第14話 寺社と石動家 8/7(土)
「本当に車で送らなくていいの? 結構距離あると思うんだけど……」
「大丈夫、大丈夫。たまには体動かさないと」
遅めの昼食も取り終わり、お祓いの片付けも済ませた頃。神楽木さんは送ってくれるとは言うが、俺は走って帰ることにした。
今日のは中途半端に暴れてしまったから、少しだけ消化不良だった。それに、帰ろうと思えばすぐに帰れる距離なので気にしないで貰うことにする。
昔の話だが、まだ中坊だった頃は色んな場所をランニングしていたものだ。久しぶりの故郷。昔と変わった景色を楽しみながら帰るのも悪くない。
「そっか……今日は本当にありがとう。それと、これからも宜しくね」
「あぁ、此方こそ宜しく。アルバイトも紹介してもらって、ご飯までご馳走になって、神楽木さんには本当にお世話になってばかりだなぁ」
「そんな事ないよ。祓については、私も石動くんが手伝ってくれると本当に助かるし、いてくれたら心強いから。それにご飯のことも何も気にしないで。一緒に食べる方が楽しいでしょ? 手伝ってくれるお礼の一つだと思ってくれたらいいよ」
「うーん、だといいんだけど……」
そもそも神楽木さんのお祓いの補助アルバイトは、俺が金と仕事に困っている事を知った彼女からの好意の紹介によるものだ。それだけで神楽木さんには頭が上がらないというのに、飯までご馳走になってしまった。
多分、俺の思い違いでなければこれからも神楽木さんはお祓いの度に用意してくれるつもりではあるんだろうけど……本当に俺はこれから彼女に恩を返せるのだろうか?
神楽木さんはそう言うと、思い出したように言葉を継ぎ足した。
「あ。それでね、補助をお願いする時の連絡方法だったんだけど……」
「あー、そうだそうだ。ごめん、伝えるの忘れてた。えーっと……取り敢えず、婆ちゃん家の電話番号をメモして来たから、そこに連絡を──」
「あ、あのね!」
俺はポケットから紙切れを取り出す。婆ちゃん家の電話番号が書かれたメモだ。それを伝えるか、渡すかで一瞬悩み、まぁいいかと結局そのまま少し皺になったメモ書きを渡そうとした。だが、俺は神楽木さんに差し出した手を途中で止めてしまった。
理由は簡単だ。神楽木さんが俺の言葉を遮ったからだった。
「あのね、私も色々調べてみたんだけど!」
「な、なにを?」
何故か勢い良く身を近づけて来る神楽木さんに、俺は若干仰け反りながら聞く。
先程までの優しげな雰囲気を出していた神楽木さんだったが、今は少し眉根を寄せ、表情にも若干の緊張が見られる。しかも何やら顔が赤くなってもいるような……突然どうしたのだろうか……?
「プ、プリペイドのSIMカードならどうかなって。プリペイドなら本人確認も審査もないし手続きも要らないんだって」
「え、へぇ〜、そんなのあるんだ。それなら、その……戸籍なくても持てる?」
神楽木さんが言いたかったのは個人用の連絡先についてだったらしい。なら何で、それで顔を赤くする必要があると疑問に思うのだが……謎だ。女の人はよくわからん。
ちなみにだったんだが、俺が中学生の頃は携帯なんて持たせて貰えなかった。高校生になったら持たせてもらえるとは期待していたのだが、その矢先に異界送りである。
もしも持てるのであれば俺にとっては初の個人用電話になる。齢27にして、初ケータイという……多分、今の世間では珍獣みたいなもんではなかろうか。
「大丈夫だよ!」
「そう、なんだ……そっか、俺でも携帯持てるんだ!」
「あ、でもね。端末だけは別で用意しておかないといけないから、それだけは買う必要があるかな」
人が持っていて、自分が持っていないというのは少しストレスだ。いや、全ての事がそうという訳ではないのだが、ケータイは現代では小学生すら持たされるという必需品。門前町やら寺院周辺を散歩していても観光客の皆が皆、ケータイ構えて楽しそうに写真を撮っている。しかも最近ではライブ配信だと動画再生とかいう機能もあるらしい。もはや電話関係なくね?
自然溢れる環境にずーっといた俺は思ったね。俺もあの文明の利器で写真撮ってみてぇ! あの小さい板をポチポチしてみてぇ! クソ羨ましいぃ! と。
しかし、神楽木さんが言うにはSIMカードとやらと、ケータイ本体が必要ということらしい。プリペイドとやらの仕組みも、何で身分証なしで買えるのかとかもよく分からないが……まぁ、買えるなら何でもいいや!
