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第19話 写真と幼き日の思ひで 前篇

 ──場面は晃が辰巳と来良と別れた後にまで戻る。


 ゼブラ柄のベッドシーツの上で、女がネコマタのぬいぐるみを抱きしめながら高価そうなハイブリッド式インスタントカメラを弄っていた。


 部屋はどうやら元々和室だったようだが、ギャルテイストというのか、ベッドと同じくゼブラ柄のソファーが置かれ、個人の趣味で部屋の雰囲気が変えられている。また、部屋主が年頃の女性であるせいか、乱雑ではないものの少々物が多い印象がある部屋だった。


 そこまでは若干個性的だが『一般的』の範疇にある部屋と言える。ただ明らかに異常だったのは、ポスター代わりに張られている無数の写真の数々。一つの壁面には夥しい数の写真が鋲で留められていた。


 ──その写真のどれもには、とある男性が写っている。それはまだ幼さを残す少年期のものから、つい最近撮影したと思われるものまで。


 異常はまだある。それは、それらの写真の中には撮影し得ないであろうものが存在すること。とある男性──石動辰巳が異界に迷い込んでいる最中の、旅装束の姿や刀剣を手に取っている姿も写真には収められていた。


 ベッド上で身を横たえた女──方丈晃がインスタントカメラの背面にある液晶画面を確認しながら次々に切り替えてゆく。その画面に映っているのは、壁面の写真と同じく辰巳の姿。それらを一枚一枚眺めて、とある画像でストップさせた。その写真には辰巳と巫女服を着た知らない女が写っている。


「誰だよ、お前……」


 不機嫌そうな声。それからカメラの撮影機能を起動して虚空に向けて構える。そのまま、ファインダーを覗き、天井が写るだけの画角でカシャリ、とシャッターを切った。


 ──しかし、撮影した天井の画像はデータには残ってはいなかった。その代わりにメモリに新たに追加されたデータ。カメラのその液晶画面にはどういう絡繰りがあるのか、此処にはいる筈の無い夕食時の辰巳の姿が新たに写り込んでいる。


 言うなればそれは、離れた場所にある対象を写す『念写』の能力とも例えられる。


「……」


 晃が満足気に頷き、インスタントカメラの印刷機能を起動させてしばらくすると、機械音と共に先程の画像の写真が機体の側面から吐き出された。


 窓から入り込んだ陽が射しこみ、部屋の中を橙色の夕日に染めていた。その写真を手に取り、確認。おもむろに煙草を取り出して火を付ける。薄紫の煙が橙色に染まった室内にゆらりと漂った。


 窓は網戸のままになっていたが、完全に開け放つ。窓の外は純和風の庭園になっており、奥には敷地を区切る濃い緑の生け垣がある。生け垣の背は高く、目隠しとしての効果は大きいが、内側からも外の景色を伺うことは出来ない。晃は窓の外に向けて紫煙を吐き出した。


 年の頃は二十代前半くらい。短いクールショートの髪、耳にはピアスが幾つも付いている。身体のラインの出るタイトなデニムのミニスカートに、惜しげも無く肩を曝け出したタンクトップ。露出の多い褐色の肌が艶めかしい色気を醸し出していた。


 それからまだ芯の残った煙草を早々に灰皿に押し付けて消すと、プリントしたばかりの写真を手に件の壁へと歩む。そして、鋲で壁に縫い留めた。


「タツ兄ちゃん……おかえり……」


 写真の中の辰巳は笑みを浮かべている。


 夕日で照らされた晃のその頬は一層紅く、その瞳は潤んでいるようにも見える。晃は壁の中央にある引き伸ばされた顔写真に優しげな手つきで触れ──そして、口づけを一つ落とすのだった。


 □


 慈願寺にほど近い場所に立地に建てられている児童養護施設──竜養寮は慈願寺に関連する社会福祉法人が運営している、古くからある施設であった。


 広い敷地には、寺院としての性格を示す瓦屋根の立派な造りの本堂と、それに並ぶ形で建てられた比較的新しい様式の建築物がある。


 その竜養寮の広い庭では子ども達が元気よく遊んでおり、表面上複雑な事情を抱えているようには見えない。しかし、その実、親からの虐待や育児放棄、親の失踪、精神疾患や病気、家庭の貧困、子の障害など様々な理由があって入寮して来ている事情がある。


