674,5.Interlude Story:Schwarz
『はじめて、だったのに……っ』
『や、やだっ……! こわい……っ!!』
それは、明確な嫌悪と拒絶。
汚れたものなど何一つ無い楽園で育まれた純粋無垢なお姫様。彼女は二度にわたり、オレサマを嫌悪し、拒絶した。
そのくせ、アイツは何度でもオレサマを受け入れる。苦しいくらいに眩く、熱いくらいに優しく、笑ってオレサマを受け入れやがる。
何度も何度も希望を与えられて。もしかしたら……なんて願望を餌のように目の前に吊るされ、期待してしまったオレサマが何かを誤る度に、この身は心の奥底から湧き出る黒々しい汚泥に溺れる。
「ッ……!」
壁に手をつき倒れ込む。空いた手で心臓を押さえ、脂汗を床に落としながら、拙くも息を繰り返した。
一体どうすればよかったんだ? オレサマはこれ以外の方法を知らない。心を繋ぎ止める手段も、愛を奪う手段も、肉欲以外に何も知らない。ワカラナイ。
それすらも分かっていなかったから、かつては失敗した。必要なことだったからとは言え、アイツを泣かせてしまった。だから、今度こそ失敗しないよう慎重に、オレサマが出来る全てのことをやっているのに。
……──アミレスは、オレサマを拒絶した。
この方法では駄目だ。オレサマではアイツの心を繋ぎ止められない。アイツの関心を奪えない。
視界が揺らぐ。共鳴するように感情が揺らぎ、世界が明滅する。
『───この■■がッッッ!!』
苦しい。否定されることが苦しい。
寂しい。拒絶されることが寂しい。
虚しい。それでも縋る己が虚しい。
『───貴様なぞ! 出会わなければよかった! 貴様のような悪しき毒に蝕まれ、私がどれ程に苦しみもがいてきたと思っているんだ!?』
ぼくだって、凄く苦しいよ。
『───ああそうだ! 私はこの■■に唆され、この身の運命すら捻じ曲げられ、洗脳されていたのだ! であれば私は何も、何も悪くない!』
ぼくの運命も、お前に歪められたんだよ。
『───何故今更■■を■■たんだ!? 永遠に、私の■になってくれるのではなかったのか!? あの日の■約を違えるというのか!?』
……ぼくは。お前が『約束』を守ってくれる日を、ずっと、ずっと──……
『───……三■年。ずっと、■■てたんだぜ。お■が、■■を──に■てくれるのを』
でも『約束』は守られなかった。オレサマは、■■■■■のだ。
「っちがう、ちがう……ッ! アイツは違う! アミレスは……アイツだけは、絶対に違うんだ……!」
未来が怖い。現在から目を逸らしたくて仕方がない。過去が──……あの三百年がこの心を蝕み、先へ進むことを許さない。
「アイツにまで嫌われたら……もう、ぼくはこんな世界を生きられない…………っ」
元より生きるつもりなどなかった。死のうとしていたぼくに、あの男が死ねないように呪いをかけてきただけ。
どうして苦しみながら生きなければならないんだ? こんな風に希望と絶望を与えられ続ける、深淵のような日々……誰が、生きていて楽しいと思えるんだ。
「お前の所為だ……なんで、ぼくを生かしたんだよ──ブランカ」
あの日死なせてさえくれれば。こんな風に心が壊れそうになることも、絶望を嘆くこともなかった。こんな風に、どうしても欲しいと思ってしまう程の女と出逢い、絶えず欲望を与えられ、もがき苦しむこともなかったのに。
『───探しましたよ、馬鹿息子。随分と長く、そして無意義な家出だったようですね』
死を許さず、停滞を許さず、怠慢を許さず、あの男はオレサマに最悪のお仕置きを与えやがった。
『───そう。■■が怖いのですか。であればこうしましょう。ヴァイス、あなたは──……それを忘れられるまで精々苦しみながら生きなさい。そしてあなたは、それを心から楽しみなさい』
白い長髪に、赤と黒が入り混じる不気味な瞳の、美しい怪物。あの外道はぼくにそんな呪いをかけ、忽然と姿を消したのだ。
「お前の所為だ。お前の所為なんだよ、ブランカ……! あの日死ねていたら……オレサマは、アイツと出逢わなくて済んだんだ……っ」
柄にもなく情けない言動をすることもなかった。拒絶を惧れることも、嫌悪を懼れることもなかった。こんな最悪の病にだって罹らずに済んだ、筈なのに。
「……オレサマは、いつまで苦しめばいいんだよ……っ、ブランカ……!」
口ではブランカを恨んでおきながら、この頭は学ばずアミレスの顔を思い浮かべやがる。笑った顔も、泣いた顔も、怒った顔も、不遜な顔も、健気な顔も、必死な顔も、全部好きで、どうしようもなく愛おしい。
オレサマをこんな風に恋に溺れさせたアイツの全てが欲しい。アミレスの関心が欲しい。アミレスの絆が欲しい。アミレスの欲望が欲しい。
アミレスが欲しい。アイツの全てを手に入れたなら、きっとオレサマはこの苦しみから解放される。過去の記憶から、ようやく抜け出せる。──未来に、進める筈なんだ。
♢♢
「……これが貴方の判断だ、っていうのは分からなくもないけど。やっぱり俺としては、可愛い弟が苦しんでいていい気はしないよ。──父さん」
白い部分髪を添える黒髪に、当てられる光によっては色が違って見える瞳。耽美な男は、物陰から静かに弟分の様子を窺っていた。
魔王の居城。その一角にて人知れずもがき苦しむ、過去に囚われた男。魔界最強の名を欲しいままにする魔王が、たった三百年の記憶に囚われて苦しむ姿を知るのは、ほんの一握りの悪魔のみ。
ヴァイスの兄貴分でもある悪魔族の長、ブランシュもその一体であった。
「──これが、ヴァイスにとって最も良い道です。いつまでも過去に囚われていては、いつ彼の精神が狂うかも分からない。ならば荒療治に出るほかないでしょう」
「それはそうだけど……アレに関しては貴方の得意分野なんだから、なんとかしてあげたらいいのに」
「? 何故わざわざヴァイスを弱体化させる必要があるのですか? 真に覚醒したならば、彼は私と同等かそれ以上に強くなるのですよ。喜ばしいことでしょう?」
「うわあ、相変わらず脳筋だこのヒト」
ブランシュは思わず苦笑した。隣で共に、苦しむヴァイスを見守る白い長髪の男──彼等の育ての親、ブランカ・フォン・シュヴァイツァバルティークが高い知性に似合わない脳筋発言をしたからだ。
「さて……ヴァイスの監視は今後ともあなたに任せますよ、ブランシュ。私は暫し諸用にて魔界を離れます」
「ふふ。つまりいつも通りってことだね。わかったよ、父さん。ヴァイスのことは任せて」
「理解しているとは思いますが」
「『父さんが普通に顔を出していることはヴァイスとプティーちゃんには内緒』──だよね」
「言いつけを守っているようで結構です。ご褒美としてまた特訓をつけてさしあげましょう」
「謹んでお断りしま〜す」
「何故です? 私自ら特訓をつけてあげるというのに……」
きょとんと首を傾げるブランカを見て、脳筋な父親を持ったブランシュはため息をこぼす。
「ほら、早く行きなよ。いくら父さんの擬態技術が優れているとはいえ、ヴァイスならいつ気づいてもおかしくないんだから」
「それもそうですね。では、私はこれで」
靄が晴れるように、ブランカが音も無く姿を消した後。ブランシュは可愛い弟分の嗚咽に、静かに耳を傾け続けたのであった……。