第37話 第三百代総理大臣
「……それで、損害の程は?」
日本紫雲国首都である橙枳の中央に位置する総理官邸。その中に設置された会議室に彼はいた。
楕円型のテーブルを囲って椅子に座る複数の男性陣の中でも立派な顎髭を蓄えた伊藤は、目の前に置かれた報告書に顔を向けながら左側に座る男性を視線で貫く。
「……ここまでとなると、財政を圧迫するのは間違いないでしょう。開いた穴を埋めること、消失した人員や装備の育成と調達に配備、要塞線の建設。せねばならぬことが多く、必然として費用も膨大となります。恰も良し、装備の一新を図っていたところでしたが……」
「問題は、一個師団が丸ごと溶けたことだな。平時でありながら師団が溶けるなど、黎明期以来のことだ」
眉間に当てた手で揉み解す伊藤は、再び報告書に目を向ける。
「加えて、原因が全くもって不明である点も問題です。あれから丸一日が経過しておりますが、あれが天変地異に因るものなのか、モンスターに因るものなのかすらわかっておりません。まあ、十中八九モンスターではあるでしょうが、肝心のモンスターを観測しておりませんので、対策の仕様がないのも……」
「はぁ……」
部屋にいる人の誰もが表情に陰りを見せている。
報告書から目を離し、伊藤は居並ぶ大臣たちを一通り目を向けてその表情を確かめると再び報告書を眺め出す。
「少なくとも、彼による直接的な攻撃は無いんだな?」
「はい」
最後まで読み終えた伊藤は自らの右側に座る男性に顔を向けた。
彼はテーブルに置かれたカップから茶を啜ると、報告書を見ながら口を開いた。
「監視を任せている者からの報告では枢機による攻撃を確認できておらず、今回の責を問うことは厳しいかと。加えて、優秀な我が国の調査員による分析が真だとすれば、不穏分子を潰すことに関しても同じでしょう」
「……そうか」
(なぜ私の代になってこんなことが立て続けに……)
伊藤は報告書にもう一度目を通し始める。読み進めていくうちに、どこか光を欲したのか伊藤は椅子から立ち上がり、日光を遮っている窓のカーテンを引いて開けた。
そこで立ったまま報告書を読む伊藤は、次第に右手を力強く握りしめて険しい表情を浮かべていき、皺の寄った眉間を拳でトントンと叩き始めた。
一寸そうしていると伊藤は椅子に座り、やや前屈みになって机に肘をつき、手を組んでそこに顔を乗せて、再び右隣の大臣に向かって口を開いた。
「協会に依頼していた接触者からの情報はどうなっている?確か、弥園と源、そして南野が当たっていると聞いたが……」
「はい。その件に関してですが、迷宮から帰還した音琴同志が新しく加わったそうです。過去の南野同志を詳しく知っていることや二級潜索者ということもあり、新たな知見を得ることができました」
音琴という名前を聞くと、背もたれに寄りかかった伊藤は腕を組んで天井を見上げた。そして、己の中での引っ掛かりが何かに気づいた。
「……。ああそういえば、過去行われた開拓事業に参加した潜索者に音琴という名の者がいたと聞いたが、同じ人物か?」
「はい。範囲攻撃に優れた魔法を持っておりますので、殲滅戦に長けた人材として重宝しています」
「それで、そんな彼女から得られた新たな知見とは?」
「はい。枢機の周りにいる、弥園凛香、源巴、南野明日香の観察を通してわかったそうなのですが、どうやら異常なほどに力が伸びているようで……」
大臣は椅子の下に置いている鞄を手に取り、中から書類の束を出して伊藤に渡した。
伊藤は報告書を受け取るや否や、ざっと目を通し始める。
「先ほど、担当の者がまとめた報告書です。学院の生徒に過ぎない弥園凛香と源巴両者は、現在三級に相当する実力を持っているとの認識です」
「三級?馬鹿を言え。迷宮で数多の経験を積んだわけでも、転生薬を使ったわけでもないのだろう?」
どこか薄笑いを浮かべている伊藤に、大臣は気にせず続ける。
「はい。ですが、迷宮での戦闘記録や彼女の観察から、明らかに能力が伸びていることが確認されています。彼が試練と称する鍛錬が影響しているのか不明ではありますが、強者を育て上げる希少な存在ではあります」
「……仮にそうだして、何もかもが不透明な存在を放置するわけにはいかん。派遣可能な人員に余裕は?」
「全くありません。国内の防諜に大半を割いておりますが、それでも不足感が拭えない状況です。これで枢機に回すとなると、他国の間者が国内で跳梁跋扈することになります」
大臣はそういうと、一枚の紙を伊藤に渡す。その紙には多数の国名と数字が書いてある。
「これは……」
「ここ一か月で、他国がわが国に送り込んだスパイの数と前年比です。判明した範囲だけでこれですから、総数はそれより何倍も多いでしょう。前年比を見ても、急激に数が増えています。原因は間違いなく、枢機の存在です」
伊藤は資料を余すことなく読み込んだ後、ある一国の国名を凝視する。
「……特に」
光速よりも速く、その表情が怨念で満たされたものへと変化すると同時に、両手に力が入り、クシャリと紙に皺をつくる。
「クソアメ公が多いな……」
グツグツと煮えたぎったお湯に無理やり蓋をするものの、沸騰の激しさのあまり隙間から僅かながら溢れ出る。伊藤の声は、それを表していた。
「またあの国か!」
「鬱陶しい奴らだ……!」
伊藤の言葉を聞くが早いか、並み居る大臣らは次々と特定の国に対して自らの怒りを口に出している。
伊藤の口からは、噛み殺した笑いが。
「こちらを随分と舐めてかかっているな。これだけ送っているとなると、奴らが枢機に接触を図っている可能性は高いだろう」
「ええ。単なる情報収集にしては間者が多すぎますし、枢機自身は迷宮の謎を解明する材料として非常に期待ができます。我が国が雁字搦めにする前に接触し、向こうに連れて行こうとしているのでしょう」
「相も変わらず、奴らは大胆に動くな。狂気を感じてしまう」
椅子に深く腰掛けた伊藤は大きな溜息を吐くと顔の前で手を組んだ。そして、再び大きく息を吸い、肺の中の空気を全て吐き出すと、「よし」と言うと共に不敵な笑みを浮かべる。
「向こうが大胆に出るなら、こちらも大きく動くとしよう。狂気には狂気だ」
その後、室内は侃侃諤諤という言葉がふさわしい程、大人数が大音声で何かを言い合う声で満ちた。