 ──晃はそこで育った子どもの一人だった。物心つく前にはこの施設に預けられており、親の顔や名前も知らず育ってきた。


 幼少の内は環境に違和感を感じる事もなかった。自分の周りはそういうものなのだと。年上の兄や姉たちがいて、先生と呼ばれる大人たちがいる。だが、そんな兄や姉たちが時折苦しむような顔を見せると、自分たちは世間一般からすれば普通では無いという事を思い知らされてしまうこともある。


 親がいない。ただのそれだけで心に空くポッカリとした何か。もしくは、心の底に沈んだ澱ができる。


 竜養寮の先生達である職員や僧侶、尼僧から愛を受けなかった訳ではない。ただ子どもは敏感に過ぎる。少しの環境の違和感が歪みとなり、その後の人生にも影響するのだろう。


 もしかしたら施設の大人たちの愛は平等すぎて、晃には物足りなったのかもしれない。そうした環境や本人の資質もあってか、晃は感情の起伏が激しく、癇癪を起こすと暴力に訴えかけるような暴れん坊に育っていた。


 親であって親ではない、親代わりとなる職員や僧侶達、年長の子ども達からはよく構われて可愛がられていたが、たまに手がつけられなくなる子というのが周囲からの晃の評価であった。


 それ故に、晃の世界は狭く、その狭い世界では天真爛漫に、それでいて王様のような振る舞いが目立っていたのである。


 ──そんなある時、晃の通う小学校の年長の兄たちである官九郎と秀平が傷だらけで帰って来て施設が騒ぎになる事があった。大人たちや施設の仲間たちから漏れ聞く話では、どうやら学校でニ対ニの喧嘩をしたらしかった。


 兄たちはすぐに呼び出され、何があったのかを調べ上げられた。原因は、年長の兄たちが同級生に親無しと言われて怒り、殴りかかった事にあったとすぐに判明した。大人たちは噂した──その同級生たちにも意図した悪意があった訳ではないが、考え無しの揶揄で笑いやら周囲の関心を買おうという浅はかな思いがあったのだろうと。


 そして傷だらけになった兄たち曰く、その愚かな同級生たちは施設育ちの喧嘩慣れした兄たちによってあっさりと泣かされたのだが、それを止めようとした同級生もまたいたのだと。それが小学生にしては体格の良かった辰巳と、そのクラスメートの恵多であった。


 辰巳は小学生にして既に中学生、高校生にも匹敵する体格を持っており、一方の恵多も勉学にスポーツも万能、容姿も良いというクラスの顔とも言える男子だったらしい。


 既にグーパンで殴られて泣いている同級生に謝らせようと詰め寄った兄たちだったが、二人に止められ睨み合い言い争い、互いに引っ込みがつかなくなった。その結果がニ対ニの掴み合い、殴り合い、意地の張り合いだ。


 コンビネーションに勝る官九郎と秀平に、個人戦力で勝る辰巳と恵多。どうやら施設に帰って来た時には既に仲直り済みだったらしく、負けたのは悔しいが、マジ強かったと笑顔の二人に親代わりの大人たちは呆れたのだった。それを思えば、如何にも子どもの適応能力とは素晴らしいものである。


 しかし、兄たちが既に何も思っていないのに対して、その話を聞いた晃は兄たちを傷つけた存在に対して激しい怒りと報復感情を抱いた。


「許さねぇ……俺が絶対にぶっつぶしてやる!」


 ──と。喧嘩をする事自体は施設ではよくあることだった。しかし、晃にとって施設の中に住む存在だけが身内であり仲間。外の奴と喧嘩して兄たちが傷つけられた事は自分がされたのと同じく、到底我慢ならないことだったのだ。


 そして次の日、祖母に連れられた泣きべそをかいた大きな少年と、父親に連れられた出来の良い顔を腫らした少年が施設に謝りに来ていた。


 コイツが兄をやった奴だ──それを直感的に理解し、晃は虎視眈々と機会を狙う。それからしばらくして、大人たちだけで話をする為に二人から離れていったのを見計らい、晃はまず大きい方の少年に飛びかかった。


