295.ある少女の変化
恐らく初となるミシェル視点です。
始まりは、いつだったかな。
六年前? ううん、もしかしたらもっと前だったかもしれない。ただ、あたしが確信を持って言えるのは、六年前のあの日。
──ある日、目が覚めたら……あたしは、見知らぬ場所にいた。
少しボロくて、薄暗い天井。固いベッドにごわごわの布団。
よく分からないけれど、あたしの声ではないと分かる幼く可愛い声。手足も小さく、あたしのものではない事だけは分かる。
『な──、なにが……おきて……』
呆然とした。あたしはあたしなのに、ふと気がつけばあたしじゃない誰かの記憶が、勝手に頭に侵入してくる。あたし自身の事は何一つとして分からないのに、あたしじゃない誰かの記憶ばかりが理解を求めてくる。
その記憶から、あたしは知ってしまった。気づいてしまった。
この体はあたしのものではなく、あたしもよく知る少女──ミシェル・ローゼラのものであると。
何がなんだか分からないけど、どうやらあたしは熱中していた乙女ゲームのヒロインになったらしい。
『……本当に、何が起きているのか全然分からないけど……でも、誰かが昔言ってた気がする。最近は乙女ゲー転生がトレンドだって!』
記憶に無い思い出。誰がいつどこであたしにそう言ったのかは分からないけれど、その言葉はあたしの不安をかき消すのに十分だった。
まあ、そういう事もあるんだろう。
かなり強引ではあるが、自分をそう納得させてあたしは思う。
この世界が『アンディザ』の世界で、あたしがヒロインのミシェルなら──……あたしが、たくさんの人達に愛されるって事?
それに気づいた時、あたしの胸はどうしようもないくらいに高鳴った。
嬉しくて嬉しくて仕方なかった。あたしでも、そんな夢みたいな気分を味わえるんだ! って。
あたしがずっとずぅっと欲しかったものが手に入る。そう実感した途端、堰を切ったように笑い声が溢れ出た。
『……はは、あはははははははははっ! 優しい神様はあたしの事を見ててくれたんだわ! あんなにも酷い生活だったから、今度こそ幸せにしてあげようって思ってくれたんだ! だって、だって今の私は──ミシェル・ローゼラだもの!!』
幸せになる事が約束された少女。誰にでも愛される可愛い可愛い女の子。
そんなミシェルになれたのは、きっとあたしを哀れんだ神様のお陰。
……あれ? あたし、前世でどんな生活をしてたんだっけ? たくさんたくさん愛されたくて、普通の人みたいに幸せになりたいって、思ってた……気が……。
でももういいや。だって今のあたしはミシェルだから! 何もしなくても皆に普通に愛されて、絶対に普通の幸せを手に入れられるんだもの!
前世の事なんてどうでもいい。自分の顔と名前すらも思い出せないんだもの、前世なんて忘れてあたしは幸せになるの。
『もう、我慢なんてしなくていい。あたしはあたしのしたいように──自由に生きるのよ!』
そうと決めてからは早かった。
ミシェルはまだ幼い。だけど確か、この子の両親は最初からいなかった筈。つまりあたしがまずやるべき事は、あたしを守ってくれる大人を見つける事だった。
幸いにも、大人の機嫌を取るのは得意だった。
どう振る舞い、どう話せば大人は喜ぶのか。大人から見てどんな子供が可愛く、ついつい甘やかしてしまうのか。
そういうのはよく知っている。だからあたしは、村の大人達に可愛がられる子供を演じた。
この村の人達は良い。だって、あたしを怒らないから。あたしが少し他の同年代の子供に悪口を言っても、大人達は『お前がミシェルに何か悪い事をしたからだ!』とあたしを庇ってくれる。
そうだ、これでいい。あたしの事を皆が愛し、尊重してくれるこの状況こそが最も望ましい。
そんなある日。村外れの家で──ミシェルの幼馴染、ロイを見かけた。
ボロボロの姿で家に入っていったロイの背中が気になって、妙な胸騒ぎを覚えながら聞き耳を立てていたら。
『まともな食料一つ盗んで来れねぇのかこのクソガキィッッ!!』
ガシャーンッ! と何かが割れる音と共に、ガラガラな叫び声が家の外まで聞こえて来た。
その直後には……人の体が叩かれ、殴られ、蹴られているような物音まで。
それらを聞いて、あたしは足がすくんでいた。
心の奥底から這い出てくる恐怖。疑いようのない、暴力に対する嫌悪。早くこんな所から離れたいのに、体はびくりともしない。
『誰がここまで育ててやったと思ってんだ! テメェを売った所で金になんねぇのによぉ!! 食いもん盗ってくるぐらいはしろよこのドブネズミ!!』
酷い罵倒だった。聞くに堪えない、醜いもの。こんなものを、あのロイが暴力と共に受けているの?
