255.ある王子の躁鬱
突然ですが、マクベスタのターンです。
──オレは、上手く笑えていただろうか。
──いつも通り、彼女の知る『マクベスタ』でいられただろうか。
そんな不安と恐怖とが毎晩荒波のように押し寄せる。
何があっても彼女にだけは心配をかけたくない。彼女の笑顔をこれ以上曇らせる訳にもいかない。だから全てを隠し通さなければならない。
「死んでしまえたら楽なんだが……死ぬ訳にはいかない。オレは、一生涯を懸けて償うと決めたから……」
フォーロイト帝国が王城の一室。かれこれもう三年近くオレはここに滞在していた。
初めはオセロマイトからの使節として。今は、アミレスへの償いの為。
ケイリオル卿に無理を言って、フォーロイト帝国とオセロマイト王国の良好な関係の為にとオレは長期間の滞在を許可して貰った。
その部屋の中、大きな寝台の上で横向きに寝転がりながら、首を絞めるように両手を首に当てていたのだが……跡が残っても面倒だ。だからこの時点でそれをやめた。
力の入らない瞳でぼーっと机の上に置かれた香水を眺め、生気の無いため息ばかりを吐く。
焦点の定まらない目が捉えるのは彼女から貰った物か、彼女を示すような青や銀色のものばかり。
それらを見ては、際限の無い悔恨に襲われる。もう、何もしたくなくなる。多分これは病なのだろう。でも、もはやこれを治す手立てなど無いと思うし、治したいとも思わない。
だってこれは当然の帰結だったから。愚かなオレに与えられた当然の罰だから……。
別に、多くは望んでいなかった。
彼女の傍にいられたらよかった。彼女の為にこの命を使えたらそれでよかった。
親友になりたいとか、もっと近づきたいとか、そんな欲を出した事が間違いだったんだ。
オレの過ちへの罰とばかりに……ある日の夜、オレは悪夢を見た。初めてそれ見たのは、アミレスがケイリオル卿と別れた直後に突然倒れたという日の夜。
それは──……アミレスが死ぬ夢だった。
事故死のようだった。高い所から落ちたようで、アミレスは頭から血を流し四肢をあらぬ方向に曲げて息絶えていた。
酷く鮮明で、おぞましい夢。どくどくと流れ出る生温かい血で水溜まりを作る、今よりもずっと大人になった彼女が……涙を流し、光を失った冷たい瞳でこちらを真っ直ぐと見つめていた。
それと目が合った瞬間。オレは、はち切れんばかりの心臓の痛みと全身を襲った恐怖に頭が真っ白になった。だけどそれから目を逸らす事は出来ず、やがて発狂寸前でその悪夢は幕を閉じた。
夢とは思えない夢。悪夢に魘されて目が覚めた後も、オレの脳裏からあの虚ろな瞳が消える事はなかった。それでも彼女に迷惑をかけたくなくて、必死に気丈に振舞って。
そんなオレを嘲笑うように、毎晩、悪夢はオレの精神を冒した。
ある日は罪人のように断頭台で首を落とされた。
ある日は黒衣の男に暗殺され静かに息を失った。
ある日は全身を惨たらしくバラバラに刻まれた。
ある日は何者かに心臓を刺されて一撃で死んだ。
ある日は磔にされて誰かの報復の餌食となった。
ある日は一切抵抗せずに静かに首を落とされた。
ある日は毒に蝕まれて苦しみもがいて息絶えた。
ある日は燃え盛る炎の中涙を流しながら死んだ。
ある日は戦場で敵の攻撃を頭に受けて即死した。
ある日は深い水の中で溺れて空気を失い死んだ。
ある日は魔物に襲われ見るも無惨な骸となった。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も。気が狂いそうな程、毎晩悪夢はオレを襲った。
その悪夢ではいつも、彼女が死んでいた。そして毎度死体となった彼女の冷たい瞳と目が合い、日に日に鮮明さを増してオレの記憶に刻まれてゆく。
これ以上悪夢を見たくない。そんな恐怖からいつしか眠る事をも恐れるようになり、睡眠時間はどんどん減る一方。だがアミレスに心配や迷惑はかけられないと、化粧と演技の技術ばかりが上達する日々。
毎朝縋るような思いで彼女の元を訪れて、悪夢とかけ離れた元気な姿を見ては心から安堵する。そんな毎日の繰り返しだった。
……いつからだろうか。全てが嫌になる時が増えた気がする。
