1.鐘の鳴る街
「――喰らえッ!!」
薄汚れた道着の男が、俺の前で大きく吠えた。
……その勢いと同時に、俺に向かって何発もの拳が撃ち込まれる。
ひとつひとつが固く、そして重い。
「チッ!!」
俺は嵐のような拳を捌きながら、男の腕を柔らかに掴んだ。
『剛』には『柔』を。
『硬』には『軟』を。
『動』には『静』を――
……それが、俺の受け継いだ古武術の思想だ。
暴れる腕に体重を預け、男の顔に蹴りを放つ。
男の体勢さえ崩せれば、このまま地面に叩き付けて、利き腕の右を折り砕ける――
「――しゃらくせぇッ!!」
突然、俺の身体が止められた。
流れるような戦いの中、単純に『力』で止められてしまったのだ。
固い地面に叩き付けられた俺は、満足に息をすることも出来ない。
何とか目を開けてみると、俺を見下ろす男の顔が視界に入ってきた。
「……く、そ……!」
意識は飛びそうになるが、それを許せば完全に終わってしまう。
しかし無情にも、俺の視界は光を失っていく――
「……ふん。
一子相伝の古武術だというから、期待して来てやったんだがな。
所詮は弱虫どもの、取るに足らないくだらん武術……だったというわけか」
『なんだと!?』
俺の憤りは、まるで声になってくれない。
口から、喉から、目から、身体から――
、……熱が、生気が、命が……凄まじい速さで失われていく。
「それじゃぁな」
最後に聞こえたのは、男の声。
そしてその後、俺が味わったのは――
……頭が割られるような、砕けるような。
今までに想像すらしたことのない、凄まじく鈍く、凄まじく重い衝撃だった……。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
……。
…………。
………………。
「……はぁ」
ため息を衝いた俺の前には、緑豊かな森の樹々と、ぽっかりと空いたような美しい湖が広がっていた。
少し涼しい気もするが、春らしく、とても気持ちの良い陽気だ。
数時間くらいなら寝転んでいても構わない。
いや、むしろそれ以上のんびりしていきたくなるような場所だった。
しかし――
……いや、まずは落ち着こう。
そうだな……まずは俺の話でもするとしよう。
俺の名前は渡瀬竜。
現代日本においては珍しい、一子相伝の古武術を受け継いできた家の一人息子だ。
手技や足技、投げ技、関節技、果ては杖術まで、なかなかの幅を持った武術なのだが――
……残念ながら、殺し合いの戦いで……負けてしまった。
その敗因を考えてみると、やはり修行の環境にあった……のだと思いたい。
俺は父親と祖父との三人暮らしだったんだが、俺が15歳のときに二人とも亡くなってしまったんだ。
その後は、一子相伝の武術をひとりで稽古をしていたのだが――
……当然ながら、組手のような実戦形式の修行が全然できなかった。
それでも稽古をしながら大学を出て、そして社会に出て働いて……。
そろそろお嫁さんをもらって、子供を作って、そして父親や祖父と同じように、子供に古武術を教えていって――
……そんな人生を考えていたのに。
「――はぁ」
俺のため息が再び漏れていく。
しかし、『俺の』……と言ったところで、かなりの違和感を覚えてしまう。
頭を抱えながら、数歩先の湖を再び覗き込む。
水は美しく透明で、水中の土の色も鮮やかに見ることが出来る。
そんな水面に、うっすらと映る自分の姿は――
……可愛い、美少女。
その認識に、俺の頭は再び混乱を始める。
「これは……夢なのか……?」
改めて口にすると、これまた違和感のある声が聞こえてくる。
自分の声ではあるのだが、低い男の声ではなく、凛とした可愛い女の声……。
髪を梳きながら、その手に目を移してみれば……そこに映るのは、長く美しい金色の髪。
身体の方に目を移してみれば、物心がついた頃から鍛えていた筋肉は見る影もなく、華奢な腕、華奢な足がすらりと伸びている。
……筋肉が無い。
それだけで何と心細く、不安になってしまうのか……。
そして俺の着ている服は、いわゆる教会のシスターが着ているようなもの……だった。
色は黒に近い紺色で、ところどころに装飾が施されている。
全体的には身体のラインが出てしまっており、脚の部分は長いスリットになっている。
……あまり性的な雰囲気は無く、どちらかと言えば可愛さでまとめられている……っていう感じかな。
まぁ、身体の出っ張っているところは出っ張っているし、引っ込んでいるところは引っ込んでいる……ようだけど。
「……ここは、天国なのか、夢なのか」
仮に天国なのであれば、『何でこんな姿に』ということになる。
仮に夢なのであれば、『俺はこんな妄想を抱いていたのか』ということになる。
ふと、大学生の頃に読んだ『異世界もの』の漫画を思い出してしまう。
どうにも信じられないが、もしかして……これがそれなのか?