あ、でも……
「端末か〜……端末って本体だよね? それって高い? 今日のアルバイト代で買える?」
そんな事を聞いたら神楽木さんにクスクス笑われた。恥ずかしい。でも、仕方ないじゃないか! 俺は今日、働いた対価として金を手に入れた。その内の幾らかは食費として婆ちゃんに渡すとして……後は俺の自由! その金で携帯が買えるなら買いたい。いや、絶対買うね。そして神楽木さんの碧い目と目があって、また笑われた。……解せぬ。
「そうだね……新品だとやっぱり高いから、狙い目は中古になるかなぁ」
中古かぁ……まぁ、いいか。弁護士してるっていう竜臣叔父さんに俺の戸籍を復帰させる為に動いて貰ってるし、中古使ってみてダメだったら、身分証が手に入ってからまた新しく買うことにしよう。あぁ、竜臣叔父さんにも何かお礼考えなきゃ……
「何処で買えるか知ってる?」
「中古だったらリサイクルショップとかかな。最近では家電量販店とかでも売ってるみたい。端末選びで不安があるなら、良かったら私も付いていくよ? どうかな?」
くっ……首を傾げた上目遣いの仕草が……こういうのをあざといと言うのか? 可愛すぎやろがい。これ絶対、自分の容姿が分かっててやってるだろ……
リサイクルショップなら家からは少し離れるが、
歩いていける距離だ。逆に家電量販店は家から結構遠くて、駅前の繁華街の方まで行かなくてはいけない。それでは自力で行くには少し時間がかかる。それに交通手段の限られている俺は、バスに乗って行かなければならないので少しだけ億劫だ。
そして、神楽木さんの申し出は有り難かったが、ケータイ選びまでお願いするとなると、流石に頼り過ぎだろう。神楽木さんの事は勝手ながら友達だと思っているが、俺は人との距離は大事にしたいのだ。それに、ただでさえ盆前という忙しくなる時期なんだ、彼女の時間をこれ以上俺の為に割いてもらうのは心苦しい。
「んー、此処の所、何から何まで神楽木さんの世話になってるからなぁ……あまり頼り過ぎるのも流石に悪いし、それくらいは自分でやってみるよ」
「そ、そんなこと気にすることないよ! それに今は機種とかたくさんあるみたいだし、使いづらいのとか、壊れやすいのとかもあるかもしれないしっ」
……やけに食い下がってくるな。やっぱり、俺って頼りなく見えているのだろうか? それとも常識がないように見えているとか? 確かに現代の常識には若干追いつけていない感じはするが……だとしたら尚更、頼る訳にはいかないなぁ。あまり頼り切りになると後でウザがられそうだし。
「確かに端末選びでは分からない事が多いけど……そこらへんは店員さんにオススメでも聞くから大丈夫だよ」
「……そ、そっか。うん……分かった。じゃあ、何か困ったら相談してね? 私で力になれることなら何でもするから……!」
ホントにいい人だなぁ……きっと困ってる人がいたら放っておけないタイプなんだろう。……いいか、俺。絶対に勘違いするんじゃないぞ。神楽木さんの好意にも見えるこの行動は、《《善意》》だ。ここで、神楽木さんが俺に好意を持っているだなんて勘違いしてみろ。後が地獄だぞ。
例えばだが、俺のこと好きなの? と調子に乗って神楽木さんに聞いてみたとする。そしたらどんな恐ろしい反応が返ってくるか……
『え……ごめんね、私はそんなつもりではなくて……ただ困ってるのかなって……』
だとか……
『ご、ごめんなさい……勘違いさせたみたいで……私、昔からよくこういうことがあって……ごめんね、好きな人は他にいるから……』
あれ。なんか、泣きたくなってきた……
『私が石動くんに……? ごめん、戸籍と仕事がない人はちょっと……』
……。
想像してるだけでライフが削られてゆくようだ。いや、ライフじゃないな。正気度か。発狂して叫び出しそうだ。
「……ありがとう。もし駄目そうだったら申し訳無いけど、お願いしようかな」
「う、うん……」
なんだろう……こころなしか神楽木さんの表情がすぐれない気がする。若干、口元が引き攣ってる気もしないでもない。やっぱり、内心では俺の常識のなさに不安を覚えているのかもしれない……
