698.Side Story:Freedoll
お待たせいたしました。
──生温い。
人肌程の温もりが、僕の頬を、手を、熱く濡らす。ぽたりぽたりと滴るそれは、鉄錆のような匂いを漂わせている。
『………………は』
思わず、息が漏れた。
視界から入ってくるあらゆる情報を、何一つ処理できない。それ故に理解が及ばず、ただその場に立ち尽くし、何故か振り上げていた剣は体側にぶらりと垂らした。
『……ぁ。に……さ──ご、ぷッ……ぅぐ……ッ、ァ……は、ぁ…………っ!』
今にも溺れ死にそうな声が、足元から微かに聞こえてくる。その声に引かれるように膝をつき、水溜りに剣を落として、震える唇をなんとか開いた。
『──なん、だ。この傷……は。何故、お前が……このような目に』
そうは言ったが、視界に映る全ての情報が物語っていよう。──僕が妹を殺そうとしたのだ。
鎖骨の辺りから胴体を裂くようにつけられた、大きな裂傷。溢れ出した血が妹の全身を赤く染め、今もなおドクドクと流れ出しては血溜まりを作っている。耳障りだとでも思ったのか首には氷の短剣が刺してあり……それにより、妹は己の血に溺れ、更には呼吸困難と凍傷に陥っているようだ。
『……何故だ。何故、僕はお前を殺そうとしたんだ』
わからない。何故こうなったのか。
『……違う。絶対にこれは、『幸福の絶頂』ではない。お前が笑っていない最期など、僕が思い描いたものではない!』
まだ僕はお前を幸せにしてやれていない。お前の涙がその証拠だ。
僕を愛し、僕に愛され、人生において最たる幸福を迎えた瞬間に、お前は笑って死ぬべきなんだ。このように涙を流し、苦痛の中で死に逝くなど──……お前の最期に相応しくない。
『まだお前を愛せていないのに……! 何故僕はお前を……っ、アミレスを殺そうとしたんだ────』
己の行動原理が分からず、こうして目の前に残された結果を受け入れるほかない現状に、際限のない怒りが湧き上がる。
今にも息絶えようとしている妹の傍で、何度も血溜まりに拳を叩きつけていた、その時。
『……に、さ…………ぁ』
隙間風のようにひゅっと息を鳴らし、妹は血の中より声を発する。その顔を見て、僕は言葉を失った。
『ぁい……して……っはぁ、ぅ……! ま、す……』
どうして、お前は笑っているんだ。この状況で笑えるんだ?
口からも血を溢しながら、涙とそれで頬を濡らし、満足したように笑う姿が──……訳もわからず、ただひどく愛おしい。
どうして僕は、これ程に健気で愛らしい妹を、この手で────。
『…………まだだ。まだ、僕はお前を愛せていない。まだお前を幸せにしていない。兄として何もしてやれていない!!』
目から熱情が零れ落ちるのと、同時。周囲一帯に霜が降りた。吐く息は白くなり、床も壁も柱も付近の花々も、全ての時が停まった。
僕の目の前には、大きな氷塊が一つ。その中で──……アミレスは笑ったまま、永劫の刹那に囚われた。
『…………聖人か教皇ならば、治せるだろうか。すぐにあの男達を呼ぶ。だからそれまで……待っていてくれ』
魔力を纏わせた氷塊を浮かせて西宮に持ち帰る。返り血塗れの僕と、伴った氷塊を見て、侍女や侍従が『ひっ』と悲鳴を上げ青ざめた顔で固まる横を通り、僕の私室から扉続きの空き部屋に、氷塊を置く。
『ジェーン。二通、書信の用意をしろ。──聖職者共を呼び出すぞ』
どうせ全てを見ていたのであろうジェーンに命じる。するとジェーンはいかにも不可解だと言いたげに眉を顰めつつ現れ、
『…………御意のままに。我が君』
喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだように、一拍置いてから頭を垂れた。
ジェーンが聖人と教皇への治癒要請をしたため、それを手に西宮を離れた少し後のこと。返り血もそのままに妹を見つめていたら、
『──フリードル殿下! 王女殿下を殺害したというのは本当ですか……?!』
壁の向こうから、戸惑うケイリオル卿の声が聞こえてきた。
彼相手では隠し事など叶うまい。大人しく空き部屋を出て私室の扉を開けば、『……本当、なのですね』と彼は呟いた。百聞は一見にしかずと言う。幼少期より多分野において世話になっている恩師の彼には、正直に伝えたいという気持ちが勝る。
空き部屋に案内し、やがて部屋の中央に鎮座する氷塊を見て、ケイリオル卿は絶句していた。
『────な、ぜ。このような、事に。どうして……彼女は笑っているのですか』
