739.Side Story:その執事、忠犬につき2
(俺の知ってる獣化とは違う……神がどうとかごちゃごちゃと言っていたけど、まさか本当に神が力を与えているっていうのか?)
黒の竜程ではないが、周囲の建物をゆうに超える体躯。洗礼名レヌンティアツォは口を横にびしっと閉じ、アルベルトを鋭く睨む。膠着状態の中やがて鎌首をもたげたかと思えば、
「ッ!!」
(──生奪の魔眼か! それも、さっきとは比べ物にならないぐらい広範囲の……!)
洗礼名レヌンティアツォの瞳で円環が光る。見開かれたそれに映ったものは、瞬きの間に一斉に石化する。当然例外はなく、アルベルトもまた全身が物言わぬ石と化した。
「さあ、我が神の慈悲をもって“救済”されるがいい…………!」
石化したアルベルトに巻きつき、馬の胴程はある太い尾で締め付ける。あっという間にヒビが入り、人型の石像はクッキーのようにぼろぼろと粉砕された。
(全身を石化した。万が一にも逃げることなど叶わぬ。あの気味の悪い男も、これで──)
「くっそ……単純に視界が開けたからって、効果範囲と魔眼の能力が倍増するとか何でもありかよ」
(だから何故あの男は生きているのだ…………ッッッ!?)
もう何度目かも分からない死者の登場。
アルベルトは頭痛に堪えるべく眉間に皺を寄せながら、洗礼名レヌンティアツォを見上げた。
(……まだこのカラクリには気づかれてないけれど、それも時間の問題だろう。それに、さっき上を見上げた時には妙な色が空に溢れてたし……このままだと街の人達が危ないな)
そうは考えるがアルベルトには問題があった。
死にはしないし、空を侵す禍々しい色を見て一つだけ切り札を思いついている。しかしあの生奪の魔眼を回避する術が無い。影の中を行こうにも怪しい動きをした瞬間に石化されてしまう。他も同じだ。
例の切り札は、洗礼名レヌンティアツォの頭部に触れなければ発動できないもの。つまりどうにか生奪の魔眼を掻い潜り、あの大蛇男に肉薄する必要があるのだ。
(死角を取ろうにも、隙は無い。魔法だってたいした時間は稼げないし……どうすれば……)
洗礼名レヌンティアツォの視界に映らない──ただそれだけのことが難しい。神の恩寵によりあらゆる能力が跳ね上がったあの男は時に凄まじい速さで動くので、ただの人間に過ぎないアルベルトではどうやっても捕捉され、魔眼の餌食となってしまうだろう。
さてどうしたものか。と思案しつつ試しに動いてみたアルベルトを、またもや生奪の魔眼が襲う。例の如く石化し、竜種が尾で木々を薙ぎ倒すように破壊される石像。しかし例によってアルベルトはひょっこりと、どこからともなく五体満足で現れる。
もはや新手の怪異だ。
「……ッ! 何としぶとく、訳のわからぬ珍妙な人間なのだ……!!」
「こっちからすれば君達の方がよっぽど奇妙奇天烈だけどね。やたらと大きくなったり、変な色をぶち撒けたり。相手をするこっちの身にもなってほしいよ」
「貴様にだけは言われたくない!!」
心からの叫びである。
(……やっぱり隙は生まれない、か。神がどうこう以前に、やっぱりこの蛇人は武人なんだろう。天覧真国は独自の武術が盛んだってよく聞くし)
意識を逸らせば僅かにも隙が出来るかとも考えたが、そうは問屋が卸さない。
影で壁を作ることは出来ても、神の恩寵パワーで意味不明なブーストがかかった生奪の魔眼は、なんと影すらも石化してくる。
つまり。状況を悟らせないとばかりに余裕綽々と振る舞ってはいるが──アルベルトは、現状圧倒的に不利だった。
(…………一か八か、昼夜をひっくり返せば……)
夜になればアルベルトは闇に溶け込める。宵闇とは、闇の魔力所持者にとってこれ以上無い好都合な戦場なのだ。
そして彼は闇魔法の中で最も神の領域に近い大魔法を使える。
