737.Side Story:ブチ切れ教皇様と通りすがりの元聖人2
(絶対に許さない。おまえだけは、絶対に──ッ!)
「──ヴォナフォルトゥーナの敵は、あたくしが討つ!!」
思い切り捻った蛇口から水がドバッと溢れ出すように、その小さな体から二人分の膨大な魔力が溢れ出す。
やがて、無色透明のそれは徐々に奇妙な色彩を纏う。様々な絵の具を出したパレットをバケツに突っ込んだように、無数の色が重なり、混ざり、地獄の夜のような暗く禍々しい色彩が辺り一帯を覆った。
台風の目より飛び出す暗澹とした天幕。それは避難途中の市民達の視界に滑り込んだ。
「なんだあの、そ、ら…………あ、ぁああああああああああああっっっ」
「ひ、きゃ、はっ、ははははははははははは!」
「ぁ────、ぴ、ゃ──────」
「見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るなッッ! 誰も俺を見るなぁッッッ!!」
「うぅぅっ……あたまが、いたいよ……っ!」
その天幕を一目見た者達が次々と錯乱してゆく。その異常は千差万別だが、等しく精神異常に陥っていることは確かだ。
「クソ……ッ! あの子供の仕業か!」
狂乱を振り撒く天幕の出現を確認して、随分と口悪く、ロアクリードは暴風の壁を睨んだ。
「擬似太陽、集束──……陽光の咆哮!」
金色の魔法陣が輝き、暴風の壁を灼こうとする。しかし神の恩寵により膨れ上がった暴風を破ることは叶わなかった。
その間にも、徐々に拡がる色魔法が無辜の民を狂わせてゆくではないか。
(とうの昔に正気を捨てているとは言え、あれ程の規模の魔法は、私もそう長くは直視できない。いずれ私も壊れてしまう。その頃にはきっと……彼女の民はことごとく廃人と化しているだろう)
「──それは、避けねば」
精神異常。それは平たく言えば、精神が狂うということ。既に狂っている人間程、精神異常に耐性があるのだ。
「迸る生命の星よ。我が呼び声、我が言の葉を聞き届け給え」
ロアクリードは紡ぐ。それは、かの聖人ミカリア・ディア・ラ・セイレーンが編み出した広域殲滅魔法。魔法陣上にある神が悪と定めた全てがこの世から消滅する、究極の光魔法だ。
そもそも光の魔力は、治癒魔法や付与魔法や結界魔法をはじめとした支援系の魔法がその大半を占める。攻撃魔法はかなり少なく、圧倒的な光量による目眩しや、光の塊を放つ魔法、対魔物・対霊に限られる浄化魔法ぐらいなものだ。それでも他の魔力と比べてバリエーションに富んでいるのは、太陽に最も近い光の魔力だからだろう。
セインカラッド・サンカルの編み出した魔石光術や、ロアクリードの陽光の咆哮、そしてミカリアの神聖十字臨界などが貴重な光属性攻撃魔法なのだ。
「我が欲せしは神秘、我が願いしは幸福、我が求めしは幻想、我が望みしは安寧。悪しきを滅し、悪しきを排し、悪しきを覆せ。天上の主よ────」
神聖十字臨界の魔法陣が地面に刻まれてゆく。
発動したが最後、国際問題待ったなしだから極力使いたくなかったが、背に腹は代えられない。彼女に迷惑がかからないようどうにか上手く立ち回ろう。と覚悟を決めたロアクリードだったが、その時。
静謐な言葉が、吹き荒れる風の隙間を縫うように、降ってきた。
「我が手に輝け、清らかなる光輝よ」
凄まじい速度で暴風の壁に突撃した、眩い光を放つ何者か。それは洗礼名プラッシピオの爆発的に増えた魔力すらも凌駕する、およそ人類とは思えない圧倒的な魔力量で、あの暴風の壁を破ってみせた。
「……どこまで化け物になれば気が済むんだ」
思わず魔法の発動を止めたロアクリードは、苦い顔で忌々しげに呟く。
暴風の壁を破られて目を丸くする洗礼名プラッシピオの前には、朝日のように儚い白金の長髪を靡かせる、紳士服を身に纏う麗人が立っていた。
「藪から棒にすまないね。無辜の民を害するのは、やめてもらえるかな?」
太陽を溶かしたような檸檬色の瞳が中途半端に細められ、その口元はぎこちなく弧を描いている。
その微笑みはややホラーチックであった。
