650.Side Story:Angel
「それじゃあまたね、アンヘル」
「おう。またな、アミレス……っと。そうだ、これやるよ」
「わあ、これって……チョコレートのケーキ?」
「そうだ。流石は教祖、詳しいな。この前南西の国から取り寄せたんだが、なかなかどうして美味いじゃないか。甘党仲間のあんたにも、お裾分けしてやろうと思ってたんだ」
「貴重なものをありがとう、アンヘル」
小箱に入ったチョコレートケーキを渡すと、アミレスはふにゃりと笑った。
……なんか。小っ恥ずかしいな、これ。そのチョコレートケーキは普通のケーキじゃなくて、俺が作ったやつだって。そう言い出しづらくなった。
見た目はともかく、味は俺が満足するまで突き詰めたんだ。きっと彼女にも満足してもらえるとは思うんだが……何故か、俺が作ったものだと言い出せない。
誰かの為に何かをするという行為が、これ程に緊張するものだなんて。思いもよらなかったな。
「ええと……ばいばい、アンヘル!」
「子供か。って、あんたは子供か……」
「むっ。私だってもう大人です! そういうわけなので、ごきげんよう!」
「フ、何回挨拶するんだよ。ごきげんよー、おーじょさまー」
そうして、シャンパー商会の宿館前で彼女と別れる。
三時間のスイーツバイキングを経て顔面蒼白の執事を支えながら、彼女は手を振り去っていく。その遠ざかる背をじっと見つめながら、俺は柄にもなく手を振り返していた。
「……ホント、柄じゃねぇよなぁ……」
たいした理由も、キッカケもなく。俺はどうやら──いつの間にか、彼女に惹かれていたらしい。
俺にとって教祖のようなものだったから? それとも、こんな俺を慮って寄り添ってくれたから? ……いいや。それもあるが、それだけではない。
──俺は、あいつの笑顔に一目惚れしていたんだ。
ただ、それを理解する程俺の頭は聡くなくて、それを自覚する程俺の心に余裕はなかった。だからずっとこの懸想に気づかず、胸焼けしたような苦しみだけが深く高く蓄積し、心臓を蝕んでいたのだろう。
理解はおろか自覚すらできていないものを、忘却性を持つ俺が覚えていられるわけもなく。日記に記すこともないまま、これまで数年間──彼女に会う度に、その笑顔に一目惚れし続けてきた。
無自覚なままあの笑顔に心を奪われ、無自覚のままにまた一目惚れする。その繰り返しだったのだと、今更理解したのだ。
……ただ、可愛いと思った。眩しいと思った。どうしようもなくその笑顔に目を奪われ、心をも奪われちまった。
ミカリアのような劇的な恋などではない、ただストンっと落ちてしまっただけの、ありきたりでありふれた恋。これは、そういうものなのだろう。
ただあの笑顔に一目惚れして、その笑顔をもっと見たいと思った。そしてあわよくば……その笑顔を俺だけのものにしたいと思ってしまったのだ。
そんな、実に浅ましく欲に溢れた懸想。いい歳して初恋なんてものをしている俺に相応しい情けなさだ。
「…………これじゃあ、ミカリアのことを馬鹿になんてできねぇよ」
恋なんて非生産的で煩わしいもので、愛なんて非現実的で無価値なものだと思っていた。どうせ俺は誰かに恋をする日も来ないし、誰かを愛する日も来ないと、そう思っていた。
だが、このザマだ。俺は見下していた『恋愛感情』というものを知らず知らずのうちに何度も抱き、ものの見事に土壺に嵌っていたのだ。
バカは俺の方だった。運命だなんだと騒ぐミカリアよりも、彼女に会う度に一目惚れを繰り返していた俺の方が、よっぽどバカバカしいじゃないか──……。
♢
初めての恋は、数年前。フリードル・ヘル・フォーロイトの誕生パーティーに行った時だった。
『ああそうだ。姫君、こちらは僕の知人のアンヘル・デリアルド君です』
『お初にお目にかかりますわ、デリアルド辺境伯様』
『……辺境伯だけでいい。家名で呼ばれるのは好かん』
ミカリアが起こした騒ぎの所為でスイーツが置かれたテーブルに近づけなくなり、虫の居所が悪かった俺はミカリアの紹介で彼女と会ったにもかかわらず、幼い王女様にも強く当たってしまった。
……今思えば、最悪の初対面だったな、あれは。
ミカリアから『姫君』の話はうんざりする程聞かされていた。その一年は、その件についての愚痴が日記に度々書かれていたから、相当惚気話を聞かされたのだろう。それ故に、間接的な被害を被った俺は、例の女への印象を勝手に悪くしていたのだ。
こいつもどうせ、あのクソガキ共と同じ面倒で厄介で目障りなガキなんだと思っていた。
昔から何かと迷惑をかけてきやがる氷の血筋の色。それを見ただけでよりいっそう気分が悪くなったのだが、
『畏まりました、辺境伯様』
そう言って笑った彼女を見た時は、面食らった。
確かに氷の血筋の色を持ったガキなのに、何かが違う。穏やかな面持ちで、礼儀正しく、歳のわりに所作も洗練されていて美しい。
どこかで見た顔だ、と無い記憶が反応したところで、
『あの、辺境伯様。ものにもよりますが……スイーツをお持ち帰りいただけるよう、ご用意する事も可能ですがいかがなさいますか?』
彼女は、いとも容易く俺の心を掴んでみせた。
これまで何人もの氷の血筋が俺を自陣に引き込もうとあの手この手を尽くしていたが……彼女が最も、俺の心を揺るがしたことだろう。
俺の望みを察し、すぐさま実現する能力。この女はこれまでの氷の血筋連中とは一味違うと、俺は腕を組んだ。
『フッ……ミカリアの言う通り、こいつはそんじょそこらのガキとは一味違うな』
そうして俺は彼女を一目置き、その日の日記にも【アミレス・ヘル・フォーロイトは将来有望だ。あのガキは大物になる。俺がここまで顔を覚えていられるのだから、相当な大物になるとしか思えない。これからは、敬意を持って王女様と呼ぼう。】などと記していたぐらいだ。
……その自覚はまったくなかったが、この時既に彼女の笑顔に一目惚れしていたのだ。顔を忘れられないというのは、つまり、そういうことだったのだろう。
それからも俺は、彼女との実質初対面を果たす度に、その笑顔やころころと変わる表情に一目惚れしていた。何度も何度も、“初めての恋”を繰り返していたのだ。
彼女がパティスリー・ルナオーシャンという宗教の教祖であると確定した時も。彼女が俺の長年の悩みを解決してくれた時も。彼女が奇妙な歌と踊りを披露し、きらきらと輝いていた時も。彼女が大勢から誕生日を祝われ、無邪気に喜んでいた時も。彼女が俺の記憶から姿を消していた時も。彼女が『アンヘル』と俺の名前を呼び、微笑んでくれた時も。
俺はずっと──……、何度も忘れ、何度も初めての感情を抱きながら。アミレスという一人の女に落ちてしまっていたのだ。