「そ、それじゃあ、そろそろ行くよ。こんなに遅くなるって言って来なかったから、流石に婆ちゃんも心配してるかもしれないし……じゃあ、今日はありがとうね!」
「あっ……う、うん……ま、またね……」
俺はそう言って神楽木さんに背を向けて手を振りつつ、逃げるようにして家路へと着いたのだった。
□
ヒグラシが鳴いている。日も少し傾き始め、気温も落ち着いてきた境内。鳥居を潜り、石の階段を駆け下りてゆく想い人の背を見送る。
最後まで結衣が辰巳を見送っていると、最下段で辰巳が振り返り、もう一度手を振ってくれた。それに慌てて応え、辰巳が走り出す。そして、今度こそその姿は見えなくなった。
結衣の心の中にあったのは、これまで感じたことの無い奇妙な寂寥感。それと少しでも離れていたくない、側にいたいという恋しく思う、強く心地良い感情。
結衣は思い起こす。今日は一日、ずっと楽しかった。まるで小学校、中学校の子どもの頃に戻ったみたいに。ドキドキして、これが話に聞くお家デートか、とも思ったりもした。今日のような日を、もっともっと増やしたい。繰り返したいと思った。
あんなに心踊る修祓も初めてのことだった。初めての共同作業。神職として、巫女としてはあるまじき事だが、正直なところ結衣は巫女舞が苦手であり、習った動きを師の物と寸分と違わずなぞる事は出来るがその中身はいつも虚ろであった。
だが、その苦手だった巫女舞から齎される効果が今日はいつもよりも明らかに大きかった。それは多分、舞に結衣の心が表れていたせいなのだろう。
そして何より……
──またねと、そう言ってくれたのだ。その事が何よりも嬉しかった。もう長い時間、待つ必要などない。本当に待っているだけで、会えるかどうか不安に思う事も無い。それに比べて、次があり、またすぐに会えると分かっていることの何と心待ち遠しいことか。一日千秋の思いで待つ、という言葉に初めて共感する事が出来る。
だからだろうか、思わず口元が緩んでしまう。今鏡を見たら、きっとだらしなくニヤけているに違いないと思った。
しかし──と、結衣は緩む口元を引き締める。結衣はその碧い瞳で辰巳の心を幾度となく視ていた。それで分かったこと。どうやら、辰巳は結衣の好意を善意の親切心と勘違いしているようなのだ。
あれほど露骨に好意を示しているというのに……この辰巳の鈍さには、さしもの結衣をしてどのようにしてその認識を正すべきか悩んだ。
──認知の歪みと共感能力の欠如という、結衣の心のハンデキャップ。そして、それを代償に得た、心を視るという能力。加えて、半人半霊という身代。異界研究の為に行った人身御供。その他にも諸々。結衣には隠している秘密が多い。
だからこそ、結衣は想い人を射止める/手に入れる為に、絶対に逃げられないような確実な関係を築く必要があり、世間一般からすれば《《化け物》》でしかない『本当の私』を受け入れざるを得ないような状況に誘導する方法を考えていた。
そして、この先のことに想いを寄せる。
知り合い(同級生)、友人、恋人、夫婦。現段階で、辰巳は結衣のことを既に友人として認識しているようだったが、結衣にしてみればまだまだ知り合い程度の心の距離感でしかない。友人と言うには互いに遠慮があり、理解し合うに足りる時間も共に過ごしていない。そもそも、こうして話すことが出来るようになったのも、再会を果たしたつい数日前のことだったのだから。
もしこの気持ちを辰巳に伝えたら……辰巳は様々な戸惑いを抱きながらも拒絶はしないだろう。結衣の事情を知れば憐れむこともするかもしれない。だが、その罪悪感を一切感じる事のないサイコパスとも言える本性までを知られてしまえば、一線を引こうとはするかもしれない。
でも、結衣はそんなこと認められない。そんなことになれば、それこそ発狂するか、何とか辰巳の気を引こうとして、質の悪い悪事に手を出そうとする未来が結衣にはありありと思い浮かぶ。
失敗は許されない。だからこそ、強い絆を作るにはもっと時間を、二人だけの秘密を、思い出を共有しなければならなかった。その点で言えば、今日の祓は良いテストケースになったと言える。
