第10話 光よ、受け入れたまえ
暗闇の内に蹲るものよ。
嘆きを焚べ、怒りを燃やすものたちよ。
その炎に身を投げ入れ、己が魂を捧げるがいい。
さすればその魂に油が注がれ、
内なる全てが満たされるだろう。
──ヴィエラ共和国の国境付近にある都市、エルジオ。
貿易都市であるこの街は多種多様な人々の行き交いで賑わっていた。
旧時代の名残りのある巨大な外壁と開かれた門を人間や獣人、角のある巨人や悪魔族たちが次々へと都市へと入り、また出ていく。
その中には馬車を引き連れた商売人も入れば大きな背嚢を背負った旅人もいた。剣士や弓術士、魔術士といった人員で構成された一団が門番に向かって挨拶を交わす。彼らは門をくぐるなり、都市の賑わいに驚き歓声をあげていた。
門の先には大通りが続く。左右には所狭しと露店が並び、無数の品々を扱っていた。店主たちの客引きの大声が雑踏へと投げ込まれ、道行く人々の賑やかな声がそれに応える。
門のすぐそばでは商売人が馬車から荷物を降ろしてまた別の商売人へと渡していた。外で買い付けた品物を都市内部に卸す普段どおりの光景だった。
大通りを歩く旅人のひとりが視線を上げる。通りの彼方、いくつもの建物の向こう側に陽光で照らし出された美しい白色の巨大な尖塔が見えた。その麓には都市の中央に座す大聖堂。尖塔の頂上にある大鐘楼が鳴らされて街の人々に時を知らせる。
聖堂の中ではシスターたちが聖歌を歌い上げ、聖堂の正面に作られた広場では子供たちが楽しげに遊んでいた。広場中央の噴水では恋人たちや家族たちが待ち合わせをして今日をどのように過ごすかを話し合う。
エルジオは平和そのものだった。それは夜闇が訪れても変わらなかった。
夜になった街は露店こそ店じまいをしていたが、今度は建物の中の店が明かりによって目立ち始める。大通りに沿って煌々と輝く光が夜の暗闇を打ち払って幻想的な風景となっていた。
酒場からは旅人の情報交換の声や戦士たちの英雄譚が流れ出し、吟遊詩人の美しい声と竪琴の音がそれを包み込む。
明かりのついた家の中からは家族の団らんの声。子供たちが父や母、祖父や祖母と楽しげに過ごす日々がそこにはあった。
──その輝く街を、見下ろす影があった。
大鐘楼のある尖塔の縁に座る男が、夜闇よりなお暗い双眸で眼下に広がる光景を目の当たりにしていた。
「──ああ、なんという悲劇か」
男の口から悲嘆の声。哀れみ、憐憫、そして怒り。
「これほどの幸福、これほどの平和を享受するものどもがこんなにもいるなんて」
彼は語りかけていた──否、彼らは自分たちに語りかけていた。
幾度となく繰り返された言葉が、また再び発せられる。
「──何故」
応えるものはいない。無数の意識たちが無限に問い続けたその言葉に応えるものはいない。
「何故。何故何故何故何故何故何故何故」
憤怒。理不尽と不平等への怒りが絶叫として噴出する。
「何故だっ!! 何故我らはそうではないのだっ!!」
獣の咆哮が夜の暗闇へと吸い込まれ、街の輝きに拒絶される。
それでもなお男は輝きに向かって問い続けた。それがどれだけ無意味だと知ろうとも。
「我らの生まれはそのときから罪悪だったのかっ!? この街のどこにも我らが存在し得ないのは、生まれ落ちたときから定められたことだったのかっ!?」
輝きは何も応えない。世界は何も応えない。その問いへの応えは永遠に返ってくることはない。
だから彼らは、自分たちで応える他なかった。
「くっ、くくくくくっ。あはははははははははっ!!」
咆哮が慟哭へとなりそして哄笑となった。
「ならば知るがいい。お前たちの罪科。足元に広がりなお目を逸らし続けている地獄の姿を!」
影がその両腕を広げて光へと告げる。怒りと歓喜と嘆きをもってして。
「そして応えよう、謳い上げよう! 我らの存在意義を! 我らの言葉を! 我らの存在そのものを!」
光に拒絶され影となった男の姿が膨れ上がり、爆発したかのように弾け飛ぶ。現れたのは漆黒のごとき黒い汚泥。広がり続ける汚泥が空を覆い天を隠し月光を消し去る。
そして巨大な闇が、街の光の全てを飲み込んだ。
§§§§
街の明かりは消失し、夜の帳が舞い降りる。
家が、人が、ありとあらゆる構造物が汚泥となった暗闇に飲み込まれていく。
あるものは抵抗し、あるものは絶叫した。汚泥は街中へと広がり何もかもを沈めていった。
そこに区別はない。そこに差別はない。あるのは平等。真なる意味での平等だけだった。
圧倒的な理不尽さでもってあらゆる実在物に対して完全なる終焉を与える。その暗闇は人々が目を逸らし続ける恐怖そのもの。
そう、それこそが死。音もなく忍び寄り、抵抗さえも許さず、何人たりとも逃れること能わぬ絶対の法。
死が街を覆い尽くしていた。逃げ場などどこにもない。この街の存在全てが暗黒の内へと沈んでいく。店も家屋も大聖堂も鐘楼も、何もかもが。
苦痛の声が響き渡る。汚泥へと溶かされていく人々の叫び声が闇に飲まれた街に響き渡っていた。
その声を誰かが聞くことはない。その苦痛を誰かが知ることはない。その宿命を誰かが変えることはない。
そう、何故ならばこれこそが地獄。彼らの足元に初めから存在していて彼らの無知によってその存在を否定され続けていたもの。それがたった今、顕在化して彼らに牙を向いたに過ぎないのだから。
暗黒の中にあってただ独り、人の形を保った影があった。人々の悲痛な叫びを聞きその影は嗤っていた。
「見るがいい。そして知るがいい世界よ! これこそが我らが地獄。我らが存在!」
高らかに謳い上げるその者を月光さえも映し出しはしなかった。
「我らの名を知らせよう! たったひとつでは何ら名を与えられず認識さえされなかった矮小な存在であった我らに。寄り集うことで初めて存在意義を持ち得た我らに!」
街中に響く苦痛の絶叫に彼らは応える。
「地獄という言葉に実在を与えよう。我らが堕ちた場所が地獄であるならば、我らこそが地獄そのもの。その姿をお前達に示そう」
暗闇の天蓋を影が仰ぎ見る。人々の声はひとつ、またひとつと消えていく。あらゆる生命、あらゆる物質が汚泥の中へと沈んでいき、消えていく。
天高く聳えていた鐘楼が飲み込まれたとき、エルジオと呼ばれた街はこの世界から姿を消した。残ったのは全てを飲み込んだ汚泥と、たったひとつの存在。
彼らは歓喜の声をあげる。この世界に対する産声を初めてあげる。
──我らはリヴァイアサン。世界を飲み込む、大地の下の地獄そのものなり。




