735.Side Story:愛は毒に、毒は君に
一度当てては一度退がる。そんなジェジの地道な攻撃により、洗礼名アフェクトム──ネリィ・コンリゾットは着実に傷を増やしてゆく。しかし痛覚が麻痺しているのか、彼女の動きは緩むどころか勢いと殺意を増すばかりだ。
「死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねッ! 全部! 何もかも! 死んでしまえ!!」
「……ッ気軽に死ねとか言うな!」
憎悪を高らかに繰り返すネリィに、ジェジの中で何かがぷつんと切れた。その目は怒りに震えている。
「死にたくて死ぬヤツなんてどこにもいないんだよ! 死にたくないってヤツ、もっと生きていたいってヤツ、まだ終わるわけにはいかないってヤツ……みんな必死に生きてるってわかんねぇのか! それを侮辱する権利も、否定する資格も、そんなの誰にもない!!」
「……うるさい」
「みんな、本当は死にたいんじゃなくて逃げたいだけなんだよ。目の前の現実とか尽きない絶望とか終わらない苦しみから逃げたくて……追い詰められた人達が選べる手段が、死をもって終わらせることだけだった。だから死ぬしかなかったんだよ! 心から死にたくて死ぬヤツなんていねぇんだよ!! それなのに……っ死を軽々しく口にするな!!」
その言葉に熱が入るにつれ、ジェジの朗らかな声がどんどん荒くなり、遠吠えのように響く。
「うるさいうるさいウルサイッ! それがなんだって言うのよ!? 他人が生きたがってるとか私には関係無い! 私はただこの憎悪のままに全部壊す。こんな世界……全部、全部死んでしまえばいいのよッッ!!」
「アンタのその身勝手が、大勢の誰かの大切な人を永遠に奪うことになるってなんでわかんねぇんだよ! 誰だって未来を見ているのに! アンタが過去を引きずって立ち止まるのは勝手だけど、前に進もうとしてるヤツを巻き込んでんじゃねぇ!!」
「────っ!!」
ネリィは瞠目した。『誰かの大切な人を永遠に奪う』という言葉に息が詰まる。目頭を焼き、脳裏を埋め尽くす最愛の男の笑顔。
全てを狂わせた彼の死を未だ引きずる彼女は、過呼吸気味になりながらも絞り出すように反論する。
「……っ、じゃあ、どうすればよかったって言うの……? どうしてエイリッドが死ななければならなかったの、どうして、どうして彼が──。彼を死なせた世界が許せない。全部、何もかもが憎い。だから、壊す。ぜんぶ、ぜんぶ……消え去れば、いいのよ。──そうよ。私は……全部嬲り殺さないといけないのッッ!」
ネリィは石斧を一回り大きくして、周りの家屋諸共ジェジを嬲り殺そうとする。
鬼気迫るその表情を見て、ジェジはその場から一歩も動かずに強く眉を吊り上げた。
「復讐とかオレにはよくわかんねぇし、それだけ何かを大事にしてた気持ちは否定しない。復讐して気が晴れるなら、殺し以外の方法で、やればいいとすら思うよ。けどさ──」
「全部、全部ッ、殺してやるッッ!!」
「でもアンタは……すっげぇ苦しそうじゃん」
「──────ぇ?」
呆然とするネリィと、泰然としたジェジ。ジェジの左腕──艶のある黒い毛並みの前足は肩の高さに掲げられている。彼は、左腕を獣の前脚に戻してネリィの石斧を受け止めたのだ。
(この人は、あの人と同じ。何かに後悔していて、何よりも自分を恨んでいる人。だけどどう自分を罰したらいいかわかんなくて……他人へ責任転嫁することでしか自分を守れないぐらい、弱ってる人。……せめて、もうこんな風に苦しまなくてもいいようにしてあげたい)
どれだけ言葉未満の激情を交わそうが、ジェジの気持ちは変わらない。
──この女を救いたい。ただその為だけに、ジェジは己が忌み嫌う獣の姿をほんの少し、露わにした。
「……くる、しい? 私が? 違う、ちがう……くるしいのは、エイリッド。嬲り殺された彼が、一番苦しかったの。あ、あぁ……エイリッドが、エイリッドが……どうして、死んでしまったの、エイリッドぉ…………」
ネリィは荒んだ瞳から涙を溢れさせた。
そもそも彼女は、凡庸な夫に相応しくとても平凡な女性だった。どこにでもいるような、ごくごく普通の人。そんな彼女が最愛の夫を無惨な事件で失ったからといって、復讐者になどなれる訳がなかった。
彼女をここまで狂わせたのは、夫を奪ったものへの憎悪ではなく。夫を失った深い悲しみと、『あの時ああしていれば』という尽きぬ後悔だった。
自責の果てに彼女は狂い、後悔を憎悪へ塗り替えて、亡き夫に縋る為の名目として代理復讐をはじめたのだ。
(シャルにぃは考え事してるみたいだし、今のうちに無力化、を……)
啜り泣くネリィを前に、ほんの少しだけジェジの心が揺れる。彼女の涙が、最後の母親の涙と酷似しているのだ。
その涙の正体を知らない、知りたくないジェジは、雑念を振り払うように頭を左右に振る。
そこでネリィの口から『エイリッド』以外の言葉が飛び出した。
「……神に捧げ、神に祈り、神に誓い、神に願う。果てなき明日を夢見て先をも見えぬ闇を往く旅人に……幸福あれと……」
(なんか、嫌な予感がする──!)
