閑話 ある少女は夢を観た3
あたしだって普通に愛されたい。普通の人みたいに幸せになりたい。
だから自由にならなきゃ。お母さんの事も、自由にしてあげなくちゃ。
『……ま、やれる限りの事はやってやるよ』
お兄さんはあたしの頭を優しく撫でて来た。
その日からというものの、あたしはお兄さんとよく連絡を取り合って独り立ちする準備を進めていた。お兄さんの連絡先を教えて貰い、お兄さんがあの人っぽい喋り方をしてあたしがそれに応答するイメージトレーニングなんかもした。
あと、お兄さんがアンディザの三作目にあたるゲームも貸してくれたので、それも楽しみながらプレイした。
どんな時間帯でも、感想を伝える為の急な電話やメッセージならお兄さんは許してくれたし、寧ろ喜んで対応してくれたので……下心丸出しで恥ずかしいが、そういう意味合いでも三作目を楽しんだ。
あと何やら一作目もあるらしいのだがお兄さん曰く、『一作目にはミカリアもフリードルもいないようなもんだからなぁ……やりたいなら勿論貸すけど』との事なので、とりあえず三作目が終わったら借りる事にした。
そうやってお兄さんとたくさん関わるようになってから二ヶ月が経った頃。大学で同じ講義を取っている子達に話しかけられた。
『■■さん、最近雰囲気変わったよね。前はちょっと近寄りがたかったから、今の方が全然いいよ!』
驚いた。そんな風に周りからも目に見えて変わっていたなんて。
でも同時に嬉しかった。あたしもちゃんと変われているのだと分かって。お兄さんとの日々は無駄では無かったのだと。
その事が嬉しくて、お兄さんに直接報告したくて。
ルンルン気分でいつものカフェに向かっていると、カフェの近くの道で誰かと話すお兄さんを見つけた。あたしが近づくとお兄さんはげっ、と言いたげな顔になってしまって。
『……アンタ、何で今来るんだよ…………』
『あー! この子だよな、るーちゃんが構ってるっていう女子大生! このイケメンめっ、女嫌いの癖にちゃっかり美人女子大生と仲良くしちゃって〜〜!!』
『アンタマジでうるせぇな。あとるーちゃんって呼ぶな』
『■■だから、るーちゃん。めっちゃ可愛いあだ名じゃん? つか一応オレが先輩なんだから敬語使え?』
『はぁ……マジでめんどくせぇ……』
お兄さんの顔が未だかつて無い程に歪む。お兄さんの後ろからハイテンションで出て来たのはこれまた顔の整った男性。随分と、お兄さんと親しいみたいだけど……。
『はじめまして。オレはるーちゃんの職場の先輩で■■って言います。いつもるーちゃんの相手してくれてありがと、面倒臭いでしょ、るーちゃん』
『だからるーちゃんって呼ぶな』
『るーちゃん……』
『アンタまで乗らなくていいからな?!』
お兄さんのこんな姿を見るのは初めてだ。凄くて優しくてかっこいい人ってイメージだったけど、今は可愛がられている末っ子……のような感じに見える。
『とにかく先輩はさっさと帰れ! アンタこの後会議だろ、早く戻れよ!!』
『えぇー、もうちょっと生の女子大生を堪能したいー』
『マジでいい加減にしろよこの変態!』
『あっはははは! それじゃあね女子大生! るーちゃんをヨロシク〜〜☆』
嵐が過ぎ去ったようだった。
ハイテンションな男性は、お兄さんに足蹴にされながら退散してゆく。その背に向かって『だからるーちゃんって呼ぶな!』と叫ぶお兄さん。
……るーちゃんってあだ名、確かに可愛いな。
『るーちゃん……』
ボソリと呟いてみると、
『だから呼ぶなって言ってんだろうが。聞いてなかったのかー? あぁん?』
『しゅ、しゅみましぇん…………』
くるりと振り向いたお兄さんに頬をぎゅっと摘まれた。
恥ずかしい。そして顔が近い! お兄さんの国宝フェイスが近い!!
