第24話 落日
「えへへ、兄ちゃんとツーショット〜」
数人での共同部屋になっている自室のベッドの上で。晃は先日撮ったばかりの写真をニマニマという締まりのない笑顔で眺めていた。
晃の眺めていた小さな写真には辰巳と晃が写っており、その中では二人とも顔を寄せて笑顔を見せている。
幸せな気分に浸り、飽きることなく写真を眺める。その写真を見ていると温かい気持ちになった。
ゴロゴロ、フワフワ、ソワソワ。感情の波は激しく晃を翻弄する。しかし、悪い気分ではなかった筈だった。その時までは──
「──アッちゃん……! アッちゃん! 晃ァ!! 何処だ!!」
「な、なんだ?」
「晃! ここにいたかっ…………いいか、冷静になって聞け」
「さっきから何だよ。何を聞けって言うんだよ」
「晃」
「何? 何なんだよ二人して?」
いきなり現れたのは官九郎と秀平。二人は晃に冷静になって聞けとは言うが、その二人こそが平静ではない様子を見せていた。
緊張で表情が強張り、動揺で視線が揺れている。それは明らかな異常事態を示していた。二人は……晃にとても大切な事を伝えようとしていた。それは晃を慮ってのこと。二人はここで伝え方を間違えたら取り返しがつかないことになると予感していた。
粗い息をつき、覚悟を決める。そして、真剣な面持ちで晃へと告げた。それはとても低い声だった。
「……辰巳が……辰巳が行方不明になってるらしい……ランニングに行ったまま、昨日から家に帰ってないって」
「は? ……冗談にしてもふざけ過ぎだろ。バカにしてんのか?」
一瞬呆けた後に、何を言っているんだという思いが湧き出てくる。冗談にしても悪すぎる。もしも自分がそんな冗談を言ったら烈火の如く怒る癖にと、晃は目の前の兄貴分二人に呆れの表情を滲ませた。
「晃」
「……なんだよ」
「俺らは大人達の捜索隊に着いていく」
「それまだ続けんのかよ……いい加減やめろって。俺を騙そうったって始めからバレてんだからな」
晃は二人の言葉など全く信じておらず、真剣に話を聞く様子など見せない。それもその筈、晃は件の辰巳には昨日も会ったばかりなのだ。昨日もいつも通り会話をして、いつも通り背中に引っ付いて、いつも通り安心感を補充した。
突然、頼りになる兄貴分であり、幼くも淡く恋慕う存在が居なくなったと言われて、はいそうですか、と素直に信じられる筈も無い。いくら馬鹿だ馬鹿だと言われて育った晃をして、騙されてやる謂れなどなかった。
「来い」
「いてて……そんな引っ張んなよ。力強ぇーって」
官九郎が緊張感のない晃に業を煮やし、苛立った様子でその腕を掴む。そのまま引きづるようにして寮のリビングへと連れて行った。
そこには寮の職員と僧侶達が数人集まっていて話をしている所だった。
「──参道入口近くの家の爺さまが、夕暮れ時に誰かが登っていくのを見たらしい」
「やっぱり神隠しなのか……ここ最近は出ていなかった筈なのに」
「えぇ……でも、まだ決まった訳じゃないでしょう。山の中で道が分からなくなって、ただ迷ってるだけの可能性もあります」
「それはそうだが……何でよりにもよって夕暮れ時に山に入ったんだ……まさか、《《誘われた》》のか。それじゃ、どうしようも……」
「兎に角、可能性はゼロではありません……昔は完全に向こうに渡ってしまう前に連れ戻せた事もあると聞きます。今は少しでも急がないと」
「くそ……よりにもよって子どもだぞ。この地の産まれは《《誘われない》》筈なのに、何で……」
「……あの子は石動の当代の孫で、育ちはこの地が長いですが産まれた場所は北の地にあると聞きます」
「石動の……!? 何てことだ……兎に角、管長に報告して今後の対応を仰がねば……」
ひそひそと話を進める大人達。生憎と、大人達は話が漏れないよう静かな声で話していた為、晃には話の内容はよく聞き取れなかった。しかし、ただならない雰囲気の様子に、何か重大な事態が起きている事だけは理解できたのだろう。深刻そうな空気で話している大人達を見て、晃の心の内に急速に不安感が広がっていった。
「……どういうことだよ」
唐突にゾッとするようなと嫌な予感が背筋を這い上がってきた。まだ春先ということもあってか、空気が妙に寒々しく感じられる。動揺するような声が晃の口からついて出た。
「官九郎、秀平、準備は済みましたか。5分後には出発し、急いで先に捜索に出ている皆と合流します。理解しているでしょうが、これは遊びではありません。……出発までの間に、《《すべき事》》をしておきなさい」
「……はい」
「……うっす」
背後から聞こえた声。晃が振り返って官九郎と秀平の二人をよく見れば、二人は長袖、長ズボン、軍手の装いで、合羽や水筒、行動食となる物、タオル、懐中電灯、警笛などが入れられたザックを確認している所だった。そこには普段の巫山戯たような態度は微塵も見当たらない。ただ淡々と、無駄口を叩くことなく確認作業を進めていた。
「え、あ、え?」
状況を飲み込めないまま、困惑しながら兄達と寮の監督者でもある僧侶の間で視線を行き来させた。
