230.ある側近の悪夢
『ケイリオル。あの女が任務に失敗した場合、即座にその場で殺せ』
──記憶に無い言葉。身に覚えの無い状況。
しかし皇帝陛下はいつもと変わらぬ冷酷な面持ちで、つまらなさそうに言葉を吐いていた。
『……宜しいのですか? まだ、彼女には利用価値があると思いますが』
勝手に口が動く。まるでそう定められているかのように、私の口は言葉を紡いでいた。
『その利用価値とやらを期待してやったが故の任務だ。それに失敗したのなら、あの女に存在価値など最早皆無であろう。せめて戦争の理由にでもして処分せねば、割に合わぬというものだ』
『…………仰せのままに。しかし、もし万が一彼女が任務に成功した場合はどうされるのですか』
『無論、処刑する。敵国の要人を殺した反逆者とでも言えばよかろう。貴重な加護属性所持者を殺されたとあっては、さしもの腰抜け共も復讐だの大義だの掲げて戦争を仕掛けてくるだろうからな。見事戦争の口実となった不要物はさっさと処分するに限る』
『……左様、ですか』
この御方は──彼は、死に場所を求めていた。あの人との約束に縛られて自ら命を断つ事が出来ず、その代わりとばかりに己を殺せる者が現れる事をずっと、ずっと、待っていた。
何事もやるからには最善を尽くさないといけない。それがあの人との約束だから。
この国を少しでも平和で穏やかな国へと発展させなければならない。それがあの人へと誓った事だから。
だから皇帝陛下は、生きている限り王として最善を尽くす。だがその本心では死にたがっている。私を置いて、あの人の元へと逝きたがっている。
その為に、皇帝陛下は他国と戦争を起こそうとしていた。もしかしたら……戦場ならば、最善を尽くそうとも戦況を覆されて死ねるかもしれないから。
──しかし、彼女を戦争の理由にするとは。任務を成功させようが、失敗しようが、どちらにせよ彼女は死ぬ。ああ、なんと報われない人生なのか……そう思わなかったのかと問われれば、勿論思った。
しかしこの時の私はその僅かな感情すらも感じ取れなかった。
十五年前のあの日、かけがえのないものを失い記憶も感情も全て凍結させたから。
あの人との約束も、彼女の願いも、全て見て見ぬふりをしてきた。その罰が下ったのだろうか……私は、久方振りに酷く心をかき乱される事になったのです。
『ぅぐ、ご……ごめんなさい……っ! 私が、ひぐっ、無能な、できっ……そこない、だから……!!』
目を腫らして涙を流し、謝罪の言葉と共に嗚咽を漏らす。彼女は皇帝陛下より賜った勅命に失敗した。加護属性を持つ少女を暗殺出来なかった。
つまりは──任務失敗。私は、彼女を殺さなくてはならなくなった。
『何故、私に助力を頼むなどなさらなかったのですか? さすれば、もう少し成功の可能性が高まったでしょうに』
失敗したとして、タダでは済まない事ぐらい箱入り娘な彼女にだって分かる筈です。それなのに彼女は周りを頼ろうと……利用しようとしなかった。
別に、皇帝陛下から私は手を出さないように。といった命令は出てませんし、助力を乞われたら一考の余地はありましたのに。
何故貴女は、自分一人で成し遂げようとしたのですか?
