668.Side Story:Lark
新編開幕です!
正直なところ、幼少期のことはあまり覚えていない。貧民街──西部地区ではないどこかで生まれ、色々あってこの街に流れ着いた。そうだな……おおよそはイリオーデと同じ流れだ。一緒に居た大人は、俺の親に金で雇われただけの人間だったようで、この街に着くやいなや俺の親から預かった金を全部持ち逃げした。
無一文で、大した知識も力もなく、見知らぬ土地に放り出されて。あの時ばかりは途方に暮れたものだ。
だけど。そんな経緯があったからこそ、俺は彼と出会えた。
『──おい、そんなところでなにしてんだ?』
当時はまだ現代社会の掃き溜めのようだった、西部地区。その一角、そのまた片隅で蹲る俺に、ただ一人彼だけは──ディオだけは、声をかけてくれた。
それこそ初めて会った時のイリオーデのように、俺もまた、一目見て『いいところの坊ちゃんなんだろうな』と分かるような格好をしていた。一人で見知らぬ土地を彷徨いボロボロになっても、それは変わらず。自分のことでいっぱいいっぱいのこの街の人々は、俺に気付いても見て見ぬふりをして通り過ぎていった。当然だ。富を持つ人間ですら他人を助けることなんて稀なのに、貧しい人々にその余裕があるわけがない。ましてや、見るからに厄介ごとだとわかる人間に構うわけがない。
だから、俺はこのまま死ぬんだろうなと思った。未練とかは特に無かった。強いて言えば、俺の金を持ち逃げしたあの男をこの手でぶん殴ってやりたかった。ただそれぐらい。
──ああでも。お腹がすいたまま死ぬのは、なんだかいやだな。
なんて、腹の虫に耳を傾けながら、この世を舐め腐った言葉を思い浮かべた時だった。
『ハラ、へってんのか』
目の前に俺と同じぐらいの歳の男が立っていた。ぶかぶかでボロボロな服を着た、隻眼の男。俺と同じぐらいということは、おそらくは六、七歳程。にもかかわらず、片目を隠すように顔に巻いたボロ布の影響か、随分と厳つく見える。
『……お腹、は』
空いてるけど、と言おうとしたところで、ぐぅ。と俺の腹は鳴った。なんで今鳴るんだよ! とあまりにも正直すぎる腹の虫に気まずくなっていると、
『くっ、はははは! ハラでへんじするとか、オマエおもしれーな!』
『そ、そんなに笑わなくたっていいだろ……』
彼は八重歯が丸々見えるぐらい大きく口を開けて笑った。初対面なのに失礼な奴だな、と一方的に印象を悪くしていったところで、彼は手提げの麻袋をまさぐり、取り出したものをこちらに差し出してきた。
『ほら、これやるよ』
『……なにこれ』
『あ? どう見てもパンだろ』
『パン? この固いものが?』
『パンいがいのなにに見えんだよ』
俺の知るパンとは異なる固いパンを訝しみながらつつくと、彼はため息をついた。
『ハラがへってんならさっさと食え。おら』
『わ、わかった……食べるよ……』
強引だなぁ。と思いつつ、食べられたものじゃない固いパンにかぶりつく。予想以上に固いし、冷たいし、味もなんか変だし、全然美味しくない、はずなのに。
『おい、しい……っ』
何故か涙が溢れていた。
数日ぶりの食事だったからだろうか。腹が満たされたからだろうか。……いや、違う。諦めていた中でただ一人、彼だけが俺を気にかけ、そして手を差し伸べてくれたからだ。
この美味しさは。この、胸の温かさは──ディオのくれた優しさそのものだ。
『あったりめーだろ。シーラおばさんのとこのパンはちょーうめぇんだよ。午前いっぱいてつだって、昨日のうれのこりをいつもわけてもらってんだ。やきたてのヤツよりかはちとかてぇが、つめたくてもうめぇんだ!』
まるで我が事のように彼は喜び、ニッと笑う。
今思えば、あの瞬間から俺は彼に目を奪われていたのだろう。こんな薄汚い世界で、それでも人に優しく今を懸命に生きている彼が……とても、眩しかったから。
『あり、がとう……っ、おれ、きみにかえせるもの、なんっ……にも、ない……のに……』
『あ? ンなモンべつにいらねぇよ。こまったときはおたがいさまだろうが。つーかオマエ、見ねぇかおだけどよそからきたのか?』
屈んで膝の上で頬杖をつき、随分とガラの悪い様子で彼は聞いてきた。
『…………うん』
『とーちゃんとかーちゃんは?』
『しら、ない。あのひとたちにとって、だいじ、なのは……にぃちゃ、だけ……だった、から』
『……そか。うしっ、とりあえずいっしょにこい! おれんちにあんないしてやるよ』