ジェジの尻尾がまたもや逆立つ。すかさず跳び出してはネリィに掴み掛かろうとするが、彼女の周りに発生した岩壁がそれを阻む。
「禁欲を呑み、穏和を呑み、活力を呑み、飢餓を呑み、無欲を呑み、羨望を呑み、謙虚を呑み……唯一なる舟に乗り現世を覆し大海を、我らは渡る」
どうにか岩壁を壊そうとするジェジの視線が、ふと前方の上空に釘付けになる。そこには鋭利な鍾乳石のようなものが、無数に浮かんでいた。
「……──我が神よ。あなた様の子供たるアフェクトムが願い奉ります。どうか…………最愛の人に、救済を」
懇願するように零れ落ちた言葉。
まるでその願いを聞き届けたかのように、上空に漂う無数の鍾乳石が、隕石のような苛烈さと破壊の音を纏って、ジェジ目掛けて放たれた。
♢
ネリィを救わんとするジェジと、誰彼構わず嬲り殺そうとする狂えるネリィ。
二人の戦いはもはや戦いと言うよりも、猛獣同士の生存をかけた闘争かのよう。互いに一歩も退かず、石斧と短剣が幾度と無く衝突し火花を散らしていた。
ジェジの短剣が未だ砕けないのは、これまでの鍛錬で身につけた技が、上手く衝撃を受け流していたのだ。
その隙にも、ジェジはもう一本の短剣で着実に傷を与えてゆく。しかしあと一歩届かず、その首や心臓へ剣を突き立てることは叶わない。
それどころか、ネリィは凄まじい精度で岩を操りジェジを殺そうとしてくるのだ。なんとか鍾乳石の流星群を避ければ、岩壁から出てきたネリィが石斧を手に襲ってくる。
いくらジェジが身軽な人狼だからって、これは非常に危うい展開と言えよう。
(霧状の毒を使いたいところだが、彼女はどう見ても人間だ。人間に効く毒であればいくらでも作れるが……それは当然ジェジにも効いてしまう。どうしたものか)
シャルルギルは顎に手を当てて、眉間の皺を更に深くした。
以前、女王近衛隊の部隊長、未来を喰う妖精アドラや過去を呑む妖精エディエラと戦う際に使った毒魔法。あれは天使の末裔自身の血を用いた対妖精専用の毒だったが……本来は種族問わず、生命を死に至らしめる霧状の毒を撒き散らす、極めて恐ろしい魔法だ。
あの魔法を使えば手っ取り早いとシャルルギルも理解している。しかし、今回は相手が人間の為そう上手くはいかないのだ。
(だが、俺は援護をしなければならない。弟のジェジ一人に戦わせるわけにはいかないというのもあるが、ジェジが俺に援護をしてくれと……信頼して任せてくれたんだ。俺が頑張らないで、どうする)
シャルルギルは、私兵団の家族が大好きだ。
自分を腐敗した世界から連れ出してくれたラークも、新しい居場所をくれたディオリストラスも、両親を失った彼の弟や妹となってくれた皆のことも。シャルルギルは、もう一つの家族である私兵団の皆のことを、心から愛しているのだ。
だからこそ彼は願う。どうにか皆の役に立ちたいと。
イリオーデやユーキに字を教わり幼い頃から毒や薬草の知識を貪欲に吸収していたのは、毒の魔力の制御の他にも、『もしもみんながケガをしたら、そのときは俺がなおせるようになろう』というシャルルギルなりの思いがあってのことだった。
何せ怪我の治療も病の治療も、光の魔力と回復薬にしか成せない。しかしそのどちらも彼等のような平民には手が届かないのだ。だから、自分達でできるようになればいいと。
毒の魔力で風邪を治せること──ひいては、たいていの病を治せることを、彼は知ったから。
ならば後は怪我だけ。もしも皆が怪我をしてもいいように、ゴミ捨て場にあった古びた薬学の本をなんとか読み、薬学まで彼は学んでいた。
