもそういった名称は出てくるのですよ」
「へぇ、そうなんですね……」
「まぁ、黄泉の国と根の国が同一視されて、という事情もあるようですが」
「なら黄泉の国と根の国は同じなのですか?」
「あぁ、いえ、同一視されるというのは地下にある国だからだとか諸説あるという話です。他にも根の国は私達の祖霊──つまりカミの住まう国であるだとか、理想郷と言われることもあるので、死者の住む場所として描かれる黄泉の国とは別けて考えるべきですね」
「ええっと……」
「それに本来の有名な黄泉比良坂はこの地ではなく、別にあるとされていますから。ただ坂の向こうには、窺い知る事の出来ない世界がある。──そう昔の人は畏れを込めて、ヨミヒラサカと呼んだのだと思います」
「なるほど……」
つまりは、元を辿れば月隠山の登山道が夜見平坂と呼ばれるに至った所以も、異界に繋がっているという畏れや神聖視していたなどの事情はあれど、元々は死者の国に繋がっているという意味合いまでは含まれていなかったのかもしれないと。
だが、いつしか黄泉比良坂の本来の意味が混じり、月隠山の夜見平坂が死者の国との境である、と混同されるようになってしまったというのはあり得る話だという。
──確かに、俺のいた向こう側の世界は人外の存在こそ多かったが、死者の国と呼ばれるようなおどろおどろしい場所ではなかった。坊さんにそう言われて納得できることもあった。
「御坊さんでも神道には詳しいものなんですね……」
「この位は少し調べればすぐに分かる程度の内容ですよ」
俺が感心したように呟くと、坊さんは困ったように笑った。そして坊さんは、あの登山道に夜見平坂などという名前がついていることが、そうした神隠しやらの人が消える連想を抱かせる噂が一向に無くならない理由なのだと続けた。
加えて、昔からそういった未知の異界への憧れや畏れ、神隠しの迷信は存在していたが、一方で怖がりながらも面白がる風潮もあったのだと言う。それがいつしか地域のアイデンティティにまでなってしまった。なので、今更消そうと思って消せるものでもないのだとも。
「あの登山道の名称だけでも変えられれば良かったのですが、伝統ですからね……」
それから坊さんは、せめて名称だけでも変えられたらいいのにと願望を零した。参拝目的の観光客は表向き興味深気に面白がるかもしれないが、寺社としては定期的に人が消えるという噂は頭を悩ませる種なのだろうなとは思う。
ついでに言えば、坊さんは仏教寺院の所在する山なのに、神道由来の名称がついていることにも何となく気に食わなさそうだった。どうせなら三途坂とか彼岸坂なんてどうですかね、という言はきっと僧侶風の冗談だったのだろう。
夜見平坂という名称に、死者の国との境という認識はない、と言っていた癖に思いっきりあの世があるって意識してた名前だったけども。
「ははは、御坊さんでも冗談は言うんですね」
「ふふ。ちなみに冗談とは元は仏教用語で、修行に不要な雑談のことを言うのですよ」
あ、はい。そうなんですか。
……とまぁ、坊さんは何やかんや神隠しを否定していたが、やっぱり昔の人は御山の登山道がこことは違う世界に繋がっていると言うことを知っていたんじゃないのかなと俺は思った。
向こうの世界でも経験した事だが、迷信というのは意味の無いものも多いが、たまに重要な警句を残しているものもあるのだから。
「申し訳ない。少し立ち話が長くなってしまいましたね。もしももう少し詳しく知りたければ資料館を覗いてみるのもいいかもしれません」
「資料館……はい、こちらこそ引き止めてしまってすみませんでした」
気がつけば太陽は先程よりも上の位置に昇り、気温も徐々に上昇しているように感じた。
「いえいえ。では、お祖母様にもよろしくお伝え下さい」
しかし、なんかやけにフランクというか、人臭い坊さんだった。まぁ、坊さんとはいえども人間だし、悩み事の一つや二つあるものなんだろう。
確か資料館は月隠山の麓あたりにあった筈だ。気が向いたときに行ってみるとしようか。
□
早朝に行った墓掃除を思い出し──目の前の石鳥居を見据える。ここに至るまでの経緯を何となく回想したが、すぐにどうでも良くなって石鳥居の奥に続いている道を眺めた。
登山道の入口。石段の道に沿うように屹立した木々の隙間から差す木漏れ日や永い時を経て苔生した石畳が幻想的だった。石段は曲がりくねりながらも、奥へ奥へと続いている。
他にも、坊さんが言っていたことだが、その最奥である月隠山の山頂には慈願寺に属している無人の奥の院があるのだという。
昔、まだ俺が生まれる前、登山趣味の父さんは山頂まで行ったことがあったらしいが、途中から道無き道を登ってゆく事になるので一般の人にはだいぶ厳しいと聞く。