あたしには関係無いのに。ただ、通りがかっただけなのに。どうして、あたしは──……見て見ぬふりが出来ないの?
『ドブネズミはどっちなのよ!!』
扉を開けて、家に飛び込む。するとそこでは鼻血を出し顔中痣だらけなロイに、痩せぎすの不健康な顔の男が馬乗りになっていて。
あたしに気づいた男は、死んだ魚のような濁った目をギョロリとこちらに向け、
『あぁ……? ガキが首突っ込んでんじゃねェ!!』
床に落ちていた何かの破片を投げて来た。反射的にぎゅっと目を瞑ってやり過ごして、恐怖に震える手を握り締め一歩踏み出す。
『ガキはどっちよ! 気に食わない事があったからってすぐ子供に手を上げて、物にあたって! 泣いて感情表現するだけの赤ちゃんの方がよっぽどお利口じゃないの!! あなた達はいつもそう……子供をなんだと思ってるの? 子供は親の道具でもなければ玩具でも奴隷でもない! 子供だって一人の人間で、あなた達大人が守るべき存在なんじゃないの!?』
あたしは力いっぱい叫んだ。
どうしてか、頭で考えるよりも先に次々言葉が溢れ出てくる。まるで、ずっと昔から……こう思っていたかのように。
『あんたなんてドブネズミ以下よ! 生きる為に必死に足掻いて頑張ってるネズミよりも下の社会のゴミよ! あんたみたいな暴力毒親と比べたら、生きる為に頑張ってるロイの方がずっと偉くて凄いわ!!』
『さっきから、キンキンうるせぇんだよクソガキがァ! 舐めた口聞いてんじゃねぇ!!』
顔を真っ赤にして、肩をわなわなと震わせる男があたしに向かって拳を向けて来た。
怖い。殴られたくない。痛いのは嫌だ。罰もお仕置も教育も全部嫌だ。
だけど、今はそれよりも──!
『っ……水、出て!』
『ぶぐごばぁっ!?』
ミシェルは天の加護属性とは別に、水の魔力を持っている。そして天の加護属性の影響で魔力量が多いって、確かミカリアが言ってた。
だからきっと、たくさん水が出せると思ったんだけど……あたしの想像以上の勢いで、たくさんの水が出た。
目と鼻と口、その全てから大量の水が入ったらしい男は、その場でゴホゴホと苦しそうに咳をしながら四つん這いになる。
この隙に、ロイを連れて逃げないと!
『ロイっ、逃げよう!』
『……にげ、る?』
『いいから早く! あの男が悶えてる間に!!』
ボロボロでフラフラのロイに肩を貸し、あたしは一目散にあの男から逃げ出した。
勿論、逆上した男が追いかけて来たのだが、村まで来たらあたしの勝ちだ。
『──おじさんっ、怖いおじさんに追いかけられてるの、助けて!』
あたしによくしてくれる村の大人に泣きつくと、ボロボロになったロイの姿とあたしの切迫した表情を見て、大人達は血相を変えた。
『任せな、ミシェル。俺達があの馬鹿を懲らしめてくるからよ』
『おーいヤスさん所の女房! 子供が大怪我してっから手当してやってくれ!』
『あの野郎、やっぱり子供を……っ』
大人達がついに行動に出た。それによって、ロイの父親らしき男は取り押さえられ、ロイはあたしの家にやってくる事になった。
山の麓に捨てられていたミシェルを偶然通りかかった老夫婦が拾って育ててくれていたので、元々あたしも居候の身だ。だから今更子供が一人増えようが、おじいちゃん達は問題無いと言ってくれた。
それから、ロイと一緒に過ごすようになって……ロイは無事、ゲーム通りの幼馴染となったのだ。