しかし、その態度も無理からぬ事。晃はまだ、何が起こっているのかよく理解出来ていなかった。まさか何かの間違いだ。こんな事、現実に起きるわけが無い。早く冗談だと明かしてくれと願っていた。
「そんな……嘘なんだよな……?」
だが、それは叶わぬ願い。官九郎も秀平も、その場にいる大人達も、皆が真剣だった。その姿を見て息を呑んだ晃は次第に怖くなってきたのか、動揺を露わにさせた。
「な、なぁ……た、たまたまとかじゃないのか? ちょっと家出したとかさ……兄ちゃん、よくおばさんのことムカつくって言ってたし……」
「……家出するのに俺らに何も言わずに? 何処に行くってんだよ」
「そうだ! 秘密基地に隠れてるとか!」
「もう見てきた。思い当たる場所は全部」
「…………」
あっさりと希望は打ち砕かれ、二の句が継げなくなる。晃へと向けられた二人の視線は真剣そのもので、その鋭さに晃は突き刺される思いだった。そして、それは晃のよく知る普段の二人の顔ではない。官九郎と秀平──二人にはあって、自分にはない《《何か》》に気圧された晃が、思わず一歩後ずさった。
しかし、晃は気圧されながらも何とかグッと歯を食いしばり、兄達を睨みつけて耐えた。
「お、俺も兄ちゃん探しに行く!」
「駄目だ」
「はっ? 何でだよ!!」
「……俺らだって先生に何度も頭下げてお願いしたんだ。俺らは御山の六合目近くまで行く。お前じゃ足手まといになる」
「俺だって《《それくらい》》行ける!」
「……あ゛?」
官九郎は晃に現実を突きつけたつもりだった。官九郎と秀平が大人達に捜索隊に参加させて欲しいと言った時は、彼らの先生に反対され、厳正に参加を拒否されたのだ。
官九郎達の暮らす寮の先生は僧籍を持ち、自身にも他人にも厳格であると寮生ならば誰もが理解している。だが、二人は何度厳しい言葉をかけられても食い下がり、諦める事なく、大事な友人を探したい捜索に参加させてくださいと何度も何度も頭を下げた。そこまでして何とか参加させて貰える事になった経緯があるのだ。
まだ大人の庇護下にあるべき中学生でしかない二人が何故認められたのか──それは、そこにあったのが半端な気持ちではない、大人達が子どもには持てる筈が無いと決めつけたがる、確かな『覚悟』があったからだ。そして、そこにはもしも仮に最悪な結果が待っていようとも、決して目を逸らさないという約束も含まれている。
──月隠山という場所は古くから様々な信仰の中心となり崇められてきた。御山は慈願寺における修行場であり、信仰の聖地。元来、一般人に対してみだりに入山することは推奨していない。
登山道はあるが、整備されているのは展望台付近までであり、むしろトレッキングルートと呼ぶ方が正しいのかもしれない。もしもそれ以上に登ろうとするのであれば、道無き道を進むことになる。そこは小学生はおろか、男子中学生では厳しいルートだとも聞かされている。
その決意を、《《それくらい》》、という軽い言葉で踏みつけられた気がした。
「お前っ……!」
「アッちゃん──御山は昔、女の人が入ったらいけなかったんだってよ」
官九郎が怒りのままに晃の胸ぐらを掴もうとすると、隣の秀平がそれを制した。それからこれまで黙っていた彼も晃に諦めて寮で待っているように促し始める。
秀平は口を開き、月隠山が昔、女人禁制の聖域だったのだと晃に教えた。しかし、晃はそれを聞いても不安混じりの怪訝そうな表情を浮かべるのみ。それも当然だろう。晃は確かに女だが、そんな決まりごと現代では時代遅れだ。それに月隠山の裾野とも言える一部──寮の裏山には秘密基地だって作って遊んでいたのだから。
「昔猟師してたって爺さんに聞いたことがあるんだけど……山の神さまは女神様なんだってさ。だから女の人が登ると醜い容姿の女神さまが嫉妬して山の機嫌が悪くなる。他にも女の人を山に入れないのには理由があったらしいけど……アッちゃんが捜索隊に混じったら、辰巳が見つからないかもしれない。だから……今はついて来んな」
霊的な存在は怖がって否定する癖に、そうした迷信は信じる傾向が秀平にはあった。いや──恐れているからこそ、そうした迷信を無視することに抵抗があるのだろう。まして、今回は大事な友人の身の安全がかかっている。秀平の口調は普段よりも厳しかった。
「そ、そんなバカな理由あるかよ……」
「俺たちを信じろ。絶対に見つけ出して連れ帰る。そしたら俺らで囲んで説教してやろうぜ」
「あぁ、そうしよう。だから、お前は待ってろ」
「で、でも……」
兄たちから説得され、晃は俯いたまま唇を噛み締めた。ここでようやく晃も辰巳が行方不明になっていることが冗談でもなんでもない、現実なのだと理解した。ゾッと血の気が引いて、身体が痺れたように動かなかった。声も出ない。何をどうしたらいいのかもわからない。でも、自分も何かしなければという想いだけはあった。
「あ、あぅ……み……見つかるよなっ? タツ兄ちゃん、また会いに来てくれるよなっ?」