何故ならば、二人一組で怪異に対処するという、信頼関係を築く一歩を進められたのだから。適度な興奮の共有は互いの信頼関係を醸成し、強い絆を形作る。強い絆があれば、真実が白日の元になったとしても結衣は見捨てられずに済む。その為にも、この協働は続けていこうと結衣は評価した。
それにしても……
「……お買い物デート……したかったぁ……」
結衣は眉尻をハの字に下げて、打ちひしがれたようにヘナヘナと気を落とした。
そのまま境内と石段の境に建てられた鳥居に背を向け、社務所に向けてトボトボと歩みを進める。ガラガラと音を立てて扉戸を開いて中に入った。
「見送りご苦労さま、辰巳くんは帰ったかな──おや、浮かない顔だね。……もしかして、フラれてしまったのかい?」
「……は? そんな訳ないでしょ」
「ハハ、結衣がそんなヘマする訳ないか」
中に入ってすぐに出迎えてくれたのは、父の衣弦であった。結衣はその言に眉を顰めつつ、衣弦を軽くあしらった。
「しかし、なかなかいい男じゃないか辰巳くん。実直で健康、結衣の仕事も手伝える。お見合いを頑なに拒んでいた理由がわかったよ。それに小中の同級生か……結衣は意外と一途だったんだねぇ」
「……別にお父さんにはどうでもいいことでしょ」
昔から、衣弦は結衣のことや、この八杜神社のことにもさほど興味はない。もっぱら興味があるのは、本来外様である自身はさっさと当主の座から降りて結衣に明け渡し、自身は結衣にも隠し通せていると思っている《《別の家族と一緒に暮らす》》ことにある。
衣弦は神楽木家の婿養子で現当主。結衣の母親が元々身体が弱かったという事情もあり、遺産相続権の関係で養子縁組をした上で婿入りした過去があった。その為、排他的な考えに凝り固まった地域の老人方にはウケが悪く、散々に詰られることもあり苦労してきた過去がある。そんな場所に帰属意識など持てる訳も無いのだ。外に家族を作ったのは当然の流れとも言える。
結衣はそれらの事も当然知っていた。だが、そんな事情を知っていようと同情も軽蔑もない。認知の歪んだ結衣には目の前の存在を父親の記号を持ったヒトという認識でしか映らず、心を動かす要因にはなりはしない。こうして話をしているのも、ただ自身の外聞の為に合わせているに過ぎず、当然、結衣はその異能や代償についても話したことはなかった。
「そう機嫌を損ねないでくれ。僕にとってもどうでもいいってことは無いよ。今後の神社運営にかかわることだし。それで関係は上手くいきそうなのかい?」
「……普通だって。もう、こういう事聞いてくるのやめてよ」
衣弦にとっては、当主の交代こそが関心事。結衣が当主となる為には、婚姻は避けては通れない条件であり、関係を気にするのも当然の事だった。
「いいかい? あの手の男は義理堅いし、情に篤いけど、一度これと決めたら意見を変える事はないからね。先に誰かに取られないように気をつけるんだよ」
その言葉に結衣は眉を顰め、嫌そうな顔をして返す。結衣のように心を視る事が出来ないのに、衣弦のその分析は結衣のものと一致していた。それはひとえに人を見る目を持っていると言う事であろう。
「それに結衣には特殊な事情もあるし、辰巳くんは裏の世界のこともまだよく知らないのだろう? しっかり信頼関係を築かないといけない。結衣は大丈夫だと思うけど不義理は以ての外だ。覚えておきなさい」
「分かってるわよ」
裏の世界とは言うが何ほどのこともない。ただ単に目には見えない存在達に対応する者たちが、世間には一般化しておらず、国の庇護下に置かれつつ、隠れるようにして存在しているだけのこと。
「……でも、もし駄目でも、最悪は子種くらいは貰ってくるんだよ。他にお見合いを受けるつもりがないなら尚更ね。僕だって無理矢理、相手を決めることはしたくない。結衣はこの社の跡継ぎなんだからさ。次代のことも考えないと。もしかしたら繭子ちゃんにも苦労をかけるかもしれない事になる」
「……そんなの言われなくてもわかってる」
それは結衣にとっては耳の痛い話だった。結衣の弟子であり、妹分でもある繭子は神楽木の親戚筋でもある。結衣がいる内は繭子が跡継ぎになることはないだろうが、その結衣に霊を見る力の無い後継がいなければ、繭子の子に期待する者達が出てくるだろう。