「うわっ! いてぇっ、何っ、何っ、何なんだこの子っ!」

「お前ぇ! よくも官九郎と秀平殴りやがったな! 絶対に許さないからな!」

「うわっ、何してんだアッちゃん! やめろ!」

「アッちゃんがキレた! 引き離せ!」

「なにこれ、おもしれー」


 小学生とは言え、最高学年に食ってかかる一年生。恵まれた体格を持つ辰巳には小さな晃の殴る蹴るの打撃はちょっと痛いくらいでしかなかったが、晃は周囲から止めろと言われて止める性格では無かった。


 施設に響き渡る怒声やパニックの声で、すわ喧嘩かと周りの子どもたちが職員を呼ぼうという騒ぎにまでなりかける。ともすれば、年下の子に殴り返す訳にもいかず、防戦一方の辰巳。しかし、如何にダメージが無いとは言え、殴られ続けるのは辰巳としても気分が良くなかったのだろう。


「このっ、いい加減に……!」


 そしてちょうどこの時期に辰巳のクラスの男子たちの間で流行っていたのがプロレス技だった。いい加減、腹が立った辰巳は容赦なく殴る蹴るをして来る年下の少年をその両腕で掴み上げると、ベアハッグの要領でギュッと真正面から力を込めて抱き締めた。


「うわわっ、テメ何して、ぐへぇっ!」


 そのまま辰巳がグルグルと回転し始めると、少年の身体は遠心力で徐々に外側に流されて行こうとする。それからタイミングよく両脚をしっかりと脇の下に抱え込む。繋ぎは上々、回転する少年の体重を活かして力強く回転数を上げてゆく。ジャイアントスイングだ。


 回転する度にブオン、ブオン、という低い風切り音が聞こえてくる。それに混じって晃の弱った声が聞こえてきた。


「うっ、やめっ……ひぃ……きもち、わる……」


 抵抗が無くなったのを見計らい、辰巳が慣性を制御しながら勢いを殺して晃を地面へと優しく転がす。ブンブンと振り回され、辰巳が晃を転がした時には、晃は目を回してまともに立つことすら出来なくなっていた。


「うはは! 辰巳の勝ち〜」

「アッちゃん。俺らでも勝てなかったのに、辰巳に食ってかかるなんて十年早いんじゃないの〜」

「う、うるせ〜……」


 それから大人たちが施設で喧嘩騒ぎがあったと聞きつけ、慌てて駆け付けた。


 大人たち視点、そこには体格の大きな辰巳が仁王立ちで立っており、年少の晃が地面に倒れ伏している。そして、その横では大笑いしている恵多と官九郎、秀平の姿があった。故に、何てことだ、暴力沙汰か、と。傍目には辰巳が年下の少年を伸したように見えたのだろう。


「何やってんだい、この馬鹿タレが!!」

「い゛っ、てぇー!!」

「ヒィー……、ヒィー……あー、オモロ。辰巳のお祖母さん。別に辰巳は殴ったりしてないよ。むしろ殴られてもやり返せないからグルグル回して無力化しただけだし」

「む……そうかい。……そりゃ、殴って悪かったね、辰巳」

「ひでーよ、婆ちゃん……」


 おっかない祖母の容赦ない拳骨をくらい、涙目で口をモゴモゴさせる辰巳。そこで頭の回る恵多がすかさず大人たちに理路整然と俺達は何も悪く無いという説明をし、大人達の誤解を解いたのだった。


 ──そんな出来事があってから辰巳、恵多、官九郎、秀平は仲が良くなり、学校の内外でよくつるむようになった。元々活発な四人である。相性も良かったのだろう。休日には四人で集まり遊びに行くことも多くなった。


 四人の遊び場は専ら外だったが、竜養寮に遊びに来る事もあり、施設の広い庭でサッカーしたり、ドッジボールをしたり、キャッチボールをしたり……年少の子も交えて鬼ごっこをする事もあった。


 そしてそんな時、晃はといえば兄たちから辰巳が遊びに来る事を聞きつけると、竜養寮の門の影で待ち伏せし、リベンジを果たすべく、ちょっかいをかけるようになっていたのだった。


