152.動乱に終幕を4
ちょっと汚い描写注意です。
「……そ、そりゃどーも……あのお嬢、その、い……いつまで……手……」
イアンがぎこちない口調で呟く。ああ確かに、こんなにも詰め寄ってはきっと圧迫感が凄まじい事でしょう。早く離れてやらなければ。
それに気づいた私は、「これは失礼を」と言いつつパッと手を離し、改めて座り直しました。そんな私達の様子を向かいに座るシャンパージュ伯爵が生暖かい目で見守っていて。……あの視線は一体何なのでしょうか。
不思議な空気のまま馬車に揺られ、やがて私達はララルス邸に辿り着きました。門の前にて馬車は一度止まり、御者がシャンパージュ伯爵の馬車であると門番に伝えると、門はあっさりと開いた。
不正ばかりの現在の侯爵家に、シャンパージュ伯爵の来訪を妨げる力など全く無いのですよ。
八年ぶりの実家。昔とさして変わらない適当に取り繕っただけの庭に、無駄に豪奢に改築された本邸。窓越しには、仕事もせず雑談に花を咲かせる侍女の姿も見えた。
ああ、本当に…………全く成長しませんね、この家は。寧ろ悪化している。このような所が我が実家など死んでも姫様に知られたくない。素面でそう心底思ってしまいます。
そして邸の正面玄関前に着くと、邸から見覚えのある男が慌てて出てきました。彼は昔から母と私にも良くして下さっていた、ララルス侯爵家の執事長フルカ。あまりにも優秀な為か、あの男の秘書の真似事もやらされているらしい。
八年前に見た時より随分と痩せ細り、綺麗な群青色の髪は色が抜けて白髪が増えている。目の下には重い隈が残り、彼の苦労が窺える。あの男に相当扱き使われているのでしょう。
それでも決して背を曲げず、執事長として美しく佇む姿は──……かつて幼い私が憧れたフルカの姿と全く変わらない。やはり、彼は尊敬すべき使用人の鑑だ。
「こんな早朝より突然の訪問……申し訳なく思います。何分急を要する事で」
「──いえ、他ならぬシャンパージュ伯爵のご訪問とあればいついかなる時も門を開くよう、旦那様から仰せつかっておりますので」
まず先にシャンパージュ伯爵が馬車を降り、フルカと言葉を交わす。どうやらあの屑はシャンパージュ伯爵にかなりの借りがあるとかで……シャンパージュ伯爵は出入り自由のよう。
「実は今日は私の客人も連れて来ていてね、馬車に待たせているんだが呼んでも構わないか?」
「勿論でございます。お客様共々おもてなしさせていただきます」
シャンパージュ伯爵が扉を開いてこちらに顔を出す。そしてニヤリと笑って「さ、お手をどうぞ」と手を差し出して来た。どうやら私は彼の客人としてフルカの前に立つ事になりそうですね。別に今はそれで構いませんが……。
シャンパージュ伯爵のエスコートを受け、私は八年ぶりにこの邸に降り立ちました。馬車から姿を見せた私の姿に、フルカが酷く愕然としている。
執事たるもの、どのような状況であっても表情を表に出してはならない。そう仰っていたフルカがこれ程に我を忘れるなんて、私の存在がそれ程彼にとって大きいものだったと勘違いしてもいいのでしょうか。
「私は、マリエル・シュー・ララルスと申します。……八年ぶりですね、フルカ」
貴族らしく一礼し、私は微笑みを貼り付ける。するとフルカは今にも泣き出してしまいそうな声音で、皺のある顔を更に皺だらけにして、
「……っ、お帰りなさいませ。マリエルお嬢様……!!」
深く背を曲げた。そんなフルカの肩に手を置き、私は告げる。
「もうすぐ私はお嬢様ではなくなるので、そう呼ぶのはおやめなさい」
「それは、どういう……?」
顔を上げ、ぽかんとするフルカ。私は一度シャンパージュ伯爵と顔を合わせてニヤリとアイコンタクトをとり、