面倒な親戚筋に氏子達だ。結衣はこんな限界集落、さっさと消滅してしまえばいいのにと思った。
「まぁでも……彼だったら僕が反対することはないから。頑張って」
「そう……でも、もう余計な事はしないで。お父さんのお節介が過ぎると、本当に嫌われるかもしれないんだから」
「それは悪かったよ。でもさ、父親としては将来義息子になるかもしれない子だし気になるものなんだよ。それに……結衣が今までに無いくらい楽しそうに見えたから、ついね。確かめたくなってしまった」
今日の結衣の様子は長い間間近で見てきた衣弦をして雰囲気がガラリと変わっているように思えた。これまでの外面だけ上手く取り繕ったような、内心で何を考えているのか分からないような態度ではなく、感情が表情に表れていた。
昔から無感動な子であったが、今日の結衣は明らかに良い意味で感情的だったというのが衣弦の感想であった。
「……もう知らないっ! 本当に余計なお世話! じゃあ、私と繭子は帰るから!」
「あ、あれ。怒っちゃった? ……結衣ー?」
「……」
「ハハ、怒らせちゃったな」
怒った様子の結衣が荷物を手に、再び玄関から出てゆく。ピシャリ、と扉戸が閉まる音がした。
結衣の帰る場所とは、山を下った所に借りているアパートの一室のこと。そして、繭子の家も麓の町にある。この八杜神社は交通の弁が悪いので、仕事を持つ若い人は麓に居住地を移している事が多いのだ。
一人社務所に取り残された衣弦は肩を竦め、何事も無かったかのようにリモコンを操作してテレビの電源をつけ、それを見始める。その後ろ姿は一人、苦労を背負って来た事を示すように、孤独な雰囲気を醸し出していたのだった。
□
ランニングしながら約十年ぶりの町を見て回った。町は俺が思っていたよりもさほど様変わりしている訳ではなかった。とはいえ、やはり変わった点はあり、真新しい建物、見知らぬ道、無くなった田畑、以前はなかったスーパーなどがあったりした。
「ただいまー」
「おかえり、遅かったねぇ」
「昼もご馳走になっちゃったよ」
家の近くの御山から聞こえてくるのか、カナカナカナ、というヒグラシの鳴き声が木霊して聞こえていた。家に辿り着いた時には、すっかり日が暮れていた。
玄関の引き戸を開け声をかけると、祖母の声が台所の方から聞こえて来る。俺はその声に応えつつ、手を洗ってから居間へと移動した。
「そうかい。神楽木のお嬢さんは中々の遣り手のようだ」
「うん? でも神楽木さんには世話になりっぱなしだ……色々助けてくれていい人だよ」
居間にある扇風機の前で、身体の熱を冷ましていると婆ちゃんが居間に来て、そう言い放った。
婆ちゃんの言う遣り手がどういう意味なのか分からなかったが、俺が神楽木さんに世話になりっぱなしで、頭が上がらないというのは本当の事だ。
「それなら良かったよ。懸情流水、受恩刻石だ。人は一人では生きていけない。人から受けた恩を忘れたり、人に恩着せがましくしたら人は離れてゆく。努々、気をつけることだ」
「そんなことしないって」
懸情流水 受恩刻石というのは慈願寺静嶺院にある石碑に刻まれている言葉だった筈だ。小さい頃から婆ちゃんには色々な事を教わってきた。これもそのひとつ。その教えは確かに俺を形作る一つになっていると思う。
「ならいいさ。ほら、ご飯できてるよ」
「ありがとう。……婆ちゃん、あのさ」
いただきます、と言って箸を持ち、何となく今日あった事を話始めた。
「ん? なんだい?」
「神楽木さんの所で聞いたんだけど、石動家って昔は武家だったの? ここらへんでは名士だって」
「辰巳……あんた、そんな事も知らなかったのかい? あぁ……中学で知識が止まってるんだったか……」
婆ちゃんは呆れた顔をして、ため息を吐いた。……なんか、俺っていつもこんな反応されてないか? 気のせいか? いや、気の所為じゃないよな……でも、知らないものは仕方ない。俺は悪くないと言いたい。
「そんな大きな溜息つかなくても」
