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ラムネの味

作者: ミケ

 私は静かに死ねる場所を探していた。

 もう、どうでもよかった。

 ただ歩いてた。


 理由?


 そんなの、考えるのも面倒だった。

 誰にも必要とされないなら、いなくなっても……たぶん、気づかれない。

 そんなことを考えるようになったのは、いつからだっけ?


 街の喧騒から離れ、人気のない場所を求めて歩き続けた。

 ビルの隙間を縫うように進み、川沿いの遊歩道に出る。

 夜の風が肌を撫で、どこか遠くで犬の吠える声がした。


 歩道橋を渡り、公園の奥へと足を向ける。

 ブランコが軋む音が微かに聞こえるが、誰もいない。そこにあるのは、濃い闇と私の影だけ。


 ふと、古びたベンチに腰を下ろす。

 死ぬ場所としては悪くない。

 けれど、妙に静かすぎて、かえって思考が冴えてくる。


 本当にこれでいいのか?


 ポケットに入れた冷たいナイフの柄を握る。

 その時、背後で枯葉を踏む音がした。


 誰かがいる。

 私は息を殺し、そっと振り返った。


 公園の入り口に、細い影が立っていた。

 街灯の薄明かりに照らされたそれは、自分と同じくらいの年の男の子だった。


「何してるの?」


 かすれた声。

 年はせいぜい十三歳くらい。

 ボロボロのパーカーを羽織り、穴の空いたスニーカーを履いている。

 目は暗く、どこか飢えたようだった。


「別に……」


 私はナイフをポケットの奥に押し込んだ。

 彼はゆっくりとこちらに歩いてくる。

 私は警戒したが、彼は何をするでもなく、私の隣のベンチに腰を下ろした。

 そして、ポケットからチョコバーの包みを取り出し、無造作に噛りついた。


「あんたこそ、こんな時間に何してるの?」


 問いかけると、彼は肩をすくめた。


「家、ないから」


 短い返事。彼はチョコバーをもぐもぐと噛みながら、どこか遠くを見ていた。

 私もまた、空を仰いだ。灰色の雲が月を覆っている。


「……もしかして、死のうとしてる?」


 何の感情もないみたいに、彼は聞いた。

 まるで、「宿題やった?」とでも言うみたいに。


 私は思わず顔を背けた。

 けど、なぜか胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 言葉が出てこない。


 沈黙が落ちる。彼はチョコバーを半分に割り、私に差し出した。


「いる?」


 私はしばらくそれを見つめた後、ため息をつき、受け取った。

 チョコバーは少し溶けかけていて、甘い香りが鼻をくすぐった。

 私は無言のまま、それを口に運ぶ。砂糖のざらついた甘さが舌に広がった。


「うまいだろ?」


 彼は得意げに言った。

 私は適当に頷いたが、正直、味はよくわからなかった。


「死にたいって思ってるやつって、チョコ食う?」


 彼は靴の先で地面を引っ掻きながら、何気なく言った。

 責める感じでもなくて、ただの疑問みたいだった。


「……そうかもね」

「でも食ったじゃん」


 私は何も言えなかった。

 彼はクスッと笑い、包み紙を丸めてポケットに突っ込んだ。


「俺もさ、一回、死のうと思ったことある。」

「……そうなの?」

「でもさ、腹減ってて……。死ぬ前に、なんか食っとこうと思った。」


 そう言って、彼は足元を蹴るみたいにして、小さく笑った。


「でさ、コンビニでパン盗んだら、即バレた」

「それで?」

「んで、店のおばちゃんにめっちゃ怒鳴られたあと、なんか知らんけど肉まんくれたんだよ」

「……肉まん?」

「そう。『腹減ってるなら、まず食え』ってさ。意味わかんねぇけど、食ったらもう死ぬのも面倒くさくなった」


 彼はケラケラと笑った。

 その笑い声は、小さく軽いものだったが、妙に冷えた空気を揺らした。


「それで、どうしたの?」

「そん時に言われたんだよ。『生きるってのは腹を満たすことだ』って」


 彼は膝を抱えて、夜空を見上げた。


「俺、そんなのただの気休めだと思った。でもさ、肉まんって、あったかいんだよ。それ食ってたら、なんかもう死ぬのが面倒くさくなった。だからさ、俺はまだ死なない。腹減るし」