「あぁ、きっと無事だ。必ず見つけてくる。だから、安心して待ってろ」
「官九郎の言うとおりだ。俺達に任せろ」
官九郎と秀平はそんな晃を見て、優しい顔になり、安心させるように力強く頭を撫でた。……それは強がりだった。二人も不安を抱えている筈なのに、ヤンチャな妹分にこれ以上不安を抱かせないようにと。
ただ──最近になって妙に冴えるようになった奇妙な予感とでも言うのか、晃にはどうしても気になる事があった。
「……なぁ、恵多くんも行くのか……?」
「…………いいか、晃。あんなヤツのことはもう忘れろ」
「官九郎……?」
「……あいつが会いに来ることはもうねぇよ」
「秀平……」
その言葉が意味するのは関係の崩壊。心を支配する不安が一段と濃くなる。
──そして、二人は晃の頭から手を離すと、そのまま踵を返し、ザックを背負い直して玄関へと向かっていった。官九郎、秀平、恵多の間で何かあったのかと晃は戸惑ったが、二人は何も言うことはなく……そのまま二人の背中を見送ることになった。
その背は、どこか寂しげで、でも頼りがいがあって。いつも見ているものとは少し違っているように見えた。
□
リビングに一人取り残され、その空気の冷たさに現実感が沸かなかった。
──晃の中にある漠然とした想い。
このまま此処で、ただ帰りを待っていてもいいのか。自分も何かした方がいいのではないか。もしかしたら、官九郎たちが秘密基地に行った時は、すれ違いになっただけなのではないか。でも、待ってろって言われた。やっぱりお願いしてついていけば良かった。そんな考えだけが不安とともに頭の中でグルグルと巡る。
ただ待っているだけでは少しずつ大きくなってゆく圧力に押し潰されそうで辛かった。
「アッちゃん、大丈夫……?」
「英那……?」
「顔色、すごく悪いよ」
そんな時だった。一つ年上の英那が晃に話しかけてきたのは。英那は心配そうに眉を下げて晃を見ている。その顔を見て、不安で押し潰されそうな心が少し軽くなるのを感じた。そして、晃は兄達には言えなかったことをぽつりぽつりと零し始めた。
「俺が行ったって……足手まといになるって……俺、タツ兄ちゃんに会えなくなるなんて考えたこともなかった……ずっと一緒だったから、これからも一緒だと思ってて、もうわけわかんなくて……」
心の内の澱みを押し出すように言葉を紡ぐ。今でも心の底では信じられていない。辰巳がいなくなったなんて。やっぱり嘘で、また何事もなかったかのように顔を見せてくれるような気がして……現状は頭で理解していても、実感が得られない。英那は酷くショックを受けている様子の晃をギュッと抱きとめた。
「兄ちゃん……本当にいなくなっちゃったのか……?」
「アッちゃん……きっと大丈夫だよ」
恵那の肌に感じる晃の体温は冷たかった。恵那が晃を温めるように抱き締めていると、同じリビングだが離れた場所に陣取っていた上級生達の声が聞こえてくる。
「──よく寮に遊びに来てた奴。あぁ……そうそう辰巳って言ったっけ。アイツ行方不明になってるらしい」
「らしいね。今は慈願寺の御坊が人集めて御山に入ってるっても聞いたぞ。外で大人たちが話してた」
「……神隠しかぁ。本当にあるんだな。噂じゃ、外の人間とか、観光客がたまにいなくなるってのは聞いたことがあったけど」
「…………そういえばさ、晃が少し前に話してただろ。大人達に内緒で裏山で遊んでたら、迷って誰もいない変な屋敷を見つけたってやつ……俺、気になって先生に冗談まじりに聞いてみたんだよ。本当に山の中にそんな場所あるのかって」
「へぇ、それで?」
「……昔は山の中にも集落があったらしいけど、今はそんな場所ないって。……でもさ、もしも《《あの》》晃が本当のことを言ってて、御山にそんな変な場所が存在するのなら──」
上級生たちが大きくもないが、小さく控えるようでもなく噂する。彼らの言う『あの』の意味とは、いつしか寮内での共通認識になった、晃が霊感を持っているということだろう。
霊感という普通の人にはない、不思議な力を持っている晃が言うのであれば、それはもしや本当の話なのではないかと。ひいては、御山にある『神隠し』の噂も本物なのではないかと。
何となくその話す声を聞いていた英那はハッとして晃の様子を確認した。晃は食い入るように寮の先輩達の方を向いていた。その表情は悲しそうにしているというよりも寧ろ、何か重大な事実を見落としていたことに気付き、ようやく今自分がすべき事を見つけたという、困難な状況の中で一縷の望みにかけて期待する時の顔をしていた。
恵那はそんな晃を見て、どうしてか不安を覚えた。それはまるで、自分には到底理解できない領域に晃が足を踏み入れようとしているような気がして。反射的にグッと晃を抱き締める腕の力を強める。
「──神隠しだって存在するのかもしれない」
「っ、ちょっと! やめてよ! ここにアッちゃんがいるんだから!」
「え、あ……わりぃ……そんなつもりじゃ……」