『ったく……女もだが女みてぇな自分の名前も嫌いなんだよ、俺は。アンタはこれからも変わらずお兄さんと呼べ。これが一番無難だ』
『苗字でも駄目なんですか?』
『苗字も嫌いなんだよ。可能ならさっさと切り捨てたい縁だからな、こんなの』
そう語ったお兄さんの顔は凄く険しくて、何だかこれ以上触れてはいけない話題のように思えて。あたしは思わずしり込みしてしまった。
ちょっと気まずい空気の中、カフェに向かう道をお兄さんと並んで歩く。あんな事があったのに、お兄さんはあたしに歩幅を合わせて歩いてくれていた。
その気遣いにまた胸がときめき、単純なあたしはまたお兄さんを好きになってしまう。ずっとこの時が続けばいいのに。
そんな、乙女ゲームの台詞みたいな気持ちになっていた、その時だった。
まさに夢心地であったあたしの気分は、一気に地に落とされた。
『──■■■? あなた、こんな所で何してるの?』
カフェの目の前に、ここにいる筈のない人がいた。
悪夢であって欲しい。そう心から願ってしまう程に、あたしの心があの人への恐怖を呼び覚ます。これまでの二十年近くの記憶が、痛みが、一気に思い出される。
呼吸は荒くなり、顎は震え、歯はガチガチと音を鳴らす。あの人を……実の母親を直視する事が、あたしには出来なかった。
『誰、その男? あなたまさか、私に嘘ついてたのね?! どうりでおかしいと思ったのよ。やけに同じカフェに行く事が多いって……この親不孝者! せっかく清く正しく育ててあげてるのに、こんなどこの誰かも分からない男に尻尾振って! 何も出来ない子供の分際で一丁前に色気づくんじゃないわよ!!』
カツカツカツと、怒りを叫びながらお母さんが詰め寄ってくる。直視出来ていなくても分かる。この後、お母さんは大きく手を振りあげてあたしを叩く。
だって、いつもそうだったから。
『ッ! 何するのよ!!』
『そりゃ目の前で虐待が行われてたら止めるでしょう』
『人の娘誑かして唆した犯罪者が何を偉そうに……っ、そもそもこれは虐待なんかではなく、教育よ! 人の家の教育方針に口出すなんて、どれだけ非常識な人なの?!』
……叩かれない? 不思議に思ったあたしは、ぎゅっと瞑った目を開けてお母さんの方を見上げた。
するとそこでは、お兄さんがお母さんの腕を掴んで止めているような状況になっていた。
『はいはい非常識で結構。生憎とまともな家庭出身とは言い難い人生送って来たので、常識とか分からないんだよな。そんな非常識な俺から言わせて貰いますけど。アンタ、子育てマジで向いてねぇよ』
『なっ……!!』
お母さんの顔が怒りで真っ赤になる。
『余所者に何が分かるってい言うのよ! ほら■■■!! お母さんと来なさい! こんな男と一緒にいた事も、嘘をついて私を騙していた事も後で全てきっちりお仕置してあげるわ』
『……っ!?』
お母さんに強く手首を掴まれて、腕に痛みが走る。
何度も何度もお兄さんとイメージトレーニングをした筈なのに。あたしは声も出ず、一歩も動けなかった。
お兄さんの制止の声も無視して、お母さんは一歩も動けないあたしを引き摺って歩き出す。
お兄さんの言う通り、あたしはお母さんに洗脳されていたんだ。いざと言う時に逆らえなくなるような、そんな根深い洗脳を。
……せっかく、お兄さんがあたしなんかの為にたくさん協力してくれたのに。
あたしは……結局、お母さんから逃げられないの?
『──おい、■■■! 自由になるんじゃなかったのか!』
初めてだった。初めて、お兄さんがあたしの名前を呼んでくれた。イメージトレーニングの時でさえ呼んでくれなかった、あたしの名前。
その声にあたしの意識は再び活力を取り戻した。ここまで付き合ってくれたお兄さんの為にも、ちゃんとやらないと。
奥歯をかみ締めて、必死に腕に力を集める。
『あたし、は……っ!』
『■■■? あなた、まさか私に逆らおうとしてるの!?』
『──自由に、なりたいのっっ!!』
その一度だけのチャンスに全てを賭けた。勢いよく振り払われたお母さんの手。
あたし……やったんだ。お母さんから逃げられるんだ。
そんな喜びから、自然と頬は緩む。しかし、勢いよくお母さんの手を振り払った反動か、あたしは体のバランスを崩して数歩後退り、倒れそうになる。
『■■■!?』
『ッおい!』
やったよ、お兄さん。あたし、ちゃんと出来たよ!
あたしの方に向かって必死な顔で走ってくるお兄さん。辺りに響く、 聞き慣れないクラクションのような音。
どうしたんだろう。そう、思った時には。
──あたしの意識は、そこで潰えた。
♢♢
それはまるで、彼女の中に間借りしている少女の思い出のようなものだった。
醜く、憐憫を覚えるような悲惨な思い出。だけどその最期は……それまでの人生と比べたら随分と短い最期の年だけは。
その少女にとって、間違いなく人生で最も輝かしく色鮮やかな思い出となっていたのだ。
「──そっか。あなたの渇愛は、こういう事だったのね」
何も無い暗い淀みのような空間で。
美しい金髪に、青空のような碧眼を持つ美しい少女は呟いた。
(今までずっと、漠然としたあの子の感情ぐらいしか感じられなかったのに……どうして急に、記憶を観る事が出来たのかしら)
突然の出来事だった。いつも通り、意識の表層にいる少女に身を任せ、彼女は意識の深層で眠っていた。
しかし突如として、滝のような少女のかつての記憶が、まるで白昼夢のように深層に降り注ぐ。これまでずっと世界そのものの意思で堰き止められていたダムが、ほんの少しの間だけ放水されたかのような。
それに彼女は戸惑いつつも、少女でさえも忘れてしまった前世の記憶を、彼女は少しずつ観てゆく事にした。
そして知ったのだ。あの我儘で自由気ままな少女の、渇愛の原因たるものを。
(渇愛は、あの母親。あの子の気性は──……きっと、思い出のお兄さんの言う通りにしたからなんだわ)
我儘に自由に生きろ。そう、少女の思い出の中の男は言っていた。
少女自身は、この世界に関する記憶と漠然とした『親』と『罰』に対する恐怖だけを覚えて彼女に混ざり込んだ。
それ以外の事──、自分自身の顔や名前、親しかった人や様々な人にまつわる記憶などは全て忘れていた。だけど少女自身には、転生してもなお……記憶を失ってもなお消せないような強い思いがあった。
我儘に、自由に生きたい。誰かに愛されたい。痛くない普通の愛が欲しい。
その夢が彼女と共鳴して、彼女に受け入れられるに至ったのだろう。
(……いいよ。もう少し、あなたの気が済むまで私の体を貸してあげる。だからどうか…………今度こそ、あなたの望みを叶えて)
そして、と彼女は言紡ぐ。
「あなたの役目を思い出して、皆を守ってね──……私」
心優しき神々の愛し子は、己に与えられた役割を理解し、もう一人の自分に託した。
その表情は……慈しみと心残りに染まっていた。
次話から本編再開予定です。