第10章 影を宿す夜空
夜。
ステフはベランダに立ち、夜風に髪をなびかせながら星空を見上げていた。
その静けさを破るように、突然チャイムが鳴った。
「こんばんは、ステフさん……夜分に申し訳ないが、少し話せますか?」
ドアの向こうには、スティーブン刑事が一人。ステフは戸惑いながらも頷き、彼を部屋へ通した。
「どうしたんですか? こんな時間に……」
「マイクが襲撃された。まだ意識が戻っていない」
低く押し殺したような声に、ステフは思わず息をのんだ。
「えっ?……どうして……」
「ホテルの一室で倒れていた。抵抗の痕跡もない。侵入経路も不明だ。
……彼もまた、被害者なのかもしれない」
「それって……どういうことですか?」
スティーブンは、マイクとメアリーの知人の証言、そして事件当日にマイクの位置情報に生じた“空白”について語った。
そして、ふと呟く。
「……しかも、警察が手配したホテルで、だ」
沈黙が流れた後、彼はスマートフォンを取り出した。
「それと、今朝署内でメアリーのスマホを再調査したところ、君とのチャットのバックアップログが見つかった」
画面に映ったメッセージを見せられ、ステフは目を見開いた。
『ねえ、ちょっと相談したいことがあるの。最近、誰かにつけられてる気がして……
少し前に、あやしい取引みたいな現場を見ちゃったからかも』
「……記憶にはないです。でも……たしかに、私宛のようですね」
「事件の核心に関わる内容かもしれない。
メアリーが殺された理由は、君の記憶の外側にあるのかもしれない」
「それって……マイクじゃなく、別の誰かが……?」
スティーブンは静かに頷いた。
「……もう一つ、確認させてくれ。変なことを聞くが……
マイクが紅茶に何か入れているのを見たあと、ノア刑事に連絡したね?」
「はい。その夜に……」
「相談は電話じゃなく、直接会って?」
「ええ。ノアさんと、もう一人の刑事が来ました」
「もう一人……顔は覚えてるか?」
「少し若い方でしたが、ノアさんとしか話していないので……あまり」
「盗聴器を仕掛けた日は? ノア刑事は同じ人物と一緒だった?」
「いえ、その日は一人でした」
スティーブンはその答えにわずかに表情を動かし、窓の外に視線を向けた。
「そうか……ありがとう。引き続き調べてみるよ」
* * *
その夜。
市内の裏路地にある古びたカフェの裏手。ノアは一人の男と会っていた。
男はフードを深くかぶり、顔の半分を隠している。
「久しぶりだな、ノアさん。どうした? 妙に真剣な顔して」
「記憶操作業者について、何か知っているか?」
男はしばし沈黙した後、低く答える。
「最近、“CROWN DISTORT”って名前が急に出てきた。
表向きはカウンセリングや催眠治療を名乗ってるが……実態はかなり黒い」
「その中に、“探偵”や“何でも屋”を名乗るエージェントがいるらしい。何か知らないか?」
「もしかすると、“カロン”って呼ばれてる奴のことかもしれないな。最初にターゲットに接触する役だ」
「たぶんそいつだ。いまは行方をくらませてるらしいが、居場所は?」
「確かなことは言えないが……旧市街の雑居ビルに出入りしてたって噂がある」
ノアは封筒を差し出し、静かに立ち上がった。
「助かった。また連絡する」
* * *
深夜。
スティーブンは署内の端末にアクセス許可を得てログインしていた。
建前は「捜査資料の整理」。だが本当の目的は──ノアのPCの内部ログ確認だった。
ログイン履歴、検索履歴、送受信メール、外部機器の接続状況……
どれも整然としていて、抜け目がない。
「……何も残ってないように見えるが……」
だがそのとき、“CD”という名前のフォルダがゴミ箱内にあるのが視界に引っかかった。
復元して開いてみると──
「……これは……」
麻薬業者との通信ログ、暗号化された送金記録、
メアリーの名前が含まれたやりとり、
そして“CROWN DISTORT”と“カロン”の名。
「CROWN DISTORT……? これは……組織の名前か……?」
スティーブンはそれらをUSBにコピーし、元どおりゴミ箱へ戻してディスプレイを閉じた。
* * *
一方その頃、ノアは郊外の雑居ビルに向かっていた。
古びた階段は錆びて軋み、蛍光灯はちらついている。
──気配。
通路の奥。
誰かの影が、ふっと動いた。
黒い人影が振り返り、ノアと目を合わせる。
次の瞬間、男は階段を駆け下りていった。
「待てっ!」
ノアはすぐさま追いかける。
だがビルの裏口を抜けたとき、すでにその姿はなかった。
──だが、確かに顔は見た。
額にかかる前髪、頬の古傷、そして氷のような目。
「……あいつが“カロン”──」
月明かりすら届かない路地裏。
ノアの視線は闇の奥へと吸い込まれていった。
彼はその場を背にし、ゆっくりと歩き出した。