御山にそうした噂話があることはこの地に住む者なら誰でも知っている。ただそれはあくまでも噂話に過ぎなかった。自分たちからは縁遠い話で、地域外から来たであろう旅行者の誰かがいなくなったという噂は耳に挟んでも、自分の住む地域にそうした不思議があることを面白がるばかりで気にも止めない。まさか、身近な人が巻き込まれるとは思いもよらなかった。
「屋敷……そうだ……まだ見てない場所……もしかしたらあそこにいるのかも……俺っ、行ってくるっ!」
「アッちゃん?!」
気づいた時には身体が動き出していた。引き留めようとする英那を振り返ることもなく、慌ただしく靴を履いて玄関を飛び出して駈けてゆく。敷地の入り口を抜けて、あの場所へと。
そこは何度も通った道だった。山際に沿うように延びる農道を通り、山に入る直前で、山と人の暮らす空間とを隔てている橋──境界を踏み越える。
春の季節。未だ芽吹くための力を溜め込んでいる木々のアーチを走り抜けてゆく。そのまま、曲りくねりながらも、どこまでも続いているように思える道をゆくと、どんどん山へ引き摺り込まれ、誘われているような──そんな妄想に駆り立てられる。
此処を通るたびに妙にザワザワと心が揺れる感覚がする。あの日以降、此処に来る事は何となく怖くなった。また迷うのではないか。今度こそ帰れなくなるのではないかと。それでも、兄たちや辰巳は秘密基地で遊ぶことが多かったため、一緒について来るしかなかった。
しかし、今は違う。晃は一人、自ら進んでこの場所へ足を踏み入れた。
御神木のある広場。秘密基地に使っていた小屋の中を確認したが、シン──と静まり返っており人の気配はない。小さな期待が一つ裏切られ、そのことに落胆する。それから大きな木の下にある祠に、どうか見つかりますようにと、お願いごとをしていると周囲から微かに何者かが話す声が聞こえた気がした。
「──ヒトノコ」
「ヒトノコダ」
「マタキタ」
本当に微かで、木々のざわめきにさえ掻き消されそうな聞き取りづらい声。周囲に誰かいるのかとキョロキョロと見渡してみたものの、それらしい影や形を見つけることは出来ない。恐らくは木々や葉、藪の影に《《ナニカ》》は隠れているのだろう。
姿は見えないままだが、気配は感じられる。その正体を晃は知っていた。それは人間の住む町ではあまり見ない、人ではない存在たち。人間からは妖怪とも呼ばれたりするもの。姿は千差万別で、大きいのから小さいの。人型や獣、どちらともつかないもの。総じて奇妙な存在、というのが晃の彼らへの印象であった。
「おっ……おい! お前たちに聞きたいことがあるんだ! 出てこい!」
晃は叫ぶ。しかし、声の主たちは姿を見せず、少し間をおいてようやく声が囁かれる。
「コイツ、コエ、キコエテル?」
「ドウスル?」
「ニンゲンコワイ……」
「ヒトノコ、カエレ」
「カエレ」
「カエレ」
木々のざわめきのように、囁き声が木霊して聞こえた。姿も見えぬ者達から返ってきた言葉は拒絶だった。しかし、晃はそれに負けじと声を張り上げる。
「嫌だ! 答えてくれるまで帰らない!」
そう宣言し、晃は祠の前でどっかりと座り込んで腕を組んだ。それから周囲を睨めつけながら、答えてくれるまで動かないという意思を示す。すると周囲から困惑するような声が聞こえ始めた。
「ナンデカエラナイ?」
「ワタシタチ、コワクナイノカ……」
「カエラナイト、クウゾ」
「ソウダ、カエラナイナラ、クッテシマウゾ」
「クウ」
「クウゾ」
「ヒトノコ、クウゾ」
姿の見えない存在たちは騒ぎ立て──しかし、そのざわめきはやがて一つにまとまっていった。そして、それは次第に大きな合唱のようになってゆく。木々が風に揺すられ、周囲に不穏な空気が流れ始め──
「お待ちなさい」
その一声でピタリと止んだ。唐突に聞こえたのは鈴の音のように凛とした声だった。
「クナギサマ」
「クナギサマダ」
妖怪達にクナギと呼ばれた存在は、いつの間にやら晃の側に立っていた。それは、白い着物に身を包み、太陽の光に透ける葉とも、新緑のように青々としているとも喩えられる緑の髪と目を持つ女性。彼女は人間離れした美しさを持ちながら、浮世離れした雰囲気を醸し出していた。
「人の子。皆が困っています。此処はあまり人の子が一人でいていい場所でもありません。早くお帰りなさい」
女性は静かに膝をつくと晃に目線を合わせてきた。そして、まるで母親が幼子に言い聞かせるように語りかける。
「山の神、さま?」
そのあまりの美しさに、晃は呆然と呟いた。山の神──それは秀平が言っていた話。山の神様は醜く、女を見ると嫉妬するという。だから、女の晃は山の捜索には連れていけないのだと。
晃は目の前の女性を改めて見る。確かにその身から感じるのは人ならざるもの気配だ。しかし、それは不思議と恐怖の感情よりも、寧ろ見守ってくれるような安心感を感じさせる。そして同時に、全然醜くなんかないじゃないかと思った。
「そんな畏れ多い……私はただ、その祠に住まう者。山の神ではありません」
