番外編 ある王女と第二の性 中編
シルフによる理の改変。これを受け、アミレスは変わってしまった。──αから、Ωに。
「────ッッッ!? なんッ……?! この、匂い……まさか……ッ!?」
ぽかんとしたままのアミレスとは打って変わって、カイルはバッと退け反り、鼻と口を覆うように口元を押さえた。
「シルフッ、テメェ……! なんてことしてくれやがる!? ──αをΩに変えるとかマジで有り得ねぇっつの!! 発情期ではなさそうなのにフェロモンがエグいし……ッ、何よりこのことがアイツ等に知られたら大惨事じゃねぇか!?」
何かに耐えるように胸元を鷲掴み、体を震えさせるカイルが、吼えるように叫ぶ。
「フェロモン? なんのこと?」
「シルフさんにはわかんねーかもしれませんけど……今、姫さんから、すっげー甘くて、頭が溶けちまいそうな匂いが漂って来てるんですよ。人間を模してるだけの俺でもちょっとクラっとする程のやつが」
「えー! アミィの匂い? いいなあボクもそれ嗅ぎたい!」
「いや今はそーゆー話してねぇんすよ。そこのカイルの精神力が異常なだけで、こんなん並の人間がくらった日には姫さんの身が危ういんですって」
我儘な主を持つと苦労する。エンヴィーは頬に焦りを滲ませ、体の奥底を熱するような甘い誘惑を鼻に受けながらもシルフをアミレスから引き剥がした。
そんな彼等のやり取りを目で追っていた当の本人アミレスは、ぽかんとしながら自分の腕を持ち上げ、くんくんと鼻を動かす。
「……臭わないけどなぁ」
「そりゃ自分のフェロモンに気づけるわけねぇーだろ。マジで日常的に抑制薬ODしててよかった……っ、まだギリギリ理性保てる……!」
「そんなにやばいの? 私のフェロモンって」
「ガチでエグい。性欲がほぼない『俺』ですらギリ、ってレベル。これ健康的な男のαがくらったらいよいよ大事件に発展するだろうなァ!」
「ええぇ…………カイルが非健康的(?)で助かった……のかしら?」
「マジで俺の淡白さに感謝しろよお前……ここにいたのが俺以外の連中だったらもう終わ──」
カイルがつつつ……と、念の為アミレスから静かに距離を取るなかで。扉の外からドンッ! と謎の物音が。
何事かとアミレスが様子見に立ち上がったが、フェロモンだだ漏れの彼女を外に出すわけにはいかない。なのでエンヴィーが代理で廊下の様子を窺った。
「……そんな所で這いつくばって。何してんだ、イリオーデ。ルティも壁に手ェついて、マジで何してんのお前等?」
「──!? ……ッ!!」
「俺達にも……さっぱり……! なんか、お使いを終えて戻ってきたら、すごい、甘い……匂いがして……っ」
膝をつき紅潮した顔から荒い息と脂汗を滴らせるイリオーデと、彼程ではないが、寄りかかるように壁に手をつき、火照る体で息を激しくするアルベルト。
イリオーデはαであり、アルベルトはβだった。なんと元αであるアミレスが突如としてΩになり発生した特異なフェロモンは、βにもそれなりの影響を及ぼすらしい。
(姫さんの匂いにあてられたのか。ま、アレは仕方ねーか……)
「──おし、今から事情をかいつまんで説明してやっから、とにかく一旦ここを離れるぞ。ほらさっさと立てイリオーデ」
「っ、ぁ、あぁ…………」
そうして場所は変わり、アミレスの私室からそれなりに離れた書庫に、エンヴィーは東宮で働く者達を集めた。その中にはナトラやクロノといった第二類性別種とは無縁の者も含まれているが、大半は人間の為、女性ばかりとは言えど事情を説明すべく集められたのだ。
シルフがその場のノリで引き起こした大事件に、侍女達は顔を青ざめさせる。「どうりでさっきから体が妙に熱いのね」「なんだか気分が高揚してきちゃった……」「つまり今王女殿下の元に行けば番になれる可能性が……!?」「「無いし、そんな真似させないわよ」」と、侍女達が口々に話すなか、ナトラが口火を切る。
「事情はわかったのじゃ。その、オマエガバカ? とやらでアミレスが今、生命の危機に晒されておるのじゃろう。ならば手っ取り早く元に戻せばよいのでは?」
「オメガバース、な。それが出来たら楽なんだが……シルフさんも万能じゃねーのよ。そう頻繁に力は使えないし、今回のはよりにもよって権能を行使しての事なわけで。姫さんの体への負担も考えるとあと半日は時間をおかないといけないだろーな」
「は? 無能か貴様等。その間アミレスの身に何かあればどうするのじゃ? 死んで詫びるなどと甘えた発言をする心算ならば、血脈の一本一本まで引き裂いたのちにその心臓を握り潰し嬲り殺してくれるぞ」
ナトラの鋭い眼光がバツの悪そうなエンヴィーを貫く。
「……これに関しては、弁明のしようがない。二つ目の性の重大性について、あの方にきちんと教えてこなかった俺達の責任だ。だからちゃんと、責任持って俺達が姫さんの貞操を守る」
「ふん。口先だけとならぬことを祈るばかりじゃな。むろん、我もアミレスを守護するがの。そこのイリオーデ共が使い物にならなさそうな以上、我のような影響を受けぬ護衛が傍に居たほうが、アミレスも心安らげよう」
「そうしてくれ。……俺達精霊は、一時的に人間の規格に合わせてる都合上どうしても余波をくらっちまう。万が一が無いとは言い切れねぇーからな」
情けねー限りだ。と、エンヴィーはこぼす。
