第4章 沈む記憶
警察署の取調室に呼び戻されたのは、朝10時を少し回った頃だった。 無機質なテーブルと、背もたれの硬い椅子。二度目なのに、空気は前よりも重く感じられた。
「ステフさん、その後、何か思い出せたことはありますか?」
ノア刑事が、淡々とした声で訊ねる。
ステフはゆっくりと首を横に振った。「……いえ。まだ何も……」
「では、事件当日の夕方以降、どこに行ったか、誰かと連絡を取ったかなどの記録は?」 「思い出せません。記録はさがしてみます」 「そうですか。どなたかにお会いされましたか?」 「あっ、はい、マイクという男性に会いました。彼氏らしいのですが、思い出せなくて…」 「事件当日の話はでませんでしたか?」 「事件当日の話はしていませんが、聞いてみます」 「ええ、ぜひお願いします。あとは、たとえば夢の中に、何か引っかかるものが出てきたりということもありませんか?」
夢。 その言葉に、昨夜の記憶がよみがえる。 暗い部屋。どこかで誰かが叫んでいたような。赤い影。血の気配。 でも、それが現実だったのか夢だったのか、自分でも曖昧だった。
「……夢は見た気がします。でも、よく思い出せません」
ノアが何かを記録する音だけが、静かな室内に響いた。
「わかりました。どんなことでも何か思い出したら、すぐにご連絡ください。あと、マイクさんの連絡先は教えていただけますか?」
そうして、ステフは釈放された。正式な容疑者ではない。ただ、“事件の重要参考人”として、警察の目はまだ外れていない。
*
「大丈夫だった?」
帰宅後、インターホンが鳴き、ドアを開けるとマイクが立っていた。変わらぬ優しい笑顔。
「……はい。何も答えられなかったですけど」
「しょうがないよね。覚えてないんだもんね。あ、敬語じゃなくていいよ」
「はい。いや、うん……何も思い出せないのが、もどかしくて」
マイクは少し考えるように目を伏せた。
「どんなこと聞かれたの?」 「事件当日のことを思い出したか?とか、誰かに会ったか?とか。そうだ、あなたに会ったことも話したわ」 「そう、何か言ってた?」 「連絡先を聞かれたから連絡あるかもしれない。事件当日のことを聞いてみてくれって言われたの」 「事件当日か…10日ぐらい前だよね?ステフと連絡とれなくなった前日ってことだね。チャットではやりとりしてるけど会ってはないみたいだね。特に変わったやりとりも見当たらないね」 「そう…。あと、なにか夢は見てないかって聞かれたな」 「夢……何か印象に残ってる夢、あるの?」
ステフはうなずいた。 マイクが紅茶を淹れてくれ、二人はソファに並んで座った。
「そういえば、このソファ……一緒に選んだんだよ」 「えっ、そうなの?」 「うん。いくつか候補があって、結局これにしたんだ。硬すぎず柔らかすぎずで」
ステフはソファのクッションに手を滑らせながら、かすかに頷いた。 「ありがとう。いいの選んだね」
「君、いつもここでうたた寝してたからね」
マイクは穏やかに微笑んだ。
「最近、夢を見るの。誰かが……倒れてる。血が流れてて……私の手が、赤くて……」
マイクの表情が一瞬だけ固まったように見えたが、すぐに優しく微笑んだ。
「事件と関係あるのかな…ほかには? 夢の中で見たもの、聞こえた音とか」
ステフは少し考えて首を振る。「それくらいしか……」
マイクは静かにうなずいた。 「そうか。なにか思い出したら、また教えて。なにか手がかりになるかもしれないね」
「ありがとうマイク。あなたとの思い出も少しずつ聞かせて」 「うん、そうだね。でも、今日は疲れただろうし、無理しないほうがいいよ」
「でも、何か知りたいの。少しでも……」
「じゃあ、少しだけ。君、朝はいつもベランダに出てストレッチしてたよ。日光を浴びるのが好きだって」
ステフは、少し笑った。「それは……なんだか、私っぽい気がする」
「だろ? ……でも、急に無理に思い出そうとしなくてもいいと思うよ。焦らずにね」
「うん。ありがとう」
その日、疲れからか、ステフは話の途中で眠ってしまった。マイクの声が、心地よく子守歌のように響いていた。また同じ夢を見た。
それから数日、同じような日々が続いた。マイクはほぼ毎日顔を出してくれた。記憶はほとんど戻らなかったが、夢の内容だけは、だんだん鮮明になっていった。
メアリーの叫び。 包丁のようなもの。 自分の手が、動いていた。
ほんとうに私が殺したのかもしれない……。
そんなある日。 ステフはキッチンの入り口で立ち止まった。
マイクが、紅茶の入ったティーカップに何かを入れている。 小さなカプセル。
ステフは、何も言わずにその場を離れた。 心のどこかが、静かにざわめいていた。