709.Side Story:Michalia
あんな夢──現実の断片を見てからというものの、もし本当に、彼女が僕の手で死んでしまったらと何度も想像した。
この手に残る生々しい感触と温かみが、あの悪夢を呼び起こす。肉体から引き離された管より飛び出す血。生きようと足掻く、未だ脈打つ心臓。目と鼻と手で余す事なく記憶に焼き付けたあの感覚は、僕達に刻まれた原罪のように決して消えやしない。
僕達は神より与えられたこの一生で、神の教えに則り清廉に過ごし、神の御言葉に恭順し、神への感謝と畏敬を日々捧げることで、死後に原罪を赦され神の下へ逝くことを許される。
だから僕は、神にお選びいただいた者として、人一倍神の教えを遵守してきた。清廉に、従順に、いつか僕が死んだ時、僕の死で人類の原罪が赦されるようにと。死ぬ為の存在が僕なのだと考え、聖書に従って生きてきた。
そうやって、『ミカリア・ディア・ラ・セイレーン』として求められる役割に準じて生きてきた。
……だが、僕は、いつからか壊れてしまった。
僕には許されないものを渇望してしまった。僕には許されないものを切望してしまった。『ミカリア・ディア・ラ・セイレーン』が最も侵してはならない禁忌を、侵した。
……──僕は。あまねく人類全てではなく、ただ一人の少女を愛してしまったのだ。
神の教えを守ることこそが最たる幸福。だから、僕はこの世界の誰よりも幸福でなければならない。それが『聖人』だから。それが『ミカリア・ディア・ラ・セイレーン』だから。
……なのに。僕は、羨んでしまった。妬んでしまった。僕にはない⬛︎⬛︎を持つ彼等を、心の底から羨ましいと思ったのだ。
羨望。それは、持たざる者が持つ者に抱くもの。
この世の誰よりも幸福である『聖人』が、そのような感情を抱くなんてことはあってはならない。何故ならそれ自体が、神の愛を否定するものだから。
神の教えを守れば幸福になれる。僕達はその教えに従い生きて、幸福であろうとしてきた。誰しもが神の愛を信じている。誰しもが神の救済を待ち侘びている。
なのに、誰よりも神の教えを守ってきた僕が幸福ではないなど、到底許されざることだろう。──だが、僕は現に嫉妬している。⬛︎⬛︎を持ち、⬛︎⬛︎に生きることを許される彼等が、ひどく羨ましかった。
どうして? 僕は神の教えに従ってきたのに。どうして僕は幸福じゃないんだ? どうして僕は壊れてしまったんだ? どうして僕は⬛︎⬛︎ではないんだ?
僕は、世界で最も幸福であるはずなのに。そうであれば獲得する筈のない感情ばかりが芽生え、『聖人』を壊してゆく。
でも、止められない。僕はもう、彼女を愛することをやめられない。このまま壊れてしまってもいいと思える程に彼女を──……運命の姫君を、愛してしまった。
♢
姫君に会うのが、怖い。
もし彼女が本当に死んでいたら。もし彼女に会えたとして……また、彼女をこの手で殺してしまったら。そう最悪のたらればを妄想しては足が竦む。
ここ数日はずっとそうだった。でもこのままではいられないから、重たい足をなんとか動かして姫君の元へと向かう。
おそらく精霊様が展開したのであろう、神殿都市の結界にも匹敵する強力な結界。何度見ても、惚れ惚れする程の美しさだ。
姫君の城らしく壮麗で豪奢な宮殿を見上げ、二の足を踏んでいた時。正面の扉が開き、そこから出てきた人物を見て僕は目を疑った。
「……どうして、その男、が?」
思わず木陰に隠れ様子を窺う。
僕の運命の姫君は、かなり健康な様子。怪我や病などもなく、僕に殺された形跡もない。やはり、この世界は夢の世界……なのだろう。
ならばどうして、彼女があの男と笑い合っているんだ? 僕の夢なのに。よりにもよって、あの男と。そんなにも仲睦まじく、親しげに……まるで愛する者と語らうように笑っているんだ?
「あなた、は……僕の、運命なのに……」
そして僕が、貴女の運命なのに。
何かガおかしい。何もかモがおかシい。
「…………今度は、フリードル皇太子、と……アンヘル君……? それに、マクベスタ王子も……」
茫然自失。何も考えられず、何かが歪む音だけが頭の中で響く、虚無の中。気がつけば、腑に落ちない様子の彼等が東宮の正面玄関より出てきた。
……どうして彼等が東宮に? 姫君と会っていたのだろうか。どうしてそんな真似を? ──なんて。答えは分かりきっている。
「彼等も彼女を……愛している、から」
愛しているから会いに行く。
どうして彼等にはそれが出来るのだろう。僕はこんなにも怯え、常に名目を探しているのに。なんの憂いも躊躇いもなく、姫君の元を訪ねられるのであろう彼等が──殺したいくらい、妬ましい。
「だめ、だ。僕は『聖人』なんだ。『ミカリア・ディア・ラ・セイレーン』なんだ…………」
頭が、胸が、心臓が、痛い。イタイ。
何かが壊れる。何かが崩れ落ちる。
『これからも何度だってお会いしたいです。だって私は、ミカリア様の友達ですから』
『それじゃあ行きましょうか、ミカ』
──好き。好きです。大好きなんです、姫君。
本当はずっと、伝えたかった。彼等のように、ありのままに僕の想いを告げたかった。貴女に、『ミカ』と呼ばれたかった。
でも全て許されなかった。僕は『ミカ』になれない。僕は『ミカリア・ディア・ラ・セイレーン』、だか……ら…………
「──どうして僕は」
言ってはいけない。それは許されない。僕にだけは、決して赦されない。
「『ミカリア・ディア・ラ・セイレーン』として、生まれたの?」
オかシイのは、僕だった。『ミカリア・ディア・ラ・セイレーン』が、オカシイのダ。
壊れてしまった僕は、『聖人』ではない。それに相応しくない。だから。
「……──ふふ。僕は、『ミカ』だ。何者でもない、ただの……『ミカ』なんだ」
国教会の『聖人』ではない、『ただのミカ』になろう。
ああ、神よ────どうか、僕の罪をおゆるしください。
BAD END【聖者の澱 堕落の檻】