なんとほんの思いつきで。たまたまその魔法について記された手記を見て、彼は独学で習得してしまった。
その動機は至って単純。『主君の存在をもっと感じていたいなぁ』とかなんとか……月のような白銀の髪と夜空の瞳を持つ少女に思い馳せ、彼はなんと成し遂げてしまったのである。
かつて、闇の魔力に呑まれたある人間が『んー、やっぱ夜がいいよね! 夜ってほら、暗いし!』なんて軽い気持ちで編み出した、昼夜を入れ替える魔法──『永久なる宵闇を招かん』。闇の魔力所持者全員の必修科目にすべき、世界干渉を目的としたとんでもない大魔法だ。
(でもあの魔法、死なないギリギリまで魔力をもっていかれるし……夜に変えた時間ぶん命を削られるし、できれば使いたくないんだよな……)
世界に干渉する魔法なのだ、当然発動には相応の代償が伴う。眼前の蛇人を倒した後も戦うことが予想される以上、魔力を使い切るのは避けたいところである。
が、生奪の魔眼を封じる為には『月蝕む宵の緞帳』や『永久なる宵闇を招かん』を使わなければならない。
なんてうぬぬと思案する間も、実は何度か生奪の魔眼に石化されたり、毒魔法で攻撃されたり、蛇の尾がブオンッと風を薙ぎ倒して迫って来たりと、そこそこ危険続きなのだが……相変わらずアルベルトは、どれ程の重傷を負おうがほんの数秒後には何事も無かったように五体満足で、執事服を砂埃と共に風で踊らせている。
(ちくしょう、埒が明かないな。耐久戦に持ち込まれたら俺に勝ち目は無い。既に魔力も半分以上使ってるし……どうにか魔眼さえ封じられたら──)
毒魔法を躱し、「月蝕む宵の緞帳!」と闇魔法を発動する。一時的に洗礼名レヌンティアツォの視界が奪われ、魔眼が封じられるも……先程よりもずっと早く、ほんの十秒程度で魔法が解除された。
更に魔法の効きが悪くなっている。そんな明らかな異常に、アルベルトが舌打ちした、その時だった。
「小賢しい男め……! 物言わぬ石となるがいい!」
「──石になるのはテメェだ、デカブツ」
限りなく透明に近い白の魔法陣が、洗礼名レヌンティアツォの足元に展開される。生奪の魔眼発動の寸前、その魔法陣上にて瞬く間に顕現したのは──鏡の檻だった。
「なッ……!?」
(──これは、まさか……鏡────ッ!?)
魔眼の発動には何かを視る事が必須。そして生奪の魔眼は視た対象を石化する魔眼だ。
そして、今。彼の眼に映ったのは、その巨体を閉じ込めるように顕現した鏡に映った自分自身。
発動を止める間もなく、洗礼名レヌンティアツォは己を石化してしまった。
どうやらこの鏡の檻は外側からは中の様子が見えるようで、洗礼名レヌンティアツォが石化したのを確認したワインレッドの髪の男は、ふぅと溜息を一つこぼした。
そして、アルベルトは声の主を見て目を丸くする。
「──ヘブン?!」
「おい。無事か、王女の犬」
「なんとか……でもどうして君が帝都に? それに、その女の子ってもしかして……」
「普通に観光だっつの。建国祭やってるから来いよーなんて、王女サマが呑気な手紙寄越しやがったから、こうして遠路はるばる冷やかしに来てやったんだよ。……コイツの初冒険も兼ねて、な」
ヘブンは、腕の中ですやすやと寝息を立てる桃色の髪の少女を見つめ、威圧的な荒い口調とは裏腹に穏やかな表情を作った。
魔力過敏体質のシャーリーは魔力に触れすぎないよう、狭い世界の中で生きてきた。しかし以前、シャーリーの体質についてアミレスが魔力の専門家に訊ねたところ……
『それならこれをあげよう。大気中の魔力原子を吸収して生命力に変換する特殊な石だよ。これを身につけておけば魔力原子や魔力が体に吸収される前に、この石が彼女の周囲のそれを代わりに吸収して、生命力に変換してくれる。だから魔力過敏を起こすことなく、魔力炉の機能と生命活動を維持できるはずだ』
