209.ある組織の判断
(……分からねぇ。何もかもが歪過ぎる。あの言葉といい、あの目といい……あれはどう考えても──)
覚悟の決まっている者のそれだった。そう、ヘブンが思考した時。ガチャ、とVIPルームに繋がる扉の丁度真正面にあるもう一つの扉が開かれた。
そこには、十歳程の薄桃色の髪に黄緑色の瞳の愛らしい少女が立っていた。くりくりとしたつぶらな瞳をヘブンに向けて、その少女は天使のように微笑む。
「ただいま、ヘブン!」
軽い足取りでヘブンに駆け寄り、その懐に飛び込む。ヘブンは何も言わずに少女を受け入れ、必死に作り上げた穏やかな顔で、少女の頭を撫でた。
「おかえり、シャーリー。今日はどこに行ってたんだ?」
「えっとねー、ミアのおうち!」
「ミアっつーと……この前この町に引っ越して来たガキか」
「うん!」
まるで親子かのようなやり取りをする二人。しかし、シャーリーと呼ばれたこの少女はヘブンの子供ではない。
シャーリーは先代のスコーピオン頭目が遺した忘れ形見であり、ヘブン達が何を犠牲にしてでも守らないといけない存在なのだ。
「シャーリー、体調は大丈夫なの? 具合が悪い所はない?」
「どこか悪い所があったら僕に言ってよぅ、少しでもマシになるように頑張るから」
メフィスとドンロートルがシャーリーの体調を気にかけると、シャーリーは「今日はね、とーっても元気なの!」と元気はつらつに笑った。
シャーリーは生まれつき特異体質だった。彼女は魔力過敏体質と呼ばれるものであり、ありとあらゆる魔力や魔法に対して非常に敏感なのだ。
それ故に、日々人間が垂れ流しにする魔力だけで簡単に酔ってしまうし、ものによっては体調も崩してしまう。
しかしこの体質に関しては治癒魔法を以てしても治す事が出来ず、一生モノの付き合いとなってしまうのだ。そんなシャーリーに少しでも快適な生活を、とスコーピオンは日々努力していた。
これは未来の話──いつか起こり得るもしもの話だが、これより数年後にある貴族がカジノ・スコーピオンに訪れ、酔った勢いで横柄な態度を取り、一般フロアを荒らしていた。
その上でなんと魔法を発動させてしまい、それがシャーリーに強く影響を与え、その結果シャーリーの魔力炉が損傷して死に至った。
これを経て、スコーピオンは貴族への憎悪を爆発させ、極秘ルートで入手したアイテムを使って帝都でテロを起こす事になる。そんな未来の可能性が彼等にある。
それ程に、シャーリーはヘブン達にとって大事な存在なのだ。
「シャーリー、あんまりカジノフロアを一人でうろちょろするなっていつも言ってんだろ? カジノには悪い人も来るんだ。絶対に安全とは言い切れないんだよ」
「でも、ヘブン達がいるもん」
「オレ達がいつでも助けてやれる訳じゃねぇんだから、少しは危機感ってのものを持ってくれ。お前も、もう立派な大人なんだからな」
「大人……っ! わたし、もう大人なの?」
「おうよ。そうだよな、お前等」
大人と言われて目を輝かせるシャーリーを見て幹部達は(まだまだ子供だなあ……)と微笑ましい気持ちになりながらも、
「もうバッチし大人の女性っすよ!」
「うんうん!」
「大人の階段をまた一段登ったようですね」
「今夜は祝いにでもするか?」
「いいわね。シャーリーが大人になった記念、とかどうかしら?」
各々シャーリーを持ち上げる。
それに気を良くしたシャーリーは胸を張り、「わたし、もう大人のお姉さんだからヘブンの言う事もちゃんと聞けるよ!」と言ってメフィスと共に自室に戻って行った。
扉が閉まるその時まで穏やかな表情を維持していたヘブンだったが、バタリ、と扉が閉まると同時に一気に表情が消え失せた。
しかし程なくして、ヘブンらしい、いつもの顔つきに戻った。
「──とにかく。あのガキの取引には応じない……って事でいいな?」
ヘブンが改まってそう問うと、
「賛成ッス」
「僕も……それでいいと思いますぅ」
「ああ」
「勿論だとも。利益が無いからな」
部屋に残った幹部四名、ラスイズ、ドンロートル、レニィ、ノウルーはそれに即答した。
そうして幹部達の話し合いは幕を閉じた。明日にでも、交渉決裂だとあの二人の子供に律儀に伝えに行く事を幹部達は命じられ、嫌々それに従った。
その後、紫髪の少女と金髪の少年がまた一般フロアで思い切り大勝ちして帰ったと聞いて、ヘブンは眉間に深く皺を刻んだ。
「だぁああああああもうっ、金に興味無い癖に何なんだあのガキ共は!!!!」
机を強く握り拳で叩き、フーッ、と息を荒くしてヘブンは叫んだ。
怒りのままに出禁にしてやろうかと考える程、スミレとルカの快進撃は凄まじかった。
もののついでのようなノリで大金を稼ぎほくほく顔でカジノを後にしたという二人の貴族(片や皇族と来た)の子供相手に、割と本気で怒りを抱いたようだ。
しかし、そこで彼のスコーピオン頭目としてのプライドがヘブンを理性的に繋ぎ止める。
スコーピオンが掲げるは平等。そして公正。いついかなる時、例えどのような相手であろうとも、それだけは守らねばならない。
個人的な感情に流されて、カジノのルールに抵触する程の問題を起こした訳でも無い子供を出禁にするなど、スコーピオンの恥である。
それに気づき、彼はなんとか理性的に踏みとどまれた。
しかし、
「……アイツ等に言って、あのガキ共を町から追い出させた方がいいな。その方がスコーピオン全体の得となる」
完全に据わりきった瞳で、ヘブンは決意した。交渉決裂の旨を伝えるついでに、どさくさに紛れてこの町から追い出してやろうと。そう、ヘブンは画策したのだ。
(テメェ等に貸す力も理由も、オレ達にはねぇんだよ)
カジノのオーナー部屋にある青い宝石を見て、ふと、ヘブンの脳裏にはあの異様な寒色の瞳が浮かび上がる。
何故か、忘れたい筈なのに忘れられない。
この世の全てを見透かすかのような寒色の瞳。異常と形容すべき覚悟に吊り上げられていた、あの大きな青。
それがやけにヘブンの脳裏に張り付いて離れようとしない。いっそ恐怖すら覚えるあの瞳を──……ヘブンは、一瞬、美しいと。そう思ってしまったのだ。
「ッ、クソ……! ンで、オレがこんな……っ、皇族なんかの事で悩まねぇといけねぇんだ!!」
何よりも憎むべき、この階級社会の原因たる皇族なのに。
一度でも、『氷結の聖女』に僅かな関心を抱いてしまった事が。
一度でも、『野蛮王女』を美しいと思ってしまった事が。
そんじょそこらの宝石では到底叶う筈も無い、強い意志を秘めた輝きを目にしてしまったら。
──もう二度と、忘れる事など出来ない。
そして……彼は更に強く深く皇族を憎む事になるだろう。何故なら本人がそう在るべきと思っているから。どれだけ彼があの少女に良き感情を抱こうとも、それは全て憎しみへと強制的に変換される。
彼は、彼等は。この社会への憎しみで、何とか生きているから。それを失ったならば、彼等はきっと──……糸の切れた人形のように横たわり、生きる事を放棄してしまうだろう。