4.初めての夜、痛みの夜
夕食の後片付けを済ませると、今日はお開きということになった。
5人目のシスターであるディアーナさんは、最後まで姿を見せなかったが――
……ずっと教会には戻っていないと言うし、とりあえずはレアキャラ……という扱いにしておこう。
さて、エマさんの話によれば……シスターにはひとりひとり、部屋が与えられているらしい。
一年前まではシスターも20人ほどいて、その頃は何人かで1つの部屋を使っていたそうだ。
しかしその後、シスターの数が一気に減ったのを良いことに、『アリシア』の主張で1人1部屋になった……とのこと。
「……良くも悪くも、影響力が強かったんだな」
俺はドアの前で、まずは深呼吸をすることにした。
そして、シスター服の腰まわりのポケットに入っていた鍵を使って――
――ガチャッ
金属質の、乾いた音。
冷たいノブを軽く握り、俺は静かにドアを開けていった。
「……ふむ」
部屋の中は、いわゆる『女の子の部屋』……という感じではなく、想像よりも普通だった。
俺のイメージでは家具が白やピンク色だったり、クッションがたくさんあったり、そんなイメージだったのだが――
……まぁ、流石にそれは少女趣味すぎるか。
ドアのすぐ横には腰ほどの高さの、お洒落なテーブルがあった。
その上には白濁した球状の物体が置かれていて、下部の小さなスイッチを入れてみると、ぱぁ……っと、明るい光を放ち始める。
……どうやら、部屋の照明のようだ。
何となく廊下に顔を出して眺めてみると、同じような球状の物体が、壁にいくつも取り付けられている。
「これなら、不便は無さそうだな」
照明がロウソクやランタンしか無ければ、それはなかなか手間になるだろう。
スイッチがもう少し使いやすいところに付いていれば……という不満は残るが、流石にそれは贅沢すぎか。
――さて。
改めて部屋の中を眺めてみると、全体的には綺麗に整頓がされていた。
部屋の隅にある木の机には、大きな鏡が乗せられていて、その前には6本ほどの瓶が並んでいる。
ラベルに書かれた文字を読んでみると、どうやら化粧品のようだった。
引き出しの中には、さらに10本ほどの瓶と、化粧に使うような道具がいくつもあった。
それ以外には細々とした雑貨や、あとは封筒や便箋、羽ペン……といった感じか。
机の反対側には、全身が映る姿見の鏡、ゆったりと広いベッド、大きなクローゼットなどが置いてある。
鏡とベッドに手を触れてから、そのあとクローゼットの中を確認してみると――
……シスター服の替えの他には、女の子らしい服がたくさん入っていた。
女の子……らしい、服――
「……はぁ」
俺は椅子に座って、天井を仰いだ。
今までの俺の人生は、古武術の修行に明け暮れたものだった。
学校や仕事にはきちんと行っていたが、それ以外は先祖代々の道場で、ずっとひとりで稽古をしていたのだ。
それが今や、気付けば異世界に迷い込んでいて、気付けば女の子になっていて――
……ちなみにではあるが、トイレは既に経験済みだ。
最初に行ったのは礼拝堂の掃除の最中で、そのときはもう感情がぐちゃぐちゃになってしまったが――
……何とか掃除に集中して、事なきを得ていたのだ。
しかし自分の部屋でひとり、時間が十分取れるようになってしまえば……、やはり思考は身体の方に行ってしまう。
「……気を取り直して、お風呂にでも行こうかな……。
えぇっと、化粧っていうのはお風呂の前に落とさなきゃいけないんだっけ……?」
残念ながら、俺には『アリシア』の記憶が無い。
従って、化粧の仕方や落とし方なんて分かるはずもない。
しかし……化粧落としなんて毎日するものだから、きっとテーブルの上に乗っている瓶のどれかを使うのだろう。
化粧水と乳液は俺でも分かるから、残りの4本の中のどれか――
……まぁ、それっぽいものから順番に試してみよう。
