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182.ある皇太子の懐疑

「お前はあの女が僕に向ける憎悪の目を知らんからそのような事を言えるのだ。あのような目が、嫌いではない人に向けるものである筈がない」

「ぞ、憎悪ですか」

「ああそうだ。昔は鬱陶しい程に僕の後ろにつきまとっていたのに、あの女は今や僕の顔を見ただけで憎悪も嫌悪も隠そうとしなくなった」


 その癖毎年わざわざ贈り物はしていたのだ。本当に訳が分からない。何もかもが不可解だ。

 苛立ちから、皇太子として恥ずべき事と気をつけていたにも関わらず舌打ちをしてしまった。しまった、と思ったが幸いにもレオナードは何やら考え込んでいて、聞かれてはいないようだった。

 顎に手を当てて思案するレオナードを、相談した側として一応待ってやる事にした。春先とは言えまだ冷える夜風を肌に感じながら、レオナードが口を開くのを待つ。

 そして。ようやくレオナードは顔を上げて、


「これはあくまでも俺の仮説なんですが……恐らく、王女殿下はフリードル殿下の事をまだ好きなのだと思います」


 先程までのおどおどとした雰囲気が嘘のように、キッパリと物を言った。

 何? と返すと、レオナードはこちらを真っ直ぐに見て更に続ける。


「仮に、王女殿下が幼い頃にフリードル殿下へと愛情を抱いていたとしましょう。しかし何らかの切っ掛けを経てその愛情が憎悪や嫌悪といったものに変質した。……けれど、それでも人は愛情を簡単には捨てられないものです。どれだけフリードル殿下を嫌っていようとも、その影で王女殿下は確かにフリードル殿下を愛しているのでは。と、俺は考えました」


 憎んでいるのに、愛しているだと? 何だそれは、意味不明だ。と聞き返すと。


「一体どのような切っ掛けがあれば、フリードル殿下が仰る程の憎悪へと愛情が変質するのか俺には分かりませんが……幼い子供が、何の理由もなしに家族から離れその存在を憎む事だけは無い。それだけは断言出来ます。何故ならお二人は──家族なのですから」


 王女殿下が変わるような切っ掛けに、何か心当たりはありますか。とレオナードは更に言及する。

 心当たりだと? そんなものある訳が無いだろう。あいつの異変は突然の事だった。確か…………そう。建国祭を病欠したあの女は、その日からまるで仇敵かのように僕を睨むようになった。

 その数日前まで、忌まわしい視線をしつこく向けて来ていたのに。

 人は死に際に心を入れ替えるものとは聞くが、本当にその高熱であいつの考え方や人格が変わるようなものなのか? 熱に侵されただけで、あの女は何故僕を憎むようになった?

 掠れた記憶を記憶の引き出しから引っ張り出したものの、これといった意味は無かった。ならば一体何が切っ掛けだと言うんだ。一体何が、あいつを変えて──……。


「……幼い子供は、自分が愛されていないと自覚したら、変わってしまうものなのか?」

「当然です。子供だけに限らず、自分を愛してくれない人を愛するなんて、とても無駄な事ですから」


 ドクン、と心臓が強く鼓動した。

 愛してくれない人を愛する事ですら無駄と言い切られるんだ。もし、万が一。あの時点であいつが、いずれ僕か父上に殺される事になると知ったならば。

 それは間違いなく──あの馬鹿な女を変える切っ掛けとなっただろう。

『もう嫌なんですよ。返っても来ない愛情を求め続けるのなんて。だってそんな無意味な事をし続けた挙句、結局最後にはあんた達に殺されるんだから』

 憎悪に満ちた目で僕を睨み、あの女は品位に欠ける口調で捲し立てていた。あいつはどこかで自分の運命を悟った。だから、僕を憎むようになったのか。

 僕はあいつを愛さない。そもそも、愛する理由が分からない。昔からずっとそう思っていた。僕のこの考えが原因であいつは変わったというのか?


「なのできっと、王女殿下もそれが理由で……フリ……ド……殿下?」


 ようやく、数年越しに得てしまったこれまでの不可解の答えに、頭の中が混乱する。すぐ目の前にいる筈のレオナードの声が、やけに遠くに聞こえる。

 一人になりたいと呟く。するとレオナードは戸惑いつつ、


「……フリー……ル……下。兄……は、妹……愛する……が、仕事……す」


 完全には聞き取れなかったものの、何かを言い残して会場に戻った。

 その後、ダンスが始まるその時まで僕はテラスに残り続けた。どれだけ頭を冷やしても考えは纏まらず、足元から這い上がってくるような悪寒に襲われる。

 まるで僕が僕で無くなるような──……僕が別の何かに塗り替えられるような、そんな抽象的なもの。これは一体、何なのか。

 ダンスが始まり、とりあえず寄ってきた適当な女と踊っていたが……その間も僕の頭は正常とは言い難く、ふと視界の端に映ったあの女にかつてない程の殺意を抱いていた。


 いや、これは本当に殺意なのか? ……分からない。

 僕はあの女が嫌いだ。鬱陶しくて、邪魔で、煩わしい存在。僕のゆく道に現れては被害者面で邪魔をしてくる傍迷惑な女。いずれ棄てられる道具の分際で、一丁前に人間らしく生きている出来損ない。