毎日悪夢ばかりでろくに眠れず、ただただ彼女への想いを強く酷くするばかりの日々で、オレはいつしか生きる事に疲れていると感じるようになった。
もう何も出来ない。何もしたくない。こんな風に苦しみたくない。最愛の女性が死ぬ悪夢を何度も見るぐらいなら……いっその事、死んでしまいたい。
そう思って愛剣を心臓に突き立てようとした事もあった。
だけど、もしここでオレが死んでアミレスに迷惑をかけてしまったら? オレが死ぬ事でアミレスがなんらかの迷惑や不利益を被る事になったら……死んでも死にきれない。
それに……、
『マクベスタは最強の剣士になる。私が保証するわ!』
あんなにも、彼女がオレに期待してくれているから。オレの未来を信じてくれているから。
だからオレは死ねない。彼女の期待を、その信頼を裏切れない。どれだけ生きる事が辛くとも、嫌になろうとも……彼女を裏切るような真似だけは出来ない。
だからもう、とにかくこんな精神状態である事がバレないようにと気をつけて過ごしていた。まぁ、シュヴァルツとかにはバレてたみたいだが。勘が鋭いんだよなあ、シュヴァルツは。
本当は何もしたくないし何も出来ないけど、それじゃあ彼女に心配をかける事になる。だから無理をしてでも平静を装い、気を晴らす為にいっそう師匠との特訓にのめり込んだ。
いつしかアミレスの血や怪我をした姿を見る事がトラウマになっていて、特訓の時なんかに怪我をした彼女を見て、一度過呼吸になった事もあった。
その時は少し疲れたと何とか誤魔化したが、そんな言い訳そう何度も通用しない。
更に、オレは彼女に剣を向ける事が出来なくなった。
模擬戦だろうが特訓だろうが、彼女に刃を向けるなんて事、オレには出来ない。そんな事をした日には錯乱してしまう。勢いのまま自傷してしまうかもしれない。
だからオレは必死に、あくまでも自然にアミレスとの模擬戦を避けるようになった。それどころか彼女と共に特訓を受ける事も避けるようになった。
特訓を避ける事自体は案外簡単な事だった。イリオーデやルティに譲れば、彼等が喜んでアミレスの相手をするし……アミレスだって彼等との戦いを楽しんでいるようだった。
それらの努力が実を結んだのか、アミレスはオレの事を特に怪しんではいないようだ。
どうやらオレの演技力はかなりのものらしいのだ。
シュヴァルツとケイリオル卿以外にはオレの精神状態がまともではない事も気づかれていないようだった。寧ろ何故この二人にはバレてしまったのか、そちらの方が気になるのだが……。
ある日ケイリオル卿から尋ねられた。『最近、寝られていますか?』と。男だてらに化粧で顔色を偽り、いつの間にか習得していた演技力で周りを欺いていた。
それなのにケイリオル卿には睡眠不足である事を見破られ、問われるまでに至ったのだ。
『眠りたくないんです。寝たら、死ぬ事よりもずっと怖い悪夢を見るので』
『……悪夢、ですか。それは決まって見るものなのですか?』
『今の所は。初めて見た日から一ヶ月、毎晩悪夢に魘されてからはもう眠る事が怖くなってしまって』
『精神の方もかなり参っているようですが……本当に大丈夫ですか?』
『はい。もう、慣れました。何回か自殺を試みましたけど、こんな所で死ぬ訳にもいかないので。大丈夫ですよ』
オレらしい笑みを貼り付けて、ケイリオル卿からの問に答える。
ケイリオル卿は暫く黙り込んだのち、『……少し、ここで待っていて下さい』と残してどこかへ行ってしまった。
正直なところ、言われた通りにするのも億劫だったが、ケイリオル卿には普段から世話になっているし……と窓枠にもたれ掛かり、何も考えずただぼーっとして待つ。
『お待たせしました。どうぞ、これを使いなさい』
『これ、は……』
オレは目を丸くした。十分程経って、小走りで戻って来たケイリオル卿が抱えていた箱の中には大量の瓶が入っていたのだ。
『万能薬を半分程に薄めたもの……いわゆる下位万能薬というものです。どうしても眠れないと言うのであれば、せめてそれで身体的疲労を解消して下さい。足りなくなればまた僕に言っていただければ、お渡しします』
耳を疑った。どうして、この人がそんなものをオレに?
