第5章 仮面の優しさ
翌日もマイクはやってきた。
いつもと変わらない笑顔。
そして、いつもと同じように紅茶のカップを差し出した。
「ありがとう」
やはり、変わらない笑顔だった。
――けれど、あのときキッチンで見た、“小さなカプセルのような何かを入れる”後ろ姿が、どうしても頭から離れなかった。
カップを唇に運ぶふりをして、そっとテーブルに置く。
そして、何気ない様子で肘でカップを倒した。
「――あっ!」
紅茶がテーブルに広がり、床へと滴っていく。
「あっ!もう! なにしてんだよ!」
マイクが急いで立ち上がり、タオルを取りに走る。
そして戻ると、まるで“何かを隠すかのように”、過剰なほど丁寧に紅茶を拭き始めた。
テーブルの上、縁、床の隅――目に見えない染みまで残さないように慎重に。
その姿はただの親切とは違い、どこか焦りと強迫的なものが混ざっていた。
「ごめん……手が滑っちゃって」
ステフがそう言っても、マイクは顔を上げずに拭き続けた。
「ううん、いいよ……やけどしなかった? こっちこそ大きい声出してごめん。ちょっとびっくりしただけだから」
笑顔に戻ったマイクの声に、今度はステフが笑顔を返した。
――だが、胸の奥に、不信の種がはっきりと根を張った。
その夜、悩んだ末にステフはノア刑事に連絡を取った。
「ちょっと相談したいことがありまして…」
「はい、もちろん。何か思い出しましたか?」
「いえ、そうではないんですが……マイク。彼にちょっと怪しいところがあって…」
「電話で話しづらければ、いまからお宅に伺いましょうか?」
「はい、ではお待ちしてます」
30分後、ノア刑事はやってきた。
取調室と変わらぬ、アンドロイドのような無表情さを携えて。
今回は、いつものスティーブン刑事とは別の刑事が同行していた。
「いつもの刑事さんとは違う方ですね」
「ああ、スティーブン刑事ですね。彼は別件で出ています。では、お邪魔します」
ステフは部屋に招き入れ、飲み物を3つ用意し、キッチンのテーブルに向かい合って座った。
そして、前日と当日の出来事、不審な行動、夢の内容について順を追って説明した。
「なるほど」
ノアは冷静に話を聞き、夢のことを隠していた点を軽く注意したうえで、成分検査を提案してきた。
「数日後には結果が出ると思います。それまで、理由をつけてマイクには会わない方が良いですね。どこか行くところはありますか?」
「わかりました。家族も友人もいないので……ホテルにでも泊まります」
「それがいいでしょう。ちょっと失礼」
そう言ってノアはスマートフォンで連絡を取り始めた。
しばらくして鑑識課のメンバーがやってきて、紅茶がこぼれたあたりから何かを採取し、静かに去っていった。
数日後、ノアから電話が入った。
「検査の結果です。微量の睡眠導入剤が検出されました。ごく少量で、一度の摂取で身体に害はない程度です。目的が明らかでない点が気にかかりますね」
ノアの声は相変わらず落ち着いていたが、背筋がひやりとした。
「では……もし、眠っていたら……」
「ええ。眠らせること自体が目的ではないでしょう。ちなみに、以前に同じようなことはありませんでしたか?」
「…そういえば、話しているうちに眠ってしまったことが何度か……疲れているんだと思ってましたが」
「あくまで推測ですが、記憶が戻らない一方で夢の内容だけが鮮明になっている。これは偶然とは思えません」
そして、ノアの提案はこうだった。
「次にマイクが来たとき、おそらくまた紅茶を入れてくれるでしょう。飲んでください。部屋には盗聴装置を設置させてください」
ステフは黙ったまま頷いた。
マイクには数日間、検査入院をすると伝えていた。
検査が終わったと報告した当日、マイクはすぐにやってきた。
優しい笑顔。いつもと変わらぬ調子で、紅茶を淹れてくれた。
ステフはそれを受け取り、少しだけ怖さを感じながらも、微笑んでいつも通り飲んだ。
しばらくすると、眠気が襲ってくる。
マイクにとっては、いつも通りの光景。ステフはソファで眠りについた。
ノアは近くの車内で、盗聴装置を通じて部屋の音を聞いていた。
マイクがソファに座り直す音。
ステフの様子を揺すって確認する音。
ポケットから何かを取り出すような音。
――スマートフォンか。
静かな部屋に、通話音声が響いた。
「……だいじょうぶです。今日はちゃんと飲んで、いま眠っています」
「はい。徐々に記憶も定着してきてるように見えます」
「本当の記憶も戻ってないようです。はい……気づかれないように気をつけます」
「……また連絡します」
短い沈黙。
――マイクのため息が、小さく落ちた。