化粧落としなんだから、合っていれば化粧は落ちてくれるはずだし……、多分。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――ぐ お゛お゛お゛お゛……」
夜中……ふと目を覚ますと、全身に凄まじい痛みが走った。
身体の芯から気怠く重く、どの方向に身をひねっても、逃げ場のない痛みが襲ってくる。
こ、これは――
「筋肉痛……っ!!」
ベッドの中で悶えながら、筋肉痛になった理由を考える。
腕も脚も腰も痛く、これはもう特定の動きを行ったからでは無さそうだが――
……もしかして、原因は……礼拝堂の掃除だろうか。
ひとりで4時間くらい、立ったりしゃがんだり、水を入れたバケツを運んだりしていたから……。
「掃除のあと、確かに身体はずっと怠かったけど……。
……ああ、ダメだ。これは寝ていられない……」
照明を点けて時計を見ると、時間は早朝の3時だった。
昨日は23時には眠れたはずだから、睡眠時間は4時間……といったところだ。
……まぁ、それなら十分か。
俺はベッドから這い出て、静かにストレッチで身体を伸ばしていく。
ある程度の時間を掛けると、ある程度の痛みは取れてくれた。
「……朝食の準備でエマさんを手伝うことになるから……。
身体を鍛えるなら、早朝しか時間が取れないんだよなぁ」
現状、教会の仕事は全て、エマさんがひとりで行っている。
俺としては、そんなエマさんを見捨てることなんて出来ないわけで……。
「――手伝いの前に、軽い稽古くらいはしておくか」
古武術の稽古は俺の日課だ。
今までは朝の5時から稽古をしていたから、これからはそれよりも少し早くなるだけだ。
さて、稽古が出来そうな場所といえば――
……特に思い付かないな。
ひとまずは外に出て、教会の庭ででも汗を流すとするか――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
季節は春のようで、外はそれなりに寒かった。
まだ日は昇っていないが、月明かりのせいで妙に明るい。
「……うわぁ、星空が凄い……」
元の世界では見たことのないような、濃紺と黒色の中に、光が大量に散りばめられた巨大な空間。
画像補正でちょっと失敗したかな? なんて思えてしまうほどの、不自然な迫力が広がっていた。
「でも……何だか、良い『気』を感じるな」
『気』というのはいわゆる『気功』のことではなく、自然と調和する力……といったところかな。
精神を無に至らせるための、なかなか重要な要素だったりするわけだが――。
……この辺りはちょっと、感覚的なものだから説明しづらいか。
「よし、ちょっと動きにくいけど……始めるか!」
今は昨日と同じく、シスター服を着ている。
こんな格好で稽古というのもどうかと思ったのだが、『アリシア』が持っている服が……スカートばっかりで。
俺の気持ちも整理が付いていないところがあるし、女装……もとい、女の子の服を着るにはまだ早いかな……と。
そうすると、着られるものはシスター服しか無くて……と、つまりはそう言うことだ。
俺は筋肉痛の身体を動かしながら、ゆっくりと古武術の型の稽古を始めた。
父親と祖父が他界してから、ずっと続けたひとりの稽古。
――違う世界で、違う身体で。
しかしやっているのは、今までずっと続けて来たことで。
……この世界に来てから、ようやく気持ちを落ち着けられた気がする。
果たして俺は、この世界では平穏に生きていけるのだろうか――
……元の世界では殺し合いの戦いで、俺は命を落としてしまった。
同じ轍を踏まないように、俺はもっと強くならないといけない。
その強さを以って、殺そうとしてくる輩を、逆に殺してやらなければ――
「……んぎっ!?」
筋肉痛を気にしながら、いつものように型を取っていると……太ももの裏側が、ピンッと突っ張ってしまった。
改めて前屈を試してみると、両手が地面に付かないくらい身体が固い。
