313.薔薇の君へ、花車を3
バドール視点です。
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キミを初めて見た日。俺は、足が竦んで何も出来なかった。
たまたま通りがかった家から聞こえて来る、女の子の悲鳴。開きっぱなしだった扉から見える、大人に殴られながらも必死に抵抗する姿。
助けたかった。だけど、気弱で強くない俺には出来なかった。
あの時苦しむキミから目を逸らした事がずっと胸につっかえて、俺は自分で自分が嫌になっていた。
だから毎日その家の前を通っては、毎日毎日何も出来ずただ立ち尽くすだけの自分に失望していた。呆れていた。
こんな弱い自分が嫌で嫌で、怒りのままに壁に頭を叩きつけた事もあった。そうやって流れ出て来た血を見て、あの時の女の子の赤髪を思い出す。
助けたいだなんて綺麗事を言いつつ、弱い自分を変えようともしなかった。俺は、何も出来ない弱者のままだった。
俺はディオみたいに強くない。ラークみたいに賢くもなければ、シャルみたいに人の役に立てる力も無いし、エリニティのような真っ直ぐさも無い。
俺には本当に何も無かった。何も無く、何にもなれず、人の優しさと強さに寄生するだけの使い物にならない人間。それが、幼い頃の俺だった。
そんな俺が誰かを助けたいだなんて思った所で、どうせ何も出来やしない。……分かってるよ。そんなの俺が一番よく分かってる。
それでも、放っておけなかった。
あんなにも必死に抵抗する強さを持つ彼女の姿が、暴力や恐怖になど屈せず決して輝きを失わないあの瞳が、記憶に残っているのだ。
俺よりも小さい女の子があんなに頑張ってるのに、俺はただ立ち尽くすだけなのか? 本当にこのままでいいのか? そう何度も自分に問いかけ、やがて答えを出した。
『っ、そんなの……いいわけが、ないだろ!』
何も無い俺が今持てるもの。得られるものは、たった一つしかなかった。
──勇気。それが、その時の俺に得られる唯一のもの。気弱で馬鹿な俺でも手に入れられる、その時の俺にとっては最強の武器だった。
『あ……あー! むこうでお酒がやすく売ってるー!』
俺は、あの家の前でわざとらしく大声を出した。彼女の父親は昼間から酒を飲んでいるようで、ここ暫く毎日この家の前を通っていた俺は、酒の話をすれば家から父親がいなくなると思ったのだ。
これが、幼い俺には精一杯の作戦だった。
だが結果は大成功。彼女の父親は髭面を晒し、だらしない腹をボリボリと掻きながら外に出て来た。
物陰に隠れて待機し、酒を求めて彼女の父親がどこかへと歩いて行ったのを確認して、俺は家の中に入った。
傷だらけで蹲る彼女に駆け寄り、俺は声をかけた。
『今のうちに、ここから出よう! アテはあるから……!』
『……あんた、誰?』
『俺は、バドール。キミを助けに来たんだ』
『あたしを、助けに…………』
彼女は目を丸くしていた。
『歩きづらいなら俺に寄りかかって? とにかく急ごう。俺の友達なら、きっと、キミのことも助けてくれるから』
ディオならきっと助けてくれる。そんな確信があって、俺は無責任な事を言った。でも彼女はゆっくりと首を縦に振って、フラフラと立ち上がった。
彼女に肩を貸し、俺はなるべく急いでディオの家に向かった。
すると、突然傷だらけの女の子を連れて行ったからたいそう驚かれた。どこから連れて来たんだ、ってディオに追及されて、俺は咄嗟に『たまたま見かけた』と嘘をついてしまった。
その後、彼女──クラリスから色々と話を聞いて、俺達はディオ発案のもとクラリスの父親に仕返しをする事にした。
……結果は惨敗。なんなら、その事に怒ったクラリスの父親に追いかけ回される羽目になった。
でも、クラリスも皆も、勿論俺だってそれがどうしてかとても楽しくて…………間違いなく、あれはいい思い出になったと思う。
それからもクラリスは俺達と一緒に過ごすようになった。
皆との日々を積み重ね、思い出を織り重ねる度に、俺はあの時勇気を出して良かったと心から思うようになっていた。
俺はいつしか──……太陽みたいに眩く、だけどそれだけじゃない強さと暖かさを持つクラリスに、恋をしていたのだ。
誰にも渡したくない。俺だけのクラリスになって欲しい。
そう、思うようになって…………俺はある雨の日に、クラリスに告白した。精一杯勇気を出して、無我夢中に気持ちを伝えた。
