68.白亜の都市の侵入者
この大陸にて東西に渡り広がる巨大な山脈──白の山脈。
神々の住まう場所。魔界への入口。妖精界へと続く道。そんな風に人間に語られるこの山脈の周囲には、いくつもの国がある。
その中で唯一の国ならざる土地……大陸西側諸国にて最も多くの信者を有する宗教、天空教を信奉する国教会。
その国教会の聖地にして本拠地である場所、それが白亜の神殿都市だ。
その中心には天空教にて崇める神々を奉る大聖堂があり、この都市は綺麗な円状の外壁に囲まれる。都市内部の街並みは計算され尽くしたかのごとき美しさであり、街の至る所には信仰の対象たる神々の像がある。
沈みつつある夕日に照らされる街を見下ろして、ため息混じりの言葉を漏らす人ならざる男がヒトリ。
「姫さんの言ってた都市はここか」
燃え盛る火のごとき紅の長髪を後ろで三つ編みにして纏めており、それが吹き荒れる風に捕まり空にて舞う。
彼が身に纏う、タランテシア帝国にて主流な衣裳……赤き華やかな中華衣裳の裾や飾り釦、小さくも輝きを放つ宝石と繋がる結び房の耳飾り。それらもまた、風に捕まり空を舞う…………。
この人並み外れた容姿の男の正体は精霊であった。その上、火の魔力を司り管理する火の精霊……その最上位に君臨する火の最上位精霊だった。
そのような男の名は──エンヴィー。彼は今、精霊達の愛し子からの珍しい頼み事の為、このような場所まで足を運んだのである。
白亜の外壁の上にて。眼前に広がる結界をコンコン、と叩きながらエンヴィーはぼやいた。
「確かにこの結界ならただの精霊だったら通れそうだなァ。でも今の俺なぁ、人間界用に色々変えてっし……ま、しゃーねぇかー姫さんの頼みだしな」
エンヴィーが後頭部に指を突き立て髪を掻き乱す。
最上位精霊ともなる者がなんの制限も無くこの世界に来てしまえば、人々に多かれ少なかれ影響を及ぼし続けてしまう。
だからこそ制約があり、その為に、人間界に来るにあたってエンヴィーが自身の存在を極限まで落とした結果……ほぼ人間と相違ない程にまで至っていたのだ。
だが今、その存在を元に戻した。人間界の規格に無理やり押し込められていた精霊はその殻を破り、再び孵化しようとする。
彼の中華衣裳が炎に包まれ、高貴さや神聖さを感じさせる唐衣裳へと変化する。三つ編みだった長髪は真っ直ぐに下ろされ、真紅に染まり激しく風に舞う。
それは、彼の本来の姿。四大属性と呼ばれし火、水、風、土が一つ火を司りし精霊位階第三位の存在──火の最上位精霊たる、エンヴィーの姿であった。
まさに触れたもの全てを焼き尽くすかのような熱きそのオーラに、上空を飛び回る鳥達が恐れ慄き自ら地に堕ちてゆく。
「…………さて。制限時間は一時間って所か……それ以上この姿で居れば、この街はどうなっちまうのかねェ。つぅか……それ以前に制約で精霊界に強制送還されちまうか」
それは嫌だなァ、とエンヴィーは不敵に笑う。
そして彼は結界を素通りして神殿都市へと侵入した。
この都市を護るように遥か過去より展開され続けている結界──その名も神聖時空結界。それは対人・対魔に特化した時間と空間にまでも作用する人類の編み出した最上級の結界。
ありとあらゆる招かれざるものを排斥し、侵入を許さない最強の護り。国教会の聖地がこの世で最も安全な場所と謳われる由縁だ。
結界に触れた招かれざるものはいつかのどこかへと飛ばされ、酷い場合は自我や原型を失う事さえあると言う。だからこそ、誰であろうとこの都市へと侵入する事は叶わないのだ。
勿論それは人間界の規格に自身を落とし込んでいたエンヴィーとて避けられぬ問題ではあったのだが、アミレスが話したようにエンヴィーであれば──純然たる精霊であれば、この結界の影響を受けないのだ。
その理由としては大きく三つ。
