第3章 再会
ステフは、警察署から戻り、病院の職員に渡された封筒を手に、マンションに戻ってきた。玄関前の通路、階段の手すり、街路樹――どこかで見たような気もするが、確信はなかった。
部屋番号405のポストを開けてみると、ピザ配達などのチラシの間に1通の白い封筒があった。「ステフへ」「マイク」と書いてある。開けようか迷ったが、気持ちが落ち着かず、いったん鞄にしまう。
エレベーターで4階まで上がり、405のドアの前に立つ。鍵を開けると、白く静かな部屋が広がっていた。生活感はあるのに、どこか“他人の暮らし”のように感じる。
病院で聞かされたのだが――自分には身寄りがないらしい。頼れる家族も、迎えに来る人もいない。
この部屋が“帰る場所”だとされても、何ひとつピンとこなかった。
靴箱に揃えられたパンプス、整然と並んだコスメ、きちんと畳まれたブランケット。 どれも自分のもののはずなのに、“知らない誰か”の物のように思えた。
ふと、仕事のことが頭をよぎる。 私は……何の仕事をしていたんだろう?
そうだ、病院の看護師から言われた言葉を思い出す。
――「ご職場には、警察の方から連絡済みです。ご本人が安定したら改めてご連絡いただければと」
仕事のことはまだ何も思い出せないが、IT関連企業に勤めているらしい。
ふと、ポストに入っていた白い封筒を思い出し、鞄から取り出した。 表には、整った文字で――「ステフへ」。 差出人の欄には、「マイク」と記されていた。
封は空いている。便箋が1枚入っていた。 取り出して開き、読んでみる。
「無事でよかった。僕のこと覚えてくれてるかな。まだ混乱してると思うから、落ち着いたら、また顔を見せに行くね。ほんと無事でよかった。 ――マイク」
誰かが自分を気にかけてくれていることに、かすかな安堵を覚える。 けれど、その名前も、姿も、まるで思い出せなかった。
今日は何もする気になれず、シャワーを浴びてすぐ床についたが、ほとんど眠れなかった。 静かすぎる部屋の中で、時計の針の音だけが妙に大きく響いていた。
翌朝、体はだるかったが、ステフは少しでも手がかりを探そうと、部屋を一巡することにした。
クローゼット、引き出し、化粧台、本棚、パソコン――。 どこを開いても、そこには“自分が住んでいた証拠”が整然と収まっている。 けれど、それらに触れても、記憶の扉は一向に開く気配がなかった。
そんな中、リビングの棚の上に飾られた一枚の写真が目に留まった。
笑顔の自分と、隣で肩を並べる若い男性が写っている。 楽しそうな空気。自然な距離。 ――おそらく、恋人。
けれど、その男性の顔を見ても、胸の奥は静まり返ったままだった。 記憶には何の反応もない。ただ、写真の中の自分は、確かに彼の方を見て笑っていた。
写真の男性は、どこかで見たことがあるような気もした。 (ひょっとして手紙をくれたマイク?彼のこと、私は――本当に……?)
ステフはそっと写真を棚に戻した。 もう一度だけ、部屋をぐるりと見回す。
だが、何も思い出せないまま、空虚な時間が過ぎていった。
そして、その日の夜もあまり眠れず、翌日は午前中だらだらと過ごし、その昼過ぎ。
玄関のチャイムが鳴いた。
ドアを開けると、見覚えのない男が立っていた。 優しそうな目をしていたが、初対面のようにしか思えなかった。
「……ステフ。会えてよかった」
「……あなたは?」
「マイクだよ。君の恋人……だったんだけど、やっぱり覚えてないんだね」
彼は少し照れたように笑い、遠慮がちに続けた。
「君が入院してるって聞いて、すぐに病院へ行ったんだけど……昏睡状態で面会謝絶だったんだよ。 そのあと、意識が戻ったって聞いたんだけど、医者から“今は混乱しているから、しばらくそっとしてあげてください”って言われて……」
ステフは戸惑いながらも頷いた。
「……そうだったんですね」
「無理に思い出さなくてもいいんだ。ただ、無事な顔が見られて、安心したよ」
その言葉には、嘘の色も、迷いの影もなかった。 ただ、真っ直ぐなやさしさだけがあった。