クラリスはその髪と同じぐらい顔を真っ赤にして、小さく頷いてくれた。それが嬉しくて嬉しくて、その後はずっとクラリスの事を抱き締めていた。
それからもう七年とか経っただろうか。俺は、長い時間をクラリスと恋人として過ごしてきた。
基本的にはそれまでと変わりないのだが、たまのスキンシップやデートなど、確かに恋人らしくする事が出来ていた。ディオ達が妙に気を使って俺達の休みを合わせたり、二人きりにしてくれたり。
何だか気恥しいような、ありがたいような。
慎ましやかだけど確かに幸せな日々だったが、俺はいつしかそれだけでは物足りなくなった。
──クラリスと結婚して、本物の家族になりたい。温かい家庭を築き、あわよくば子供とか……。
クラリスの子供なら、きっと可愛いんだろうな。俺みたいな仏頂面に似ないといいけど。とか妄想しては、そんな余裕は無いか……と肩を落としてきた。
しかし、転機が訪れた。
王女殿下と出会い、俺達は運良く大出世。なんと帝国唯一の王女殿下の私兵として雇われる事になったのだ。
給料はそれまでの様々な雑用などと比べても雲泥の差。更に料理が好きな俺には、あのシャンパー商会系列の菓子店で働けるよう取り計らってくれて、俺は日々やりがいを感じながら働けるようになった。
それとほぼ同時に動き出した貧民街大改造計画も相まって、俺達を取り巻く環境は激変し、家族や貧民街の人達とその日暮らしをしていたのが嘘のように、俺達の生活は安定した。
給料も貯金し、その道のプロの指導を受け更に強くなり、俺は……いずれ指輪を買って、クラリスに求婚する事を決めた。
今の俺ならきっとクラリスを守る事が出来る。大好きな彼女を幸せに出来る。
そう、覚悟を決めて。何度か宝飾店に行っては指輪を吟味し、クラリスによく似合いそうな赤い宝石の指輪を選んでその値段に愕然とした。
めちゃくちゃ高かった。当たり前なんだが、本当に高い。貧民街出身で貧民街育ちの俺には一生縁がない値段。
後々子供が出来た時などを考えて貯金はしておきたいのだが、この値段ではペアリングとして買うとなると今まで貯めて来た給料でも足りない。
だがどうしてもこの指輪がいい。だから俺は、宝飾店に無理を言って指輪を保管しておいて貰い、いっぱい働いた。
やりがいのある仕事だったから苦ではなかったが、クラリスに何年も待たせている事が申し訳なくて……クラリスと二人で過ごせる時なんかはめいいっぱい彼女を甘やかした。
最近、なんかやけにクラリスと二人になれる事が多いな、嬉しいな。そう言えば皆がすごくもどかしそうな顔してたな、何でだろうか。
なんて考えながらも働き、ようやく目標金額を貯める事が出来たので、宝飾店に無理を言って迷惑をかけたと謝りつつ指輪を買った。しかし店員の女性は『頑張ってください!』と笑顔で応援してくれた。
そして来る決戦の日。俺は一張羅に着替えてクラリスと共に出かけた。クラリスもまた、去年の誕生日に贈ったお洒落な服を着てくれたのでいつもとちょっと違った雰囲気でのデートとなった。
ディオが色々とオススメの店とかを教えてくれたので、デート先には困らなかった。ユーキやラークが色々相談とかにも乗ってくれたので、デート中の会話や些細なエスコートにも困らなかった。
わざわざ決戦の時に雨の日を選んだのは、一つの傘に二人で入るからずっと傍に彼女を感じられるのと──……初めて、彼女に気持ちを伝えた日も雨の日だったから。
クラリスは、外に出られなくなるから雨が好きじゃないと、昔、言っていた。だからこそ雨が好きになれるように……嫌な記憶も掻き消すような思い出を。と思い、何かと雨の日に色々としてきたのだ。
「ふぅ…………」
緊張からはやる鼓動を、強くため息を吐き出して落ち着かせようとする。
普段ならまずいかないようなお高めのレストラン。別世界のような空間で人気のコース料理を食べて、食後には高級なワインを飲んだ。
だけど、俺は緊張のあまりほとんどの味が分からなかった。口の中には絶えず唾液が広がり、手汗がびっしょりとついている。
懐には、この日の為に買ったあの指輪。
食事も一通り終わり落ち着いた雰囲気になった。
──後は、俺が勇気を出すだけ。
ワイングラスを傾けては、「何がいつもと違うのか分からないわね…………」と訝しげに呟く彼女の姿にクスリと来て、少し緊張が解れた。
