195,5.ある諜報員の決意
「あっ、ちょっと待って。私、さっき普通に本名で呼んじゃったわよね? いや本当にごめんなさい……っ」
「誰にも聞かれていないので大丈夫ですよ」
こんな時でも俺の事を気にかけてくれるなんて。
俺は罪を償う為に、帝国の道具として生きる罪人だから……こんな風に気を揉んでもらう資格は無いのに。それでもこんな風に王女殿下に気を使って貰える事が、その御心の欠片だけでもいただける事が、凄く嬉しいんだ。
早速仕事の話に移ろうとした時。王女殿下が俺の背を押して長椅子に座らせた。その後王女殿下直々に注がれた紅茶を出された。
飲んで、いいのか……? 俺なんかが王女殿下が手ずから入れてくださった紅茶を飲んでもいいのか……?!
いやでも飲みたい。正直に言うと物凄く飲みたい。だが俺は罪人だ…罪人が、女神のごとき恩人の入れた紅茶を飲むなどそれこそ罪に等しいのでは? いやしかし、逆に王女殿下が手ずから俺の為に入れてくださった紅茶を飲まないというのも、とても失礼だと思う。
俺はどうしたらいいんだ…………っ!? と悩んだ末に恐る恐る紅茶を飲んだ。美味しい。人生で一番美味しい気がする。
「では依頼内容の確認の方に移ります」
紅茶を飲みほしてから、俺はおもむろに話を切り出した。
この依頼内容でいいのか……その調査対象で本当に大丈夫かと、それだけは確認した。諜報部に入ってから色々な情報を目にしたけれど、王女殿下が調査を命じた組織は俗に闇組織にも分類される危険な組織だった。
何故王女殿下があの組織の情報を求めるのか、俺には分からないが……道具が使用者の意図を問うてはならない。ただ命じられたままに仕事をこなすだけである。
そうやって依頼内容を確認し終えて、もう王女殿下のお傍を離れないといけないといった頃。
「……仕事中に私情を挟むのも、あまりよくないんですが……その。どうしてもお伝えしたい事がありまして」
どうしても、彼女に伝えたい事があった。
次に会う時に絶対に伝えようと思っていた事があった。
「ありがとうございました。王女殿下のお陰で、俺──今とても幸せなんです。本当にありがとうございます」
深く頭を下げて、なんとか自分なりに笑顔を作る。
ずっと探し続けていたエルと再会出来て、罪を償う事も出来て、人間らしく生きる事が出来て。
俺は本当に幸せだった。全部、王女殿下のお陰で手に入れた幸せ。だから、どうしても感謝を伝えたかった。
「……そっか。なら良かったわ」
王女殿下の慈愛に満ちた微笑みが、眩しく我が不良品の眼に映る。……駄目だ。このままここにいたら、名残惜しさに離れられなくなる。
今すぐ離れないと。早く、諜報員として仕事に戻らないと。
「では、俺はこの辺りで。依頼完了次第、報告にあがります」
逃げるように覆面を着けてローブを目深に被り、そそくさと王女殿下の私室を後にする。
王女殿下の前ではなんとか感情を抑えていたが、彼女ともう一度会えた喜びから熱く火照る頬を夜風で冷ます。
その夜は興奮から眠りにつけなかった。今まで暫くの間遠くから眺めるだけであったあの御方を、あんなにも近くで見る事が出来た。なんなら話す事も、名前を呼んでもらう事も出来た俺は──、
「あぁもう……っ、全然眠れない……!」
自室のベッドの上で、枕をぎゅっと抱き締めて暴れていた。
そしてその翌朝から俺は早速王女殿下からの依頼に取り掛かった。まずは資料庫で調査対象の本拠地を調べた。下調べを終えてから実際に現地に行き、王女殿下がお望みの情報に加えて、あれば便利なそうな情報も片っ端から集めた。
期間は二ヶ月と言われていたが、出来る人間は早めに仕事を終わらせるべき。一ヶ月程で調査を終え、俺は王女殿下への調査報告にあがった。
一ヶ月振りに戻った王城は大騒ぎだった。なんでもこの一ヶ月のうちに王女殿下が何かの法の改正案を練ったとかで、俺が戻った日の翌朝に貴族会議なる大規模な会議が行われるとの事。