『だ、って……わたしが、やらなくては……おとうさまは、わたし、を……みとめて、くださらない…………っ』
──ああ、そうでしたね。貴女はずっとそうだった。皇帝陛下に認められたい一心で。皇太子殿下に認められたい一心で。
家族からの愛を求めて、貴女はずっと生きていましたね。貴女は何も悪くないのに、この最低最悪な世の中の所為で貴女は不幸となった。
……もしも。私が、皇帝陛下の代わりに彼女を愛していたら。何か結末は変わっていたのだろうか。だがそんなものはたらればの話に過ぎず、この現実から目を逸らしたいが故の卑怯な妄想だと分かっている。
ここに来て、私は。彼女を殺さなくてはならない事に強い抵抗を覚えていた。何も覚えていない、何も感じない筈なのに……彼女を殺してはならないと心の奥底が叫んでいる。
早く、早く彼女を殺さないと。皇帝陛下の命令に逆らうなどあってはならない。だがこのままだと、私は──、
『ごべん、なざ……っ、おと、さま…………!』
彼女を殺せなくなる。
……泣かないで。彼の言葉に、彼の決定に、彼の存在に悲しまないで。貴女にその顔で泣かれてしまっては、殺せるものも殺せなくなる。
皇帝陛下がこれまで貴女を殺せなかったのは、その顔を二度も死なせる事を無意識に恐れていたから。その気持ちが今ならよく分かる。
どれだけ感情を押し殺していても、こんなにも抵抗があるものなんて。これまで多くの人間から命を奪い己の心すらも殺して来たというのに……そのどれよりも、今が一番、殺人を躊躇っている。
『……王女殿下。貴女は皇帝陛下を愛していますか?』
早く、早く剣を構えなければ。あの御方を……彼を裏切ってはいけない。私だけは、彼を裏切ってはいけないから。だから絶対に、今ここで彼女を殺さなければならないのです。
本当は殺したくない。だがそんな泣き言は許されない。私が今ここで彼女を殺す──これは決定事項だから。
『は、い。わたしは……おとうさまを、あいしています』
涙を拭い、彼女は断言した。
『そうですか。でも、皇帝陛下は貴女を愛してませんよ』
『……知ってます。だからわたしは、おとうさまの役に立てるって、証明したくて…………』
(──愛されたかった。お父様に、兄様に愛して欲しかった。ただ、それだけの事が……どうしてこんなにも難しいの?)
目に映るは彼女の弱々しい姿。眼に映るは彼女の渇愛。
こんなものを視てしまって、誰が彼女を殺せようか。
『いや違う……私は、殺さなければならないんだ……』
己に言い聞かせるように呟く。感情を殺せ、凍てつかせるのだ。
それを何度も何度も繰り返し、私は私を演じる。無情の皇帝の側近になるにあたり作り上げた理想像を演じるのだ。
『……──さようなら、王女殿下』
短い深呼吸の後、私は剣を抜く。
せめてもの償いです。苦しまぬよう、一撃で終わらせて差し上げましょう。
『な……っ、どうして、ですか……? まだ、まだわたし、は……!』
(お父様にも、兄様にも……誰にも愛されていないのに!)
心臓を一突きすると、王女殿下は困惑したように唇を震わせました。きちんとケイリオルらしく、少しでも王女殿下の心残りが無くなるよう務めましょう。
全ての事実を伝えれば、きっと王女殿下も現実を受け入れて悔い無く死ねる筈ですから。
『皇帝陛下の命令です。無能な人形は早々に廃棄してしまえと。貴女は最期まで、誰にも愛されなかった憐れで滑稽な道具だったのですよ』
『──っ……そん、な……ごめ、ん……なさ……い……おと……う、さ…………っ』
苦しそうな声と共に溢れ出す赤い鮮血と、大粒の涙。
ピシッ、と何かに亀裂が入ったような気がした。
……ドウシテ? 何故貴女は、愛されないと理解していても、棄てられたと理解しても、最期まであの御方に謝るのですか?
貴女は何も悪くない。貴女はただ憐れな子供なのに。それではまだ心残りがあるみたいじゃないですか。
『あの御方は、貴女を娘と思った事などありませんよ』
ここまで言えば、王女殿下も心残り無く死ねるでしょう。苦しまず、後悔も無く死ねるなんてとても素晴らしい事ですから。
これまでの人生で苦しんで来たであろう王女殿下が、せめて最期には苦しまず逝けるようにと。私なりの配慮です。
『……』
しかし。その時にはもう王女殿下は事切れていた。
一国の王女らしからぬ細い体は、支える力を失い自重に負けて地面に倒れてゆく。その胸部より剣を抜きながら、私は残念な気持ちで呟きました。
『もう、聞こえて無いか……せめて悔いなく、逝かせて……あげ、たかった……のに…………』