シャルルギルは世間知らずなド天然男子だが、薬や毒に関する知識だけで言えばその道のプロにも引けを取らない。
そんな彼にしか出来ないことが、確かにある。
『ねぇシャル。貴方は毒についてどう思うの?』
『……毒は、危なくて、危険なものだ。人々から嫌われるのも仕方ない』
『──あのね、シャル。私は、毒ってかっこよくて凄いものだと思うよ』
『かっこよくて、凄いもの?』
『うん。私が毒が効かない体質だからこんなことを言える、ってだけかもしれないけれど……毒って使い方次第で薬になることだってあるでしょう? その逆も然りで結局は使い手次第じゃない。そして貴方はそれをよく知っている。だから、少なくとも私は貴方の毒を恐ろしいとは思わない。シャルの毒は、かっこよくて凄いものだって思うわ』
だって、貴方の毒の魔力は大勢の人を救ったじゃない。──と。大人びた少女は背伸びした口調に似合わぬあどけない笑顔で、シャルルギルに告げた。
その言葉が。何気ない日常の中で、世間話の一つとして告げられたその優しさが。シャルルギルにとってどれ程に重く温かいものであったかなど、言った張本人は知る由もない。
いつだって手を差し伸べてくれる、優しい少女。彼女に対する感情の名前を、彼はとうに理解していた。
(……愛は、誰にでも使える形の無い毒だ。恋が病だというのなら、愛は呪いや毒だろう。だけど……こんなにも心地良い毒は、きっと、世界中を探しても見つからない。だからこそ誰もがこの毒を求めるんだ)
恋とは違う親愛。過度に膨れ上がったそれがシャルルギルの心臓を熱くする。
愛を毒とし、その毒が我が身を侵していると自覚したうえで、彼は己の成すべき事を定めた。
──全ては、この身を愛で満たしてくれた人達の為に。
シャルルギルはかけがえのない家族達の為に、その魔力を使うのだ。
「──この身は、溢れるほどの愛で満ちている」
シャルルギルは紡ぐ。まだ誰も知らない──たった今彼が編み出した、愛魔法とは異なる、彼だけの愛の魔法を。
紫色を基本とした多色性の魔法陣。見る角度によっては紫にも緑にも見える不思議な色をしている。それがシャルルギルの足元で輝けば、シャルルギルの体から無味無臭の白煙が溢れ出す。やがて、その肌の一部がどろりと、湯煎したチョコレートのように溶け始めた。
「君は心に。心は言葉に。言葉は人に。人は愛に。愛は毒に。毒は君に。──私は、毒に」
白煙を伴って溶けだし、ぐにゃりと歪む体。しかしそれはシャルルギルの詠唱が進むにつれて、形状記憶なのか元の形へ戻ろうとする。
「溶けるほどの愛を」
それは、愛されていると胸を張って心の底から言えるシャルルギルにこそ生み出せた魔法。
シャルルギル自身を毒の塊へと変え、彼が身につけている装飾品や服すらも、家族達が選んでくれた愛着あるものとして、毒性を持つ物質へと変えてしまう。その肉体からは常に彼の愛──猛毒が溢れ出している。
シャルルギルは文字通りの毒の塊となったのだ。──しかし。その毒は少しばかり特殊なものであった。
「……俺にとっては、これは愛だ。正真正銘、皆が俺にくれたもので、俺が皆にあげたいと思ったもの。だから、皆を苦しめることだけはない」
シャルルギルの肉体から溢れ出す猛毒は、言うなればシャルルギルの持つ家族達への愛が具現化したようなもの。
たとえ毒となろうが、彼の愛はけっして、愛する人々を傷つけたりはしない。愛も毒も、結局は使い手次第なのだ。