「まぁ……名士とは言うが、そう大層なもんじゃないさね。ただ、本家筋が偉かったってだけの話だ。ウチのご先祖様が本家本元の許可を得て分家を立てて、この地に居を構えたと言われている。士族だったっていうので軍人やら官吏に就くことが出来たからね。他所様と比べれば多少裕福だったって程度だよ」
大したことはないとは言いつつも、その表情には士族の家柄だという誇りが見られた。少し聞いてみれば、昔は今よりも家柄を気にする風潮が強かったこともあり、個人や家が困難や試練に直面するとウチは貧しいが家柄だけは一等と、逆境に負けないよう自らを鼓舞したものらしい。
思えば祖父ちゃんは軍人だったらしいし、父さんは自衛官だった。婆ちゃんから聞いた話では曾爺ちゃんも軍人だったと聞いていた。そういえば竜一おじさんも警察関係らしいし、やはり家系は進路に影響することもあるのだろうか。
婆ちゃんにそう聞いてみたら、親の背を見て育つというように、子にとっては自身が何者であるかという疑問は非常に気になるものらしい。良くも悪くも親を参考に似た道を歩もうとする、というのはよくあることなのだと。
まして昔は世襲の慣習も強く、家が家業を持っていなくとも特定の職──軍属や警察関係に就かせ引き立てることで、立場を引き継がせることもあったらしい。それは一族の持つ人脈であったり、知識を独占し、引き継がせる必要があったからだと。
「へぇ。でも家を分けたって言うけど、何でまたこの場所に?」
「さてねぇ……一応家系図や過去帳は取ってあるが、ウチには石動家家伝なんて大層な書物はないからね。いつ頃此処に住み始めたのかは私では分からないよ。あぁ、そうだ。過去の日記くらいは蔵の中にしまってあるかもしれないね。けど、いくら血族とはいえ、ご先祖の遺物をみだりに荒らすようなことはするんじゃないよ」
婆ちゃんはそう言ったが、別にそこまでして調べるつもりもなかった。確かに石動家のルーツを調べることは暇つぶしにはなるかもしれないが、どうしても面倒だという気持ちが勝る。というか蔵の中に入るなんて言ったら、ついでに掃除でもしておけと言われるに決まってる。
それにしても石動家か……俺は自分の家のことについて、その成り立ちも殆ど知らないでいた。
「わかってるよ。あのさ、慈願寺とこの辺の神社ってやっぱり仲悪いの?」
ついでに慈願寺と神社の関係についても婆ちゃんに聞いてみることにした。過去に争いがあったことは知っていたが、仏教に近い側ではどういう認識になっているのか少し興味があったからだ。
「はぁ……あまり口にしたくない事を聞く。あのお嬢さんから聞いたのかい?」
「いや、神楽木さんのお父さんから」
「……そうかい。その問の答えだけど、長い歴史を持っていれば色んな事が起こるもんさ。今は落ち着いているようだが、昔はこの地域の寺院と神社の《《一部》》は特に仲が悪かったらしいからね。それこそ今では考えられないくらいに」
その名残なのか、この辺りの慈願寺に近い年嵩の人間はあまり神社に詣でることをしない。祝いの席だってお寺さんに祈祷をお願いするし、年始だってお寺さんに詣でるのだと婆ちゃんは言う。
まぁ、それにはそもそもこの月隠山と慈願寺周辺の町には過去の事件の影響のせいなのか、大きな神社が残っていないという事情もあるのだろうが。……とはいえ婆ちゃん曰く、仲が悪いのはほんの一部で、多くの神社とは持ちつ持たれつの関係を維持していて、今も関係は悪くないのだとか。
「今は地域への人の出入りが激しくなって一々気にするものも少なくなっただろうが、ここら寺に近い所に住む人らは山間部に住む集落の人らを嫌厭することが多かった。たしか前に話したことがあったろう。部落差別があったと」
前に昔の風習について話をすることがあった。その時のことだろう。生まれた地域によって差別され教育や就職、住居、結婚が制限されることがあったというものだった筈。
「聞いた気がする。それが?」
「さて……大昔に慈願寺と神社とで酷い争いごとがあったのは知ってるかい」
「最近よく聞く。廃仏毀釈ってやつでしょ?」
そうだ、と婆ちゃんが頷く。