王女殿下もそれに参加するようで、報告はそれが終わってからにしようかと思ったのだが……とにかく早く報告して、あわよくば褒めていただきたいという欲望があったのだ。
「大変長らくお待たせ致しました、王女殿下」
「待ってたわよ──……ルティ」
貴族会議が始まるよりも前に、俺は王女殿下の元に向かった。そこでは、綺麗に着飾った王女殿下が小声で俺を歓迎してくれた。
……部屋の外に男が一人。相当な手練だけど、多分この感じからしてあの日の夜──どころか、ずっと王女殿下の傍にいる騎士の男だろう。王女殿下のお傍にずっといられて羨ましいな……いつでも王女殿下の役に立てるなんて本当に羨ましい。
「王女殿下、依頼されていた調査が終わりましたのでその報告に参りました。こちらになります」
王女殿下に選ばれる程の優れた相手に分不相応な嫉妬を抱く。しかしそれを無理やり振り払い、俺は報告を始めた。
闇組織スコーピオン──それにまつわる様々な情報を記した報告書を手渡し、口頭でもそれを伝える。念には念を……とこっそり小範囲に結界を張り、外の騎士に会話が聞かれぬよう心がける。
時々王女殿下から質問を投げ掛けられ、それに答えるなどして報告の時間は過ぎてゆく。一通りの報告を終えると、王女殿下が裏のありそうな笑みを浮かべ、
「……ありがとう、ルティ。お陰様でようやく私も決心がついたわ」
おもむろに語り出した。どういう事なのかと、彼女の暗い色の瞳を見つめる。
「決心、ですか?」
「えぇ。これはここだけの話なんだけどね──」
ふわりといい香りを漂わせて、王女殿下は俺の目の前まで近づいて来た。次に踵を上げ、桃色の小ぶりな唇を俺の耳元に寄せて、
「私、最低最悪の王女として暴れるつもりなの」
初めて見るような、艶やかな表情で囁いた。初めて会った時の殺意に満ちた表情でもなく、俺に救いの手を差し伸べてくれた時の勇ましい表情でもなく、涙を流す俺に静かに寄り添ってくれた時の慈愛に満ちた表情でもなく、遠くからこっそり眺めていた時の年相応の表情でもない。
本当に初めて見る表情だった。どうしてか、今の彼女は十三歳の少女に見えず、歴史に聞くような悪女を彷彿とさせる。
「二人だけの秘密だからね?」
「えっ……はい、分かり……ました」
ドキッ、と心臓が音を生む。口元に人差し指を当てて、いたずらっ子のように笑う王女殿下の姿に、俺は謎の高鳴りを覚えていた。
まてまてまてまて! 相手は王女殿下だよ、十三歳の少女だよ!? 恩人相手に一体何を考えているんだ俺は!!!?
内なる愚かな自分を必死に黙らせて、俺は何とか返事した。だいぶ挙動不審だよねこの返事。
そして、王女殿下から報酬をいただいたのだが……この御方から報酬を受け取る事への抵抗が凄かった。だから俺は氷金貨一枚と本来よりも少なく要求した。
だって俺は王女殿下の役に立ちたい。見返りの無い優しさや愛情をくれたこの御方に、せめて役に立つ事で報いたかった。だから本当は一枚たりとも貰いたくなかったけど、報酬を一枚も貰わなかったら契約不履行という事で依頼者側に責任が問われる。
それを避ける為に、仕方なく氷金貨を一枚要求した。もっと安くてもいいんだけど、あんまり安すぎると上に報告した時に詰められて厄介になるとサラから聞いたので、本当に仕方なく氷金貨一枚を頂戴した。
…………この氷金貨は家宝にしよう。絶対に使わない。お守りにするんだ。
「いやいやいや……いくら私が諜報部の事に明るくなくてもこれがおかしい事だとは分かるわよ。本当はどれぐらいの金額なのかしら?」
訝しげな表情で王女殿下が言及して来た。
依頼を受けた時から思ってたけど、王女殿下は一体どこで諜報部についての情報を得ているんだろうか。各部統括責任者が情報源かな……。
ふと考えるも答えが出る訳がなく。とりあえずこれは一旦置いておいて、俺は金額を変える意思は無いと伝えた。それでも納得がいかない様子の王女殿下に、俺は提案する。
