閑話 ある皇太子の奈落
【永遠に溶かせない氷愛】後の悪夢軸フリードルの話です。
救われない話が苦手な方は覚悟のうえでお読みください。(※念の為の注意書き)
僕の手で凍結されずっと刹那の中に閉じこめられていた妹が、どうやってあの部屋から姿を消したのか。
氷塊が影も形もなく消え去る謎。レオナードにも意見を聞こうとしたのだが、レオナードは、『妹』という言葉を聞けば途端に取り乱しその後暫くは使い物にならなくなってしまう。だから、彼の意見は聞くに聞けなかった。
ジェーンがどれだけ調べようが一切手がかかりは見つからなかった。目撃者も無く、手がかりも無い。忽然と、泡のようにアミレスは消えてしまったのだ。
城内の全てに通じていると有名なケイリオル卿を訪ねても、彼は数日前より体調を崩したとかで、療養の為不在らしい。ケイリオル卿はその業務量の関係から城に棲んでいる。故に、城に居ないとなれば、誰も彼の行方が分からないのである。
そして彼が療養に入った途端、父上の機嫌が日に日に悪化していった。正確には、目に見えて余裕が失われ、常に何かに怯えるようになったのだ。
流石にこれは異常だと恐る恐る理由を訊ねれば、
『……あの男は複数の回復薬を常飲しているし、そもそも傷病などとは無縁の強靭な肉体だ。体調を崩すことなど有り得ん。──あいつは、逃げたのだ。私から。私を置いて、この呪縛から──……』
追い詰められているような様子で、父上はケイリオル卿への恨み言……にも似た、『どうして』という純粋な疑問を繰り返した。
呪縛とは? 逃げたって? 何から? そう思いつつも、僕はアミレスの捜索に加えケイリオル卿の捜索も行うようになった。
捜索開始から程なくして、ジェーンの奔走の甲斐もあり、最後にケイリオル卿を見たという侍女に会う事に。その者の顔には覚えがあったのだが、何故か、顔をはっきりと認識する事はできなかった。彼女はひどく憔悴していて……今にも命を絶とうとしているような、そんな印象を抱いたからだろうか。
侍女は名乗る。遠い夏の日に、誰かが読み聞かせてきた何かしらの物語の題名と重なる、偶像の名を。そして、侍女はこう証言した。
『…………ケイリオル卿が実際にお身体を悪くされていたかなど、一介の侍女風情には到底分かりかねます。ですが……私があの方と最後にお話させていただきました折、彼は悲しみや苦しみといったものを必死に押し殺したような声で、何度も『ごめんなさい』と……彼らしくもない、稚拙な謝罪を口にされておりました』
それ以降は姿を見ていない、と。侍女は語った。
僕は医学に明るくない。故にこれは推測でしかないのだが……彼はもしや、心を病まれたのでは? あれ程の激務なのだ、いずれそうなると役人の間でも囁かれていたようだが、ついにその日が来てしまったのだろうか。
父上の話と侍女の証言。その二つを掛け合わせて彼の所在を更に探ろうと、ジェーンに命じようとした、翌日のことだ。
侍女が、東宮の一室──王女の寝室で、胴体を大きく切り裂かれて死んだ。
第一発見者はジェーン。侍女に詳しい話を聞こうと東宮に向かったら、侍女は既に死んでいたらしい。そしてジェーンの見立てでは、侍女は自ら命を絶った可能性が高いとのこと。
何か強い意思を感じる死体だったと、ジェーンは追想した。死体の断面は汚く、痛みに耐えながらも無理に刃を進めて斬ったようなものだったようで、侍女が自ら肩に短剣を突き立て、血肉を引き裂き胴を斬ったのでは……というのがジェーンの見解だ。
奴は『全くもって意味が分かりませんよ』と頭を掻いていたが、何かが頭に引っかかりその死体の状態を書き起こさせたら、侍女の死が腑に落ちてしまった。
──あの侍女は、アミレスの致命傷を知っていたのだろう。
そして、表向きには地方に居る事になっている実質行方不明の状況に、侍女は疑問を抱いていた。何かしらの伝手でアミレスの状態を聞いたあの侍女は、誰かへの意趣返しのように、アミレスを死に至らしめた致命傷で自ら命を絶った……といったところだろうか。
凍結されたアミレスだけでなく、ケイリオル卿に次ぎ、侍女まで。続々と関係者が消えていく。依然としてアミレスは見つからないままだと言うのに。
──その後。ケイリオル卿が一通の手紙を最後に完全に消息を絶ってしまった。
手紙は父上に宛てられたもので、『ごめんなさい。君を置いていくことになってしまった』と、几帳面すぎる程に丁寧な字で皺一つ無い文書をしたためる彼らしくない、震えた字と、皺とシミのある手紙だった。
その手紙を見た父上は、十数年前に母上が亡くなられた時と同じ表情をしていたと思う。
大切なものを突然失った、残酷なまでに人間らしい……絶望と色付けるのに相応しい表情を。
それから程なくして、父上は突如ハミルディーヒ王国へ宣戦布告し、自ら最前線に立った。
僕に、帝国の全てを委ねて。
父上は自らを滅すように単騎で攻め込み、やがて──勝ってしまった。たった一人でハミルディーヒ王国の大軍を殲滅し、国境付近を凍土に変えたという。
五体満足で戦争に勝った父上は、ひどく陰鬱とした表情のまま、死体の山の上で狂ったように笑っていたそう。
戦争が終われど、父上は帝都に戻ることなく進軍──否、侵略を続けた。戦い続けた。五十人程度の騎士だけを連れ、東方へ侵略を繰り返した。まさに、狂気であろう。
愛する妹は消え、頼れる師は行方をくらませ、尊敬する父は壊れた。