料理を食べ終わってからというものの……クラリスは少し視線を泳がせながら、『美味しかったけど、私はやっぱりバドールの料理の方が好きだな』と小声でこぼしていた。
それがどんなに嬉しかったか、キミはきっと気づいていないんだろうな。
「……クラリス。大事な話があるんだ」
「……え? 何よ、そんな急に改まって」
一世一代の覚悟。あの日よりも強く鼓動する心臓が、俺に勇気を出せと言ってくる。
浅く息を吸って、吐いて。
真剣にクラリスを見つめる。すると彼女は少し肩を跳ねさせて、真剣な顔でこちらを見るようになった。
「俺は、ディオのように強くもないし、ラークのように賢くもない。シャルのように誰かの役に立つ力もなければ、エリニティのように場を明るくする事も出来ない。弱くて、馬鹿で、頼りない男だ」
料理や菓子作りが好きな女々しい奴。そう、昔から何度も街の人達に言われてきた。
実際にそうだ。俺は見かけ倒しの女々しい男。気も弱く、気の強いクラリスやディオに引っ張ってもらってばかりの人間だった。
「──だけど、それでもキミを守りたいんだ。もう二度とキミが傷つく事のないように、俺が、これからもずっと傍でキミを守り、幸せにしたい。他の誰にも、その立場を譲りたくないんだ」
懐から指輪の箱を取り出す。何度も何度も頭の中で繰り返し想像した、この瞬間。
「どうか、俺だけのクラリスになってください」
蓋を開けて、指輪を見せつつそれを差し出す。
世界から音が失われたよう。一瞬が永遠に感じるような、そんな感覚に襲われた。
クラリスは目を丸くして、指輪に視線を落とす。
「……ねぇ、バドール。なんで私が、あの日バドールの告白を受けたと思う?」
え? 返事……じゃなくて、何の話だ?
「あんな一生懸命にさ、必死に私の事が好きだって伝えようとして…………あの時言ったでしょ、『嫌な記憶は全部、俺と一緒に塗り替えていこう。キミが幸せになるための手伝いをさせてくれ』って。私が雨苦手だからって、わざわざ大雨の日に言ったわよね、あんた」
そんな昔の事、覚えててくれたのか。しかも、意図的に雨の日にやってた事も気づかれてた。
「あと、『これからもずっと、俺にキミのごはんを作らせて』とも言ってたっけ」
「な、なんでそんなに覚えてるんだ……?」
「当たり前でしょ。本当に…………凄く、嬉しかったんだから」
昔のがむしゃらな告白を思い出す事になって、恥ずかしくなる。だがそれも吹っ飛ぶぐらい、俺はクラリスの表情に視線を奪われた。
とても、笑顔が綺麗だった。今まで見た事が無いような、初めて見る微笑みだった。
「あのね、バドール。あんたが思ってるより、私は昔からあんたの事が好きなんだから……そんな不安そうな顔しないでよ、このヘタレ。というか、ずっと待ってたんだから。あんたがプロポーズしてくれるの」
微笑みから、いつもの彼女の笑顔へと変わる。
そしてクラリスは指輪を受け取って、頬杖をついた。
「私の事、ちゃんと幸せにしなさいよ? まあそれよりも先に、私があんたの事幸せにしてやるけどね」
ニッと笑う彼女に、やっぱりクラリスはクラリスなのだと俺は安心した。
太陽のように眩しい、俺の憧れの女性。
俺の大好きな──……俺だけのクラリスだと。
「──ああ。必ず幸せにする。必ず、キミより早くキミの事を幸せにしてみせる」
涙を堪えながら、俺は宣言した。
無事に求婚が成功し、多幸感と達成感から体中から力が抜けていく中。思いもよらぬ異変が起きた。
「──ちょっ、バドール! 外見て!」
「外……?」
クラリスに促されるまま外を見ると先程までの雨が嘘のように、空には美しい夕焼けが広がっていた。そんな空に架かる、鮮やかな虹が美しかった。
あまりにも突然の事に、俺達はポカンとしていた。
だけど、いつしかクラリスの横顔に笑みが浮かんでいて。
「ねぇ、バドール。雨の日も、案外悪くないね。こうやって──……一生思い出に残るような経験を、あんたと出来たんだから」
「……ああ、そうだな」
クラリスの言葉と、何歳になろうとも変わらないあどけない笑顔。その二つを噛み締めながら、虹を爛々と目を輝かせて眺めるクラリスを、俺はずっと見つめていた。
ふと、グラスに残るワインを口に含む。
さっきまでは味が全然分からなかったのに、今は、今まで飲んで来たどの飲みものよりも美味しく感じる。