187.ある悪魔の帰還
それはなんて事ない新月の夜。ぼくは東宮の裏手の庭で一人、夜空を見上げていた。
冬の国、氷の国だとか呼ばれるらしいフォーロイト帝国もようやく春を迎え、だんだん暖かくなりつつある。雪の下で息を潜めていた木々や花々も元気いっぱいに顔を出しては、この間まで一面の銀世界だった景色を色とりどりに彩っている。
まさに、春と言うべき彩やかな景色だとぼくも思うよ。だがそれだけではない。この春という季節がどのような役割を持つのか。それを人間達は知らないみたい。
──年に一度、全ての世界の境界が曖昧になる。その時……この日の新月は、全ての世界を繋ぐ扉となる。
見えぬ月に向かって手を伸ばすと、水面のように夜空に波紋が生まれる。その中心にて一つの点が輝き、その輝きは柱となりてぼくの目の前に降り注ぐ。
「開け、悪虐の門よ」
そう呟きながら光の柱に手を突っ込むと、その柱から禍々しい様相の赤黒い扉が現れる。
その扉を開き、その先にある地面も何も見えぬ闇へと身を投じる。ぼくがその闇に溶け込んだ瞬間、扉は閉ざされて人間界から消滅した事だろう。
人間界にて年に一度訪れる完全なる新月の夜。その日は全ての世界の境界が曖昧になり、世界規模の魔力原子異常が発生するので、ぼくが勝手に扉を開けて世界間の移動をしようとも精霊共にはバレない。勿論、人間共にだってバレないだろう。
だからぼくはこの日を選んだ。たまには魔界にも顔を出さないとなぁ……と思ったんだよね。この前部下を一体喚び出した時にもぐちぐち五月蝿く言われたし。
ほんの数秒闇の中を歩いていると、突如として視界が開ける。そこに見えるは久しぶりの魔界。どうやらちゃんと我が家に扉が繋がったようだ。
「ん〜っ、やっぱりこっちのが色々と楽だわァ」
擬人化をやめ、元の姿に戻ったオレサマはその場で背伸びをしていた。
こうして心置き無く元の姿に戻れる事と言い、魔力を垂れ流しにしても問題無い事と言い……当たり前だが魔界は気が楽だ。
人間界にいる間は人間として振舞って魔力抑え込まにゃならんからな。この遊びも楽しいっちゃ楽しいが、窮屈な事に変わりない。
首をボキボキと鳴らしつつ見慣れた廊下を歩く。その途中で、どこからかピアノの音が聞こえて来た。基本的に誰もいない筈のオレサマの城にいて、なおかつ勝手にピアノなんてものを弾く輩。
予想はついているとも。そんな事をする奴はアイツ以外にいねぇからな。
「よォ、相変わらず器用だな。片手でピアノなんて面倒だろうに」
ピアノの音が漏れ出る部屋に入り、オレサマは予想通りの男に声を投げかけた。
「……何だ。もう帰って来たのか穀潰し」
片腕だけでピアノを奏でるは、黒い髪に鋭い黄金の瞳を持つ男。その男はこちらを振り向くなり毒を吐いて来た。
「オレサマの家なんだからいつ帰って来ようとオレサマの自由だろォが。何でお前に文句言われねぇとならないんだよ」
「君の存在がはっきり言って邪魔だからな」
「お前、さては自分が押しかけて来た立場だって事覚えてねぇな??」
「なんの事やら」
「おいゴルァ、ボケんのは早いぞジジィ」
勢いに任せて男の頭を叩いた瞬間、仕返しが繰り出された。しかしそれをすんでのところで避けた。すると男は「チッ……」と恨めしげに舌打ちして、こちらを睨んで来た。
「あぁそうだ。クロノ、人間界でお前の妹に会ったぞ」
もし会ったら伝えてやろうと思っていた事を今丁度思い出したので、それを眼前の仏頂面な男──クロノに伝えると、その指先が僅かに反応した。
「……──緑に、会ったのか。白に眠らされていたんじゃなかったのか」