(……まだ、上手く笑えないな。『聖人』らしく笑うのは得意なのだけれど……『ミカ』らしく、普通の人のように笑うにはどうすればいいんだろう)
洗礼名プラッシピオの瞳に映った己を見て、男は口元に手を当てむむむ。と眉尻を下げる。
聖人ミカリア・ディア・ラ・セイレーンであることを辞めた彼は、『ミカ』という名の何者でもないただの人間として、絶賛普通の人を勉強中なのだ。
「ヴォナフォルトゥーナの、風が……っ!」
温かなあの風を掴もうと手を伸ばすも、魔力同士の衝突で相殺された風は既に消滅している。その事実が少女の声に悲哀を添えた。
しかし、一般人一年生の『ミカ』は、自己分析と改善の模索で忙しいようで……。
(やはり姫君の笑顔を参考に……いやしかし、彼女の笑顔は彼女だからこそ素晴らしいのであって、僕が真似たところで何の意味も無い。そもそも他者を真似た笑顔は普通の人らしい笑顔と言えるのだろうか。やはり普通の笑顔の平均値を割り出してから、地道に口角や瞳の開き具合、眉の流れ、顔の傾きを細かく調整していく方針のほうが……)
彼が聖人として教わった笑顔などは全て、信徒達に絶対的な安心感や幸福感を与える為に、あらゆる角度を計算し尽くしたもの。
つまり彼にとって笑顔というものは、完璧に数値化された機械的動作なのだ。この時点で既に普通からかけ離れていることに、『ミカ』はまだ気づいていない。
「なんで、おまえ達は無事なんですか!? どうして壊れないんですか!? 意味わかんない、ふざけないでくださいよッ! こんなめちゃくちゃな人達に、ヴォナフォルトゥーナが…………っ! 許さない……あのバケモノも、おまえも、許さないっっっ!!」
洗礼名プラッシピオの叫びに呼応するように、色魔法が発動する。それは狂乱の天幕から雨のように滴り落ち、べちゃりと地面に落ちたかと思えば、人型を取ってひとりでに動き出した。
わらわらと湧き出す無数の色人形。その全てがあの天幕と同じ狂気を孕む色をしている。動きは鈍く、のそりのそりと一歩ずつ『ミカ』とロアクリードに接近してゆく。
悪夢のような光景。いつ気が狂ってもおかしくない状況に、ロアクリードは──
「…………け、……な」
歯軋りして、石畳を壊す程の勢いで飛び出した。向かう先は不気味な色人形でも、洗礼名プラッシピオでもなく──『ミカ』のもとであった。
「ふざけるなッッッッッッッ!!」
「なんだい、急に。今おまえと殺し合う暇なんて、僕にはないのだけど」
凄まじい憎悪を孕んだ怒号が、槍斧と共に『ミカ』へ降りかかる。
それを難なく光の剣で受け止め、『ミカ』は煩わしそうに眉を顰めた。
「何勝手に壊れているんだこの野郎!! お前だけはッ、絶対に私がこの手で殺さなければならないんだ!! 人類最強の聖人サマとやらのくせに! ミカリア・ディア・ラ・セイレーンのくせにッ!! 勝手に壊れてるんじゃねぇよ!!!!」
それは、たった一人の男の存在に人生をめちゃくちゃにされてきた、ロアクリードの心からの叫びだった。
「……そうか。それは残念だったね。見ての通り僕は壊れた。おまえが憎み疎む『聖人ミカリア・ディア・ラ・セイレーン』は、もう居ない」
「っふざけるなよ……! お前を殺す為に、僕が、どれだけ────!!」
洗礼名プラッシピオと不気味な色人形を無視して、男達は鍔迫り合いを演じる。
あくまで冷静な『ミカ』と憎悪に突き動かされるロアクリードが、それぞれ黒衣と紳士服を暴れさせながら、殺意を交錯させた。
「……僕はもはや『聖人』ではない。衝動の赴くままに、普通の人らしく──目障りな相手を消してもいいだろう、ね?」
「お前は私が殺す。これだけは他の誰にも絶対に譲らない。お前自身にだって、絶対に譲ってなるものか……!」
不気味に微笑む『ミカ』と、勝手に壊れた聖人に憤怒するロアクリード。それぞれ得物を構え直し、【大海呑舟・終生教】などお構いなしに殺し合おうとした、その時。
「あたくしを無視するなぁっ!!」
洗礼名プラッシピオの声と共に、四方八方から色人形が飛び出してきた。その全長は健康な成人男性より二回りは大きい。それが逃げ道を塞ぐように、ドーム状に折り重なって彼等を襲う。