しかし──アップダウンの激しいガレ場、険しく危険な岩稜帯や途中の沢、雪渓を越えてゆくと、山頂付近には別世界が広がっているとも。
山の標高の高い場所では高山植物が自生し、低層では見慣れない花々が咲き乱れている。遠く一面に広がる高層湿原や幻想的な池塘に、頂上からは遠くの連峰や街の様子などは当然として遥か彼方まで望む事が出来る。そこは現実とは思えない、まさに想像上のあの世や浄土に近い風景が広がっている場所があるのだという。
それだけ聞くと登山客が景色目当てに押し寄せそうなものだが……登る人は登山に慣れた人が殆どだと言う。過去には、あまりにも道中の道が険しいっていうので、月隠山を挟んだ反対側の町にロープウェイを作ろうという動きが、まだ俺が子どもの頃にあった。その時の事は罰当たりだとか冒涜だとかで、婆ちゃんやら近所の爺様婆様方が激怒していたのでよく覚えている。
だが、やっぱりそれも観光地化による集客目当ての事業だったようで、慈願寺や他の月隠山周辺の町村から猛反発を食らって大人しくならざるを得ず、計画は頓挫したらしい。多分、反対側の町は此処のように観光客が近寄ることもないからやっかみとかもあったんだろう。
──今、俺が石鳥居を潜ることは無い。向こうに渡るための条件も、戻ってくる方法も分かっているが、もしもそれが間違っていて、また何かの拍子に向こうの世界に迷い込んでしまっては目も当てられないからだ。
それに今日は山登りをしに来た訳ではないのだ。本来の目的は今朝方、墓掃除をしていた際に話した坊さんから資料館には月隠山の歴史資料が展示されていると聞いたことにある。
故に、俺は今日も今日とて特に用事がなかったが為に、暇潰しがてら郷土資料館に行ってみようと思い至ったのだった。
「──すっげぇ、広い」
夜見平坂に到る石鳥居を通り過ぎて徒歩で暫く。そこにはモダンな綺麗な建物があり、それに併設されるようにして広大な駐車場が敷かれている。ここも慈願寺によって運営されている建物なのだろうか?
これを見ると規模のデカい寺社ってやっぱりスゲェ金持ってるんだろうなという益体もない考えが浮かんでは消えてゆく。そりゃ隣町がやっかむ訳だ。
「入館料……? たっかぁ……」
受付け入口に掲示されてある入館料を見て思わず心の声が溢れてしまった。多分、受付のお姉さんには聞かれていたと思う。ニッコリしてたし。恥ずかしい。
しかし、やはりと言うべきか、観光客からに対してはそれなりの額の入館料もきっちり取っているようで、ちょっと戦慄してしまう。幸いと言えるか分からないが、俺の場合は婆ちゃんから無料券を貰っていたので払わないで済んだ。地元特権という奴である。……金がないから本当に助かった。
資料館に足を運ぶのなんて、それこそ中学生以来だった。昔は勉強も好きでは無かったし、自身の住む町の歴史など興味すら無かった。
だが、神隠しという出来事に巻き込まれて初めて、少しは自分の生まれ育った町の事を調べてみようと思えるようになったのは成長したといえるのだろうか。
資料館の中は何処もかしこも清潔に見えて、真新しさが見て取れる。受付で貰ったパンフレットを見た限りでは、建てられてからそこまで新しいという訳でもなかった筈なのだが。恐らくだけど内装を変えたりして、維持にも金をかけているのだと思う。
道順に沿って展示物を眺めてゆく。其処にある多くのものは慈願寺の所蔵している仏像やら刀剣類といった什物、文化財にもなっている仏涅槃図やら釈迦説法図といった絵画だった。
俺自身は特に宗教関係には興味が無かったこともありボケっと眺めるだけであったが、見る人が見れば感動するような代物ではあるのだろう。
資料館に何で刀剣類があるんだとも思ったが、説明書きを読んでみると、どうやら時の戦国武将やら権力者が寺院との関わりが深かったみたいだ。多分だけど奉納されたとか寄贈されたとかの物が多く残っているということなのだろう。
武士とか侍という訳ではないが、俺も向こうの世界では切った張ったの仕事をしていたのだ。刃物を見ると触ってみたい、どれくらいの重さで、どのような切れ味なのか振ってみたいと興味を抱かざるを得ない。
ここに飾られているような美術品のような代物ではないが、向こうでは厚みのある大太刀を使っていた。折れず、曲がらず、切れ味もそこそこの剣鉈と刀の合いの子みたいな奴だ。向こうにも日本刀は存在していたが、悪鬼悪霊や妖怪には単純に図体の大きいものもいるので、それを倒すにはそれなりに頑丈な武器が必要だったので選択肢は多くなかったのだ。