アイツはボソボソと呟いた。滅多に聞かない不安げな声音でこちらを一瞥するクロノの瞳には、僅かにだが心配のようなものも見受けられた。
「相当衰弱してたのか、人類を滅ぼしかねない呪いを振り撒いてやがったがな」
「衰弱……緑は無事なのか?」
「おう。オレサマのお気に入りの人間がしっかり助けてたぜ? つーか、お前もいい加減人間界に帰れよ。緑の竜もお前に会いたがってんじゃねーの?」
「…………無理だ。もう、僕にはあの子に会う資格が無い」
中身の無い左袖をぎゅっと掴み、クロノは目を伏せた。
クロノ──黒の竜は、緑の竜の兄にあたる竜だ。五体しか存在しない竜の中で一番最初に世界より産み落とされた存在。いわゆる、長男というものにあたるとか。
アイツは百年ぐらい前に白の山脈にある魔界の扉をこじ開けて魔界に侵入し、相当虫の居所が悪かったのか暴れ倒しやがった。しかしここは魔界で、オレサマの領域だ。
例え竜種相手といえども、これだけ条件の揃った場でオレサマが後れを取る訳がない。オレサマの所にまで襲撃して来やがったから、その左腕をぶっ飛ばして見事に返り討ちにした。……まァ、その所為で竜種の呪いを受けちまったがな。
それからというもの、黒の竜は人型に擬態してオレサマの城に居座っている。ちなみにクロノと言う呼称は、オレサマがコイツの事を『黒の』と呼んでいた事から転じた呼称だ。
「それに僕は人間が嫌いだ。人間界に行って平静を保てる自信が無い」
確かに、アイツがオレサマに喧嘩売って来た時に何かぐちゃぐちゃ喚いてたな。
『僕達は何もしていなかった! ただ平穏に生きていただけなのに、人間は僕達を攻撃して来た! 魔物だからと、竜種だからと僕達の事を人類の敵と決めつけた!! 赤も、白も、あんなにも人間を愛していたのに!!』
『僕達から人間を襲った事は一度たりともなかった。寧ろ、人間を魔物から守っていたのに。それなのに、人間は……僕達を悪しき存在として襲って来た。僕達の思いを、人間は踏み躙ったんだ!!』
とか何とか。
よく分からんが、コイツはどうやら人間を大なり小なり憎んでいるらしい。まァ、言われてみれば竜種が人間の国を襲った……みたいな話はそんな聞いた事ねぇしな。大体いつも竜種の被害に遭うのはオレサマ達魔界の住人だ。
オレサマは特に人間なんて弱い種族に好き嫌いとか抱かんが──……あ、でもアミレスは例外だな。アイツの事は割かし気に入ってるし。だってクソおもしれぇじゃん、あの人間は。
面白い存在は大好きだからな、オレサマは。と冷静に自己分析していたら、いつの間にかクロノの顔が僅かに悲痛に歪んでいて。
「青も赤も守れなかった。白だって人間に囚われた……誰も守れなかった僕に、今更あの子と会う資格も勇気も無い」
どうやら、コイツの弟分の青の竜と赤の竜は百年程前に人間に討伐されたとか。そして白の竜は討伐こそされなかったものの、人間共に封印されてんだとよ。
緑の竜は人間共に見つかる前に白の竜が、そう簡単には人間が寄り付かねぇ場所──天然の地下大洞窟で眠らせたとかで事なきを得たらしい。で、それを百年近く経ってからアミレスが見つけて救ったと。
アイツが竜種の権能すら弾くようなレベルの精霊の加護を受けていたからこそ成り立った事だがな。まァ…………あの過保護な精霊なら納得の結果だ。しかし、その所為でオレサマはアイツに唾をつけれなかったんだがな! と不服を思い出して怒りを覚える。
話は戻るが、クロノは青と赤の竜を守れなかったようだ。ま、話に聞く限り竜種の討伐には勇者だとか英雄だとか呼ばれる人間が参戦していた上に、人類も総力を挙げていたみたいだからな……いくらクロノでも二体の竜を守りながら戦うのは難しかったのだろう。
オレサマなら余裕だがな。