325.それは彼方より来る
『……──ごめんね。君を守れない不甲斐ない私を、どうか、許さないでくれ』
優しくて、低く響くような声。
誰かが私の頭を撫でている。ゆっくりと、柔らかく、全てを慈しむように。
ああ、そうだ。この温かくて優しい手が、とても大好きだった。
ぼんやりと開く視界。ぼやけて何も見えないが、そこには誰かがいた。真っ白で、ユラユラとキラキラと輝く、私の大切な──……。
『おやすみ、愛しい我が子…………君の願い一つ叶えられない私に、どうか、君の幸せになった姿を見せておくれ』
誰かに瞳を閉ざされる。世界が真っ暗になって、夢へと引きずり込まれていく。手を伸ばしても決して届かない。もう二度と、あのひとに触れる事は叶わない。
やだ、いかないで。おいてかないで。
ずっとそばにいてよ、ずっとずっと一緒にいるって約束したのに! いやだ、わたしを……私を、独りにしないで────────!!
♢♢♢♢
「……──っ! はぁ、はぁ…………何か、大事な夢を……見た気がする……」
何かを追いかけるように跳ね起きると、とてつもない喪失感に襲われた。
蜃気楼のように朧気な夢は、記憶からも簡単に消えてしまっていて。この喪失感が何に対するものなのか、私には分からなかった。
「時間は……まだ四時じゃないの」
時計を見ると、まだ朝早い事が分かった。だけどもう、眠る気にはならない。
顔を洗って、シャツとズボンに着替えたら白夜を持って外に出た。
夏を迎えたと言えども、氷の国とも呼ばれるフォーロイト帝国は他国と比べまだまだ涼しい方だ。その朝方ともなれば、夏とは思えない涼しさである。
水で色んな体型の人型の的を作り白夜でそれを斬る。首、心臓、膝、頭、顔、うなじ。どの角度からどのように斬り込むと抵抗の隙を与えず一撃で沈められるのか……そんな事を考えながら、白夜を振っていた。
簡単な自主練習を暫く続けていると、
「こんな時間から特訓とは精が出るのぅ、アミレス」
侍女服に身を包んだナトラが、果実水の入った水筒とタオルを差し入れてくれた。どうやら私がこんな朝っぱらから自主練習に勤しんでいるのを見て、気を利かせてくれたらしい。
ナトラにありがとうと告げてそれを受け取り、喉を潤し汗を拭く。
「そう言えば、ナトラはこんな朝早くから仕事? 駄目よ、ちゃんと勤務時間は守らなきゃ」
「むぅ……それ、シュヴァルツにも言われたのじゃ。『下手に業務時間外も働かれると後処理がめんどくせぇーの』とかなんとか言っておったわい」
「あー……分かるわ。残業代出さなきゃいけないし、社員の仕事量調整や体調管理の事も考えなきゃならないものね」
「人間とは面倒じゃな……そんな事まで考えなければならんとはのぅ」
「まぁ、そういう社会だからね」
それにしても、シュヴァルツって妙なところあるよね。何かたまに管理職の人間みたいな事言い出すし。凄い堂々としてるし、やっぱりどこかの国の貴族とか王子なのかなあ、あの子。
なんて物思いに耽っていると。ギザギザの歯を覗かせて、ナトラが小さな口でため息を吐いた。
「仕事の為に起きている訳ではないから安心せい。実はな、近頃……妙な胸騒ぎがするのじゃ。その影響か全く寝付けなくての」
「胸騒ぎ? 竜種の感じる胸騒ぎって、相当な事なんじゃ……」
もしかして魔物の行進の事だろうか。いやでも、魔物の行進は人類にとっての災害であって、魔族より遥かに強い竜種からすれば取るに足らない出来事だと思うのだが、どうなんだろうか。
「うむ……このような胸騒ぎ、ここ数百年は感じて来なかったからして、我にも分からんのじゃ」
ナトラは申し訳無さそうに言ってしょんぼりと項垂れる。