ポタリと。王女殿下の遺体に何かが落ちる。どこかで何かに深く亀裂が走る。
まるで先程までの王女殿下のように、突然、私の瞳から涙が溢れ出したのです。
『何で……私は、私のやるべき事をしたまで、で……』
胸が張り裂けそうだ。ケイリオルという仮面は砕かれ、凍結していた心が融解してゆく。
今まで封じて来た感情や記憶が一気に解き放たれる。
『私が、彼女を殺した。私が……あの人の忘れ形見を、あの人の最期の願いを踏み躙ったんだ』
手足から力が抜け、剣を足元に落とす。それと同時に膝から崩れ落ち、自業自得の深い後悔から私は泣いていた。
何故、どうして。こんなにも愛おしい記憶を、感情を……私は全て封じていたんだ。
何故、どうして。今になって…………よりにもよって今ここで、これを取り戻してしまったんだ。
『───ねぇ、カ……ケイリオル。私ね、いつか愛する子供達と一緒に洗濯物を干したり、お料理を作ったり、掃除もしたり。たくさんやりたい事があるの。でも産まれてくる子達は王子や王女になる訳だから、難しいかな?』
『───じゃじゃーん! いつかこの子に着て欲しいなぁと思って、赤ちゃん用の服を編んでみたの。どう? 可愛いでしょう?』
『───ふふ。早く産まれてちょうだい、愛する私の子。それでたくさん愛させてね。お母さんに、たくさんたっくさん、あなたの事を愛させてね』
『───ねぇ、お願い■■■■。もし私がいなくなったら……子供達の事をよろしくね。絶対、絶対に幸せにしてあげてね』
十五年前のあの日に心の奥底に押し込めた愛おしい記憶や感情が、激流のように私の脳に流れ込んでくる。
思い出の中のあの人はずっと笑っていた。だけど、最期だけは。
『───やだなぁ……まだ、全然……何も出来てないのに。フリードルと、アミレスと……やりたい事がたくさん、あったのに…………私、なんでこんなに弱いのかなぁ……っ』
笑顔を浮かべる気力も無かったようで、あの人は力無く泣いていた。
それを見ていたのに。あの人の本音も視ていたのに。それなのに私は……理想像として不要だなどと勝手な大義名分を掲げ、その記憶も感情らしい感情も全てを凍結させた。
──自分がこれ以上苦しみたくないから、なんてくだらない理由で。
そんなズルの代償が、この蓄積された十数年分の感情の荒波と…………僕の存在理由の消滅なのだろう。
アーシャとの約束を破っただけでなく、アーシャの願いも、彼女の願いも夢も何もかもを踏み躙った。台無しにした。そんな僕に、存在価値があるなどと思えない。
『ごめん、なさい……っ、ごめん、ごめん……! 私の所為で、貴女が…………っ』
つい数分前にこの手で殺したばかりの、まだ冷えきってはいない彼女の遺体を抱き寄せる。
アーシャと大差ない体格に瓜二つな顔。声だってよく似ていた。本当に、性格以外の全てが何もかも生き写しのようだった悲運の少女。
エリドル程ではないけれど、私だって彼女が産まれたばかりの時は辛かった。悲しかった。自分から感情を凍結させるぐらいには、本当に苦しかった。
だが私は、彼女が少しでも長く生き延びられるようにこっそりと裏で手を回していた。
──詳しい理由は分かりませんが、とにかく彼女を生かさねばならない。そんなよく分からない使命感から、ずっと私は動いていた。
推理小説が好きなどと言っておきながら、その謎から目を逸らし続けて生きてきた。
これは、その罰でもあるのだろう。
『この手で殺してから、こんなにも愛おしくなるなんて……馬鹿だなぁ、僕は…………』
とめどなく溢れる涙を受け止めた顔の布は、その色を濃くしていた。
『ごめんなさい、アーシャ。ごめんなさい──……アミレス』
初めて貴女に向けて貴女の名前を呼ぶのが、こんな時になるなんて。急速に冷えてゆく彼女の遺体を抱き締めて、僕は涙と共に震える口で彼女の名を呼んだ。
今なら伝えられるのに。貴女に、愛してると伝えられるのに。
『…………ハハッ、何て大馬鹿者なんだ! お前が殺した癖に、今なら愛してると言えるだって? 信じられないぐらい、紛うことなきクソ野郎じゃないか! ……あぁ、本当に馬鹿だよ、お前は──……』
後悔のあまり、自分自身の存在が許せない程に己が情けなくなった。こんな情けない自業自得の所為で彼女を殺してしまったなんてと。そんな悔し涙と乾いた笑いまで出てきてしまう始末。
……例え兄弟姉妹を殺そうとも、両親を殺そうとも心は動かなかった僕が。アーシャが死んだ時以外一度も泣く事などなかった私が。
守らなくてはならなかった存在をこの手で殺めた絶望や後悔に、まるで月に吼える獣の様に一晩中咽び泣いていた───。