 とは言え、その頃には既に晃に辰巳と恵多への敵意は無かった。あるのは施設の外に住む新しい兄たちへの興味。デカイ兄と、頭の良い兄という認識。特に辰巳は晃のお気に入りであり、背の高い辰巳の背中に引っ付いては満足そうに笑うのだ。


「わっはっは! たけー!」

「アッちゃん、危ないから暴れないで……落ちるっ! 背負いながら遊ぶって、何で俺だけ……!」

「タツ兄ちゃん遅いぞー、いけいけー!!」


 そうして、晃は自身の気が済むまで背中に引っ付いたまま。辰巳は離れようとしない晃を背負いながら遊ぶ事になるので早く下りてくれと言うのだが、当の晃は頑としてその願いを聞き入れる事は無かった。


 ──この出会いから、晃の世界は広がりを見せることになってゆく。


 最年長の長兄、長姉たちが成長し、それぞれの人生を歩むために施設を巣立ってゆくこともあれば、新たに下に弟や妹が入ってくる事もある。


 すると今度は皆から構われ、ワガママを聞いて貰える立場から、構う立場──年下の子たちを見守り、時にワガママを叶え、統率する事が求められるようになってくる。加えて、学年が上がって成長し大人の手がかからなくなると言う事は、愛情を受けている、関心を向けられていると実感する為に必要な身体的な接触が減るという事でもあった。


 その変化はまだ幼い心の晃にはストレスだったのだろう。晃の天真爛漫さは抑圧されるように次第に鳴りを潜めて落ち着きを見せるようになり、大人たちはその変化を成長と判断した。一方で、辰巳が遊びに来る時だけは感情が激しく昂ぶり、再び天真爛漫さを垣間見せるという様態を見せていたのだ。


 いつしか辰巳の背だけが、晃が気兼ねなく甘えられる特別な場所なっていた。愛着を抱いた、安心出来る自分だけの聖域。その場所だけは終ぞ他の年少達にも明け渡す事は無かったのであるが……そのことを鑑みるに、晃はまだまだ人の温もりを、愛情を求めていたということなのだろう。


 ──そのことを裏付ける出来事。そんな晃の気持ちを知らずに、辰巳は年少の子に変わってやったらどうかと晃に言った事があった。


「アッちゃん……下の子、泣いてるけど……一度くらい変わってあげてもいいんじゃない?」

「絶対に嫌だ!」

「そんな事言わずにさ」

「いぃー! やぁー! だぁー!」


 その時には晃は激しく抵抗し、精神的に不安定になってしまった。それから辰巳はこの事は触れてはいけないんだと理解して何かを言う事は止め、晃の好きにさせる事にしたのだ。


「わり、辰巳。アッちゃん、何でか辰巳には甘えられるみたいでさ。もう少し付き合ってやってくんねーかな」

「俺は別にいいけど。俺一人っ子だし、《《弟》》出来たみたいで嬉しいしさ」

「ん? 辰巳さぁ」

「弟……? 辰巳、アッちゃんは──」

「おー! そうか、そうか! それ聞いたらアッちゃんも喜ぶんじゃねーの? ちょっと言ってくるわ! 弟にしたいって!」

「ちょ、おい、絶対言うなよ! 恥ずかしいから! おい、待て! カン!」


 そんな晃の様子を兄貴分である官九郎や秀平も見ていたようで、辰巳に少しだけ甘えさせてやって欲しいと頼んだ。一方の辰巳もそれに快諾し、《《少々》》の誤解はあれど皆で様子を見守ることにしたのだった。


「言わなくていいのか?」

「別にいいんじゃない? 辰巳でも流石にその内気づくでしょ」


 そう裏で話をしつつ……楽しげな晃の様子を見て羨ましげにしていたり、どうしても負ぶさって欲しい年少の子がいる時には官九郎や秀平、恵多が背負ってあげていると……いつの間にやら、その状態で遊ぶという謎ルールがそれ以降出来上がっていったのだった。