『…………貴方は、王女殿下が心を許せる数少ない御友人ですから。僕としても貴方には死んで欲しくないのです』
『そう、ですか。ありがとうございます……』
オレの心の声に答えるかのように、ケイリオル卿が口を開く。
ケイリオル卿はエリドル皇帝陛下の側近でありながら、心からアミレスを気にかけている。それも、あまり空気の読めないオレでも分かる程。
それからというものの、睡眠不足ではあるが身体的疲労は感じられない。ケイリオル卿の配慮のお陰でオレは倒れる事もなく、アミレスに下手な心配や迷惑をかける事もなく日々を過ごす事が出来た。
そうやって、とにかくアミレスの事ばかりを考えて生きていた。
こうなった理由の一つもアミレスだし、今オレの命を繋ぐのもアミレスだ。何も考えたくないと思う反面、四六時中アミレスの事を考えていないと生きていられない自分が情けなかった。
こんなにも苦しみながら、オレはまた彼女への想いを強くする。
彼女の笑顔を見る度に、堕ちるところまで堕ちたオレの心は彼女への欲望を更に増幅させて暴走しようとする。
──いっその事全てを失って死ねばいい。そう、言わんばかりに。
だがそれは出来ず、虚しさと無気力に襲われながらいつも己の欲を処理していた。あくまでも彼女には一切知られぬように。オレが守るべき一線だけは越えないように。
それを暫く続けると、ある時ふと心が軽く感じる日があった。その日だけはいつもの陰鬱とした気持ちが嘘のように心が明るくなり、頭もいつもよりスッキリとしていた。
ようやく病が治ったのかと思われたが……そんな事はなかった。あれは結局一時的なもので、その次の日にはもういつも通り。
眠れず、心も安らぐ事はなく、ただ彼女が笑って生きてくれている事を確認しては安心するだけ。
それだけで良い。それだけで満足していれば良かったのに。
アミレスがイリオーデとルティと共に公務で旅立ってから、一週間。オレは、彼女の安否を確認出来ず強いストレスを感じていた。
もしもあの悪夢のような事が起きたら。もしも、彼女が死んでしまったら。そんな最悪な妄想ばかりがオレの頭を埋めつくしては気を狂わせようとする。
それともう一つ……オレは、酷く嫉妬していた。焦燥に駆られていた。
彼女に頼られ、その傍にいられるイリオーデやルティが羨ましく妬ましかった。
何度、男となんて。と訴えてもアミレスは何も気づいていないかのように大丈夫と繰り返して……そんなにも無防備だから、オレみたいな男がつけ上がるんだよ。もしもあの二人に襲われでもしたらどうするんだ。
……って、そう言えたら良かったのに。オレは、万が一の『彼女に嫌われる可能性』を恐れてそれを口に出来なかった。
彼女に嫌われたりなんかした日には衝動的に自殺する自信しかない。だってそうだろう、彼女に嫌われ、必要とされないオレに存在価値などないのだから。
それを恐れ何も出来ないオレを嘲笑うかのように、彼女を取り巻く環境は日々変わってゆく。
オレの方が早く彼女と出会ったのに。彼女の初めての人間の友達になって、これまで誰よりも長く一緒に切磋琢磨して来たのに。
なのにどうして、オレよりも後に出会った人達ばかりが彼女と親しくなり頼られるのか。
オレじゃ駄目なのか? どうしてオレじゃあいけないんだ?
オレの立場が悪いのか? オレの出自が悪いのか? それともオレが男だから? オレが歳上だから? オレが弱いから?
彼女が知らないうちに何かを成す度に、オレの中ではそんな醜穢な嫉妬が渦巻いた。
特に──、オレの知らないアミレスを沢山知っているカイルへのそれは凄まじかった。
オレと同い年で、性別だって立場だって一緒だ。
なのにあいつは……最初からアミレスと仲が良くて、アミレスに何度も何度も頼りにされて、何をするにもまずはあいつに相談するぐらい、彼女に信頼されていた。
過ごした時間の厚みなんて関係無いと言わんばかりに、カイルはあっという間にオレ達を越えて行った。
オレ達には越えられなかったアミレスの心の壁を、あいつだけは軽々と越えて行った。それが酷く憎らしくて……痛く羨ましかった。




