687.Episode Rosenica:The dream that I wish will come true.
ある日。お兄様は私をアミレスちゃんに預けて、私を守る為に、一人で大人達と戦いに行った。
昔からずっとそう。お兄様は、両親に代わって私を守ってくれた。歌姫の私を、お兄様だけは、ただの妹として守り続けてくれたのだ。
批難からも、盲信からも、お兄様は守ってくれた。ずっと私の代わりに矢面に立ち続けてくれた。
……だからかな。私はだんだんと、現実を信じられなくなってしまったのです。
こんな苦しいだけの日々が現実だなんて信じたくなかった。──これこそが『夢』であると、思いたかったのです。
だけど現実は残酷で。こんな日々を過ごしているから私は『夢』でも夢を見られなかった。白昼夢でしか、夢を見られなかった。
そんな時に彼女と出逢って……私はとびっきりの初恋を見せてもらった。彼女に出逢ってからは悲しい『夢』を見ることもなくって、夢のような日々を過ごせるようになって。本当に、夢みたいだったのです。
……だからこそ。
「──怖かった。夢のようなこの日々が、本当は『夢』だったらどうしようって。『夢』は夢を見せてくれないって、私自身が一番よく分かっているのに」
不思議な世界に迷い込んだみたいに、夢と現実の境が見えない。何が『夢』でどれが現実か理解らない。
アミレスちゃんとの出逢いからの全てが『夢』だなんて、間違ってもそんなふうには思いたくないのに……こんなにも素敵な恋をして幸せに過ごせるこの日々と、お兄様に守ってもらってばかりという事実が、私の意識を混濁させる。
もし本当に“今”が『夢』なら。私はこの夢から二度と醒めたくないわ。だって……貴女と出逢えたこの日々の全てが泡沫になるような現実なんて、私には要らないから。
「私が小さい頃から見続けた夢の、『夢』を見ているんじゃないかって……もう、そうとしか考えられなくて」
要領を得ない話をうだうだと続けてしまった。そう謝れば、アミレスちゃんは歌姫の話を聞いてくれたあの雪の日のように微笑み、やがてこう言ったのだ。
「ローズ。今から貴女を攫うけど、よろしくって?」
「……え? 攫う?」
彼女は跪き、『悪い魔法使いがお姫様を攫って、最後の魔法をかけてあげるわ』という宣言通り、驚くばかりの私を攫っていったのでした。
♢
アミレスちゃんが『貴女の思うがままに。どこへだって連れ去りますよ、お姫様』なんてドキドキすることを言うものだから、私は調子に乗ってしまった。
帝都内の聖地を次々と巡り、時たま本屋に寄りつつ、さりげなく巷で大人気のデートスポットにも行ってみた。今日はアミレスちゃんとの逃避行♡なので護衛が誰もいないし、本当にデートをしているような気分!
「わぁ……! 夜景が綺麗……!」
「そうね。この高台、意外と穴場なのよ」
「西部地区には初めて来たけれど……アミレスちゃんのおすすめの場所、とっても素敵だね。また今度、お兄様とアミレスちゃんと一緒に来たいなあ」
「もちろんよ」
初恋の人との逃避行は、なんともロマンチックな展開を迎えた。
夜も更けてきた頃、彼女が『貴女を連れて行きたい場所があるの』と言って連れて来てくれたのは、帝都西部地区にある真新しい時計台──そのすぐ近くの高台だった。
高台と名がつくこともあり、西部地区の中でも高地にある為か帝都の街並みを一望できる。中でも眼下に広がる、アミレスちゃんが頑張って作り上げたという西部地区の夜景は、素晴らしい。
見慣れない施設や聞き慣れない建物が多くあるこの地区は、帝都の他区域とも違う灯りを放っている。これがまた夜景をいっそう美しく彩っており、思わず見惚れてしまった。
「ねぇ、ローズ。こっちを見てちょうだい」
アミレスちゃんに呼ばれ、「なあに?」と振り向くと、
「『──麗しの、運命の姫君。どうかあなたの笑顔を、独り占めさせてはいただけませんか?』」
おもむろに跪いた彼女が、どこか聞き慣れた言葉と共に、見覚えのある氷の花束を差し出してきた。その姿はまるで、御伽話の王子様のよう。
これには思わず興奮してしまった。いや、こんなドキドキシチュエーションに興奮しない女の子、世界中探しても絶対いないよ!