その後、フェロモンの影響を受ける人間達は暫しアミレスの私室に近寄らないようにし、エンヴィーとナトラは二人で彼女の元に戻った。クロノは、フェロモンにあてられた人間達が暴走したりしないよう、監視する任を押し付けられたようだ。
「……──人間はフェロモンとやらの影響を受けるゆえ、隔離するのではなかったか? 何故人間の、それも雄が普通にこの場におるのじゃ」
「言われてみればそうじゃん。おいカイル、お前も早いうちに避難した方がいいと思うぞ」
訝しむナトラに向け、カイルはサベイランスちゃんをいじりながら返事する。
「抑制薬を追加で飲むし、今のところ耐えられるから大丈夫。それに……『もしも』の時俺がいた方がアミレスにとっては上手く事が運ぶだろうから、ここに残るよ。だから俺が耐え切れなくなった時は、遠慮なくぶん殴って止めてくれ」
「……その詳細は分からんが、アミレスの為とあらば、一度は信じてやる。じゃが二度は無い。我は裏切りを忌む。我が信頼を裏切るでないぞ、カイル」
「そう期待されると困るんだが……まあ、最善は尽くすさ」
空間魔法にて取り出した飲用型抑制薬を一本丸ごと飲み干して、カイルは気丈に振る舞う。
そこで、アミレスがカイルの肩をちょんちょんとつついて、疑問を口にした。
「ねぇカイル。『もしも』の時って? それが訪れたら何をするつもりなの?」
「頼むから今は近づかないでくれると助かるなァー…………お前を元々性的な目で見てた連中が、ここぞとばかりに番おうとするかもしれねぇだろ?」
「そんな非常識な強姦魔みたいな人がいるの? 私の周りに? 皆優しい人達ばかりよ」
「残念ながら、人間ってのは性欲が絡むと途端に性善説は通用しなくなるんだよ。てかお前はいい加減自分が他人の性癖と人生狂わせてる自覚を持ちな?」
未だ色々と無自覚なアミレスに苛立ちすら覚えつつ、カイルは続ける。
「一時的な性質でも、ヘタに誰かと番になって、面倒臭い連中に口実を与えるわけにはいかない。だから、お前への執着が激しい連中がお前を番にする前に──……俺が、お前のうなじを噛む」
「え。αが……Ωのうなじを噛むの? 番になっちゃうじゃない。いいの? 女嫌いなのにそんなことして……」
「お前なら大丈夫だよ。それに、こうすりゃあ、他のα連中にどさくさに紛れて番にされることもないし、俺なら番解消とかもスムーズにできる。合理的っしょ?」
「カイル……!」
アミレスは、親友の熱い友情に瞳を潤ませ、キラキラと輝く感謝の視線を送った。相棒にしか見せない、その愛らしく珍しい表情を、カイルがいたく気に入っているとも知らずに。
「ン……ッ!!」
(──この無自覚女め……! 抑制薬貫通して来るんじゃねぇよこの全方位魅了振り撒き生物兵器! 絶賛感度数百倍の親友をトゥンク死させてぇのか!?)
追い抑制薬をしていなければ耐えられなかった。俺は抑制薬ODのプロだから耐えられた。──と、カイルは奥歯を噛み締めた。
たしかに彼は耐えた。アミレスから発せられるフェロモンにも、それにあてられ理性が溶けつつある状態でくらうアミレスの無防備な仕草にも。親友であり悪友であり共犯者であり相棒である矜持が、彼をなんとか耐久させる。
しかし──……現実は、そう優しくなかった。
アミレスがΩになってから、数時間。シルフが再度変の権能を行使可能になるまで半日はかかるだろうとの読みだが、それまでまだまだ時間がある。はてさてどうしたものかと頭を悩ませるカイル達の元に、まさかの来客が。
「娘。君に用事があるって、布を顔につけた変態が訪ねてきているよ」
「ケイリオル卿が? どうしたのかしら……」
アミレスに近づけない人間達に代わり、クロノが来客を告げに来た。どうやら、タイミング悪く現れたのはケイリオルのようだ。
(うーん……ケイリオル卿、絶対αよね。だって皇帝がαだもの。じゃあ私は近寄らない方がいいかしら)
「──クロノ。彼から何か、用件とかって聞いてる?」
「仕事の話……みたいなことを言っていたような気がするけど」
「仕事の話かぁ…………」
よりにもよって聞かない訳にはいかない話ときた。これにはアミレスも困った様子。うんうんと唸りつつ、彼女は頭を悩ませる。
「……ケイリオル卿なら大丈夫でしょ! だってあのケイリオル卿だし!」
その信頼がどこから湧いてきたのかは不明だが、アミレスはケイリオルの超人っぷりを信じて、クロノに「彼をここまで連れてきてちょうだい」と告げた。
それにはカイルも、「いや絶対やめた方がいいって。今すぐお引き取り願った方がいいって」と繰り返したが、アミレスは「大丈夫だよ。ケイリオル卿だもの」と根拠のない自信で言い張る。
どうやら、叔父である彼が姪相手に我を忘れるようなことは無いだろうと、たった一人の『おじさん』を信じきっているようだ。
「……──僕の記憶が正しければ、王女殿下は由緒正しきαだったはずなのですが……何故王女殿下から、発情期のΩの如きフェロモンが漂っているのでしょうか……」
彼もまた由緒正しきαなので、割と危うそうである。
仕事用の書類を持つ手が僅かに震え、吐く息は淫靡な熱を孕み、布の下で舞う。しかし、耐えていた。ケイリオルは、“皇帝の側近”という積み重ねて来た仮面と“可愛い姪に格好悪い姿を見せたくない”という純然たる意地で、甘い誘惑に耐え続けているのだ!