 彼は笑った。

 でも、その目の奥には、深い疲れがにじんでいる気がした。

 私はチョコバーを食べ終え、指についた溶けたチョコをぬぐった。


「お前もさ、あともう少しだけ生きてみたら?」


 彼の声は軽かった。

 けれど、その言葉がやけに重く、胸の奥に沈んでいった。


 私はポケットに入れていたナイフをそっと握りしめる。

 冷たい金属が指に馴染む。

 今までは、これだけが確かなものだった。


 それなのに、今は――まるで、手の中の砂がこぼれ落ちるように、指先から消えていく気がした。

 しばらくの沈黙のあと、彼がぽつりとつぶやいた。


「名前、教えてよ」


 私は少し考えたあと、答えた。


「……別に言うほどの名前じゃないから」

「そっか。でも俺は言うよ」


 彼は膝を抱えたまま、小さな声で言った。


「タクミ」


 私はその名前を頭の中で繰り返した。


「お前は?」


 タクミがこちらを見た。

 まるで、自分の名前を言うことが、生きている証明のような気がして、私は少し迷った。

 だが、結局答えた。


「……カナ」

「カナか。ふーん、悪くない名前」


 タクミは勝手に納得したように頷く。


「カナ、死ぬのやめたら?」

「そんな簡単に言わないで」

「簡単じゃないけど、そういうのって案外勢いじゃん」


 私は息をつき、夜空を見上げた。

 雲が流れ、月が顔を出していた。


「あんた、これからどうするの?」

「さあ。でも寒いし、どっかで寝るかな」


 タクミは無邪気に言うが、その目はどこか疲れていた。

 私はポケットの中でナイフを握りしめたまま、ぼんやりと考えた。

 自分が死ぬための場所を探していたはずなのに、なぜか今は別のことを考えていた。


「……ごはん、食べる?」


 気づけばそんな言葉が口をついていた。

 タクミは驚いたようにこちらを見たあと、にやりと笑った。


「いいね。おごり?」

「お金なんてないよ」

「じゃあ、どうする?」


 私はしばらく考えたあと、静かに言った。


「……とりあえず、行こっか」


 タクミは笑い、立ち上がった。

 私はナイフをポケットの奥に押し込み、彼の後に続いた。


◇◇◇


 タクミと並んで歩きながら、私は何も考えないようにしていた。

 死のうと思っていたはずなのに、今は歩いている。

 目の前にあるのは、死ぬための場所じゃなく、ただの夜の街だった。


「どこ行く?」


 タクミが聞いてきた。


「わかんない。タクミが決めて」

「じゃあコンビニ」

「また悪いことするつもり?」

「バカ、それはもうしねえよ」


 タクミは笑いながらポケットを探り、小銭をいくつか取り出した。


「俺だってたまにはマジメに買うんだよ」


 公園を出て、暗い道を歩く。

 人気のない通りを抜けると、明るいコンビニの看板が目に入った。

 自動ドアが開くと、暖房のぬるい風が顔をなでた。

 タクミは迷わずおにぎりコーナーへ向かった。

 私は適当に棚を眺めながら、彼が何を選ぶのかを見ていた。


「ツナマヨか、梅か……」


 タクミは真剣に悩んでいる。

 私は少しおかしくなって、思わず口を開いた。


「ツナマヨにしたら?」

「やっぱり? でも梅も捨てがたい……」

「迷いすぎじゃない?」

「こういうのって大事なんだよ」


 私は呆れながらポケットをまさぐった。

 少しだけ小銭があった。


「じゃあ、どっちも買えば?」


 タクミは目を丸くして、私を見た。


「マジで?」

「ちゃんとお金あるし」

「カナ、意外といいやつじゃん」

「うるさいな」


 レジで会計を済ませ、店を出る。

