♦655.Chapter5 Prologue【かくして日夜君想う】
それは、温かな記憶だった。
木漏れ日と花の香りに彩られた、なんでもない日。昼寝に興じていた俺に向けて、頭上から楽しげな声が降ってきた。
『───心を隠す魔法の薬って知ってる?』
『……急に何を言い出すかと思えば。今度は何を読んだんだ? 伝記……いや、また子供騙しの御伽話か』
『むぅ。またそうやってからかうんだから』
俺の反応が気に食わないのか、彼女はムスッとした表情で強引に続ける。
『あのね、このお話は小さい頃から想いあってた幼馴染のお姫様と騎士の恋物語で──……』
彼女は楽しそうに語った。案の定御伽話だったが、彼女の近頃の趣味が“分厚い御伽話を読破すること”なので、容易に想像できたことだった。
元々絵本が好きな奴ではあったが、背伸びして大人ぶりたい歳分なのか、近頃は字ばかりが書き連ねられた鈍器のような本を好んで読んでいる。
彼女の影響を受けたのか、あいつまで本──推理小説とやらにのめり込んで。たかが創作物の何がいいのかと聞けば、二人揃って『読書ってすごく楽しいんだよ?』と力説する。だが何度説明されようが、俺にはそれの良さなど分からない。
そんな俺に呆れたのか、あいつ等は二人で街の本屋に行き各々好きな本を買ったとかなんとか。俺を除け者にして。
そうして、俺の不興を買いつつ二人は読書という新しい趣味に傾倒している。その成果がこの、演劇に等しい解説なのだろう。彼女はお気に入りの本をこうして俺に解説したがるきらいがある。どういう心理なのかは分からないが、二人揃って、俺が本を読みたがらないから仕方なく口頭で説明してやっていると主張するのだ。頼んでないのだがな。
……だが、まあ。
『──そこでね、お姫様への想いを抑えきれなくなった騎士が魔女に頼んで“心を隠す魔法の薬”を作ってもらうの。身分差で思い悩んでいた騎士は愛するお姫様を想ってその薬を飲み、もう嫌いになったって嘘をついて……それを悲しんだお姫様は結局隣国の王子様と結婚して末長く幸せに暮らすんだけど、騎士はその後も一生お姫様を想ってるの! すっごく悲しいお話だよね』
こうして、こいつ等が楽しそうに創作物について話す姿は好きだから、別に構わんが。
『その姫とやらの騎士への恋心は、そもそも一度振られたからと諦めがつく程度のものだったんだろ。そうでなければ、たかが一度の拒絶で諦めなど到底つかない。姫は所詮、身分差を乗り越えてでも結ばれようとしていた己に酔っていただけだ』
『……なんでそんなこと言うの』
『本当に心から愛しているのなら、どんな手段を用いてでもその騎士を夫としたはずだ。だがそいつはしなかった。それが全てだろうよ』
『…………やっぱり、あなたって本を読むのに向いてないよね』
『ようやく理解したか』
『偉ぶるところじゃないと思うよ?』
またムスッとして、抗議の視線を送ってくる。木漏れ日を背負った彼女は、薄紅色の髪を耳にかけてこちらをじっと睨んでくる。
お前がどれだけ睨んでこようが、ただただ愛らしいだけなんだが……。
『──君って、本当につまらないし面白みのない人間だよねぇ。僕が言えた限りではないけど。あ、僕は君のそんなところも大好きだからね!』
『うるさい。ヘラヘラ笑うな』
『えへへ』
『笑うなって言ってるだろ』
『あはは。僕は君のぶんも笑う担当だからね! 毎日君のぶんも笑うよ〜〜。へっへっへっ』
『そんなことは一度も頼んでないんだが? そもそも、俺はそんな風に笑わない』
彼女に寄りかかってクッキーを頬張っていた我が弟が、わざとらしく軽薄な笑みを浮かべる。
──あ。こいつ、またどさくさに紛れてクッキーを独占しようとしているな!?
強かな奴からクッキーを奪取しようと手を伸ばすが、平時ならまだしも寝転がった状態の俺に、奴の身体能力を上回ることは不可能だった。『ふっふっふ……僕からクッキーを奪おうなんて、百年早い!』と騒ぐあいつに、彼女は『もう。二人で分けてって言ったのに……』と呆れている様子。
……ああ、なんと幸せな夢だ。今はもう届かぬ、遥か彼方の夢の場所。もう二度と手に入らない──俺が愛した世界。
それはもう、とうの昔に失ってしまった。訳もわからず、なんの前触れもなく。いつの間にか、この手からこぼれ落ちてしまっていたのだ──……。
♢
「──下。皇帝陛下。マイ・ロード? 聞こえてますー?」
「……喧しいぞ、ヌル」
「ようやくお目覚めですか……。こんな真っ昼間から皇帝陛下が眠っているとは、それ程に副作用が重いのですね」
「ああ。今もまだ、頭が上手く働いていない。酷い副作用だな、これは」
執務室の長椅子にて体を起こし、その場に座り直す。
副作用はあるものの、それ本来の効能は確かなもの。ならばこの副作用も受け入れるほかあるまい。……公務中に酷い睡魔に襲われるのは困りものだがな。
「……まさか、かような薬が実在していたとは。この身で体感して、初めて子供騙しの創作物も馬鹿にできないと思えたとも」
「そうですね。まさか──すべてを視透かす彼の御方すらも欺くとは。仰天ものですな」
こうしてわざわざ薬を服用せずとも心を変えられるヌルが羨ましい。
だが、こうでもしなければ俺の心は彼奴に視透かされる。俺の計画が彼奴に知られてしまう。だから、副作用を背負ってでもあの薬を飲むのだ。──この計画を、必ずや成し遂げる為に。
「『心を覆う薔薇の秘薬』──。なんとも便利なものだ」
我が身から漂う薔薇の香り。
嘘の匂いとは、こうも馨しいのか。