 □


 関係は辰巳たち四人が中学生になってからも変わる事は無かった。しかし、遊びの行動範囲はより広がりをみせるようになる。


 この頃も竜養寮に遊びに行くと晃はいつも辰巳にベッタリで、少し困ったことに今度は施設の外に遊びに行く時でさえ兄たちに付いて行きたがった。


 それ自体は特に問題はないのだが、晃がいると他の年少の子まで真似して付いて来たがる事があるので、注意が必要だったのだ。


 というのも、小さい子がいると年長が行動を注意して見ていなければならなくなるので、辰巳たちが思うように楽しめないのである。


 小さい子がフラフラと何処かに行こうとするのは日常茶飯事で、唐突に斜め上の行動をすることもある。その点、晃は辰巳の背に乗せておけば、口は別として行動だけは大人しくなるのであまり心配はしていなかったが。


 つまり、辰巳たちが施設の外で遊ぶ時には、五人プラスα(どうしても付いて来たがる子や、兄たちと一緒に遊びたい小学校高学年の子)になることもあったということだ。


 そして今回も──


「今日はどこ行くよ?」

「隣町に続く山間の道を行ったとこに浅い川があるんだって。そこで水浴びしたり釣りができるらしいよ」

「へぇー! いいじゃん!」


 彼らが施設の外で遊ぶとなると、時期や人数にもよるが川釣りや水遊び、近隣の山の探検をすることもあった。そして、今の季節は夏、小学生も中学生も夏休みの真っ只中。


 どうやら今日は水遊び兼釣りの日になりそうだった。そして、今日のメンバーは五人プラス小学校高学年の子が一人だけ付いてくるようだ。


 辰巳は以前ホームセンターで大人達には内緒で『お父さん何でこんなの買ってこいって言ったんだろうねー』と惚けて会話しながら買ったナイフやライター。他にも調味料、パチンコにクラッカーボール、爆竹、蝋燭、コンパクトな釣り竿、ロープ、笛、お菓子等々をリュックにパンパンに詰め、自転車に跨がる。


「よっしゃ、行くぞ! アッちゃん、落ちんなよー」

「分かった! しゅっぱーつ!」


 気分は興奮と楽しいを求める冒険者。仲間だけで行く小旅行は辰巳達の心を躍らせた。


 晃は乗れる自転車がなかったため、辰巳の自転車の後ろにニケツ。麦わら帽を被り、サンダルの出で立ち。膨らませた浮き輪を既に体に通していて少し窮屈そうにしていた。


 大人や警察に見つかると止められて怒られるので、やや遠回りになるが、なるべく人の少ない道を通る。路肩の段差を超えたり、砂利道になる度に晃が『ギャッ』と悲鳴をあげたり『ア゛〰』と声を震わせたりして周囲を笑わせた。そして勿論、晃自身も笑顔で溢れていた。


「ひーっ、キッツ!」

「こんなとこ通るなんて聞いてねーぞ!」

「頑張れ頑張れ。川と魚が待ってるぞー。疑似餌は一応あるけど、生餌は現地調達するから早く行かねーと」

「カンちゃん待ってよ〜置いてかないでー」


 泣き言を言っているのは順に官九郎、秀平、そして今回、官九郎に付いて来たがった小学生高学年の英那。余裕なのは体力おばけの辰巳に、変速機付きの高性能マウンテンバイクに乗る恵多のみ。辰巳は後ろに晃を乗せたまま、上り坂を立ち漕ぎでさっさと登り切り、坂の上まで来るとサドルに尻を乗せ、風を感じながら一気に下ってゆく。


「アッちゃん、尻大丈夫か?」

「大丈夫! クッション持ってきた!」

「準備がいいねぇ」


 夏の陽射しに目をキラキラと輝かせる晃はちゃっかりしているのか、荷台にクッションを括り付けて座っていたらしい。


「あー。風、きもちいいー」

「んー? 何か言った?」

「何でもないー!」


 ──夏とはいえ、山の中は爽やかな空気で満ちていた。自転車で坂を下る。吹き付ける風がTシャツの袖の隙間から入り、汗が冷まされて心地がよい。ジリジリという蝉の鳴き声が山全体に響き、木々の隙間から伸びる光の筋に晃は目を細めるのだった。