言って、ディオは勢いよく立ち上がり、俺の手を掴んで引っ張り上げた。
『おれ、ディオリストラスっていうんだ。なげーから、ディオでいいよ。オマエは?』
『…………ラーク。ただの、ラーク』
『ふーん。じゃあラークってよぶよ。いいよな』
『うん。……ありがとう』
『? なにがだよ。あ、パンのことなら気にしなくていいぜ。まだあるし』
違うよ。何も聞かないでいてくれて、その上で優しくしてくれたこと。それがあの時の俺にとって、すごく嬉しかったんだ。
そうやって、なんでもないように笑って俺の手を引いてくれた君の優しさが──本当に、眩しかったんだよ。
それからの日々は、それまでの人生と比べ物にならないくらい楽しかった。ディオは何も聞かずに俺を置いてくれて、何かと慣れないことばかりではあったものの、ディオと過ごす毎日は何もかもが新鮮で、退屈とは無縁の日々だった。
街に転がってる廃材とかで彼の家を秘密基地っぽく改造したり、ディオが一人でやっていた大人達のお手伝い(小遣い稼ぎとも言う)を俺も一緒にやったり。少し歳上のガラの悪い連中に絡まれ、二人で傷だらけになりながら全力で応戦したり。
些細なことで喧嘩して、たまに殴り合いにまで発展して、でも結局最後は仲直りしてまた二人で笑い合えるようになった。簡単にだが共通語の読み書きを教えたりもした。
決して楽は出来なかったけど、それでも何故か、とても充実していた。
ある日のお手伝い中。その日は体が不自由な老夫婦の自宅に数日ぶんの食料を届けに行くお手伝いをしていた。
その店は本業の傍らでこのサービスを何組かの老夫婦相手に行っていて、俺とディオは地図片手に荷車を引き、手分けして配送していたのだ。
そこまで店から離れていないこともあり、無事に食料を届けて代金を受け取りさあ戻ろうとした時。
『うっ、なんだこの変な臭い……?』
来た道が少し混んでいたから、遠回りして戻ることにした矢先。通りがかった家からどうにも馴染みのある臭いが漂ってきたのだ。
『これ、下水道掃除をしてる時に嗅ぐ臭い、に近いよな……』
そう、いわゆるナマモノが腐った臭い。前に街の大人達が言ってたな。こういう臭いが漂う家は、だいたい中で誰か死んでるって。
嫌な予感がした。正直、関わりたくないとすら思った。でも、ディオならきっと見て見ぬ振りなんてしないから。
『……あの、誰かいますか?』
躊躇いがちにコンコンと扉を叩き、言葉を投げる。扉の隙間から、窓の隙間から、腐敗臭が鼻を穿ってくる。それに顔を顰めながらも何度か扉を叩き『誰かいますか?』と繰り返す。
いよいよ侵入するしかないなと覚悟を決めたところで、なんと扉がひとりでに開いた。途端に強くなった、鼻がひん曲がる程の腐敗臭に気持ち悪くなり、思わずその場で固まっていると、
『───『だれか』じゃなくて、ごめんなさい。おれ、は……シャルルギル、なの』
全身痣だらけの灰色の髪の男の子が、申し訳なさそうな顔で現れた。彼の肩越し、その後方には虫が集る赤白い塊が二つあって。
俺はすぐに察した。あれはおそらくこの子の両親で、とうに死んで腐敗が進んでいるのだと。そして彼はどうすればいいのかわからず、ずっと死んだ両親の元にいたのだろう、と。
何かもっと深い事情がありそうなのだが、今はそれを推測する暇は無い。とにかく彼をこの家から連れ出さないと。
今にも死んでしまいそうな、痩せ細った体と虚ろな目。そして全身の傷跡。これを見て、誰が放っておけようか。
『……シャルルギル。今すぐ俺と一緒に来て。怪我してるし、何よりこれ以上ここにいたらダメだ!』
『いっしょ、に? でも、おれ、やくたたず……で、わるいこ、で……できそこない、だよ。なんにも、できないし。それに、あぶない、まりょく、だし。いっしょにいたら、きみも、わるいこに、なっちゃう』
『そんなの関係無い! 出来ないことがあるのなら、これから出来ることを増やしていけばいい! 君が役立たずじゃないことを俺達が証明してみせるから! だから俺と一緒に来て!!』
まるで言葉を覚えたばかりの幼子のように話すシャルを見て、当時の俺はより一層不安を煽られた。
──間違いない。彼は親から虐待を受けていたんだ。
その両親はもう死んでるようだけど、きっと、彼には『逃げ出す』という選択肢が存在していなかったのだろう。だから、親が死してもなおこの家に一人でい続けた。悪臭が充満した家で、今にも飢えて死んでしまいそうになりながら……!
