第20話 静寂を破る者
「そら、思い出せるようにしてやったぞ。今度は言えるだろう?」
「あ、颯太だ! 颯太颯太颯太!!」
やっと思い出せたことに歓喜する蒼麻。だが呼ばれた名前は全くの別人のものだった。
怜司の脳がようやく事態を飲み込み始めた。どれほど恐ろしい力を悠司が持っているのかを理解し始めた。
「や、やめろ」
「ん? 聞こえないなぁ、颯太とやら。なんだって?」
「な、何を、何をすればいい? 何をしたら蒼麻を助けてくれるんだ?」
怜司の顔面は蒼白となっていた。リヴァイアサンが恐ろしい力を持っていることは知っていた。国を滅ぼせることだって分かっていた。だが、ここまでだとは思っていなかった。
懇願の言葉を続けるしか怜司にはできなかった。たとえどんな要求をされようとも怜司は飲む気でいた。自死だろうが人殺しだろうがなんだろうが。
必死の形相の怜司に対して悠司は涼しげな顔で「んー」と顎に手を当てていた。そして「よし」と言って指を鳴らした。
「──何もするな。そこでただ苦しめ」
「……っ!!」
──そう、ただひとつ。何もしないこと以外は死んでもやるつもりだった。そのもっとも残酷な要求を悠司は容赦無く突きつけてきた。
悠司の指が再び動き始め、それに合わせて蒼麻の全身がびくびくと痙攣する。
「ぁ……リック、違う……瑛一、でもない……? 誰……? なん、で、なんで違う名前が、出て、くる、の……?」
「ほらほら。早く思い出さないと永遠に思い出せなくなるかもしれないぞ? あははは!」
次から次へと異なる人物の名前で、悠司は蒼麻の記憶を改竄しつづけていた。思い出す名前が毎秒ごとに変わってしまえば蒼麻も確証など持てるはずもなく、ただそれが正しい名前ではないことだけを理解していた。
「お、おねが、い。かえ、して。あいつの、名前、返してよぉ……!」
「ふむ」
蒼麻の悲痛な求めに悠司が指の動きを止める。しばし考えた後に指の動きが再開。
「ほら、戻してやったぞ」
「れ……れい、じ?」
恐る恐る蒼麻はその名前を口にした。自身の本当の名前を呼ばれたことに安堵して、怜司が微かに表情を和らげる。その反応を見て今度こそ本当の名前が言えたのだと、蒼麻は自覚できた。
「れい、じ……怜司っ……!」
記憶を取り戻せた安堵は蒼麻の心にもあった。愛する人の名を思い出せないというおぞましい恐怖から解放された蒼麻は、大粒の涙を流していた。
そこに。
「しーっ。安心するのはまだ早い。まだお前が俺たちのおもちゃだというのは終わってないだろ?」
蒼麻の口元に悠司の人差し指が当てられる。囁き声が一瞬にして蒼麻の恐怖心を復活させた。
「それに怜司とやらは本当に正しい名前か? あいつが安堵しているように見えるのは本当なのか? どちらも俺たちが見せている幻覚じゃないって本当に言えるのか?」
「……ぁ……ぇ……え」
悠司の言葉のひとつひとつが呪いとなって蒼麻の心を侵食する。怜司という名前さえ間違っているんじゃないか、という猜疑心が襲いかかる。
蒼麻に震えが走った。精神をいじられているせいではなく、純粋な恐れからくる震えが。
「お、おねがい、します……たすけ、て、ください……なんでも、しますか、ら……」
「なら、怜司を殺せ」
「ひっ」
蒼麻の怯える声。数分前と同じやりとりが再演されていた。蹴り飛ばされると思った蒼麻が全身を硬直させる。
そんな蒼麻を悠司は鼻で笑った。
「学習能力がないな、この尻軽は。どっちにしろ慈悲など与えんがな」
また悪夢の施術が開始される。
「今度はどうだ。怜司と出会った頃の記憶を別人にでも変えてやろうか? それともいっそのこと怜司に関わる記憶を全て消そうか?」
「おね、がい、それだけは……それ、だけ、は……」
ぴたり、と指の動きが止まる。愉悦の笑みを浮かべていた悠司の表情が突如、無感情なものへと変わった。それだけはやめてくれ、という蒼麻の嘆願が耳に残った。
そう、嘆願。蒼麻たちには乞う相手がいる。そのための手段があり、自分たちに対して言葉で願いを口にしている。
それに比べて自分たちはどうだった。自分たちには乞い願うことなど機会も、権利さえも与えられなかった。何者も、無知で無能な人間の絶望と死に、目を向けようなどとはしなかった。
一体、どこの誰が、なんの理由で我らの絶望を救おうと思う。蒼麻には怜司がいる。怜司には蒼麻がいる。誰にでも誰かがいる──我々は?
(俺たちは、一体誰に救いを乞えば良いのだ)
疑問だけが悠司の脳裏に浮かび上がった。答えはどこにもない。この世界の──いや、どの世界にも答えなどなかった。
ならば我らはどこへ行けばいいのか。形ある絶望に向かって助けを乞うこの人間たちに比べて、形なき絶望に打ちのめされた我らは、一体なんなのだ。何故──。
──何故、我らは生まれてこなければならなかったのか。
ぎり、と歯噛みをする。怒りが沸々と悠司の内側で煮えたぎっていた。こんなものではやはり足りない。こんな形があり目に見える絶望など、我らが味わった地獄に比べれば生ぬるい。
蒼麻から手を引き抜き、触手が彼女を怜司の前に放り出す。突然の出来事に誰もが驚き、動けないでいた。
「足りない」
静寂の中、小さな独白が流れる。次の瞬間、絶叫が全てを突き破った。
「──こんなものでは足りないんだっ!! お前たちはそうやって俺たちに向かって嘆願していればいいだろう。だが俺たちは一体なんなのだ!! 一体、誰に向かって助けを求めれば良かったんだっ!!」
悠司の手が自身の胸に叩きつけられる。自分たちを指し示すように。悲痛な叫びは三人に向けられたものなどではない。
「誰も彼もが、認識しないもの、興味のないものに手を差し伸べるはずがない! 助けてくれと叫ぶことさえできなかった俺たちに比べてお前たちはっ!!」
悠司の腕が宙を掻き消すように振り払われる。怜司と桜を拘束していた触手が消失して悠司の背後に、配下の如く控えた。
怒りが言葉となって悠司の口から吹き出し続ける。内側でうねり、脈動する憤怒の炎をどう解消すればいいのか、彼ら自身でさえ分かっていなかった。
怜司たちを、この光の道を歩む者たちを暗闇へと沈めなければならない。しかし記憶を変えようと何をしようと、彼らがかつて祝福されていたことは変えられない。
その不変の事実に気がついてしまった悠司は怒りの矛先を見失っていた。
「……やはりまずは失うことからだ、怜司」
影の中から無骨な剣がせり上がり、柄を悠司の手が掴み取る。
まずいと感じた怜司が急いで抜剣。桜も刀を抜いて駆け出すが間に合わない。
「蒼麻の命、もらっていくぞっ!!」
まだ動けない蒼麻を怜司が背後へと庇い、剣を構えきれないうちに悠司の刃が振り下ろされる。そして──。
「……え?」
──驚愕に、悠司の目が見開かれた。