「うぅ……今日のアミレスちゃんは王子様力が高すぎるよぅ……まるで夢みたい……っ」
ひゃうっ! と騒いだのち、アミレスちゃんが私だけの為に作ってくれた花束を抱え、はしたなくもきゃーきゃーと暴れる。っと、その時。彼女が私の髪をすくい上げ、そこに、どんな呪いでも解けてしまいそうな口付けをした。
「夢だなんて、そんなこと言わないで? この時間が夢だったら私は悲しいわ」
王子様かと思いきや、今度は傾国の美姫ときた。どんな英傑や王でさえもたちまち虜にしてしまう、蠱惑的な表情。こんなものを見て、誰が正気を保てようか。
「あ、あぁ……っ、ぅ〜〜〜〜っ! アミレスちゃんの天然王子様ぁ! 人たらし! このっ、世界一素敵なお姫様ぁ!!」
「……随分と変わった罵倒ねぇ」
一人で興奮する私を見て、今度はとても可愛らしく、アミレスちゃんはクスッと笑った。
「夢みたいかもしれないけれど……どうかしら? 現実もけっこう良いものじゃない?」
アミレスちゃんは問いかけるように呟いた。
ああ、そうか。そうだったんだ。今日の逃避行の全てが──私の為のものだったんだ。現実を信じられなくなって、今が『夢』かどうかすらわからない私の為の、『夢』からの逃避行。それが、このデートの真相。
残酷なぐらい優しい魔法使いさんが私に見せてくれた、最後の魔法なんだわ。
「…………うん、アミレスちゃんの言う通りだね。夢よりもずっと、夢みたい。──いいえ。夢よりもずっと……この現実の方が愛おしくて、幸せな、夢のようなひとときでした」
私が見てきた夢よりも、ずっと、この世界は美しくて楽しい。どんなお茶会よりも、どんな舞踏会よりも、どんな冒険よりも、貴女といるこの現実が一番幸せなのです。
この現実を守り、愛する為ならば──私、首を刎ねられたって構わないわ。
「わっ、鐘の音……? もうそんな時間なの?」
別れを告げる音が響く。すると、
「……悪夢から醒める時間よ、私の歌姫。大丈夫。たとえ魔法が解けても、魔法がなくても、私は貴女の傍にいる。貴女の王子様にはなれないけれど……貴女が望んでくれる限り、私はずっと一緒にいるから」
雪よりも儚い髪を夜風に預け、月光の照明を浴びながら、お姫様に求婚する王子様のように、彼女は真剣な面持ちで宣言した。
「だから貴女はもう、夢を見なくていい。貴女の夢は全て私が叶えてあげるし、全て現実にしてみせる。夢なんか見てる暇がないくらい、私が貴女を幸せにする。だから、私がいるこの現実を信じて、もう一度私の手を取って」
まるで、何度も夢見た御伽話のよう。恋した人が私に手を差し伸べてくれている。幸せにすると言って、この手を取ってくれている。
これが『夢』ではない、なんて。それこそ夢のようだけど…………彼女の言葉を、『夢』にはしたくない。
「……──夢見る必要がないくらい、幸せにしてくれる、の? もう、『夢』を恐れなくて……いいの?」
「えぇ。私は貴女だけの魔法使い──貴女の絶対的味方だから、貴女の幸福の為ならいくらでも尽くすわ。貴女が望む幸福は、全て夢で終わらせない。魔法使いの名にかけて、私が貴女を、絶対に幸せにしてみせる!」
「っ! ……そんなの、ずるい、よ……」
私の手を握り、美しい夜空に私だけを映して、アミレスちゃんは言い切った。
──私だけの王子様にはなってくれないのに……絶対に幸せにする、なんて。
すっごくいじわるで、無責任な魔法使いさん。これだけ人の心を奪っておきながら、その責任は取ってくれないんだから。
「…………あぁ。そんなあなただからこそ、私は……」
恋をして、夢を見たんです。
あの日、私に居場所をくれた貴女が好き。あの日、夢を見せてくれて貴女が好き。何度も何度も夢見てしまった程に、貴女のことが大好きなのです。
残酷なぐらい、理想や夢よりも素敵な貴女。──王子様にはなってくれなくても、私の初恋を奪った責任ぐらいは、とってくれますよね?