 僕の悩みを増やし、精神的苦痛を味合わせてくるあの女が僕は大嫌いだ。憎らしい。疎ましい。

 よりにもよって悪魔なんぞを召喚し、僕の覇道を──この世界を危険に晒しているあの女が憎い。叶うなら、今すぐにでも殺したい。

 役に立つとか、道具だとか最早どうでもいい。この世から消し去りたい。もう二度と、僕の視界に入らぬよう。もう二度と、こんな風に心をかき乱されぬよう。


「──フリードル皇太子殿下。好きの反対は無関心、という一説をご存知ですか?」


 パーティーが終わり、西宮に戻る最中。ケイリオル卿がどこからともなく突然現れては突拍子の無い事を口走り始めた。『好き』などという言葉は今最も聞きたくない言葉だ。それを何故貴方が? と反射的に睨んでしまう。


「貴方様は、もっと彼女に無関心であるべきでした。かの御方とてそう…………結局の所、人は一度でも愛したものを完璧に憎む事など不可能なのですよ」


 突然何を言い出すんだ、この人は。


「どれだけ相手を憎み、殺意を抱こうとも。かつて相手を愛した記憶や思い出、その感情までもが全て消え失せる訳ではありません。貴方様も、ほんの一瞬でしたがその感情を抱いた事があったのですよ」


 とても柔らかで温かい声音で、ケイリオル卿はゆっくりと語る。その感情……? 一体、彼は何の話をしているんだ?


「……お悩みのようですから、私が断言致しましょう。王女殿下はフリードル皇太子殿下と皇帝陛下を心から憎むと同時に、心から愛しているようです。愛と憎しみは表裏一体と言いますが、これがまさにそれですね。そもそも無関心な相手に抱く憎しみなど、この世界には無いのですよ」


 ふふふ。とケイリオル卿の優雅な笑い声が聞こえて来る。

 本当に、あの女が未だに僕を愛していると? それに彼の言い方ではまるで僕があの女を少なからず愛しているような。

 何故、僕があの女を愛する必要があるんだ。あの女は道具だ、毒にも薬にもならない筈だった女だ。


「私がこのような事をわざわざ申し上げるのは、ひとえに貴方様に気付いて欲しかったからです。王女殿下を理解して欲しかった。何故なら王女殿下は──……貴方様の、たった一人の妹なのですから」


 とても優しく、しかしどこか後悔のようなものを感じさせる口調。ケイリオル卿は顔の布をヒラヒラと揺らして、「全てが終わってから気付く事は、とても悲しいですから」と付け加えた。

 たった一人の、僕の妹。──そんな言葉を胸に抱いたのは初めて……初めて……? 本当に、初めてなのか?

 違う。僕は確かに、たった一度だけ……あいつが産まれたその瞬間にその感情(・・・・)を抱いていた。母上から何度も何度も、『アミレスを守ってあげられるお兄ちゃんになってね』と言われていた。

 なのにその全てを僕は忘れていた。幼いながらも、母上の言葉に従おうと思っていたのに。

 いつからか、あの女は使い捨ての道具であると信じて疑わなかった。最早あの女は家族ではない、いずれこの手で殺す事になる出来損ないの荷物だと思っていた。

 僕は…………いつからあいつを道具だと思うようになったんだ? 僕は。僕は───、


「いつから……こうなっていたんだ?」


 あの悪寒に僕という存在が内側から侵されてゆく。分からない。わからない。ワカラナイ。

 また耳は遠くなって、視界は歪み、呼吸が少し荒くなる。

 自分というものが、分からなくなった。だってそうだ。今まで絶対だと思っていたものが根底から揺らぎ出したのだから。

 僕は一体、今まで何をしていたんだ。僕のして来た事は間違いだったのか? これから、僕はどうすればいいんですか?

 教えて下さい、父上。あの女を──アミレスを、僕はこれからどうすればいいんですか?

 めちゃくちゃになった頭を抱えて、僕は部屋に閉じこもった。そして僕の人生で最も重大な存在に願う。僕がこれから歩むべき道を、僕という存在の在り方を、何でもいいから教えて欲しいと。

 早く、早く答えを見つけないと。このままだと僕は──……僕でなくなってしまう。


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