310.ある執事と白百合2
「ふふっ、あははははっ」
捕まらないよう気をつけながら走っていると、主君が無邪気な笑い声を上げた。その笑顔がとても楽しそうで、俺はつい、尋ねてしまった。
「どうされたのですか、主君?」
「なんだか楽しくって……こんな風に思いっきり遊んだ事って、これまで全然なかったなって思ったの。だってこれ、いわゆる鬼ごっこでしょう? 人生で一度くらいはやってみたかったんだぁ」
主君の語る心情は、自然と俺の中からこの言葉を引き出した。
「……主君は今、楽しいのですか?」
帝国の王女という身分もあって、しりとりと言い、鬼ごっこと言い……普通の子供がするような遊びとは無縁の人生を送って来たのであろうこの幼い女神様に。
ありふれた普通の事すらも特別なものと認識する、愛や欲を持たないこのお姫様に。
明日があるかも分からないような日々を生きる、非情な運命を背負わされたこの小さな女の子に。
俺は──、
「うん、とっても楽しいわ! 元凶の私がこんな事を言っては怒られてしまいそうだけど」
「成程……とても楽しいのですね」
ほんの少しでも……一秒でも長く、今を楽しんで欲しいと思った。
そうやって無邪気に、何も難しい事は考えずに、めいいっぱい楽しんでたくさん笑って欲しいと思った。
「──では、主君が満足されるまで逃げ切ってご覧に入れましょう」
貴女様が望む限り、俺はいつまでもこの足を止めません。どんな難敵が行く手を阻もうとも、必ずや乗り越え逃げ切ってみせます。
全ては──愛しの女神様の為に。
楽しいも、面白いも、感動も、思い出も、全て貴女様に捧げます。
「任せたわよ、ルティ!」
「仰せのままに」
報酬など要りません。貴女様からのその信頼だけで、俺は十分ですから。
主君の思い出に残るような、そんな一時の一助になれた事そのものが、俺にとって一番の報酬なんです。
──なんて綺麗事を吐かしても、結局俺は浅ましく欲深い下賎な人間に過ぎない。欲を出すべきは主君であり、従僕に過ぎない俺など寧ろ無欲でなければならないのに。
俺は、彼女の一挙手一投足に欲を刺激された。
主君が俺の顔の汗を拭い始めると、気分はさながら病気の時に看病されてるかのよう。
これだけならまだ良かった。まだ、耐えられた。
「頑張れ頑張れルティっ、負けるな負けるなルティっ、ふれー! ふれー! るーてぃーい!」
は? かわいい。
いやいやいや…………これは駄目でしょ。
可愛い。本当に、すごく、可愛い。主君が可愛すぎてつらい。
ちくしょう! 今俺の両手が空いていたならば、このたいへん可愛らしいお姿を絵画にして残すのに! 俺は何の為に諜報部で絵画分野について学んだんだ!! 実践出来なければ意味無いだろ!!
どうしてか元気が湧いてくる主君の応援に、思わず顔を逸らして理性を保つ。理性が失われた日には、俺は何を口走るか分かったもんじゃない。
だから顔を逸らしたっていうのに。
「頑張って、アルベルト」
「──っ!?」
何でわざわざ追い討ちをかけてくるんだ?! 念には念をと二度急所を刺すのは誰の教えなんですか主君! エンヴィー様ですか、もしくはシルフ様ですか、そうなんですか!?
何という英才教育……ッ、どんな人間であろうとたちまち虜にしてしまうような圧倒的魅力! やはりいい仕事をしてるなぁ精霊様は!
何とか気分を誤魔化そうとするも、そんなの無駄だとばかりに早く脈打つ鼓動が嘲笑ってくる。
そんなこんなで元気になってしまった俺は、この後も一時間近くこの逃走劇を続けた。その頃には追っ手の数も減り、主君の希望から時計台の展望台に登る事にした。
気分的には全然元気なのだが、体は流石に疲れていたようで。主君を降ろしてから、俺は柱にもたれかかり肩で息をしていた。
「アルベルト、大丈夫? お水とか必要なら出すよ?」
視界の端に主君のドレスが映る。
こんな情けない姿を晒し続ける訳には……! と頑張って顔を上げたところ、
「お気遣い、感謝致します。俺は大丈夫──で、す……っ!?」
予想以上に、主君のお顔が近くにあって驚いた。
思わず後退っては勢いよく後頭部を負傷する。これに主君は驚き、「だっ……本当に大丈夫?!」と俺の顔を覗き込んできた。
「大丈夫……です。ご心配には及びません」
必死に平静を装うも、やはり後頭部は痛い。そして心臓はずっとうるさい。
こんな失礼な態度を取ったにも関わらず、主君は氷嚢を作ってくださった。その優しさに心打たれつつ、俺は自分の心音に耳を傾けていた。
主君の事を考えれば考える程、大きくなっていく。
赤く染る夕陽を眺める主君の背を見つめては、名前の無い幸福な感情が、胸の奥から湧き上がるのを感じた。
その瞬間、とても繊細な色硝子を光が通ったかのような……瞬くような輝きがチカチカと視界に現れた。
トクン、トクン、と鼓動を刻むごとにその瞬きは広がってゆく。白と、灰と、黒と、赤しかなかった曇った世界が晴れ渡り、虹がかかっていく。
予想だにしない状況に困惑しながらフラフラと立ち上がり、夕陽に透ける主君の銀色の髪に息を呑んだ時。
「ねぇ、アルベルト。貴方も見て! 夕陽がとっても綺麗よ!」
今までで一番強く、心臓が脈打った。
俺の名前を呼びながらふわりと振り向いて、笑う。その瞳と目が合った時──……もうどんな色かも忘れていた色達が、突如として俺の世界に降り注いだ。
雨の後に虹がかかるのではなく、虹からその色が雨として降り注いでいるかのように、世界が虹色に染まっていく。
もう二度と見る事はないと思っていた色彩。
ずっと、ちゃんと見たいと思っていた、貴女様の色。
「────とても、綺麗だ」
夕陽を背に満面の笑みを浮かべている彼女の瞳は、話に聞いていた通り、夕焼けを覆い尽くすような深く美しい夜空の色だった。
その周りにて夕陽を受け輝く銀色の髪は、まさに月の光のよう。
遠い昔に弟と見た満点の星空のような……そんな目を奪われる笑顔に、無意識に感情がこぼれ落ちていた。
仕方無いと諦めていたけれど、本当はずっと見たかったそれを目の当たりにして、俺は涙を堪えられなかった。
見られないようにと後ろを向いて、涙を必死に拭う。それとは別に……もう一つ、後ろを向いた理由があった。
目頭だけでなく、顔が熱くなっていた。きっと俺の顔は、主君への想いで夕陽に負けず劣らず赤く染まっている事だろう。
それを証明するかのように、ずっと高鳴っているこの胸の鼓動。これはきっと──主君への、愛そのものだ。
俺は主君の事を愛している。心の奥底から、アミレス・ヘル・フォーロイト様を愛している。
この名前の無い幸福な感情は、きっと…………ううん。これには、まだ名前をつけないでおこう。簡単に名前をつけて定義づけてしまうには、あまりにも──……愛おしくて、大切だから。
でも、いつか叶うならば。
我が最愛の女神様に、この幸福な感情を捧げたいと、そう願ってしまう。