女性は晃の視線を受け止め、優しく微笑んで返した。そしてチラリと晃たちが御神木と呼んでいた大樹を見遣る。そこの根本には新しい雨避けの掛けられた朽ち掛けの古い祠があった。
「人の子よ、屋根をありがとう。お陰で雨漏りがなくなりました」
「……俺はほとんど見てただけだから……」
それから女性は祠の側に設置した雨除け、そして朽ちた祠に屋根を作った晃に感謝の言葉を述べた。しかし、晃は辰巳や兄たちが雨避けを作っているのを尻目に一人だけ飽きて遊び呆けていたことを思い出す。だから、礼を言われて少し恥ずかしくなった。
「直そうと思ってくれただけでも嬉しいのですよ」
そんな晃の心情を知ってか知らずか、クナギと呼ばれた女性は再び優しく微笑む。それから晃の手を取って立ち上がらせた。
「そ、そうだっ、えっと、クナギさま! 俺、聞きたいことがあるんだ! 用が済んだらちゃんと帰るからっ」
「子どもが一人で来てよい場所ではありません。すぐにでも戻らせたいのですが……帰れと言っても、その気はないようですね……わかりました。それで聞きたいこととは?」
晃はハッと我に帰ると、慌ててクナギに縋った。人ではない相手のようだったが優しそうな雰囲気を持っている。彼女なら問いに答えてくれると思ったのだろう。
「タツ兄ちゃん……祠を直した男子が昨日ここに来なかった? おでこに普通の人には見えない、目の落書きがあると思うんだけど……」
「……落書き? あぁ、もしかしてあの子ですか。あなたには《《そう》》見えているのですね……私には落書きには見えませんでしたが、どの子かはわかりました」
「タツ兄ちゃん、突然いなくなったって……それで俺、タツ兄ちゃん探してるんだ。クナギさま、見てないかっ?」
質問を投げかける。そう尋ねた晃の表情には少しの期待と、色濃い不安が見えた。
「──ヨリマシ」
「ヨリマシノコ」
「ヤマ、サワガシイ」
「ヒト、ヤマニタクサンハイッテキテル」
姿を見せない誰かの囁き声が木々のざわめきの中から小さく聞こえてくる。木の葉の触れ合う音の中に混じる人ならざるものの声。聞こえてきたその言葉は、晃には意味の理解できないものだった。
「……。残念ながら、此処には来ていません」
人ならざる者たちが騒ぐ中、クナギは晃の期待を否定するために、そっと首を横に振る。
「な、なら! やっぱりあの時の不思議な屋敷にいるのかも……!」
「不思議な屋敷?」
「う、うん。俺、前にここで遊んでたときに不思議な場所に迷い込んで……タツ兄ちゃん、もしかしたら俺みたいにそこから出られなくなってるのかもっ」
晃は思い出す。以前、初めて此処に来た時に不注意から一人で山に入ってしまい、遭難しかけてしまった時のことを。
晃が過去の出来事を思い出していると、一方のクナギは少しだけ驚いた顔をしているようであった。
「……それはもしや朧ノ宮のことを言っているのでしょうか」
「朧ノ宮……?」
「山の神の住まう場所のことですよ。そうですか……あなたは彼処に招かれたことがあったのですね。あぁ、もしやそれで見えるようになったと。《《そういうこと》》ですか……」
「?」
クナギは晃の零した呟きに反応した後、何処か得心したように頷いた。晃はその様子を不思議に思い、首と眉を傾げたが、目の前の人物は気にも止めない。
それから、少ししてクナギは晃を改めて見遣る。まだ子どもの晃はその心情を察するには幼かったが、クナギのその表情には幼子にどう現実を教えたらよいのか、という苦悩が滲んでいた。
「人の子。あなたは朧の宮を探そうとしているのかもしれませんが……残念ながら一度招かれた者が再びその場所に辿り着くことは出来ません」
「え……で、でも……」
「《《そういう決まり》》なのです。それに……そもそも、朧ノ宮は招かれない限り遭遇することもできない」
クナギは遭遇という言葉を使った。それはまるで、『朧の宮』に招かれるという事由が一種の現象であり、予期せず突発的に巡り合うもののような言い方だった。
「あなたがどうして朧の宮に招かれたのかはわかりませんが。そこに至る、遭遇するまでには先触れのようなものはありませんでしたか?」
先触れ──事前に起こる予兆。『朧の宮との遭遇』という現象の始点。深く思い起こす。あの時、どのようにして迷い込んでしまったのかを。
「先触れ、なのかは分からないけど……たしか、あの時は兎を追いかけて迷い込んで……」
「兎……月餅様、であれば人の子を安易に招くことはしない筈です……ご家族の方でしょうか……」
「もしかして、あの兎なら行き方を知ってるってこと? 俺、探しに行かなきゃ!」
兎、という単語にピクリと反応した。クナギの口から月餅という名称が漏れる。月餅というのはこの山に祀られている神の眷属であり、神に代わり山を治めている存在でもあった。
それの質問に違和感を持ったのか、訝しみ……唐突にハッ、と晃は朧の宮に行くには兎の先導が必要なのだと気づいた。
「お待ちなさい、人の子! ……あなたが出会ったのは白兎でしたか?」