「ここらは昔から寺院の影響力が強かったんだが、明治の初頭……時代の変わり目だったんだろうね。仏像や仏具が捨てられたり、お地蔵様や石仏が壊されることが頻発したらしい。中には放火で寺が焼け落ち、廃寺に追い込まれたところもあったと聞いている」
その廃仏毀釈の痕跡は現代にも残っており、この地域では首切り地蔵という形で月隠山山中や周辺にも多く見られるのだという。当時の廃仏毀釈の波は一時的なものであったことから、その幾らかは修復しようと試みた形跡もみられた。しかし、その多くは首を持ち去られていたり修復が困難なほどに破壊されており、完全な修復は今でもされていないらしい。
「そういう過去があるから此処らに古くから住む寺の檀家は、昔の廃仏毀釈に加担した連中の子孫を疎んでいた。つい数十年前までは今の山間部に住む子孫の人たちを嫌厭して差別してたんだよ」
……もしかしたら過去の出来事の形跡が残っているということも、差別が現代にまで残っていることに影響しているのかもしれないと思った。
そして婆ちゃん曰く、慈願寺の信徒、檀家であることはこの地域の住民にとっては一種の帰属意識にもなっているようで、外部の人間が寺院の在り方を否定するのには敏感なのだという。
「……神楽木さんのお父さんから聞いたんだけど、その騒動に石動家も関わってたって」
「そこまで聞いてるのかい。……そうだねぇ。昔、私がお前の高祖父に当たる人から聞いたことのある話にはなるが……当時、藩寺社奉行だった石動家のご先祖様は、その大昔の争いごとで寺社間の仲裁をしたと聞いている。その話では、ご先祖様が知藩事や政府役人に直談判して、これ以上、政府に阿って寺院や神社を刺激するようなことはしないよう止めたらしい」
「奉行って偉い人なんじゃ……」
思っていたよりもご先祖様が偉い人だった。というか、婆ちゃんの話を聞く限りではご先祖様の立場としては藩の役人であり、必ずしも寺院側にも神社側にも立っていた訳ではないみたいだ。
神道国教化は強固で、政府の意向を無視することは出来ない。だが、この地には古くから根ざす信仰が広まっており、仏教と神道は互いに深く結びついていた。それを神仏分離によって雑に引き離してしまった。……信仰の急激な変化は民衆を不安にさせ、この地の民心は不安定になった。それは神仏分離から発生した歪みだったのかもしれない。
「当時の神社側の末端連中も時代の変化の流れに飲まれて、やり過ぎてしまっていた。それでも、上が止めろと言えば聞かざるをえなかったんだろうね。僧侶たちの恨みも相当に強かったと伝え聞くが、何とか呑み込んだ。……それだけでご先祖様はよくやったと思うよ」
その声音には、今なお残る遺恨を憂いているものが感じられた。それから、だが、と続く。
「──そんな中、とんでもない事件が起きた。ある時、寺院から《《大切なものが盗まれた》》として寺院側で暴動が……護法一揆の形を取って起こったようだ」
そして婆ちゃんは声を潜めてそう言った。それこそが、今なお残る寺院側と神社側の確執の源であると。
「大切なもの?」
「……何も確証がある訳じゃない。だが、昔、爺さまが客を招いた酒席で、酔っ払った静嶺院の住職がポロッと溢したことがある。……いいかい、これだけは絶対に誰にも言うんじゃないよ。住職が言うには、盗まれたのは慈願寺の本尊である《《阿弥陀如来像》》だったって話だ。そして、今も本尊の行方は分かっていないんだと」
婆ちゃんの話が本当であるなら寺院にとって最も大切な、信仰の象徴とも言える像が何者かによって──話の流れからすると神社の関係者によって持ち出されたということなのだろう。
実際に神社の神職が慈願寺の本堂に侵入して持ち去ったというのは難しそうな話ではあるが……当時は寺社に両属していた者もおり、僧侶が神職に、神職が僧侶に転身することもあったそうだ。なので、侵入するのは不可能という訳でもないらしい。
それと、もう一つ気になったのは……
「え? じゃあ普段飾られているのは?」
「……飾られてないよ、お馬鹿。数年に一度御開帳になるのは前立本尊と呼ばれる本尊の身代わりで、本尊は絶対秘仏だ」
そんな疑問をぶつけると呆れられてしまった。……つまり、どういうことなんですかね?