しかし愛は人を蝕む。たとえ彼の愛が他者を傷つけないものであろうとも、彼自身はその限りではない。本来あらゆる毒が毒属性の魔力炉で中和され解毒される彼の肉体も、この毒ばかりは解毒できないのだ。何故ならば、これは彼自身が受け入れてきた愛そのものだから。
優しい人達から貰った、ありふれる程の温かな愛を『悪いもの』と認識することなど、シャルルギルには到底難しかった。
だからだろうか。その反動とばかりに、本来そのような能力はない彼の毒が、愛するもの以外の全てをこの世から消そうとする。
まるで高温で熱した氷のように、全てを溶かしてしまうのだ。
「ジェジ、今行くぞ────」
ジュワッジュワッと押し潰すように石畳を溶かしながら、猛毒の化身となり、己すら猛毒で侵すシャルルギルは、弟分の危機に駆け出した。
♢
鍾乳石の流星群は世紀末を呼び込む隕石のように、絶え間なく降り注ぐ。
迫る建国祭を前に寝食を犠牲に荒れた道を整備した、兵士やシャンパー商会土木部門の者達を嘲笑うように、復旧されたばかりの石畳がフジツボに纏わりつかれた岩肌みたく、ぞわりと背筋が震える姿に変貌してゆくのだ。
時には短剣で鍾乳石を弾きながら、ジェジはフラメンコのようなステップとチアダンスのような身軽さで、鍾乳石の流星群とネリィの暴走を紙一重で回避し続ける。
(くっそ……どうなってんだよあの人! 魔力がすげぇ膨れ上がってるし、純粋な力が馬鹿みたいに強くなってる! どーゆー理屈なんだよアレ!!)
爆発的に上がったネリィの膂力と、風船のように膨らむばかりの魔力。それを本能でビビッと感じ取ったジェジは目を瞠った。
亜人や獣人は人の身に何かが混ざった種族だ。それ故か人間と比べて魔力というものへの親和性が高い。彼等の魔力量が多い──つまり魔力変換効率が人間よりも良いのは、そういった事由だ。
さてそんな背景から、ジェジはネリィの身に起きた異変に戸惑い、その尻尾をブルルッと震えさせる。
「お〜い! ジェジっ、待たせたな!」
「シャルにぃ! ……ちょっと待ってなんか体溶けてない!?」
「…………大丈夫だ!」
「絶対だいじょばないってそれぇ!!」
ジェジは食い気味で叫んだ。シャルルギルによる根拠のない自信に満ちた顔が、どうしても、普通に、信じられなかったらしい。
やっぱり目を離すんじゃなかった! と後悔するも、今はそれどころではない。目の前には凶暴性を増した狂人がいる。今はとにかくこの女を無力化しなければならないのだ。
「潰れろぉッッッ!!」
「危ない!」
ジェジの意識がシャルルギルに向けられた瞬間、ネリィは石斧を振り翳してジェジを両断しようとする。
巨大な石斧をああも振り回せば、その重さに引っ張られて、普通なら痩せぎすのネリィが吹っ飛んでいきそうなものだが、彼女はその細腕からは考えられない程の力でもって石斧を制御している。
宙で揺れる振り子の斧のように空気を裂く石斧が、ジェジの体に触れる寸前。石斧とジェジの間に、シャルルギルが割って入った。
「シャルにぃ?!」
「ふ、大丈夫だ。大丈夫だからな、ジェジ。ほらこの通り──今の俺は、かっこよくて凄いんだ」
「斧が、溶けて…………」
肉壁となったシャルルギルに触れた瞬間、石斧は異臭を放って溶けだした。今やシャルルギルの肉体は猛毒そのもの。彼が愛する人や物以外の全てが、彼の体に触れた瞬間猛毒の餌食となるのだ。
やってる事はほぼ神聖十字臨界である。なんてものを生み出したんだ、この男は。
「ジェジ。攻撃は全て俺が受ける。俺だってたくさん訓練してきたんだ、ジェジの動きに合わせて壁になるぐらいのことはできる。だから防御は考えず、お前は攻撃に専念してくれ」