次にすべき事を見定め、早速兎を探しに森の中に突入しようとするも、それを呼び止められた。
「えっ? う、うん。小さくって、白くて餅みたいに柔かそうな……」
「……その白兎は神使。この山に白兎たちは複数いますが……会えるかは期待しない方がいいと思います。彼らは会おうと思って会える者達でもありませんから」
「っ、な、なんでだよ……そんなのやってみなきゃわかんないだろ!」
「山の中は異界に近い。まして人の子には危険です。入るのはやめておきなさい」
「いやだ! 俺は兄ちゃんを見つけ出すんだ!」
クナギは何とか晃を諌めようとしたが、その言葉に反感を覚えたのだろう。晃は忠告を聞く事もなく、そのまま走って屹立する木々の群れに吸い込まれるように駆けて行ったのだった。
「ヒトノコ、イッテシマッタ」
「ヒトノコ、サワガシイ」
「アァ、ヤマニハイッテシマッタ……」
「ハヤク、カエッテホシイ……」
「ドウスル……」
「ドウシヨウ……」
晃のいなくなった後。木々の影に潜む妖怪たちは口々にそう零した。その声は正体の伺えない不気味なものであったが、どこか迷惑しているような声音も混じっているようであった。
クナギはそんな彼らの方向を見て、ため息を吐いた。
「……お前たち。あの子に手出しは無用ですよ。辿り着けないと分かれば、その内諦めて帰るでしょう……私達はヒトとあまり交わらない方がいい。昔から、見守るくらいで丁度良いと決まっているのですから」
クナギは晃が走り去った方向を見据えて、静かに、少しだけ寂しそうにそう呟いた。それからそよぐ風に木々がざわめくと、そっとその場から姿を消したのだった。
「……確かこっちの方だったような」
森に入ると、晃は朧ノ宮に迷い込んだ時のことを思い出しながら、道無き道を歩き始めた。
春を迎える前の森の中は、以前歩いた場所とは全く異なって見えた。夏の山には緑が溢れ返っており歩くのもやっとな位であったが、今はまだ芽吹いた新芽が大きくなろうとしている季節、地面は歩きやすいが、記憶と異なり過ぎて晃は殆ど当てずっぽうで歩き回る事しか出来ないでいた。
そして、兎探しもまた難航していた。山で暮らす動物達は晃に警戒してか姿を完全に隠してしまっている。目立つであろう白兎は愚か、動物のたてる物音でさえ聞くことも出来ずにいた。
「クソッ」
以前に通った筈の藪が倒されて出来た獣道は様変わりしていた。それらしき場所は何とか見つけられたものの、はたして記憶違いであるのか、それともその場所が記憶に相当する場所なのか──晃自身、確証は無かった。
それでも諦めきれずに山の中を彷徨う。記憶の片隅に辛うじて残っている朧気な景色を追いかけながら、近くに白く動く物がいないかを注視した。
時間だけが無為に過ぎている気がした。何の意味もなく、森の中をただ彷徨い歩いている。何の成果も無いまま、このままでは辰巳を探し出すという目的を達成できる未来が想像出来なかった。
焦る。森の中は静かで、木々のざわめきと晃の地を踏む音だけが大きく聞こえる。気配は無く、晃一人だけが此処に存在しているような気がした。怖い。心細く寂しい。その感情を意識して押さえ込むも、気が急いて歩みが早くなる。
「──っ、誰か! そこにいるんだろ!? 教えてくれよ! 兎は何処にいるんだ!? オボロノミヤは何処にあるんだよ!?」
たまらず森の中に入る前に聞いた声たちに呼び掛ける。……しかし、期待した返事が返ってくることは無い。
「あんなに煩かったのに無視かよ……」
キョロキョロと辺りを見回す。永遠に変わらない景色。同じ場所をぐるぐると回っているような心地になり、不安と焦りが渦巻いていく。そして、同じ場所を巡っている──それは実際に間違いという訳ではない。
疲れ、意気消沈した様子で晃は木に凭れてズルリと腰を下ろした。目に映るのはアーチ状に曲りくねった特徴的な大木。側にある苔生した大きな岩。
特徴的な目標だ。今いる場所には明らかに見覚えがあった。
「どうしたらいいんだよ……兄ちゃん、どこに居るの……」
それを見て、ようやく此処は一度通った事のある道だと気づいた。
記憶にある道を辿り、動物の気配を探して歩いてきた。時間をかけて見覚えのある道を選んでいた……だが、いつの間にかぐるりと巡るように元の場所に戻って来てしまっていたらしい。
それは遭難の怖さが分かっていた分、無意識下に見知った場所に戻ろうと歩いていたせいなのだろうが……晃には不思議な力が働いて道がループしており、目的に辿り着かせないようにしている──そんな心地にさせた。
焦りと恐怖心。山の空気は人の冷静さを奪う。大人であってもそうなのだから、まして子どもでは……永遠に目的の場所に辿り着けないのではないかと心に圧力がのしかかる。それでも、そんな圧力に負けないよう、折れそうになる心を叱咤して辰巳を探す為に再び立ち上がる。
「……何か一つだけでも……」
──手掛かりが欲しい。だが、無情にも時ばかりが刻一刻と過ぎていった。
