第6話 幼い記憶
「いいか、おまえは跡取りとして立派にならなくてはいけない」
幼い子供が、父親らしき男に説教を受けていた。綺麗に整った艶のある黒髪に、快活な顔つきをした男の子だった。厳格な父親を前にして、子供はかすかに恐怖心を抱きながらも、父親が言うことならと素直に頷いた。
机に向かい、与えられた課題を彼はこなした。父親がすぐそばで見ている。出来上がった課題を子供が見せると、父親は満足げに頷いて彼の頭を大きく撫でた。子供はそれが嬉しくてたまらず大きく笑った。
場面が変わる。子供は少し成長していた。快活な顔つきに翳りが見えた。父親に大きな変化はなかったが、顔つきが厳しいものとなっていた。
子供は同じように机に向かい、同じように課題をこなしていた。だが途中で、その手が止まった。父親の顔がさらに険しくなった。
「何故、そんな簡単なものができないんだ」
父親が怒りの声で問いかけたが、子供にも分からなかった。父親は簡単だというが、子供はそれを難しいと感じていた。だが、簡単でなくてはならない、ということは分かっていた。
「いいか、おまえは跡取りとして立派にならなくてはいけない。わたしたちの期待に応えられないのであれば、おまえに価値などないんだ」
父親にそう言われて、子供の心にはなにか暗く重いものがのしかかってきた。だがそれを気にしている余裕などなかった。
必死になって課題の続きを進める。手が止まるたびに、父親の視線が恐怖となって子供に襲いかかってきた。いつしか、終わらせるために課題をするのか、恐怖から逃れるためにするのか、分からなくなっていった。
すべてを終わらせて子供が課題を父親に見せると、父親は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「なんだこれは。やり直せ」
それだけ言って、とうとう父親はその場から立ち去ってしまった。子供の心に、刃物で抉られたような痛みが走った。目から涙がこぼれ始めるが、言われたとおりにやり直さなくてはいけなかった。
その後も、子供は何度も何度もやり直すはめになった。違う課題をやっても、食事のマナーを練習させられても、何度も何度もやり直すはめになった。
次第に子供は自分にはそもそもできないんじゃないか、と思い始めた。そして、そのとおりになっていった。
さらに場面が変わる。子供は大人びた風貌になっていた。快活な顔つきは姿を消していて、陰鬱な目と固く結ばれた口が代わりにあった。
机の前に彼は座り、課題をこなしていた。そばには父親が立っていた。なんの感情もない瞳で、子供を見ていた。
「……できません」
子供は暗く小さな声で一言だけ発した。父親は溜息をつくこともなく、課題を手に取ってゴミ箱に放り投げた。
そして冷たい瞳で子供を見た。
「……無能め。おまえはもうこの家の人間ではない。成人したら出ていけ」
凍えるような声でそう言って、父親は部屋を出ていった。
子供の心にはなにも思い浮かばなかった。悲しみでさえ、彼は感じなかった。
彼の心にあったのは、納得だった。
「あぁ、そうか……俺は、無能なのか。だから、なにもできないのか」
父親と同じような冷たい声が、彼の口からこぼれ落ちた。
§§§§
冷たい床の上で俺は目が覚めた。ぼやける視界が少しずつ晴れていき、ここが牢屋の中だということを思い出す。
なにか夢を見ていたような気がする。昔の夢だったような気がしたが、俺はすぐにそれを忘れてしまった。
ぼんやりとした頭で最近のことを思い出す。確か、怜司を殺そうとして失敗して、ここに叩き込まれたんだったか。あれから3日は経っている。牢屋に時計はないので、正確な時間は分からないが。
腹時計に聞いてみると、昼過ぎだと答えてくれた、気がする。まぁ、何時でもいい。
すっかり頭が冴えてしまったが、牢屋の中が退屈なのは言うまでもない。なにかないかと、俺はあたりを確認してみる。
八畳ほどの広さの長方形に、寝所とトイレと洗面台がある。以上。
どこから見ても立派な牢屋の内装だった。牢屋度というものがあれば、多分100パーセントだろう。
ちなみに、俺は寝所ではなく床の上で起きた。もともとこの牢屋に寝所なんてものはなくて、後になって薄いシーツと毛布が運び込まれたのだが、使う気にならなかった。
理由は簡単で、その待遇を言い出したのが怜司だからだ。あいつは自分を殺そうとした人間の牢屋の環境を気にしたらしい。はっきり言って、馬鹿げている。
硬い床の上で寝ていたせいで痛む身体を引きずって、俺は牢屋の壁際に移動。壁に背中を預けるように座った。
右腕を持ち上げた瞬間、痛みが走る。右手首を見てみると、ちょっとした痣ができていた。桜に捻りあげられたときにできたのだろう。
俺の脳が自動的に、あの夜の記憶を呼び起こした。桜の拘束は、予想していたよりずっと痛かった。
怜司の部屋に忍び込んだが、俺は失敗した。失敗するだろうと思っていた。だから、桜や蒼麻たちが来たことにもなにも驚きはしなかった。
怜司はとにかく運が良い。そうでなければ、こんなことにはなっていないだろう。だから俺は驚かなかった。相手が怜司で実行犯が俺なら、失敗以外はありえないのだ。
失敗して牢屋に入ることになったとしても、あるいは殺されることになったとしても、俺はああするしかなかった。もうこれ以上、感情を無視することができなかったのだ。
そういえば、襲撃した次の日に怜司がここに来ていた。俺から話すことはなにもないので、黙っていたらさっさと帰っていった。きっと理由を知りたがっていたのだろうが、言うつもりはない。ナイフを振り向けることはできても、言葉を振り向けるような勇気は俺にはなかった。
俺の心にあるのは虚無感だけだった。いったい、なにをどうすれば良かったのだろう。問いかけてみても、誰も答えてはくれない。
なにかを、どこかで間違えてしまった。俺のせいなのか、俺以外のせいなのかは、もうどうでもいいことだった。重要なのは、俺の人生がもう修正不可能なところに来てしまっている、ということだけだ。
だから、きっと俺が幸福になるためには──。