今まで使っていた物からしたら展示されている刀は細くて折れてしまいそうな印象があったが、実際に見るとカッコイイなぁ、欲しいなぁ……と日本男児の心を擽られる。まぁ、仮に持っていたとしても使う機会はないので、仕方なくはあるのだけども。
「お……これは」
とある展示物の前で立ち止まる。そこには月隠山の全体図が描かれた絵画があった。山の頂上には慈願寺の奥の院と思われる建物の遠景が描かれており、その下には月隠山の縁起が書かれてある。
それは簡単に説明してしまえば、慈願寺や月隠山の歴史、それにまつわる逸話などを紹介したもののようだった。
□
「あっ、あの……ご、ごめんなさい、もしかして……い、石動くん、ですか……?」
慣れない長文をたどたどしく追っていると、背後から呼ばれ、何事かと振り向く。そこには長い髪を一本に結い、銀縁の厚い眼鏡を掛けた、どことなく陰気っぽく見える女性が立っていた。
「あっ、え〜っと……」
「か、神楽木です、石動くん。しょ、小、中で同じクラスだった」
どうやら相手は知り合いらしく、脳をフル回転させて眼の前の人物の名前を思い出そうとする。だが、見覚えはあるような気がするのだが、なかなか出て来なかった。
と、眉間を寄せ、言葉をつまらせている様子を見て、思い出せていないことを悟ったのだろう。眼の前の女性はショックを受けたように眉を下げると、気まずそうに乾いた笑みを浮かべた。
いや、見覚えはあるような気はしないでもないのだが……
「あ、あはは……やっぱり私なんかの名前なんて覚えてる訳ないよね……学校では殆ど話した事もなかったし……」
「……申し訳ない」
「……い、一応隣の席とか同じ班になったこともあったと思うんだけどね……?」
「マ、マジすか……ごめん、俺頭悪いからさ……」
いいよいいよ、私昔から話し掛けづらいって言われてるから……帰ったらアルバムでも見て確認してみてね、と目の前の女性──神楽木結衣さんと言うらしい──は仕方なさそうに言った。
しかし、本当に俺の記憶力ヤバいな……中学卒業してから十二年経ってるとはいえ、小中で隣の席が誰だったかなんて一人も覚えてない。それに神楽木なんて同級生いただろうか……いたような、いなかったような……それすら本当に思い出せない。珍しい名字なんで覚えてそうなものだけど。申し訳なくて仕方なくなる。
「い、石動くんは今日、一人で来てるの?」
「あ、あぁ、一人。ちょうど祖母ちゃんから券貰ってたからさ。少し興味あったし」
そうなんだ、と神楽木さんは呟くように言った。何だか妙な雰囲気のある人だ。顔色を見る限り、体調が悪いという訳でもなさそうだが、覇気が無いというか、語気に力がないというか……普通の人にはない影があるような感じだ。彼女自身、話し掛けられにくいというのは自覚しているらしいが。
「と、突然声かけて、ごめんね。石動くんのこと噂になってて、気になったから……その、ゆ、行方不明だった子が帰って来たって」
「ははは……そりゃ噂にもなるよな」
「こんな古いだけが取り柄の町で起きた大事件だったから……い、石動くんが知ってるかは分からないけど、当時はすごい騒ぎになったんだよ。学校にまでテレビ局の人が押し寄せて来たりして……」
「……その節は本当にご迷惑おかけしました」
俺の言葉に神楽木さんは困ったように曖昧に笑った。
「本当に──大変だったんだから」
やっぱり、周囲にはかなりの迷惑をかけていたみたいだ。
神楽木さんに聞くには、俺が遭遇した神隠しにより、当時は世間に行方不明の少年のニュースが流れたという。顔写真入りで。は、恥ずかしすぎる! そんなの帰って来る前に知ってたら、もう少し帰ることを悩んでいたかもしれない。
「テレビで見たことあるけど、石動くんのお母さん大変そうだった。皆が好奇の目で見て、マスコミにも根掘り葉掘り聞かれて……さ、最後には批判されるような記事まで出されちゃって……」
「……」
「あっ……ご、ごめんね、無神経なこと言っちゃって」
当時の状況を思い出しているのか、神楽木さんは眉を顰めていた。俺には当時の状況を推察することしか出来ないが、なかなか悲惨な状況だったらしい。
帰って来てからの母の俺への態度を鑑みるに、かなりの心労をかけたのだろう。そりゃもう思い出したく無いって思うのもわかる気がする……
「で、でも、元気そうで本当に良かった。月隠山の神隠しから帰って来れる人は本当に稀みたいだから」
微笑む彼女の、此方を伺う銀縁眼鏡の奥にある瞳が碧く見えた。底まで澄むような、深いアオミドリ。その宝玉のような円に惹き付けられるような気がした。
アレ? 何か違和感が。
「あ、あのね、回りくどいのは苦手だから聞いちゃうけど……石動くん、見えてる、よね?」