 二人並んで歩道の縁に座り、おにぎりの包みを開ける。

 タクミは満足そうにツナマヨを頬張りながら、ふと私を見た。


「なあ、カナ」

「なに?」

「死ぬの、まだやめとく?」


 私は手に持った梅おにぎりを見つめた。

 さっきまで冷たかった指先が、ほんの少しだけ温かく感じる。


「……もうちょっと考える」


 タクミは笑った。


「そっか。まあ、腹減ったらまた一緒にメシ食おうぜ」


 私は何も言わず、おにぎりをかじった。

 梅の酸っぱさが、妙に身体に染みた。


 夜の街は静かだった。

 コンビニの灯りを背に、私たちは並んで座っていた。

 ツナマヨを食べ終えたタクミは、指についた米粒をぺろりと舐めて、満足げに息をついた。


「やっぱ、メシ食うとちょっと元気出るよな」

「……そうかもね」


 私はまだ半分ほど残っていた梅おにぎりを眺めながらつぶやいた。

 死ぬことしか考えていなかった時には、こんなことは思わなかった。

 食べること、歩くこと、話すこと。

 そんな当たり前のことが、今になって不思議と重みを持ち始めていた。


「なあ、カナ」


 タクミが言った。


「これから、どうする?」


 私は答えられなかった。

 自分でもわからない。

 ただ、死のうとしていたはずなのに、こうしてここにいる。


「……あなたは?」


 私は逆に聞き返した。

 タクミは肩をすくめた。


「んー、いつも通り適当にどっかで寝る。公園か、駅のベンチか、まあそのへん」

「寒くないの?」

「寒いよ。けど、慣れた」


 私は黙った。

 さっきまで死ぬことばかり考えていたのに、今はタクミのことが気になっていた。


「お前は?」


 タクミがもう一度聞いてきた。私は梅おにぎりをかじりながら、少し考えた。


「……わからない」

「わからないなら、とりあえずさ」


 タクミは立ち上がり、手を伸ばしてきた。


「俺と一緒に適当に歩こうぜ」


 私はタクミの手を見つめた。

 あてもなく歩くなんて、意味があるのか。

 でも、死ぬための場所を探していた自分と、ただ歩くために歩く自分。

 どっちがマシかなんて、考えるのも面倒だった。


 ポケットの中のナイフを指でなぞる。

 ひんやりとした感触が、指先に残る。

 しばらくそうしてから、そっと手を離した。


 代わりに、タクミの差し出す手を見つめる。

 迷うように、ゆっくりと指を伸ばした。

  軽く触れると、タクミの手は思ったよりも温かかった。


「……じゃあ、行こっか」


 夜の街に、二人の足音が響いた。


◇◇◇


 タクミと並んで歩く。

 夜の冷たい空気の中、足音だけが静かに響く。


「どこ行くの?」

「さあ。適当に歩くって言っただろ?」


 タクミは気楽に笑った。

 私は何も言わず、ただ歩調を合わせた。


 ふと、目の前に小さな橋が見えてきた。

 街灯がまばらに並び、下には黒く静かな川が流れている。

 私は足を止め、欄干にもたれかかった。


「カナ」

「なに?」

「お前、本当に死のうと思ってたの?」


 私は答えなかった。

 タクミは私の横に立ち、川を覗き込む。


「俺さ、死ぬのってたぶん怖いことだと思うんだけど、カナはどう?」

「……怖いとか、そういうのはもう考えてなかった」

「そっか。でもさ、さっきおにぎり食ってた時、お前ちゃんと味わってたよな」


 私は息をついた。


「だから何よ」

「別に。ただ、そういうのって、まだ生きたいってことなんじゃねえかなって思っただけ」


 タクミは笑いながら、ポケットの中を探ると、小さなラムネの瓶を取り出した。


「ほら、これやるよ」

「……ラムネ?」