 それから暑いキツいと文句を言い、汗水垂らしながらペダルを漕ぐことしばらく。自転車を寂れた駐車場の片隅に停めて山道へと入った。だだ、山道とは言っても、観光用かトレッキングのコースになっているのか砂利で舗装されている道だ。そこから荷物を持って沢を目指して歩くこと数分。


 徐々に小さく川のせせらぎが聞こえて来る。ジャリジャリと砂利を踏みながら歩いてゆくと広場と綺麗な小川が現れる。広場はキャンプ場所としても利用出来るようで近くにトイレと小さな炊事棟があった。今日は既に何組かのキャンパーが来ているようで、テントを張り始めているところだった。


 小川の川幅は七〜八メートル程の広さ、川底の石がハッキリ見えるほど透き通っている。水流は緩やかで浅瀬は足首から脛くらいの深さ。ここだとカジカがいるかもしれない。チェックしながらも、他にも釣りをする事ができるポイントがないか探しながら上流に向かって歩いてゆく。


「どう? いるかな?」

「どうかな……多分いると思うけど、淵のは釣るの苦手だし」


 秀平が問い、恵多が答えた。少し上流方には幅が狭くなり川の流れがカーブになった淵があった。水面の色が濃く見え、底を見通すことは出来ない。そこをジッと見ているとポコポコと泡が浮き上がってくる。もしかしたら底の方に何か大きな魚がいるかもしれなかった。


「──そしたら準備始めるか。いいか、年少組は溺れたりすると困るから川の近くでは浮き輪身に着けとけよ」

「はーい」

「えー……ずっとは邪魔。俺泳げるんだけど? てゆーか、官九郎たちはいいのかよ」

「俺らはいいの。言う事聞くって言うから連れて来たんだ。言う事聞けないならもう連れて来ないからな」

「……ちぇー、横暴だよな。……わかったよ」


 釣り場のおおよその目星は既につけられていた。とはいえ、実際に釣りを始める前に準備が必要である。小学生組の晃と英那は常時浮き輪装着。話し合いの上、念の為に年長者の誰かが必ず付くことにした。──とは言うが、組は既に決まっている。辰巳と晃ペア、官九郎と英那ペア。恵多と秀平は単独であった。


 6人の保護者にも川に遊びに行く事は事前に伝えてある。恵多の両親は心配してライフジャケットを買い与えて着させたが、辰巳と官九郎、秀平の保護者は心配もしなかった。辰巳の母は無関心なのか放任だし、祖母は昔から遊んではいけないと言われている場所だけはきっちり伝えて送り出した。そして、官九郎と秀平、英那、晃に関しては《《竜養寮》》の子。竜のように強い子を育てるという信条があるせいか、あれは駄目これは駄目と言う事はなく、スパルタな所があるのだった。


 それはさておき──釣りに入る前にもする事がある。まずは餌の確保である。広場に戻り、恵多は持参した折りたたみのタモで道具が傷つくことも気にせず近くの草むらを漁りまくる。


「けっ、ボンボンがよぉ」

「おっ? なんだ? いいのか? 釣り竿没収すんぞ?」

「すいません! なんでもありません!」


 官九郎は羨ましげにそう言ったが、恵多はニヤリとして返した。恵多の家は裕福だが案外普通の家だ。ただ、今日は釣り竿3本(父親の趣味の品を拝借。了承済み)を持参して来ており、官九郎と秀平、英那に貸し出していたのである。


 ちなみに施設からは恐らくは僧侶の誰かが持ち込んだ、私物だっただろう竹竿も念の為持ってきていた。こちらは分割して短くする事が出来る為、カジカ釣りにも使えそうだった。……釣りをする僧侶とは、なんとも破戒僧的であるが。


 バサバサとタモを振り、中に入ったクモやコオロギを施設から持ってきた緑色の虫カゴ×4に分けていれる。その作業が終わると、それぞれが釣りに向かう為に散らばっていった。