とはシルフの言である。
パッと見た感じでは隕石のような、ゴツゴツとした不恰好な石だ。
渡されるやいなや、アミレスはウキウキでこの石とその解説(シルフの説明を丸コピペ)をヘブンに送りつけたのだが……半信半疑で石をネックレスに加工してシャーリーに持たせたところ、なんと近くで魔法を使ってもシャーリーの体調が悪くなることは無くなったのだ。
おまけに本人の体調まで、これまでと比べるとすこぶる調子が良い。外に出て遊べるのは週に一度あるかないか……といった虚弱っぷりが嘘のように、今では仲良しのミアと二人で外を駆け回っている。
あの石が何なのかという疑問は変わらず尽きないが──、ヘブンとしてはこの件について、改めてアミレスに礼を告げたいという思いもあったのだ。
なのでこの度、一度も港町ルーシェから出たことのないシャーリーを連れて遠路はるばる帝都まで来たという訳である。
件のシャーリーは、あまりの人混みに疲れて眠っているようだ。
「つーか、何が起きてんだァ? 人混みは酷ェし、変な蛇がウロウロしてるし、おちおち観光なんざ出来ねェよ」
「……実は────」
アルベルトはヘブンに話すべきかと迷ったが、助太刀して貰った手前、何も話さないというのは違うと思う。かいつまんで説明すれば、予想外の状況にヘブンは鼻白んだ。
「…………あの王女はどうしてそう、テメェの首をそこかしこに突っ込んでいくんだ?」
「きっと、主君の関係者は全員そう思ってるよ」
「なら止めてやれよ。あのバカ女は王女以前にまだガキだろォが」
「……ごもっともです。──それはそうと、主君のことを愚弄するのはやめろ。半殺しにするぞ」
(めんどくせェ番犬だな……)
犬は犬でもコイツだけは御免だ。と、犬派のヘブンは大袈裟に息を吐いた。
その後アルベルトは、念には念をと予定していた切り札を切る。ヘブンに鏡の檻を解除させ、石化した大蛇を猫のような身軽さでひょいっと駆け上れば、未だ人型の頭部に触れて告げる。
「俺の視てきたもの全て、君にも見せてやるよ。俺がどんな風にこの世界を視てきたのか──」
とうに能力を失ったはずの灰の両眼に、ぼんやりと円環が光る。
彼の視界には、僅かながらも懐かしい色彩が蠢いていた。──色覚の魔眼は、人や動物の感情を色で認識することができる、妖精由来の魔眼。帝都内で次々と起きる騒動に恐怖する人々の不安が、曇天のように暗く澱んだ色として、街を覆うように揺らいでいる。
「──知ってる? 人間って、色だけで狂うことが出来るんだよ」
あの、狂乱の天幕がそうであるように。
アルベルトは理解していた。生まれた時から己が見ていた色が、じわじわとその身を蝕み心を腐らせていっていたのだと。だからこそ彼の精神は鈍くなり、あの地獄の一年をギリギリ耐え凌いだのだ。
「俺の視覚を共有してやるから。存分に壊れな」
言って、アルベルトは狂乱の天幕が広がっていた方へと首を傾け、視線を移す。ロアクリードが上手くやったのか、あの色魔法は消えている。
しかしあの色魔法で壊れかけた者達の狂気の色が溢れて、アルベルトにしか視えない地獄絵図を描いているのだ。──そして、それを彼は洗礼名レヌンティアツォに共有した。
闇魔法で精神干渉を行い、相手の記憶を盗み見ることが出来るように。現在進行形で記憶となりゆくあの地獄を、アルベルトの記憶として洗礼名レヌンティアツォにわざと見せているのだ。
慣れたアルベルトでなければ耐えられないような精神負荷が、今頃洗礼名レヌンティアツォにはかかっていることだろう。
しかし、当の大蛇は石化したままで、どうなったかは誰にも分からない。──あの石化が自然と解けるその時まで…………。