「私……この家の全てを、奪いに来ましたの」
笑顔で宣言しました。パチパチと瞬きするフルカに向けて「ひとまず応接室に案内してくださる?」と告げると、彼は慌てて応接室までの案内を始めた。
一度後ろを振り向くと既にイアンの姿は無く、もうカラスの任務の方に戻ってしまったのかと少し残念な気持ちになりました。
通された応接室で紅茶を出され、それを飲みつつ私達はあの屑が出て来るのを待ちました。フルカ曰く、朝方という事もあってまだこの家の人間はほとんど目を覚ましていないのだとか。そのお陰もあり、私はララルスの人間に姿を見られる事無くここまで来られましたけどね。
しかし……あの屑に至っては、相も変わらず気に入った若い女性を連れ込んでは手をつけていて……昨晩も獣のように励んでいたとかで、全く起きる気配が無いらしいです。
フルカが被害者の女性達に適切な処置を施し、何とか避妊はさせて来たからか面倒な事態はこれまで避けられたようですが、相変わらずの危機管理能力の無さですね、あの男は。
なので目的の屑は起きてくる気配が無く、かれこれ三十分近く待ちぼうけをくらっているのですが。
「由緒正しき侯爵家の当主ともあろう御方が、まさかこんなにもだらしない朝を過ごしているとは」
「ララルス一の恥、最悪の汚点が大変ご迷惑をおかけしております……」
シャンパージュ伯爵の何気ない一言が私の胸を貫く。何度も言いますけど、この身にあの男の血が流れている事が本当に嫌で仕方無い。我が身からあの男の血だけを抜きたいぐらいだ。
「もう、こうなればこちらから出向くしか無さそうですね。どうせいつまで待とうともあの屑は出てきませんから」
「おや。ララルス侯爵の寝室をご存知で?」
「八年前と変わってなければ。あの屑の侍女をやらされていた事もありましたので」
スっと立ち上がり、私は先導してあの男の寝室を目指した。八年経っても大まかな間取りは変わってないので特に迷う事なく、たまにすれ違った侍女や召使に幽霊でも見たかのような顔をされつつ廊下を歩いて行く。
まあこれでも八年前に失踪し、当時母と私に随分とご執心だったあの屑の指示で、ララルス侯爵家やそれに巻き込まれたいくつもの家門が数年かけて捜索したにも関わらず、結局見つからなかった事になっているのですから、私は。
もうとっくに、どこかで野垂れ死んだとでも思われていたのでしょう。
あの屑が私の捜索を始めてすぐ、一週間程が経った頃。カラスの一人が早々に皇宮にまでやって来て私に指示を仰いで来たのです。『マリエル・シュー・ララルスの捜索が始まっていますが、どうしますか?』と……この時既に私はハイラになっておりましたので、勿論私は見つからなかったと報告するよう言いつけました。
その時ケイリオル卿にも頼んだのです。私が東宮で働いている事──私が、マリエル・シュー・ララルスである事は絶対に外部に漏らさないで欲しいと。
情報通のケイリオル卿と私側についてくれていたカラスの協力無くして、私の失踪は叶わなかった事でしょう。
暫くしてあの屑の寝室に辿り着くと、中からフルカが懸命にあの男を起こそうとする様子が聞こえて来て。かれこれ三十分近くずっとこうしていたのでしょうか……相変わらず苦労しているのですね、彼は。
「失礼します」
一切の躊躇いもなく扉を開けて、部屋に足を踏み入れる。そこは様々な匂いが混ざり溶け合って、思わず吐き気を覚える空間。部屋に入った瞬間、シャンパージュ伯爵でさえも「うっ……」と少し口元を押さえてしまう程のものでした。
大きな寝台の上にはかろうじて布団で下半身を覆っているだけの、半裸の豚……ではなく下品な男と、その胸に抱かれる豊満な体の美女。どこか、母に似た雰囲気をも感じさせる。