「……ため息ばかり衝いていても、仕方が無いか」
何かを思い出そうとしても、頭に浮かぶのは男だった頃の自分のことばかり。
この姿での記憶はまるで無いし、近くに自分の素性を示すようなものは何も無いし――
……ただ、何となく『街の方向』だけは分かる気がする。
『頭の記憶』ではなく、『身体の記憶』……なのだろうか。
もしくは、何かに導かれている……とか?
「うーん……。とりあえず、動くか……」
俺は深く考えるのを止めて、ひとまず『街の方向』へ向かうことにした。
歩く感覚も、いつも通りのような、全てに違和感があるような……そんな不思議な感覚だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――30分も歩くと、森を抜けて高い壁が見えてきた。
さらに近付いてみると、3メートルほどもある大きな門を見つけた。
「……誰か、いるのかな?」
しかし門の周りには誰もおらず、閉められた扉は外から開けられるような雰囲気でもない。
左右を見渡してみても……やはり誰もおらず、壁は遥か遠くまで続いていた。
「おーいっ!」
不意に、上の方から声がした。
慌てて見上げると、壁の上は歩けるようになっているらしく、兜を被った男性が俺を呼んでいた。
……兜?
ってことはもう、完全に日本ではないな……。
「はーいっ!!」
俺はとりあえず、大きく返事をしてみた。
どれくらいの力を張れば良いかは分からなかったが、大声はすんなりと出て来てくれた。
「アリシア、もう用事は済んだのか?
門を開けるぞ!?」
兜の人は、俺のことを『アリシア』と呼んだ。
つまりこの身体は突然湧いて現れたわけではなく、今までこの世界に存在していた……ということになる。
それなら少しくらい、『アリシア』の記憶が残っていても良さそうなのに――
……っと、今はそれより返事をしておこう。
「よろしくお願いしまーすっ!!」
俺がそう返事をすると、兜の人はぎょっとした表情を見せて、そのまま引っ込んでしまった。
しばらく待った後、大きな門は重い音を響かせながら開いていった。
……徐々に見えてくる街並み。
そこには、中世風の古い街並みが広がっていた。
ただ、『中世風』とはいっても……俺としては、『ファンタジー作品に似ている』くらいの認識なわけだが。
門の動きが止まるのを待ってから、俺は緊張しながら進んでいった。
分厚い壁を抜けて、街に入ったところで……槍を持った男性が声を掛けてくる。
「ほらほら、さっさと入ってくれよ。早く閉めるんだから」
槍の人はぶっきらぼうに言いながら、槍で地面を突いていた。
何かストレスを溜めているようだが……こういう場所の人員としては、一体どうなのだろう。
しかし相手がどうであれ、俺は何かをしてもらったら、しっかりお礼を言うことにしている。
武術に通じるところもあるが、『礼に始まり、礼に終わる』……というやつだ。
「すいません、ありがとうございました!」
真正面に向き直り、俺は槍の人に深々とお辞儀をした。
そして身体を起こしてみると――
「は、はぁ!?