「……では、次にお会いする時まで考えておきます。それまでは報酬も保留という事で」
よく言った俺。さりげなく次の依頼では俺を指名してくださいと暗に言えたぞ。果たして、次があるかどうかは分からないけど。
「保留??」
「はい。それでは俺はこの辺りで。改めまして……この度はご依頼ありがとうございました──またのご贔屓を」
きょとんとする王女殿下に一礼し、闇の魔力を使ってその場から離脱した。
王女殿下にまた会えるかもしれない。その可能性だけで俺は頑張れる。王女殿下の役に立てるよう、これからも訓練に励もう。少しでも早く強くなって、彼女の為に働くんだ。
「あ、おかえり。兄ちゃん」
「サラ。ただいま」
諜報部に戻ると、我が最愛の弟が出迎えてくれた。まだ完璧に記憶が戻った訳ではないが断片的に記憶が戻りつつあり、俺が兄である事もなんとか思い出してくれたのだ。
それからは、こうして昔のように『兄ちゃん』と呼んでくれている。それがとても嬉しい。
「そうだ兄ちゃん、実は兄ちゃんがいない間に凄く大きな仕事の話があったんだ。僕の方で勝手に兄ちゃんの事も候補に入れたけど、問題無かった?」
「それってどんな仕事なんだ?」
サラがそういう事を勝手にやるなんて珍しい……と驚いていると、サラは共有スペースの引き出しから一枚の紙を取り出してこちらに見せて来た。
その紙にはなんと──、
「アミレス・ヘル・フォーロイト王女殿下の……影の、任命……っ!?」
王女殿下の影の任命にあたり、選抜試験を近々行う旨が書かれていた。
そもそも皇族の影というのは、お一人につき一人つく専属の諜報員の事。その役目は多岐にわたり……諜報員らしい潜入捜査、ある時には代理や護衛まで、ありとあらゆる事を任される存在。
要するに、皇族専用の便利屋のようなもの。基本的に皇族が十歳を迎えた時にその時の諜報部の中から一人が選抜され、皇族に仕える事になるらしいのだが……これまで、王女殿下には影がいなかった。
皇太子殿下には当時の諜報部でもトップクラスに優秀だった男が影として仕えているらしい。噂によると、皇太子殿下の秘書のような役割を任されているのだとか。
しかし皇帝陛下が不要としていたとかで、王女殿下には影がつかなかった。それが今になって、各部統括責任者の意向で王女殿下にも影をつける事になったらしい。
まさに青天の霹靂。こんな形で、王女殿下のお役に立てる可能性が新たに芽生えるなんて。それも、王女殿下に直接仕えて……。
「王女殿下の恩に報いたいって、兄ちゃんよく言ってたから……とりあえず候補に入れておいたんだ。選抜試験は来月だって」
「サラ…………っ! やっぱりお前は最高の弟だぁああ!!」
「わぁっ! ちょっと、兄ちゃん苦しいって……」
感極まり、俺はサラをギューッと抱きしめた。サラは照れているのか耳を赤くしていて。
我が最愛の弟の素晴らしい気遣いのお陰で、俺は王女殿下の影になる為の選抜試験に参加出来る事になったらしい。俺はなんて恵まれているんだ……こんなにも最高の弟がいるなんて、世界中から羨ましがられそうだ。
「サラ、俺頑張るよ。頑張って王女殿下の影になってみせるから」
「頑張ってね、兄ちゃん。僕も応援してるよ」
サラに向け、キッパリと宣言する。
王女殿下の影となり、いつだってあの御方の傍にいたい。あの御方の役に立ちたいんだ。それがきっと、俺に出来る一番の恩返しだから。
……──この恩を返す為ならば、殺し以外のどんな手段だって取ってみせる。絶対、絶対に……王女殿下の影になる。そして、あの御方の為に働くんだ。
「サラ、この後訓練に付き合ってもらってもいいか?」
「分かった。今日はもう仕事も無いからいつまでもいけるよ」
「ありがとう、それじゃあ朝まで頼む」
実戦経験も豊富なサラに教えを乞う。サラは途端に諜報員らしく無表情になって、俺の申し出を快諾してくれた。
休憩時間に王女殿下の改正案が可決された話を聞いては更にやる気を漲らせて、俺達は本当に、翌朝まで訓練に励んでいた。