だったらもう、この檻から無理やり連れ出すしか彼を救う方法はない。
ほんの少し前にディオがそうしてくれたように。俺は、虚ろな目をしたシャルに笑って手を差し伸べた。
『大丈夫。俺達は絶対、痛いことも嫌なこともしないから。俺達と一緒に、毎日笑って暮らそう』
『…………わらって、くらす……』
ぽかんとしたまま、シャルはおずおずと俺の手に痩せ細った手を重ねてくれた。その後俺は、警備隊に人が死んでると通報だけして、シャルを連れて帝都の端の方にある水路に行き、彼の全身をくまなく洗った。
染みついた悪臭や、長らく体を洗って来なかったことによる垢は中々にしぶとかったが、それでも有り金をはたいて買った石鹸で数十分近くかけて洗うとある程度はマシになったので、そこらへんで買った安い布を全身にぐるぐると巻き、シャルを荷車に乗せて、店に戻った。
随分と時間がかかったかと思えば、俺が見知らぬ少年を連れて来たことに店主のおじさんもディオもたいそう驚いていたが、事情を話すと、店主のおじさんは『偉いぞラーク。その決断は、そう簡単にはできないことだ』と頭を撫でて褒めてくれて、『いいことをした子供には褒美がないとな』と言って、たくさん食料を分けてくれたのだ。
ディオも困惑した様子だったが、シャルを拒む仕草はなく。
『あのなぁラーク。俺達二人しかいないとはいえ、うちだって広くはねぇんだぞ。まぁ、ソイツ一人ぐらいなら大丈夫だろうけど……』
『ディオ……!』
『これから大変だぞ。なんせ三人ぶんの食料と金を稼がにゃならねぇからな』
『俺、もっと色々やってみる!』
『ばーか。俺もやるっつの』
言って、ディオは俺の隣に立っていたシャルの肩に手を置いて笑った。
『シャルルギル、だったか? ま、そーゆーこった。俺はディオ。ディオリストラスっていうんだ。んで、こっちはラーク。これからよろしくな』
シャルはこくりと頷き、それから俺達は三人で暮らすようになった。
危ない魔力、と聞いていたシャルの魔力が毒の魔力だと判明して、『『毒の魔力ってなんだ……?』』と二人で頭を悩ませたり、シャルの天然っぷりに二人で腹を抱えて笑ったり。愛情を知らずに育ったらしいシャルを、君は愛されて育ってほしいだなんて自己満足でとにかく甘やかしては、ディオに怒られたり。
シャルの世間知らずな天然っぷりが凄まじく、歳の差はほとんどないのだがなんだか可愛い弟ができたようで。俺達はいつの間にやら兄貴風を吹かせるようになっていた。
その後もどんどん家族が増えていって、俺とディオがいわゆる長兄のような立ち位置になって。毎日賑やかで、生家にいた頃とは随分と様変わりした楽しくて幸せな人生を、俺は送っていた。
……だから。正直なところ、この感情がいつからあったものなのかは具体的には分からない。ただ漠然と──出会ったばかりのあの頃から、君のことが好きだったんだなって。俺はそう思ってるんだよ。
♢
「……──ラーク。今日の巡回行くぞ」
「ああ。今行くよ」
団服を着たディオが勝手に俺の部屋の扉を開け、それにもたれかかっている。近頃は諸事情から巡回シフトを幾度となく変更しているのだが、配慮されているのか俺とディオの二人で巡回するシフトがやけに多い。『事実上のデートだよ、ラーク兄!』なんてメアリーから言われてしまったから、俺も半分くらいはその体で巡回を楽しんでいる節がある。
不安が募る最近では、彼との二人きりの時間が俺の癒しなのだ。
「……ふふっ」
「何笑ってんだよ、急に」
「君に逢えて本当によかったなって」
「はァ……? マジでどうしたんだよ、お前」
出逢えてよかったと思える人がいて、その人とこうして仕事を楽しめる関係にもなれて。
俺は本当に──……幸せだ。
あの日、生家から追い出されて、この街に捨て置かれて……本当によかった。
あの家で過ごしていたら一生手に入らなかった幸せを手に入れられたから。俺は今、すごく幸せだって──心から言えるから。