「壁って……ああもう説明足りてなさすぎるだろ! 色々聞きたいことあるから、後で絶対話してよね! だから今は──あの人を、止めよう」
「ああ、止めよう。どんな悪人であれど、泣いている人をそのままにはしておけないからな」
石斧を溶かされ唖然としているネリィに、ジェジの視線が縫い付けられる。その瞳では変わらぬ強い意志が鋭く光っていた。
ネリィは時が経てば経つ程に強くなってゆく。いや、強くなると言うより、今まで抑えられていた力がダメ押しとばかりに解放されてゆくように。
今は紙一重で躱せているが、このペースであればいずれはそれも難しくなる。だから今すぐに、彼女の虚を衝いたこの瞬間に全てを終わらせなければならないのである。
「死ね、死ねぇ……っっっ!!」
ネリィは甲高い声で硝子を裂くように叫び、無数の鍾乳石を宙に展開した。万華鏡を描くように空を埋め尽くす魔法陣から、絶え間なく放たれる鍾乳石はもはや流星群ではなく、豪雨のよう。
前傾姿勢で駆けるジェジの盾となるべく、彼の前方で一定の距離を保ちつつ走るシャルルギル。全身に鍾乳石が突き刺さり、その全てが変異した未知の猛毒により溶かされる。太陽に近づきすぎてその身を焼いた鳥のように、無数の岩が呆気なく、本来あり得ぬ形なき姿へと、変貌していく。
噴き上がる刺激臭にシャルルギルとネリィだけが鼻を摘む中、この中で唯一シャルルギルの毒の影響を受けていないジェジが、二本の短剣を強く握った。
殺さずに済むのならば、殺したくない。対話で彼女を救いたかった。──だけど。ジェジは分かっていた。母親に似たあの女は、もう、全てを終わらせないと救えないと。
(そうやって……優しい人が、自分で自分の心臓を刺すように苦しむぐらいなら)
「──オレは、喜んで悪者になってやる」
灰色の瞳が仄暗く光れば、彼の両脚がみるみるうちに獣のそれへと変わってゆく。黒い毛並みの、狼の後ろ足へ。
シャルルギルがネリィに肉薄した瞬間、今だ! とジェジはシャルルギルの背後から跳び出した。幾つもの鍾乳石が体を掠めるが、それも厭わず彼は短剣を構え──
「もう、無理はしないで。アンタは休んでいいんだよ」
「あ──────」
猛獣が爪で引っ掻いたような深く大きな裂傷を、彼女の胴体に残した。
血が溢れ出し、元より体幹が安定していなかったネリィは、背中からふらりと倒れる。虚ろな目をゆっくりと、あちらこちらに向けては、最後にふと思い出したようにジェジを見た。
(……どうして、私のような女を殺した貴方が……一番苦しそう、なのよ……)
返り血を浴びこちらを静かに見下ろすジェジの目には、僅かな後悔があった。何かに思いを寄せ、そして悲しみ苦しむ。それは、ネリィにはとても覚えのある心境だった。
「──ジェジ! シャル!」
「こっちの方が騒がしいと思って来てみれば……何があったんだ? 二人共無事か?!」
ぱたぱたと駆け寄って来た、ジェジ達と揃いの騎士のような制服を身に纏う、二人の男。そのどちらもが、返り血塗れのジェジと、体がドロドロに溶けたり溶けなかったりのシャルルギルの身を案じているようだ。
それを見て、ネリィは僅かに目を丸くした。
(…………ああ、そうなの。そういうこと、なのかしら。……貴方は、まだ、こうはならずに済む……ようね。……よかった。おめで、とう……──)
最後に、はくはくと。ほんの四文字の、声すら乗らない透明な言葉を溢して、眠気に誘われるままに瞳を閉じた。
「……どうか、安らかに眠れますように」
沈痛な面持ちをぎゅっと押さえ込み、ジェジは祈るように俯いて、憐れなネリィを送り出した。