それでも振り返るわけにはいかない。この国の全ては僕の選択に懸かっている。僕が一つでも誤れば、この国の全てが終わる。国も民も、不幸の底に落ち逝く。
精神と命を擦り減らし、眠れぬまま帝国を守る。この時の為に生きてきた皇太子には、この身を犠牲にしてでも帝国を守る義務があったから。
アミレスが死んだあの日から何年経ったかもわからない、ある日のこと。
皇帝代理として政務をこなす僕の元に、父上の『影』を名乗る男が現れた。そして、男は語る。
『あの御方は、死に場所を求めているのです。あの御方は愛する人との約束に縛られていて……自ら命を絶つことも、全てを放り出すことも出来ないのです。愛する者も、たった一人の半身も失い、とうに心が壊れてしまったとしても……エリドル様は、最善を尽くさなければならない。死を以て苦しみから解放されることを、許されないのです』
男曰く。父上は、心が壊れているのだと。
そんな予感はしていた。母上の死後、父上は人が変わったように陰惨としていたのだ。母上やケイリオル卿の前ではたまに見せていた笑みも、二度と見ることはなかった。
『ですので、どうか。どうか、エリドル様をお救いください。俺は、叛逆罪でも、殺人罪でも、なんだって甘んじて受け入れます。ですからどうか……っ、エリドル様をお救いください! あの御方を救えるのは──フリードル皇太子殿下、貴方様だけなのです!!!!』
男は額を地面に擦り付け、必死に懇願してきた。
この男は『影』として忠義を果たさんとしている。主がこれ以上苦しまぬよう、他ならぬ皇太子に、皇帝陛下を殺せと唆しているのだ。
……だが。もう、何もかもがどうでもいいと思えてくる。
僕は僕に出来る全てを尽くしている。これ以上はもう、どうすることも出来ないのだ。これ以上どうすればいいんだ? どうすれば、アミレスは戻ってくる? どうすれば、ケイリオル卿は見つかる? どうすれば、父上を救える?
──僕は、どうすればよかったんだ?
『……わかった。父上を帝都までお連れできたのならば、その時は僕が父上に安らぎを与えよう』
『──っ! ありがとう、ございます……!』
出来もしないことを宣う愚かな僕に、男は深く頭を下げる。
その一年後。随分とやつれた様子の父上が、あの男と共に秘密裏に城へ帰還した。ケイリオル卿の失踪より、四年後の事だ。
『父上……よくぞご無事で。父上のご帰還を心よりお待ちしておりました』
『…………フリードル。お前が俺を呼び寄せたと聞いた。何故、俺をこの城へ戻した。此処では、俺は……』
『死ねないのですよね。話は伺っています。──ですので。僕に親孝行する機会を与えてくださりませんか』
『親孝行……? は、なんだ。お前が俺を殺してくれるというのか』
『はい。僕が、父上を殺します』
父上の瞳が丸く見開かれる。僅かに光明がさした父上に向け、魔剣極夜を構え、僕は地面を強く蹴った。
三日。それが、父上との戦いにかかった時間。その間ジェーンとレオナードにあらゆる仕事を肩代わりさせ、僕は父上を殺害することに注力した。
父上は強い。手加減など無く、幾度となく僕のほうが死にかけた程だ。それでも負けるわけにはいかずあの手この手で攻め続けて、三日三晩。
眠ることはおろか、一瞬たりとも油断を許されない、一対一の殺し合い。暈ける脳と眩む視界を冷却して無理やり覚醒させ──やがて、その心臓を我が魔剣が貫いた。
『……アー、シャ……カ、ラオル……ようやく、おまえたち、に……あいに、いける…………ぁあ、やっと、しずかに、なった──……』
安堵した様子で安らかに死にゆく父上。その表情には、懐かしい笑みが浮かんでいた。
確かに記憶の中にあるが、ただの一度も僕に向けられることはなかった表情。母上の死が連れて行ってしまった、父上の愛情そのもの。
『……どうか安らかに、カラオル様とアーシャ様と共に、ゆっくりとお休みください、エリドル様。──我が願いを聞き届けてくださりありがとうございます、フリードル皇太子殿下……いいえ。フリードル皇帝陛下。我が望みは果たされました。どうか、俺を裁いてください』
三日間ずっと父上との戦いを見守っていた『影』の男が、涙ながらに恭しく首を差し出す。
『……お前、名はなんと言う』
『ファーストと申します』
『そうか。では、ファースト。お前は僕が死ぬまで僕の補佐をせよ。ケイリオル卿が不在となってからというものの、我が国の内政は停滞している。父上に仕えていた者として、その経験と知識を僕の下で使え』
『…………それが、我が身に下された罰であるならば。諜報部所属、偽名ヌル。本名をファースト・⬛︎⬛︎⬛︎・⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎。我が身の全て、フリードル皇帝陛下に捧げましょう』
決意の表れか男は跪く。
その宣誓と共に、僕も全てを背負う覚悟を定めた。
──ある冬の日。奇しくも、二月十六日のことだ。
僕は全てを失った。妹も、信頼する師も、親も、愛も、生きる意味も。夢を持ち得ぬ僕が全てを失って手に入れたのは、ここで終わる事が確定した玉座のみ。
結末が決まった物語の筋書きが、少しでも良いものになるように……ただそれだけを目的として、僕は皇帝としての役割を果たす。
僕はフォーロイト帝国皇帝となり──……永遠に見つけられぬ『愛』を探し続けた、最後の氷帝として死んだ。