その寝台の周りには乱雑に脱ぎ捨てられた服が転がっています。必死にあの屑を説得していたらしいフルカが、部屋に押し入った私達の姿を見て顔を青ざめさせた。
そして、例の屑はというと。
「──マリエル? その顔、その声はマリエルではないか! まだ生きておったとは……! また会えて嬉しいぞ、マリエル!!」
勢い良く起き上がり、瞳を輝かせて汚い声で私の名を連呼する。その後、舐め回すように私の全身をじっくりと見定めては満足気に下品な笑みを浮かべ、
「随分と大きくなったではないか。まるでお前の母そっくり──……」
先程まで抱き締めていた美女を雑に振り払い、全裸で堂々と汚物を晒しつつ私の方へと歩を進めてきましたので……私は鳥肌が立った右手にドレスの袖に隠していた短剣を出し、屑の足元へと思い切り投擲しました。
それは鋭く床に突き刺さり、かなりの牽制……威嚇となった事でしょう。
たじろぐ屑に向け、私は嫌悪から荒くなってしまいそうな口調と表情を必死に正して口を切る。
「客人の前で無様な姿を晒さないでくださいまし、侯爵様。この御方はシャンパージュ伯爵なのですよ」
「ああどうも、ララルス侯爵。ホリミエラ・シャンパージュです」
「なっ、何だ急に……だが確かにシャンパージュ伯爵の前でこれは流石に失礼か。何をしておるのだ、フルカ。疾く準備せんか。マリエルが我が元に戻って来た祝いも後でせねばならん」
随分と丸く肥太った体で偉そうに命令を飛ばす屑を見て、シャンパージュ伯爵が口元を押さえたまま「くくっ……」と小さく笑ってらっしゃった。急にどうしたのだろうと横目で彼の様子を眺めていると、「何と滑稽なのだろうか」とシャンパージュ伯爵がボソリと呟いた。
それには同意致しますわ。「八年前より一回りか二回り程太ってますわよ、あの豚」と小声で呟くと、シャンパージュ伯爵は「フフッ、実に容赦のない言葉だ」と楽しげに返事を返してくださりました。
随分と上質なガウンを着て屑が着替えの為に寝室を出ようとした時、何故か私の体に触れようとして来たので当然それは避け、私は真顔かつ無言で屑を見送りました。
その後に続くようにフルカが「準備が終わり次第改めて向かいますので、応接室でお待ち下さい」と眉尻を下げて言い残し、寝室を出て行ったので、私達は応接室に向かいますか。と扉に手をかけ……る前に一度踵を返しまして。
「な、何よ……あんたもこの家のお嬢様なの?」
「悪い事は言いません、あの屑と関わるのは止めなさい。百害あって一利なしですよ、あのような豚……いえ、豚は人間の糧となるのでこれでは豚に失礼ですね。人間の糧にもならない屑ですので、あの男は」
布団で体を隠す美女を見下ろし、私はあの屑との関係を断つようお勧めしました。そこはかとなく、僅かにではありますが母とどこか似た雰囲気の彼女がこれ以上あの屑の犠牲となるのは、私としても少し夢見が悪いのです。
まあそもそも、近々あの屑には消えて貰うのでその為でもありますが。
「あたしだって好きであんな豚貴族の相手してる訳じゃないわよ。愛人になったらたんまりお金をくれるって言うから仕方なくやってるだけで……」
あの屑の事ですから、どうせろくでもない方法を用いているのではと思いましたが、案の定。最早何の捻りもなくてつまらないですね。
あのような屑が正攻法で彼女のような美女に相手される訳が無いのですから。恐らくこれまでも似たような手法で、どこか母に似た雰囲気の女性達を食い物にしていたのでしょう。本当に腹立たしい限りです。
……本当に、あの屑は異様なくらい母に執着してましたから。心を病み、体も衰弱していく中で母はそれをあの屑にだけは悟らせまいとし、結果衰弱死しました。『あんな男に助けられてまで生きたいと思わない』……そう、私は母の口から何度も聞きました。