色人形──『恐怖を届けるお友達』は、精神異常を齎す色彩がまるで意思を持つように、生命が持つ魔力を目印に練り歩くというだけの魔法。それ自体に殺傷能力は無い。
しかしこうも使用者の魔力が膨れ上がっている状態で、一体でも充分人を狂わせる人形が、数えるのも億劫な程迫り来るのだ。たとえ攻撃力が無くとも、彼等の精神への負荷は想像を絶するだろう。
「壊れちゃえばいいんです。せんせいも、ロボラも、ヴォナフォルトゥーナも、みんなを苦しめる人間や世界なんて、何もかも全部壊れてしまえ──!」
その少女は、組織の中でも特に洗礼名オーディウムと洗礼名ロボラに懐いていた。本人は認めないが、洗礼名ヴォナフォルトゥーナにだって、心を許していたのだ。
洗礼名プラッシピオ──キャララン・ディトという少女は。自分が生まれ育った“真夜様”を崇拝し夜明けを拒む小さな世界を壊し、連れ出してくれた洗礼名オーディウム達を、心から信頼しているし実の家族のように思っている。
だからこそ、キャラランはこの世界が許せないのだ。
誰しもが懸命に今を生きていただけなのに、どうしようもない理不尽によってそれぞれ何かを失った。何かを得ることすら許されなかった。
大好きな洗礼名オーディウムや洗礼名ロボラ、そして洗礼名ヴォナフォルトゥーナを苦しめるだけ苦しめて、結局幸せにはしてくれない人間達も、そんな人間達で溢れかえる世界も。
何もかも全部壊れてしまえ────。
それがキャラランの願い。洗礼名プラッシピオとして彼女が戦う、ただ一つの理由だった。
(このままここであのバケモノを……!)
二人のバケモノを覆うように色人形が折り重なるドームを見つめ、洗礼名プラッシピオは固唾を呑む。
程なくして。水が沸騰するように、白いバケモノを覆う色人形のドームがぼこぼこと変形する。一体何事かと注視した、その瞬間。──まるで泡が弾けるように色人形のドームが破裂した。まさかの光景に洗礼名プラッシピオは固まり、水色のツリ目が見開かれた状態で震えている。
そんなドームの中心に立つ紳士服の麗人は、事も無げに服についた埃をはらっていた。
「ああ、いけない。姫君に選んでもらった服が……」
恋する乙女のように身嗜みを気にする『ミカ』の目の前で、もう一つのドームにも変化が起きる。
瞬きの間にドーム全体に凄まじい数の斬撃が入ったかと思えば、直後。流動体のドームが砕け散った。──汚れを落とすように槍斧を振るロアクリード。まずドームの内側を擬似太陽で焼いてから槍斧で素早く全方面を斬り、ドームを破壊することで彼も脱出してみせたのだ。
「…………聖人殿」
「今の僕は『聖人』ではないのだけれど」
「聖人殿。ひとまずあの子供を無力化しましょう。先程はつい理性を失ってしまったが、このままでは無辜の民が危うい」
「……おまえに賛同するなど不本意極まりないことだけれど、その申し出は受け入れようか。彼女の国を……彼女が愛するこの国を、守らなければ」
一度も目を合わす事はなく。あくまでアミレス・ヘル・フォーロイトの為に、化け物と怪物は一時休戦とした。
(な、なんで? どうして、あの二人は、壊れないんですか……っ)
洗礼名プラッシピオ──キャラランは、恐怖と混乱から汗が止まらなかった。
とっくに精神異常が起きているはずなのに。どうしてこのバケモノ達は、正気を保てているのだろうか。
かつて自ら正気を捨てた男と、自ら壊れる選択をした男。
目の前の男達が自分達と同じ神に選ばれた人間であり、神の恩寵を持つなど、洗礼名プラッシピオは思いつきもしなかった。
目の前の神に選ばれた男達が、自ら正気を捨てたり自ら壊れる道を選んだことなど、キャラランには知る由もなかった。
──舞台はどこでもよかったのだ。だが彼等の計画に必要な存在がこの街に居るという理由だけで、彼等はこの街を──フォーロイト帝国を選んでしまった。
フォーロイト帝国に手を出すという選択を良しとしてしまったこと。それが最大の過ちであったと、【大海呑舟・終生教】は知らない。
バケモノ共が執着している存在を、正しく理解できなかったから。
彼等はまた、“理不尽”によって苦しむ事となるのであった……。




