681.Side Story:Rosenica
故郷──ディジェル領を出て、帝都に来て。想像していたような殺伐とした、流行りの小説のように虐げられる毎日というものは訪れなかった。
……と、言いつつも。歳の近い若者達は私とお兄様を見てはひそひそと陰口を叩くけれど。やれ『田舎者だ』、やれ『野蛮人だ』。随分とまあ品性に欠けた稚拙な悪口を、私達に聞こえるくらいの声で言うのだ。──私達、大公家の人間に。
なんて頭の弱い方々なんだろう。そう、憐れみを覚えるのに時間はかからなかった。それでも、実害を加えられたりしなかったのは、ひとえにアミレスちゃんの存在が大きい。アミレスちゃんが私達の後ろ盾になってくれたお陰で私達は平和な日々を過ごせている。
日常的に色んな貴族が歌えと圧力をかけてくるが、領地にいた頃と比べれば、あんなの子供にせがまれているかのようなものだと、そう錯覚する。だって帝都の人達は私の歌を信じていないから。ただそれだけで、これまでと比べるとずいぶん心に余裕が生まれる。
……まぁ、古狸さん達の前では歌ってないですけれど。私はまだ、アミレスちゃんの為にしか歌えないから。誰かの為に頑張る……そんなアミレスちゃんの為にしか歌姫は歌えない。
私の歌は私利私欲で使うには、あまりにも強大で凶悪なものだから。そう、これまでの人生でよく思い知ったから。だから私はアミレスちゃんに求められた時しか歌えないのに。
「──いやはや。歌姫殿の歌、是非とも聞いてみたいものですなぁ」
「なんでも、テンディジェル公女の歌声は人を癒す力があるとか。先の魔物の行進でも戦場に立っていた兵達が口を揃えていた。『美しい、癒しの歌を聴いた』と」
「なんと! 実は自分、近頃体調が悪くてね……公女さえ良ければ、ほんの少しだけでも歌ってはもらえないでしょうか」
大公名代としてあちこち駆け回るお兄様のお手伝いをしていた時。古狸さん達が不躾に話しかけてきたかと思えば、私の進路を塞ぐようにして囲んできた。
帝都に来てからはや一年弱。頻繁にというわけではないけれど、こうして遠回しに『歌え』と言われ続けてきたが……毎回断っているのに、どうして諦めてくれないのだろうか。
私は限られた場合にしか歌ってこなかったし、お兄様が毎度にべもなく断ることから、私に歌わせるつもりがないということぐらいわかるでしょうに。
噂が噂を呼び尾ひれがついてしまって……それが、彼等の好奇心を掻き立ててしまっているのだろうか。
「ム。聞いているのかね、テンディジェル公女」
「し、失礼、しました……」
「いつも公子が対応している様子から鑑みるに、公女はあまり社交が得意ではないのでしょう。歌姫たる貴殿がそれでは、さぞや兄君たる公子も苦労しているだろう。ここは一つ、社交に慣れる為にも一度我が屋敷に来るというのはどうだろうか?」
「え、ええと……」
戸惑っているうちに、悪寒を与えてくるふくよかな手が伸びてきた。
これを避けることは容易い。だって私もディジェル領の民だから。ただでさえ動きが鈍い中年男性の手を振り払うことなんて、赤子の手を捻るようなものだ。──でもその手は使えない。だって力にものを言わせれば、また、私達の故郷が野蛮者の住む田舎だのと誹られることになるから。
耐えるしかない。体に触られるのは嫌だけど……アミレスちゃん以外の人の為に歌うことができない以上、ここは耐えるしかないのだ。
「──俺の妹から離れろ」
「!!」
芯が冷え切ったような声。聞くだけで体が強張るその声は、古狸さんの顔を驚愕に染めた。
「か、体が……っ、勝手に……?!」
建て付けの悪い扉のようにぎこちない動きで、古狸さんは瞬きながら後退る。そして、彼等は私の後ろを見つめて顔をサッと青ざめさせた。
それに釣られて振り向くと、そこには思い浮かべた通りの人が立っていた。
「お兄様……!」
「ごめんね、ローズ。一人にしてしまって。大人に囲まれて、怖かっただろう」
さっきの冷たい声が嘘のよう。いつもと変わらない優しい微笑みで、お兄様は私の肩を抱き寄せた。
「……妙齢でご家庭をお持ちの貴族様がたが未成人の令嬢を取り囲んで、威圧して、あまつさえ無体を働こうとしていたなんて。一体何をお考えでいらっしゃったのか……俺が納得できるだけの理由が、当然おありなんでしょうね?」
前言撤回。お兄様の顔が怖いですわ。
「む、無体なんて!」
「いくら貴殿が次期大公とはいえ、今はまだあくまで公子の身っ! 突然現れ、爵位を持つ我々をそのように愚弄するなど、貴殿の方が失礼ではないか?!」
「私達はただ、偶然お会いした為、公女の歌声を聞いてみたいと立ち話をしていただけに過ぎません。公子に糾弾されるようなことは、何も……」
嘘ばっかり。私のことを取り囲んで、家に来いとか、度が過ぎることも平然と言ってきたじゃない。
ぎゅっと下唇を噛むと、私の肩を抱くお兄様の手に少し力が入った。
「…………爵位だとか、経緯だとか、今はそういう話はしていないんですよ。俺はただ、簡潔に、『未成人の少女を取り囲んでいた理由』を教えてほしいと言いましたよね? 言い訳ではなく、嘘偽りでもなく……貴方がたがあの行動を取った真意を正直に話してください。話はそれからです」
お兄様が凄むと古狸さん達はぐっと押し黙り、やがて、青い顔のまま大人しく理由を話した。それを聞いたお兄様は更に機嫌を悪くして、「俺、いつも断ってますよね? 俺に断られたからって本人に詰め寄って直談判するとか……いい歳した大人がやることかよ……」と、最後の方は小声で愚痴をこぼしていた。
「とにかく。妹の歌は皆様ご存知の通り稀なものゆえ、フリードル殿下直々に、無闇矢鱈と歌うな。と命じられております。知らずとはいえ……貴方がたは、俺達帝国の盾に皇家に逆らえと唆しているようなもの。俺達がこのことをフリードル殿下にお伝えすればどうなるか……歳を召し、経験豊富で、爵位をお持ちの皆様なら、当然お分かりでしょう」
「「「?!」」」
皇太子殿下の名前が出た途端古狸さん達は小刻みに震えはじめ、
「や、やだなあ。冗談ですよ、冗談! 皇太子殿下には、くれぐれも、よろしくお伝えくださいっ!」
「……仕事があるので我々はこの辺りで……!」
「テンディジェル公女。失言の数々、また改めて謝罪させていただこう」
そそくさと、逃げるように退散した。その背中を見遣り、
「結局権力に媚び諂うのかよ……情けない奴等だな。そのくせなんで大公家だけ妙に見下してくるんだ? 余所者だからか? うちだって皇家に次ぐ、公爵家と同等の権力を持ってるんだけど。こっちが下手に出ていれば偉そうにしやがって……あの人達の家に鳥がたくさん糞を落としますように……」
ぶつぶつと、お兄様は呪詛を放つ。言霊は使っていないようだから、お兄様も本気ではないようだけど。