『……僕にも分からないのです。気がつけば、この手で妹を殺そうとしていました。自分でも自分が分からず…………。今は、息絶える寸前で凍結し、生死不明の状態で停めています』
『…………』
少しの会話を終え、ケイリオル卿はゆっくりと、一歩ずつ氷塊に近づく。僅かに腕を震えさせながら、彼は氷塊をなぞるように撫でた。その顔は見えないが……まるで、泣いているかのようだった。
『……──まだ、彼女は生きているのですよね』
『正確には生死不明の状態、です。死んでしまえばどうすることも出来ないと思い、ひとまず凍結しました。……今、国教会の聖人などに治癒を要請しているところです。彼が来るまでは、このまま眠らせておきます』
『聖人に…………。今はそれが最善策、でしょうか。──であれば。王女殿下が息を吹き返す可能性もある以上…………“王女が死んだ”などと吹聴する輩が出ぬよう、目撃者は全て殺しましょう。王女殿下不在の理由は……そうですね、皇帝陛下の勅命で他国に赴いたとしましょう。これで時間は稼げるかと』
流石はケイリオル卿だ。このような策をすぐさま提案してくださるとは。彼の具申に何一つとして異論は無く。一度頷けば、
『……私はこれで。皇帝陛下への説明もありますので』
彼はどこか憔悴したように感じさせる声音で、ゆっくりと背を曲げて部屋を後にした。
こうして一人残された部屋で、氷塊の中で笑みを浮かべて眠る妹を見上げる。
──それから、まるで悪夢のような日々が始まった。
♢♢♢♢
『来られない、だと? どういうことだ。何故どちらも、僕の妹を治癒しに来ないんだ!?』
『俺に怒鳴っても結果は変わりませんよ。寧ろ両者……特にリンデア教から返事が来ただけ重畳ってところでしょう。だいたいこのような私的な理由で国教会とリンデア教が動く筈もないのに……どうして殿下はこのような奇行を……』
力一杯に机を叩けば、机の上に置いてあった二つの紙きれがはらりと床に落ちた。その紙きれを持ってきたジェーンは大袈裟にため息をついて、こちらに向き直る。
『現在国教会は神々の愛し子の保護及び教育で忙しく、リンデア教はそもそも遠方の地ゆえ不可能。というか、皇族同士の問題に首を突っ込みたくないとのことですので──王女殿下のことは諦めてください』
淡々と、ジェーンは述べる。
僕が最も受け入れ難い事を。
『諦めろ? …………そのような事が出来るならばとうにしている! 出来ないからこうして手を尽くしているんだ!!』
半年。妹をこの手にかけてから、既に月は何度か満ち欠けた。
今にも消えそうな風前の灯火は、時を停めることでなんとか維持されているようなもの。故に、万能薬や聖水を試そうものなら……氷を解く必要があり、それ即ちあいつの命が消えることを意味する。故に、ただ聖職者を待つことしかできない。それがいっそう焦燥感を生み、この体を妹の下へと突き動かすのだ。
そうして暇さえあればこの部屋に来て、この手で殺そうとした妹が浮かべる今際の笑顔を見上げては、氷塊に縋り付く。
『……必ず、僕がお前を幸せにしてやる。お前を愛してみせる。だから──死なないでくれ、アミレス』
まだ、お前を幸せにしてやれていないのに。僕はどうしてお前を殺そうとしたのか……未だにあの時の真実は闇の中だ。どれ程思い返そうとしても、記憶が混濁していて情報が掴めない。
だがこれだけははっきりと分かる。──僕は、あの時アミレスが死ぬことを受け入れられなかった。だからこのように足掻き、僕とケイリオル卿しか立ち入れぬ場所に、仮死状態の妹を安置しているのだ。
『僕がお前を救う手段を見つけられるまで……もう暫く、待っていてくれ』
それまではこの箱庭の中で二人で過ごそう。これ以上傷つくことも、苦しむこともない──……この、氷の世界で。
僕はお前を幸せにするその日まで、ずっとお前の傍にいる。兄として、どんなお前も愛する。
だから……いつか、その氷が溶けた日には。僕を愛してくれ、アミレス。
『────なん、で』
あれから何年経ったかも分からない。
世界中、どれ程探しても今際の人間を生き返らせることが出来る者などいなかった。そのような方法、どこにも無かった。
頼みの綱だった聖人と教皇も、数年前に起きた宗教間の大戦で両者共に致命傷を負ったとかで、聖地とやらから出て来なくなった。
鬱陶しいくらい妹に付き纏っていたあの塵屑も、精霊も、悪魔も、揃いも揃って姿を消している。あの男共は、妹を見捨てたのだ。
だからせめて僕だけは。妹の事を絶対に諦めてはならないと、公務の裏で必死に足掻いてきたのに。
……──アミレスは、ある日忽然と姿を消した。
BAD END【永遠に溶かせない氷愛】