「……──すき。好きです。大好きです、アミレスちゃん。私、どんな御伽話よりも、どんな王子様よりも、どんなお姫様よりも……貴女が好き。好きで好きで、おかしくなっちゃいそうなの!」
私を支えてくれた、キラキラと輝くたくさんの物語。それを見て、ずっとずっと恋に夢見ていた。憧れていた。
だけど。今、私がしているこの恋は──夢よりもずっと尊いものだって、そう確信が持てる。こんなにも恋焦がれ、愛が溢れる恋は、御伽話でも見たことがないから。
「この初恋はいつか涙に変わるって、わかってるの。でも、私はこの恋を諦められなかった。この恋を、この最後の夢を、貴女を好きになったこの現実を、なかったことになんてしたくない。──だから」
この夢から目醒める為の、口付けを。
私の永遠を誓う約束を、貴女に。
「この初恋を、最後に貴女へ捧げさせてください」
願わくば。どうか。どうか、私が貴女の世界の一部になれますように。いつか──愛しい貴女だけのお姫様に、なれますように。
千の思い出の今日という可惜夜が、これからの貴女が毎夜思い出す、美しい寝物語になりますように。
「……──もう、私は夢を見ない。だって、どんな御伽話よりもずっと素敵な恋が、今、目の前にありますから」
たとえこの恋が涙に終わっても構わない。
貴女に想いを告げて、私の愛を捧げられたのですもの。臆病で卑屈な私の恋物語としては、じゅうぶんすぎる程の佳境です。
……だけど。もしも、その結末を紡げるかもしれないのなら。──私は、その日が来るまで貴女への愛を歌い続けたい。
それがきっと……歌姫の私に出来る、唯一の求愛だから。
「ローズ、私……は……未来を、誓えない。この命が尽きるその時まで、私の全てを懸けて貴女を幸せにするけれど……私だけは、誰かと恋をするわけには、いかないの」
あぁ、私の愛しの人。どうか、そんな顔をしないでください。私の恋で貴女が懊悩することなどないのです。貴女はただ、私の恋を知ってくれたら、それだけでいいの。
私の所為で悩まないで。苦しまないで。貴女に辛い思いをしてほしくない。だから今度は歌姫が、魔法使いに“おまじない”をかけさせて。
「──今はそう思っていてもいいの。今、私がこうして世界を変えられたように、いつか貴女の世界も変わるかもしれないから」
これはただの“おまじない”。いつか貴女の世界が変わった時に、歌姫の恋がその一部になれていたらいいな、なんて我儘な“おまじない”だ。
「まだ、私にもチャンスはあるってことだよね。それなら……その日が来るまで、私は貴女に恋をし続けます。貴女に私の愛が届くその日まで決して、愛することをやめません」
「ローズ、でも、私は……っ」
「まさか……魔法使いさんに夢を奪われてしまった私から、この恋まで奪うつもりなの? アミレスちゃんは、私のこと、幸せにしてくれるんだよね?」
優しいアミレスちゃんは、いじわるなことを言えば、困った様子で口ごもってしまった。
私の魔法使いさんは、ものすごーく優しくて、かなり詰めが甘いうっかりさんらしい。…………だから私みたいな人に執着されちゃうのよ。私を絶対に幸せにするって言ったこと、今更後悔しても遅いんですからね。
「ふふっ。泡となって消えるその時まで、絶対に諦めないんだから。夢見がちな私から初恋を奪った責任、ちゃんと取ってくださいね? 私だけの魔法使いさん」
夢と魔法が解けた夜。
私は──……とっても素敵な魔法使いさんに、また、輝くような恋をしたのです。
閉じこもっていた昏い世界から連れ出し、居場所にもなってくれた素敵なお姫様。
彼女は運命の王子様ではなく、魔法使いだったけれど、それでも私は恋してしまったのです。愛してしまったのです。
彼女が『色が似ている』と言ってくれたから、灰を被ったような鈍色の髪も、愛するお兄様とお揃いだから──という理由以外で、はじめて好きになれました。
彼女の美しい夜空の一部のような、このくすんだ紫色の瞳も、愛するお兄様とお揃いだから──という理由以外で、はじめて好きになれました。
人を惑わす歌しか歌えないくせに、それしか存在価値のない私に寄り添い、彼女は、私というセイレーンを受け入れてくれた。だから、私はもう一度、歌を好きになれました。
彼女にたくさんの“はじめて”を貰いました。たくさんの“好き”を貰いました。たくさんの“夢”を貰いました。
貴女がくれたたくさんのもので、今の私は生きています。恋に恋するのではなく、貴女に恋をして、私は生きているのです。
ねぇ、初恋の貴女。
私が望んだら、本当にずっとずっと一緒にいてくれますか? もしその日が来ても、貴女は他の誰でもなく、私を選んでくれますか?
その日までに……私の歌に惑わされ、私の愛に溺れてくれますか?
──なんて。『もしも』を考えはするけれど。
貴女だけは……私の愛に惑わされてほしくないの。だって、貴女まで私の歌に溺れてしまったら……私はもう、人間に戻れなくなってしまうから。
もしも私が本物の怪物になってしまったら……その時は彼女の手で、海の泡にしてほしい。
そうしたらきっと…………優しい魔法使いさんは、私のことをずぅっと覚えていてくれるだろうから、なんて。
卑屈で、臆病で、陰気な歌姫は。そんな、悲劇ばかり考えてしまうのです。