「うん。ガキっぽいだろ?」


 私は少し迷ったが、受け取った。

 小さな粒をひとつ口に放り込む。甘くて、少しだけ爽やかな味がした。

 タクミはそれを見て満足げに頷いた。


「ほらな。カナは、まだ死ななくていいんだよ」

「……勝手なこと言わないで」

「勝手だよ。でも、俺はそう思う」


 私はラムネの瓶を握りしめたまま、もう一度川を見下ろした。

 このまま飛び込めば、一瞬で終わるかもしれない。

 でも、さっきのチョコバーの甘さや、梅おにぎりの酸っぱさや、このラムネの優しい味を思い出すと、不思議と足が動かなかった。


「……タクミ」

「ん?」

「本当に帰る家、ないの?」

「ないよ。ずっと前に飛び出した」


 タクミはあっさりと言った。


「帰ろうとは思わないの?」

「思わねえな」


 私は黙って前を見つめた。


「じゃあさ……」


 タクミが振り向く。


「私が家に帰ったら、タクミも来る?」


 タクミの表情が変わった。

 驚いて、一瞬まばたきをする。

 それから、まるで冗談みたいに笑った。


「カナ、お前、優しいな」

「うるさい」

「でもさ、帰るとこあるなら帰ったほうがいいよ」


 タクミはポケットに手を突っ込んだまま、橋の欄干に寄りかかった。


「もし、お前が帰る場所がなくなったらさ、その時は俺が一緒にいてやるよ」


 タクミの言葉に、なぜか喉の奥がつまるような感覚がした。

 私はポケットの中のナイフを、もう一度握りしめた。

 それが、いつの間にかただの冷たい金属の塊にしか思えなくなっていることに気づいて、そっと手を離した。


 橋の上に立ったまま、私たちはしばらく黙っていた。

 夜の風が吹き、川面に街灯の光が揺れる。


「ねえ、タクミ」


 私はポケットの中のナイフを指先でなぞりながら、ぼそりとつぶやいた。


「ん?」

「もし……あんたが死にたいって思ったら、私、止めると思う?」


 タクミは一瞬驚いたように私を見たが、すぐに肩をすくめた。


「さあな。でもカナ、さっき俺がラムネ渡した時、普通に食ったろ?」

「それが?」

「死ぬ気のやつは、たぶんそんなふうに食わねえよ」


 私は返す言葉を見つけられなかった。


「だからさ、もし俺が死にたいって思ったら、カナもたぶん俺にラムネ渡すんじゃね?」

「……くだらない」

「くだらねえよ。でも、そういうのが意外と大事だったりするんだよ」


 タクミは橋の欄干に肘をつきながら、にやりと笑った。


「ほら、そろそろ歩こうぜ。立ち止まってたら、また変なこと考えちまう」


 私はナイフをポケットから取り出す。

 冷たい刃を指でなぞった。

 これさえあれば、すぐに終われる。


 痛みも、孤独も、全部。

 でも――


「……今は、いいかな」


 そう思った。……けど。

 指が、なかなか開かなかった。


 ほんの少し、力を込める。

 けど、まだ掴んでいた。

 もう一度、深く息を吐いて、ゆっくりと指を開く。


 ナイフはスルリと滑り落ちた。

 迷いのように、一瞬だけ宙を舞い、それから――


 トプン。


 冷たい水音が夜に溶けていった。

 タクミは何も言わず、ただそれを見ていた。

 私はポケットの中で、代わりにさっきもらったラムネの瓶を握りしめた。


「……行こっか」


 タクミは笑い、軽く頷いた。


「おう」


 風が冷たい。

 けど、さっきよりはマシだった。


 まだ寒い。

 でも、歩くのは少しだけ楽になった。

 二人の足音が、静かな夜に並んで響く。

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