竜種だと言うのにとても小さく見えるその頭に手を置き、優しく撫でてあげて、
「ありがとう、教えてくれて。未知のものに対する恐怖は誰だって同じだもの、ナトラだって怖いのに、こうして不安を打ち明けてくれてありがとう」
私はナトラを元気づけようと言葉を掛けた。これにナトラはホッとしたように胸を撫で下ろし、少し俯いた。
「……我は、もし何が起きてもお前の味方じゃ。お前を決して死なせぬ。お前の事は、我が護ってやる。じゃから…………」
か細い声が聞こえてくる。
小さくて、されどとても力強い彼女の幼い指が、私の腕にぴたりと絡まる。やがて私の手は彼女自身によって、そのもっちりとした頬に持っていかれて。
「──これからもずっと、我と一緒にいてくれ。我はもう二度と、大事なものを失いたくないのじゃ」
私の手に、ナトラは頬を擦り寄せた。
そのあまりにも切なげな表情と、絞り出したような切実な声。ずっと平気なフリをしていたみたいだけれど、赤の竜と青の竜の件はやっぱりこの子にとってもかなり辛い出来事だったのだろう。
白の竜は今もこの大陸のどこかで封印されていて、黒の竜は行方不明──あの悪魔の話によると、魔界にいるそうだけど。
とにかくナトラが大事な家族を失い、離れ離れになっている事に変わりはない。ナトラは何千何万の時を生きる竜種だけれど、その蓋を開けてみればこの通り、見た目も中身もとても幼い子供のような子だ。
ずっと寂しくて、ずっと辛かったのだろう。
大事な家族の現況を見聞して、人類に憤りを覚えた事だろう。しかし彼女は……家族を破滅へ追いやった人間とは違うからと、私の事を信じて共に来てくれた。
人間社会なんて竜種のナトラには生きづらいだろうに、ナトラは文句一つ言わずに私といる事を選んでくれた。
そんな彼女に、私が出来る事はただ一つ。
「いいよ。死ぬまでは、ナトラとずっと一緒にいるね。仕事とかで傍を離れちゃうと思うけど……愛想尽かして私の事を見捨てたりしないでね?」
最短一年。最長でもあと九十年とかだろうか。悠久の時を生きる緑の竜にとってはとても短い時間しか、人間の私は生きられない。
そもそも、私は来年にはもう死んでいる可能性すらあるのだ。だから約束しよう。
死ぬまでの間、ただ一緒にいるだけの約束なら……きっと私にだって守る事が出来る。ナトラが人類に愛想を尽かさない限り、この契約は不履行にならない。
だから私は約束した。私が生きている間は、ナトラと一緒にいると。
「……うむ。良い答えじゃ。我、お前とずっと一緒にいたいから頑張るのじゃ!」
ナトラは満足気に、にんまりと笑った。
何を頑張るのかは分からないけれど、ナトラが楽しそうだからいっか。
もしかしたら対フリードルや対皇帝の戦いを代わりにやってくれるのかもしれない。だとしたら嬉しいなあ、私にはあの人達と正面切って戦う事すら出来なさそうだし。
ナトラは竜種だから戦闘面においては期待大! だしね。
その後、なんとナトラが自主練習に付き合ってくれたのだ。自主練習の相手が竜種なんて人、多分私以外には世界中捜してもいないと思う。
竜らしい固有の能力や権能なんかは使えないと言っていたが、そういったデバフを補って余りあるその膂力に翻弄された。
分かってはいたが、やはりその力強さは人智を超越している。単純な速さや力では師匠すらも軽く上回る真性の怪物。
本気を出されたら目で追う事なんてまず叶わないような俊敏さに、拳一つで大地を割れるような怪力。
見た目があまりにも可愛らしいから忘れてしまいがちだが──やはりナトラは……この世に五体しか産み落とされなかった魔族の祖、音に聞こえし純血の竜種なのだ。