だから母は私に一人でも生きていけるようにと様々な事を教えてくれたのです。『貴女を一人残す事になりそうで、ごめんなさい、マリエル』と何度も何度も母に謝られました。
いずれそうなる事を、私だけは分かっていたのです。だから私は荷物を纏め、母の葬式直後に家を出ました。あの屑が母の葬式に気を取られているうちに、私はこの腐った家から逃げ出したのです。
「職は無いのですか?」
「あったらこんな所にいないわよ」
「……それもそうですね。時に、侍女業に興味はありますか?」
「え?」
きょとんとする美女。突然侍女業に勧誘されたら誰だってこう反応するでしょうね。
「詳しくは話せませんが、近々あの屑は社会的にも物理的にも死にますので貴女の金ヅルはいなくなります。職が無いのでしょう、一応貴女はあの屑の被害者なので、当家で雇ってもいいかと思ったのです」
「え、死ぬ? 待ってどういう事?」
「相も変わらずここの使用人はどれもこれもどうしようもない者達でしたので、一斉解雇も考えております。なので職場に馴染めず早期辞職……といった心配は無用ですよ」
「ちょっ、待って待って話見えないんだけど!?」
「当家が嫌でしたら……シャンパー商会に頼んでみましょう。よろしいですか、シャンパージュ伯爵」
「職業の斡旋なら我が商会ではお手の物だ、任せてくれたまえ」
「ねぇあたしの声聞こえてます?!?!」
美女がフゥーッ、フゥーッ、と息を荒くして叫ぶ。それに私とシャンパージュ伯爵は驚き、目を丸くしました。
勝手に話を進めたから怒っているのでしょうか。しかし、これは彼女にとってもまたとない機会かと心得ます……何が不満なのでしょうか。
「どうされましたか?」
「働くとかどうとか話ついていけないんだけど! そもそも何、あの男が死ぬってどういう事なの?」
ああ、成程。その事についてですか。
「簡潔に言えば、近いうちにララルス侯爵家は没落します。そしてあの屑は様々な問題の責任を負って処刑される事でしょう。その後の貴女の居場所にと、我々は働き口を提供しようとしているのです」
何せ貴女は被害者ですから。と私が説明しおおせると、美女は開いた口が塞がらないままぽかんとしていました。
そう言えば彼女の名前を聞いてませんね。それに気づいた私は早速、「貴女の名前を聞いても?」と被害者の名前を尋ねる。彼女はおずおずと、「サルナ、です」……そう答えた。
「ではサルナさん。とりあえず暫くは街の宿に泊まれるだけの金を渡しておきますので、一旦この家から離れて下さい。このまま此処にいれば貴女も巻き添えを喰らいかねませんので……食い扶持に困ったならばもう一度ここにいらして下さい。その時は私の方で責任をもって職を用意します」
これがあの屑の被害者に私から出来る最大限の支援。半分はあの屑の血が流れてしまっている以上、あの屑の犯した過ちの一部は私が背負ってやらねばならないのです。……誠に遺憾ではありますが。
自身の荷物の中から念の為にと持ってきておいた氷金貨をいくらか取り出し、小さな袋に入れてサルナさんの手に握らせる。「くれぐれも失くさないようにして下さいね」と忠告を残して、今度こそ私達は応接室へと足を向けました。
そして待つ事十分程。ようやくあの屑は応接室にまでやって来ました。まさに豚に真珠……その身に着ける全てが屑には相応しく無い上質さで、頭が痛くなった気さえしましたわ。
ベラベラと「また会えて嬉しい」とか「本当に綺麗になったな」とか「今までどこにいたのだ」とか喋り続ける屑をとにかく無視し、私は勝手に本題に入る事にしました。
何せ、無駄話をする為にここに来た訳ではありませんので。