一つは精霊が神々の使徒である側面を持つ存在だから。
もう一つは精霊が魔力を管理する存在だから。
最後の一つはこの結界が神々への信仰心により保たれるものだから。
この三つの理由を以て、『精霊ならば神聖時空結界の影響を受けない』事の証明となる。
何せ精霊達の持つ魔力……その原型たる権能は神々より授けられたもの。最上位精霊とは、国教会の信奉する神々と同じ力を持つ存在なのだ。
国教会の信仰心により保たれるこの結界が、信仰の対象たる神々を拒む筈も無く……その神々に近い存在である最上位精霊ならば、この結界の影響も受けない。というカラクリだ。
アミレスはそれを知った上で話した……と言う訳では無い。彼女の中にあるゲームの知識、神殿都市の結界についての記憶から、精霊ならば問題ないと判断しただけであった。
その細かい内情など彼女が知る筈も無い。だがしかし、アミレスの発言が事実であった事に変わりはない。
「姫さんはホントに何者なんだか…………何も知らないのに何もかも知ってる感じで……矛盾だらけだ」
エンヴィーは高くそびえ立つ外壁から身軽に飛び降り、地に降り立つまでの僅かな時間で瞼の裏に一人の少女の姿を思い浮かべた。
彼をアミレスに引き合わせたヒトリの精霊は、自身を含め全ての精霊の正体と精霊にまつわる情報を隠そうとした。
その理由はエンヴィーとて知らぬ事。ただなんとなしに、彼も一つの仮説を立てていた。
──少しでも精霊に良い印象を抱いて欲しいから。
あのヒトは、あの御方は、初めて出来たお気に入りの人間相手にそう思っているのでは……と、エンヴィーは考えていた。
だからこそエンヴィーはそのヒトの意向に従い、精霊に関わる事はあまり口にして来なかった。リバースを召喚した時だって、リバースが精霊界に戻った時だって多くは語らなかった。
それなのにアミレスはまるで全ての事情を知っているかのように話す事がある。今回だってそうだ。
……そんなどこか矛盾している人間の少女の事を、エンヴィーもまた、大層気に入っているのかもしれない。
「はー……後で絶っっ対、あのヒトに怒られんだろうなァ」
まるで何かを後悔するかのように零したエンヴィーではあったが、その言葉とは裏腹に、彼の口元は楽しげに弧を描いていた。
退屈だった毎日を彩ったちぐはぐな少女からの珍しい頼み事。それは、楽しい事が大好きなエンヴィーにとってはまたとない最高の遊戯だったのだ。
およそ時間にして二分。真紅の長髪と唐衣裳を大きく膨らませて、彼は白亜の地に華麗に着地した。
「いよーぅしっ、いっちょやるかァ!」
彼は一通の手紙を手に上機嫌に白亜の街を駆け抜ける。
そのあまりの美しさにすれ違う人々は目を奪われ、彼の背が見えなくなるまでその背を目で追っていた。
「ふんふふふんふんふんふん〜」
鼻歌を奏でながら大聖堂を目指すエンヴィー。しかしその道すがら、とある像を見つけて立ち止まる。
(げっ、これあの神の……)
エンヴィーは上機嫌な笑顔を消して苦虫を噛み潰したような表情となった。その像は……筋骨隆々、身の丈以上もある槌を構える男神──火の神フレアズの像だったのだ。
火の最上位精霊たるエンヴィーとしても中々に因縁深いその神の像を見上げ、エンヴィーは心底嫌悪するように舌打ちをした。
フレアズ神を含め多くの神々を信奉するこの街でそのような行為をするとは、なんとも豪胆ではあるが……彼はフレアズ神の影のようなもの。
まぁ、まだギリギリ許されるんじゃないかな? と言う判断の下行った事だろう。
気を取り直して、エンヴィーはまた走り出す。彼はアミレスに頼まれたように、大聖堂の最奥にいる聖人に手紙を届けようと先を急いだ。
そしてついに大聖堂に辿り着く。エンヴィーは正面から堂々と入ろうとするが、それは阻まれた。