「こ、これには深い訳がありまして……」
と、おそるおそる、アミレスは切り出した。彼女から事情を聞いたケイリオルは、深く長い沈黙を経てシルフを睨む。
「──王女殿下。彼は本当に、貴女にとって害が無い存在なのですか?」
「だ、大丈夫ですよ。今回のことはシルフが何も知らなかった故に起きた事故なので……!」
「無知は恥じることではありませんが、無知故に事件事故を起こしたとあれば、無知は罪と言わざるを得ないでしょう。貴女に実害が及んでいるのであれば尚更のこと。一国の、それもフォーロイト帝国唯一の王女をΩに変えるなど、世を揺るがす大事件ですよ」
「う、仰る通りです…………」
正論パンチのコンボを食らってKOしたアミレスは、シルフを庇うことを諦めた。妥当な判断である。
皇帝の側近たる彼が、愛欲の誘惑に抗いながら大真面目に説教を繰り広げるものだから、その類稀な精神力に、ナトラとエンヴィーは「「おぉ……」」と感嘆の息をもらした。
「まったく……貴女は事態を甘く捉えすぎです。何故このような状況で、男を私室まで通したのですか? いくら僕が四十越えの中年男性とはいえ……万が一の可能性を考慮しないのは、些か浅慮が過ぎるかと」
「ぐうの音も出ません…………」
「貴女は、男が持つ性に対する欲というものを何も理解していない。だから今もこうして律儀に僕の説教を聞いている。男などさっさと追い出せばいいものを……貴女はいつもそうです。何故自身を大事にしてくれないんですか?」
「まったくもって反論の余地が──って、あの、ケイリオル卿。頭から湯気のようなものが……!?」
カイルが赤べこのように繰り返し頷く傍らで、アミレスは叫ぶ。
フェロモンを受け続けたことで心拍数が上がって体温が上昇し、それにより生じたうだるような熱と鋭い情欲に思考を焼かれるものだから、ケイリオルはなんと、氷の魔力を使って力技で頭を冷やし続けているのだ。
(ケイリオル卿、ここまで耐えられるってことはβか? αならとっくにダウンしてるはずだし。……まあ、何にせよだ。アミレスを想って真正面から説教してくれる人は珍しいし、この人にも抑制薬を渡しておくか)
「──ケイリオル卿。もしよかったら、これ。手持ちの抑制薬です。お辛そうなのでこれを飲んでください」
(何故、カイル・ディ・ハミル王子が当たり前のように此処にいるんだろう。アミレスの番になろうとしているのなら殺すけれど……少なくとも今は普通に、僕の身を案じているだけのようだ)
「──感謝します、カイル王子」
カイルから抑制薬を受け取り、ケイリオルはぐいっとそれをあおった。
この抑制薬は、極度の女嫌いたるカイルが一瞬たりとも女に惑わされないように特注した、かなり強力なもの。(それを僅かにすり抜ける程の異質なフェロモンをアミレスが放つのは、彼女が元α故かもしれない。)相手が強大な為効果が万全とはいかずとも、飲む飲まないではやはり雲泥の差がある。
「…………凄まじい効果ですね。まさか、こうも楽になるとは。カイル王子、こちらの抑制薬はどちらで?」
「ヒースラルト王国に棲む『魔女の弟子』に依頼して作ってもらったものです。かなり高くつくのですが、薬効が凄まじいもので……かれこれ数年間はこれを依頼し続けています」
「ヒースラルト王国と言いますと……連邦国家ジスガランドに隣接する、“勇者信仰の国”ですか。数代前の魔王を討伐した勇者一行を強く信仰しているとか……」
「えぇ、そのヒースラルト王国です。国交断絶気味なので、潜り込むのは毎度苦労しますが」
一体どうやってあの国に潜り込んでいるんだ? と疑念を抱きつつも、貴重な抑制薬を貰った手前、追求はしないことにしたようだ。