日の暮れた山は危険だ。兄たちや辰巳からも言われていたことだが、日が落ちる前に帰らなければならない。未だ何一つ成果を得られていないのが、お前がしている事は全て無駄なのだと、そこかしこから冷たい目で見られている気がして悔しくてならなかった。
──その後、やはり屋敷も兎も見つけることは出来なかった。暗くなってしまう前に、諦めて戻ることにししたのだが……不思議な事に帰り道に迷うことは無かった。
御神木のある秘密基地──あの場所を思い出しながら森の中を進んでいると、驚くほど簡単に戻ってくる事が出来たのだから。それはまるで、晃を下界へと帰そう、帰そうという何者かの意思が働いているかのように。
「やっぱり、いない……」
念の為、寮に帰る前に秘密基地をもう一度確かめるもやはり中はシンとしており、人の気配はない。加えて、そこにはクナギの姿もなく、ただ御神木の根本の影にひっそりと祠があるのみ。
「──人の子」
しかし、晃がその場を立ち去ろうとすると……唐突に背後から声を掛けられた。振り返るとそこには先程までは姿の見えなかった筈のクナギがいた。
「クナギさま……?」
「……随分と探し回っていたようですね。遠くから見ていました。あなたは余程、あの少年が大切だったのですね……だから私はあなたを見ていて、ずっと事実を伝えるべきか悩んでいました」
「事実……?」
クナギは何かに葛藤するように目を伏せ、そして意を決したように晃を見遣った。その眼差しに込められた意思がどのようなものかは判別出来ない。しかし、晃は目の前のクナギが自分を心配していることだけはわかった。
「人の子。名は?」
「……晃」
「晃。よくお聞きなさい。あなたがいくら探そうとも、最早あの子が《《この地で》》見つかることはありません」
「……なんで? 見つからないってどうしてっ? 何を知っているんだっ?」
晃は困惑した。クナギの言う『この地』という言葉が妙に引っ掛かったからだ。それは秘密基地があるこの場所、というニュアンスにしては言い方が広過ぎるように思えた。
そして、クナギは辰巳が見つかる事は無いと確信しているようでもあったから。
「……あの子には役目があるのです。交わされた盟約は祝福であり呪いでもある。あの子自身が知らないことだとしても、誓いは果たされなければなりません。それが世の理なのです」
「っ、そんなんじゃわかんねぇよ! どういうことなんだよ!」
しかし、その回答もまた不明瞭なもの。
「──あの子は憑坐であり人身御供。神霊の依代として、異界へと渡らなければなりませんでした。なので……あの子はもう、現し世に帰ってくる事はないでしょう」
□
春とは言え空気はまだ冷たく、心まで冷え切ってしまいそうであった。
昼から夜に切り替わる隙間の時。精根尽き果てた面持ちで寮に帰って来た時には既に日が落ちる間際で、辺りは殆ど暗くなり始めていた。
寮を飛び出してから一日中慣れない森の中を彷徨っていた晃の靴や服は泥や汗で汚れ、衣服に隠れていない手や顔には枝に引っ掛けたのだろう生傷が出来ている。
ジクジクと痛み、疲労で鉛のように重く感じられる足を引きずりながら寮の門を潜ると、寮の広場──そこには先に帰って来ていたのだろう官九郎、秀平、先生がいて心配そうに晃の帰りを待っている所であった。
官九郎と秀平の視線が晃を捉える。傍目、それまで気丈にも不安を抑え込んでいるように見えた表情は、晃を視界に入れた途端に大きな怒りに歪んだ。
「晃っ……! どこ行ってやがった! 大人しく待ってろって言っただろうが!」
「お前までいなくなったのかとっ……! どんだけ心配かけるつもりだ、この大馬鹿野郎っ!」
「……」
そのまま凄まじい剣幕で晃へと詰め寄る。しかし、その威勢は晃の表情を見てしまい徐々に萎んでいった。二人の目の前には……普段からは想像出来ないほどに気力を失っている様子の妹分がいたからだ。
官九郎と秀平の二人は晃の目を見て動揺した。その目には何も映っていない。本気で怒鳴られたことへの怯えも、反抗の意思すら。外界に対して鈍感となり……ただただ、暗い何かを瞳に宿しているように思える。この数時間で何があったというのか。晃は全てを諦めたように、希望を失った目をしていた。
「……アッちゃん?」
「……おい、どうした」
その様子のあまりのおかしさに、怒りに飲まれていた筈の官九郎と秀平が心配そうに晃の顔を覗き込む。すると、ほどなく目の前の存在に気づいた晃がぎゅっと二人に抱き着いた。
抱き着かれた二人の位置からは晃の表情は見えなかった。だが、鼻をすする音が聞こえ、微かに震えていることから、泣くのを我慢しているのだと分かった。
「兄ちゃん、取り返せなかった……もう向こうに行っちゃったって……」
晃はそれだけ言うと、とうとう堪えきれずに嗚咽を溢し、官九郎と秀平に抱き着いたまま声を押し殺すようにして泣き始めた。
「クナギさまに連れていかないでって……おねがいしたけど……だめだった……ごめんなさい……」