「よっしゃ、じゃあ行くか」

「うぇ……クモ……」

「何だ、アッちゃんクモ苦手だったの?」

「にっ、苦手じゃねーし!」

「ほれ」

「うっ、キモッ……っ、近づけんなって!!」

「わはは」


 そう戯れながらも辰巳は家から持ってきた今は亡き父親の釣り竿を晃に貸し、仕掛けを付けてやる。竿は渓流用のコンパクトロッドだったが、そこそこの長さがあった。


「これ、どうやったらいいの?」

「仕掛けは俺が付けてあげるから。餌つけたらアッチで投げてみるか。綺麗な水の魚は警戒するから静かにな」


 晃は釣りをやった事が無いので、辰巳に教わりながらの挑戦になる。一先ず、深い場所にいる見えない魚を狙うよりは魚影の見えている場所に静かに移動した。


「タツ兄ちゃん。あれ、何の魚?」

「んー何だろ。俺も詳しい訳じゃないからな……多分、山女魚かアマゴじゃないかな」

「ふ〜ん……」


 よく分かっていないように、生返事を返した。


 目立たないように姿勢を低くした晃と辰巳の視線の先。そこには何匹かの魚が泳いでいるのが見えた。恐らく20センチくらいはあるだろうか。見た目はそうでもなさそうだが、実際には流れがそこそこ早そうな所にいる。


「よっしゃ、取り敢えず餌つけた」


 辰巳が虫カゴから出したクモを針にかける。糸は竿よりも少し長めに、あとは重りのガン玉を幾つか。流れがそこそこあることを考慮して、上流側から静かに流して底の方にいる魚の近くに徐々に潜らせてみる。


「釣れるかな?」

「どうかなぁ。駄目だったらもう少し上まで移動してみるか」


 辰巳は晃に竿を持たせ、背後から晃の手に重ねるようにして竿を支える。それから上流に静かに餌を落とし魚の視界に餌が入るように調整、二人は無言になりながら魚がかかるのを待つのだった。



 ──そんな二人の姿を遠く離れた下流域に当たる場所で、英那が二人を見ていた。その英那の側には官九郎がいて、今は短くした竹竿を持っている。竿の先端には短い糸があり、その先の釣り針には川エビがついている。


 官九郎と英那の二人はカジカを取ろうとしている所であった。ちなみに、この川エビは恵多のタモを借りて、そこらの岩をひっくり返してガサゴソして捕まえたものだ。


 竿の先端ごと川エビを岩場の隙間に突っ込んで反応を見てゆく。ここには目的の魚はいないようで、反応はない。


「カンちゃん、いそうー?」

「待ってろ英那。こうやって、岩の隙間にエビを突っ込んでやれば……」


 官九郎は次に狙いを定めた岩の隙間に川エビを突っ込むと、そのまま動きを止める。すると……


「お、きたか!」

「え! ほんとっ!?」


 竹竿に伝わるビクビクという感触。英那は突然の大声に驚きつつも官九郎が魚を釣り上げるのを見守った。そして、やはり釣れたのはカジカだった。


「やったー! カンちゃん凄い!」

「へへっ、だろ? コイツ、食ったら美味いぞー」

「そうなんだ! ならいっぱい取らなくちゃ!」

「おう! じゃあ英那もやってみるか?」

「うん!」


 官九郎はドヤ顔で胸を張る。その隣で英那は目をキラキラさせて官九郎と釣ったカジカを見つめていた。



 そして、秀平と恵多であるが──二人は辰巳達よりも下流、官九郎達よりも上流の位置に陣取り、川の流れがカーブになっている淵の底に居るであろう大物を狙っていた。しかし、投げても投げても、餌を新しい物に交換してみても反応すらない。


 やはり、何もいないのかと諦めかけた時だった。深い青の中に、黒くうねる魚影が見えた。しかも、中々の大きさの。


「やっぱりいるんだよなー」

「いやー。でもあれは釣れなくね? 全然食う気ないんだけど」

「んー……餌が良くないのかなぁ。影になってるし、もしかしたら見えてないのかも」

「今日はもう駄目かね? 結構投げたし、警戒もしてるかも」

「それは確かに……」


 ──と、二人がコソコソと話をしているとブーン、と大きな羽音を立てて飛んでゆく蜂の姿を恵多が見つけた。


「……あー、でも危ないしなぁ」

「何が?」

「ん、作戦」


 秀平は恵多の要領を得ない返事に訝しげにしたのだった。

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