667,5.Interlude Story:Michalia
夜が更ける。宵闇の神と月の女神が美しい音色を奏で、神の子らたる精霊が無限の彩色で夜空を飾っていた。
夏が短く冬が長い特徴的な気候も相まって、この国の夜は季節問わず少し肌寒い。だけどそれが心地よく、祭りに浮かれ盛り上がる人々は興奮から火照る体をそれで冷やしているように窺える。
楽しそうに笑い、今日会ったばかりの隣人と、まるで数十年来の友人かのように肩を組んで、数多のお酒や料理に舌鼓を打つ。
この国の民は、幸福なのだろう。
多くの国々を見てきたから分かる。自由を許され、平穏を許され、信ずるものを選ぶことを許され、未来を選ぶことを許され、夢を見ることを許され、その全てを可能にするこの国──フォーロイト帝国の民は、この大陸のどの国の民よりも『幸福』だと僕は思う。
もちろん、神殿都市の人々が不幸だとは思わない。我らが天空教を……神々を信じる人々が幸福でないなどとは思っていない。だけど、フォーロイト帝国の民のそれは…………きっと、聖書にも載っていないありふれた日常──その、理想の姿そのものなのだろう。
「────」
許されない。その言葉を口にすることは、決して許されない。僕が聖人である以上、それだけは望んではならない。
そう、分かっているのに。
『そりゃあ、アミレスに会いたかったからだけど。あわよくば一緒に過ごして、思い出を作って……それで、彼女の笑顔が見たかった』
『アイツは、俺の星なんだ。俺はアイツがいるから生きようと思えた。俺はアイツがいるから生きていられる。俺は、アイツがいないと生きていけない。ただそれだけのことだよ』
『愛してるさ。この世界の何よりも。あの子はボクの宝物だからね』
『彼女の為に世界を敵に回せるか、という問いならば。答えは──できるとも』
『これが許されないことだとしても、更なる罪になるのだとしても。どうしても、想いを伝えずにはいられなかった』
『僕は、『人生で最も幸せな瞬間を共に迎えたいとすら思う程、お前の事を愛している』と伝えた』
……──羨ましい。
それを、憂いなく口にできる貴方達が。心裡を言葉にし、その欲や願いを容易く明かせる貴方達が。普通を許され、自由を許された、貴方達が。
聖人は──ひどく、羨ましかったんだ。
僕にも貴方達のような自由があれば。このしがらみが無ければ、この運命にもっと素直に……積極的になれていたのかもしれない。なんてたらればを並べ立てて、己の不自由さに気づき益々雁字搦めになる。
神の御言葉に間違いはない。神の選択に間違いはない。故に、聖人という存在に間違いは唯の一つも無い、筈なのに。
己が不幸せだとは思わない。そのようなこと、聖人は思ってはならない。だけど……思うがままに愛を口にし不自由さに囚われない彼等を見ていると、僕は彼等と比べて不幸なのではと、醜い比較の末に悪しき感情に陥る。
──『普通』に、憧れてしまう。
平凡を羨み、望んではならないものを望んでしまうのだ。
『───貴方様は特別な御方なのです。この世の誰よりも尊い御方なのです』
『───聖人様は特別でなければなりません。何故なら聖人様は我らが光、我らを導く御方ですから』
聖人は特別でなければならない。そう、何度も何度も言い聞かされてきた。普通であってはならないと、平凡であってはならないと。この世でただ一人、自由を望んではならないのだと……そう言い聞かされてきた。
「…………どうして、僕は特別なのだろう」
──誰も、頼んでいない。僕は一度も聖人になりたいだなんて言っていない。それなのにどうして、僕は生まれたその瞬間から『聖人』で『特別』なんだ?
こんなにも普通を切望して、家族や友達といった存在を切望して、恋や愛に生きる自由を切望して。
どうして、人々が当たり前に与えられるそのありふれた幸福が、僕にだけは許されないんだ?
「っ……! 僕だって、この、想いを……彼女に伝えたい……っ!!」
フォーロイト帝国が建国祭の陰で。人気のない路地裏で蹲り、体を丸めて嗚咽をもらす。
彼女が僕の元に来るのを待つのではなく、僕から彼女を迎えに行きたい。この想いを伝えて、彼女と家族になりたい。
それなのに。
「僕は、彼女の名前一つ満足に呼べない……っ! 告白だってそうだ……! 僕には、彼等のように『普通』のことをする勇気が、無いんだ…………っ」
やろうと思えばいつだってできた筈なんだ。その機会もあった。でも、しなかった。できなかった。
今まで百年近く聖人として生きてきた僕には……今更『普通』になるというのは不可能に近く。これまでの人生全てを否定するかのようで、恐怖のあまりそれができずにいた。
「でも……僕だって、彼女に想いを伝えたい。彼女に、僕だけの名前を呼んでもらいたいよ」
神の寵愛を受けし者の名も、受け継がれてきた名も、僕のものではない。
真の意味で僕だけの名前と言えるのは、彼女がくれた『ミカ』という名前だけ。その名前だけが、僕に『普通』という希望を与えてくれる。
不自由な聖人に、自由という夢を見させてくれるのだ。
「…………神よ。どうして、僕なのですか? どうして……僕はこんなにも、不自由で──……」
不幸せなのですか、と。決して許されることはない言葉がまろび出そうになった、その時。
「──ふふ。やっぱりこの世界の餓鬼共は害悪なんだな」
背後から、コロン、といった音が聞こえてきた。溢れ出た涙もそのままに振り返ると、そこでは、タランテシア帝国の衣裳とも少し違う衣裳を身に纏った獣人の少年が、楽しげな表情でこちらを見下ろしていて。
「やぁ、神に選ばれてしまった少年。私は名も無き男。私の所為で運命が狂った一人の女の子の為に粉骨砕身する、心優しき色男さ」
なんだ、この少年──いや。少年の貌をした、人ならざる存在は。どこか懐かしい感じすらするが……その正体を考察することを、何故か頭が拒んでいる。
「地道な侵略作業の甲斐もあり、こうして現地民と気兼ねなく会話が可能になったのは喜ばしいのだが……法則性やら理が違うからか、相も変わらず私の権能はほとんど使えないし。結局暗躍するしかしないのだから、立つ瀬がないってものだよ」
紅顔の美少年らしからぬ低く落ち着いた声で、ゆらゆらと白い尻尾を揺らしながら、彼は独り言を繰り返す。
「っと、閑話休題。今日は君に用向きがあったんだ、あの子と似た運命を歩む少年。私、男の世話は焼かない主義なのだけどね……あの子の為だから仕方ない。──そういう事由だから」
「っ!?」
白く骨ばった手が伸びてくる。咄嗟に避けようにも、間に合わない。
「君に、幸運と良縁があらんことを」
しゃりん、しゃりん、と。小鐘とも少し違う、知らない音が頭の中で響く。彼の指で触れられた場所が、額のただ一点が、焼かれるように熱い。
「叶うなら、どうかあの子も──、…………」
意識が遠のく。
そして僕は、長い夢を見た────…………。
これにて長かった槐夢の客星編は終了となります。
次話より新編開始となりますが、それに伴い更新頻度を「隔日」から「毎週金曜更新予定」に変更させていただきます。たまに金曜日以外にも更新されるかもしれませんが、基本的には毎週金曜更新予定です。
更新頻度が下がり、読者の皆様にはご不便をおかけすることになりまして申し訳ない限りでございます。
五章完結に向けて鋭意執筆して参りますので、何卒、これからも本作をよろしくお願いします。