「何で、アッちゃんが謝るんだよ……」
「そうだぞ……」
クナギとはいったい誰なのか。取り返すとは。どこに、どうして辰巳を連れてゆくというのか。晃の言っている言葉の意味は二人には分からない。ただ、縋るように抱き締められた腕に応えるため、何も聞かずに晃の身体を抱き締めて返すしかなかった。
──晃の物言いは昔とは変わり、いつしか霊が見えると奇妙なことを言うようになった。それを周りの人間は晃が嘘をついて、気を引こうとしているのだと考えていたが、官九郎と秀平は晃が嘘をついているとは思っていなかった。
ただ、それを真実として、霊感を持つ晃という存在を受け入れていたのだ。
二人には晃の見えている物がわからないし、理解出来ないことも多い。たまにする奇妙な言動に、ついていけなくなることもある。だから、同じ施設の兄のような存在であっても、常人の二人では本当の意味で晃を理解する事は出来ていなかったのだろう。
そんな晃がよく懐いていたのが辰巳だった。霊感とは似て異なるのであろうが、不思議な勘を持つ辰巳には、他の人には見えない何かの存在のことを話していたのを二人は知っていた。奇妙なことを仲間の誰にも話さなくなっても、辰巳に対しては話していた。
晃にとって辰巳とは、官九郎と秀平がなれなかった理解者であり、幼い初恋の人だった。晃の線の内側にいる人間の中でも、一等、中心に近い場所にいる存在だったと言える。
それなのに……当の晃が辰巳のことを諦めてしまっていたから。
だから、『もう行ってしまった』というその言葉は、事実なのだろうと官九郎と秀平の心にストン、と落ちた。
「あぁ……」
本当は思考のどこかでずっとそんな気がしていたから。月隠山山中で大人達と捜索をしていた時も。ただ認めたくなかっただけで。友は山に消え、どこかに行ってしまったのだ、と。神隠しの伝え話の通りに。
──その晃の言葉で二人も諦めがついたとも言える。
ただし……諦めたとて、悲しみが、喪失感が無くなるわけではない。それよりもむしろ、辛い現実を直視せざるをえなくなった分、心の内に溢れる悲しみを受け止めなければならなくなっていた。
心の底から湧き出る悲しみの感情が胸の器から溢れ出し、涙となって流れ出る。
「ぐぅっ……泣くな、晃っ。こっちまで悲しくなってくるだろうがっ」
「っ、アッちゃん、すまねぇっ、たつみのやつ、み゛づげられなぐでっ、や゛くそくっ……ま゛もれなぐでっ」
子どもたちは一塊になってボロボロと涙を流す。いなくなってしまった友を想い。想いが駆け巡る。甦る思い出たち。何時でも会えるのが普通だと思っていた。何で、いったいどうしてこんな事にという思考に支配される。
「ぐっ、うぅ……! タツ兄ちゃっ……!」
……三人が悲しみで、どうしようもなく嗚咽を溢していると、普段は厳格で知られる僧籍の先生が官九郎と秀平の頭に手を乗せて言った。
「……強くなりなさい。様々な辛い試練を乗り越えて子ども達は一歩ずつ大人になってゆくもの。魚躍龍門の言葉のように。……今日お前たちはよく頑張りました。さぁ、晃ももう中に入りましょう。皆が帰りを待っていますよ」
□
幼く、淡い恋心が軋む。空気が冷たく感じるような、どうしようもない喪失感と孤独感。悲しみで心が押し潰されそうだった。
現実を否定する。嘘だ。何かの間違いだ。神隠しだなんて、現実的にあり得る訳がない。明日になったら、きっと何でもない風に顔を見せてくれる。
二人で撮った写真と、つい先日買ってもらったインスタントカメラを抱き締める。もう会えないだなんて到底信じられなかった。
「兄ちゃん、寂しいよっ……」
「黒いモヤモヤが怖いから一緒にいてよぉっ……」
「兄ちゃんっ……どこにいるの……」
「約束したのに……嘘つき」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、暗い部屋でただ一人。何かに怯えるようにして、もう一度その姿を見たいと強く願う。
「会いたい……会いたいよぉ……御山の神さま、仏さま……一生に一度のお願いだよ……俺、今度はちゃんといい子になるから……だから……どうか、兄ちゃんに会わせてよ……」
それは子どもだけが許される御呪い。本当に困った時に、どうしようもなく助けを求める為の願掛け。
神仏が実際に願いを叶えるなど、本当は信じていない。だけど、祈らずにはいられない。それは願わなくては心が潰れてしまうから。もしも……もしも見ていてくれているなら。この耐え難い悲しみから助けて欲しい。助けてくれたら何でもする。オモイヤリのある、いい子になるから、と。
──はたして、その願いはある意味で叶うことになったのだろう。
晃を見ていた、いずこかの神仏が憐れに思ったのか、はたまた強い願いに霊感が適応したのか……如何様な偶然の産物であるのかは判然としないながらも。
晃という未来ある少女の、《《豊かな表情》》を犠牲として。
此処ではないどこか遠くの光景をカメラのフィルムへと写す異能を、晃は得たのだった。