俺はそのまま、バランスを崩して地面に転がってしまった。
ごろりと仰向けになり、息を整えながら夜空を見上げる。
「……はぁ。
筋力も柔軟も、素人レベルからやり直しか……。
腕のリーチも体重も無いし、一体どうなるのかなぁ……」
古武術での戦いにおいて、俺の戦績は『1戦1敗』である。
殺し合いの戦いは人生で一度きりだが、その一度の戦いで敗れて、殺されてしまった。
『もっと強くなりたい』
幼い頃から築き上げてきた強さ。
敗北を経験した今、強さに向かう気持ちは今まで以上にあるのだが――
……いかんせん、今の状態はマイナス要素が多すぎる。
「……はぁ」
ひとりでいると、どうにもため息ばかりが出てしまう。
俺は立ち上がって、再びいつも通り、順番に稽古を続けることにした。
……悩んだときは、基本に戻る。
俺が今までやってきたことであり、きっとこれからも続けるべきことだろう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一通りの稽古を済ませたあと、俺は教会の中に戻ることにした。
炊事場には灯りが点いており、何となく覗き込んでみると、エマさんが既に仕事を始めているところだった。
「エマさん、おはようございます!」
「あら、アリー。おはよう――
……って、凄い汗かいてるじゃない!? どうしたの!?」
エマさんは心配そうに、俺に駆け寄ってきた。
「あ、少し運動をしていまして。
筋肉痛が酷かったので――」
「……え?
筋肉痛が酷くて……何をしていたって?」
「え? 運動です、運動」
「……ごめん、言ってる意味が分からない」
確かにオーバーワークになるのは良くないが、少しくらいの運動なら大丈夫だ。
……と、少なくとも俺はそう教えられてきた。
「そうですか……?
ところで朝食の準備の前に、お風呂で汗を流したいんですが……大丈夫ですか?」
「別に良いけど、光熱費は掛かるから。
そこは気にしておいてね?」
……光熱費。
この世界でも、当然ながら気にしなくてはいけないか。
「分かりました。
ちなみに、お風呂ってどうやって沸かしているんですか?
ガスですか? 電気なんかは……無いですよね」
「……ガス? とか、……電気? って、ちょっと分からないけど……。
うちの教会、お風呂は魔法石で沸かしているのよ」
「魔力石……?
もしかしてこの世界、『魔法』とかがあるんですか!?」
俺の質問に、エマさんは驚きを隠さなかった。
「え……? 記憶喪失って、そこまで忘れちゃうものなの?
1+1って、答え分かる?」
「2ですね」
「……そういうのは大丈夫なんだ?
えぇっと、ここは教会だから、以前までは神聖力で沸かしていたんだけど――」
「おぉ! 『神聖力』っていうのもあるんですね!」
「アリー……。あなた、腐っても聖職者なんだから――
……っと、それは置いておいて。最近は神聖力が使えないから、魔力石で代用しているの」
「最近……?
『神聖力が使えない』って、何かあったんですか?」
「神聖力ってね、信仰が強いところに集まるものなのよ。
でも……アリーも見たでしょ? うちの教会、全然人が来ないから」
「そういえば、昨日はシスターしか見てませんね……。
昨日は教会が開いてなかった、とかじゃないんですか?」
「教会は基本的に、来るもの拒まずよ。
思い出せないならそのうち教えてあげるけど――、
……ああ、そうそう。わたくしたちみたいな聖職者も、神聖力は持っているものなの」
「あ、そうなんですね。
それなら魔力石に頼らなくても、自分たちで沸かせるのでは?」
「お風呂を沸かすのって、結構な神聖力を使うのよ。
わたくしだけだと、わたくしが倒れちゃうから」
エマさんは自嘲気味に笑った。
いや、それならシスター全員で分担をすれば良いのでは――
……って、いや、そうか。
この教会のシスターって、誰もエマさんのことを手伝っていなかったんだった……。