「あの……絶対秘仏って……?」
「……厨子に収められたまま、誰も見ることが出来なくなっている仏様のことだよ。社会に出る前に、ここらの常識を少し勉強しときな。あんたもお参りしたことくらいあっただろうに」
ハァ、と思いっきり溜息をつかれた。何でそんなことも知らないんだという心の声が聞こえてきそうだった。
つまりは、普段観光客たちは厨子に向かって手を合わせているということか。その中身を見ることは出来ないが、数年に一度、複製が本尊の身代わりとして公開されるようだ。
「う、うん。それじゃあ……」
「その中を知る者は誰もいないからね。もしかしたら、厨子の中身が空──ということも有り得るかもしれない」
「何も無い所に祈ってるってこと……? 寺としてそれはマズイんじゃ……」
「マズイなんてもんじゃないよ。慈願寺はその事を公にはしていないんだからね。当然の事だが、あんたがまたポロッと溢したら、あんただけじゃなく石動家もとんでもなく睨まれることになるから気をつけるんだね」
「……何でそんな事聞いちゃったんだよ、俺……」
知ってはいけない秘密を知ってしまった。婆ちゃんが聞いたという住職のようにポロッと秘密を零さないように気を付けなければならない。
「──それでだ。ここらへんはお寺さんと住民の繋がりが今でも強い。いや、昔ならもっと強かったんだろう。大切な《《何か》》を盗まれて激怒した僧侶たちが信仰心の篤い門徒を引き連れて犯人と思われる者達のもとに取返しにいったらしい。それが絵画に残る程の凄惨なものになったとも言われている」
話が繋がった気がした。一度は治めることが出来た争いだった筈が、信仰の根本に関わる大切な物を盗まれたことで、寺院側も堪忍袋の緒が切れたという事なのだろう。それこそ当時の世情を無視してしまうくらいの激情を持って。
「それが資料館にある絵図……」
「そうだ。惨い絵だよ。社に火をつけ、人を追い回す。不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒。僧侶や信者らが狂乱に任せて振る舞う姿は、人の本性を表している気がして気分が悪くなる」
そして、それ以降、両者の関係は壊滅的に悪くなり、基本的に交わることは無くなったのだとか。あの絵を書いた作者もこの惨劇は忘れてはならないと思って後世へと残したのだろうか。
「それでも口さがない爺どもの中には、それで廃仏毀釈を扇動した神職とそれに従う信徒を御山周辺から追い出したんだって、自分が関わった訳でもないのに武勇伝みたいに話すのもいるがね」
そう言って婆ちゃんは表情を苦々しいものへと変え、吐き捨てた。アレらは全く何も考えていない阿呆共だと。
「──結局、騒動の後は寺院側からだけ逮捕者を出して、神社側には窃盗に関するお咎めも何も無かったと聞く。盗まれたものも見つかったのかは、分かっていない。……それに、騒動の後には廃藩置県が重なったようでね。色々とゴタゴタがあって、県の再編と共に、ご先祖様は諍いを仲裁出来なかった責を負わされて役を罷免されたようだ」
「えぇ……逮捕されたのは寺院側だけ……? それにご先祖様、寺社の争いに関係ないじゃん……」
「今も昔も、政府のやることなんざ、そんなもんさ。国の方針で元々神社贔屓だったんだろうし、罷免は結局は誰かが責任を負わなきゃいけなかったんだろ」
そりゃ大きな騒ぎを起こした僧侶たちが捕まるのは当然だろうが、神職の方も石仏壊したり寺に放火したりしてたって聞いたんだが……それでは捕まらなかったのか。しかも、ご先祖様まで巻き込まれてるみたいだし……
「まぁ、徳川政権までは仏教が贔屓されていたからね。決して許される事ではないが、放火や毀損だって抑圧されてた神道側に鬱憤が溜まっていたっていう事情もあったんだろうさ。それ以上、お上は大事にしたくなかったのかもしれない」
と、婆ちゃんは話を終えた。これが寺院側のおおよその認識であるらしい。だけど……これが全てなのだろうか?
最初に神楽木さんに資料館で出会った時、神楽木さんは表と裏で争いになったと言っていた気がする……それを口にした神楽木さんは、《《裏の事情も知っている》》という事なのだろうか?
「そっか……ちょっと難しかったけど、ウチの事を知れて良かったよ。それと……もしかしたら周りから嫌な顔されるかもしれないけど、俺は神楽木さんと付き合いを止めるとかはしないから」
「見損なうんじゃないよ。私が付き合いを止めろとでも言うと思ったかい。懸情流水受恩刻石と言っただろう。むしろ、お前がそんな事言い出してたら、引っ叩いてたくらいさね」
「ウハハ、流石婆ちゃん。安心した」
婆ちゃんは、ふん、と鼻を鳴らして、また食事を再開した。俺もそれに倣い箸を動かす。
婆ちゃんの言う通り、受けた恩は忘れずにいつか返せるように頑張ろう。……まぁ、いつになったら返せるのかも分からないんだけどな。むしろこのままだと、受けた恩だけが積み重なっていきそうだ。早く自立出来るようにならなければ……
「でさ、今日はお祓いの手伝いしたんだけど──」
話も一区切りつき、今度は今日あった事について話した。婆ちゃんは、そんな俺の他愛ない話を時折相槌を入れながら穏やかに聞いていた。
運動もして、働いて、今日はスッキリ眠れそうだ。今日は早く寝て、明日、畑作業が終わったら早速ケータイを買いに行くことにしよう。俺もようやくケータイ持ちか……明日が楽しみだ。