お前、頭でも打ったのか……!?」
……と、槍の人に愕然とされてしまった。
「な、何かおかしかったですか?」
ここが異世界なのであれば、もしかしたらお辞儀の仕方が違っているのかもしれない。
俺は心配になって、槍の人を見上げてしまう。
……そういえば俺、明らかに身長が小さくなっているな……。
何となく、何もかもが大きく見えているし……。
「お、おかしいも何も……。全部おかしいだろっ!?
お前、からかうんじゃねぇよ!!」
そう言うと、槍の人はしっしと俺をあしらうように手を振った。
ああ、このジェスチャーは元の世界と共通だ。
……それにしても、何がどうなっているのか……本当に分からない。
ひとまず俺は、軽く会釈をしてから街の中に入って行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
……俺の今の姿は、さながら教会で活動する『シスター』のようだった。
つまりそれなら、これから『教会』に向かうのが当然だろう。
『街の方向』が何となく分かったように、『教会の方向』も何となく分かる気がした。
それなりの距離は歩きそうだが、ついでに街の様子も見ていくことにしよう。
急いで走って行きたい気持ちもあるけど……あまり鍛えてなさそうな脚だからな。
まだ1時間も歩いていないのに、何だかもう疲れてきちゃったし……。
そんなことを考えていると、お腹が軽く鳴るのを感じた。
今は、太陽も昼間を指しているような時間だから――
……気が付くと、俺は大通りを歩いていた。
客はまだいないようだが、いくつかの屋台が自然と目に入って来る。
俺の足は、ついつい屋台の方へと向かってしまう。
分からないことばかりで不安なことはたくさんあるが、食欲は三大欲求のひとつだから……これは仕方が無いのだ。
「いらっしゃいませ――……って、アリシアかい。
ちゃんとお金を払わないと、食べさせてやらないよ」
「……はぅ」
最初から酷い言われようである。
少しイラッとはしたものの、そういえばお金を持っているんだっけ……? と、不安になってしまう。
そもそも俺は、今着ている服……シスター服の構造をよく分かっていない。
どこかにポケットがあって、そこにお財布が入っているかもしれないけど……他人様の前で、服をあちこちまさぐりたくはないし……。
「無駄遣いばかりしてないで、しっかりご飯は食べなさいよ?
そんな細腕じゃ、ろくに力仕事も出来ないだろう?」
おばちゃんは迷惑そうな顔を見せながら、熱そうな大きな鍋を、ぐるぐるとかき混ぜていた。
……これ以上、話をする様子は無いようだ。
それならもう、ここにいても仕方が無いか……。
「分かりました、今度はお金を持ってきます。
そのときはよろしくお願いしますね」
……軽く会釈をしてから立ち去ろうとすると、おばちゃんは驚愕の表情を見せていた。
それに驚いた俺は、小走りで逃げ出してしまっていた……。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――……はぁ。一体何なんだ……」
人通りが増えてきた中を、俺はとぼとぼと歩いていく。
何人かが俺に目をやっていたが、気持ち的にも疲れてしまい……あまり考えないようになっていた。
そうこうしながらさらに歩いていくと、ようやく目的地の教会が――
……古く厳かな建物が、俺の前に姿を現した。
敷地内の庭は……ちょっとした公園くらいの広さがあるようだ。
入り口の門は開けられており、壁のプレートには『ルーチェットベル教会』と刻まれている。
――……ガララーン……
――――……ガララーン……
突然、重厚な、美しい音色が街に響き渡った。
どうやらこの教会の建物の上に、大きな鐘があるようだ。
「……ずいぶんと立派な建物だけど……。
とりあえず……入ってみよう、かな? 大丈夫……かな?」
教会に入らないことを選択しても、俺には寝る場所の当ても無いし、食べるものの当ても無い。
さらにそもそも、『この世界』がどんな場所なのかも分からない――
……俺は観念しながら、教会の中に入ることを選択した。