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8,

 立ち話もなんだからと、カフェに入った。奥にある四人掛けのテーブル席に二人向かい合って座る。アンリの母親の顔は、以前会った時より血色も良く、タイラーはほっとした。ひとしきり、挨拶をすます。それは近況の報告といたわりにあふれた言葉の応酬だった。


「アンリはもう帰ってこないと思うの」


 アンリの母親からそのセリフがするりと流れ出た時、タイラーと彼女の母親は互いに視線を外した。テーブルに置いたカップに注がれた黒い液体の深い底を見入る。

 来るべきものが来た。警鐘が早鐘のように鳴る。いつまでも目を背けるなと、底から突き上げてくる。


「誰も言ってはくれないわ。絶望的であるからこそ誰も何も言えない……。そして、もうあなたの娘は死んでます……そう言われても、どこかでいつか帰ってくるような気がしてしまう。

 それは私たちが娘の遺体の一部もまだ確認できていないからなのでしょうね」


 タイラーはアンリの母の言葉を沈黙を持って同意する。私たちという範疇に自分は含まれているのか、いないのかは、正直、わからなかった。


「三年近く経過したわ。きっともう、遺品一つ、見つからない……」

 かみしめ淡々と告げられる。それはタイラーに対してだけでなく、自身に言い聞かせる言葉でもあるようだった。

『アンリはもう帰ってこない』そんなセリフを自分で言い、その声を耳に入れることはどんなに苦しいことだろう。

 アンリの母が言いたいことも、それに伴う結論も、タイラーは身に染みる。


「そうですね。もう三年近くなりますね。来週には、ちょうど三年目だ」

 気づけばそんなに経っていたのだとタイラーは自覚する。シーザーに誘われた海辺の街に滞在する日取りの中に彼女が行方不明になった同じ日付が含まれていた。


「この三年間、あなたがどんな気持ちで過ごしてきたか。私たちは家族で悲しみを前面に出せても、あなたはどこか一歩引き、私たちに遠慮するように感情を押し殺していた。

 

 こんなことを言ってはあなたを悲しませ、傷つけることは分かっているけど。

 あなたの先の人生を思うと……」


 うつむいたまま、互いに目を合わすことなくタイラーとアンリの母親は向き合っている。


「あなたとアンリが結婚していなくて良かったと、少しだけ思うのよ」


 それ以上は、互いに酷だった。言葉はなくとも、本心は分かる。


「そうですね……」タイラーはつぶやく。「もう三年になる。吹っ切るには、いい時期なのかもしれないですね」


 アンリの母親に意図は分かっていると伝わればいいとタイラーは思った。

 人生は長い。こんなところで、娘の存在に足を取られてほしくない。そう気遣ってくれているのだ。痛いだろう。語る一言すべてが自身を傷つけるものかもしれない。それを語らせておくのは忍びなく、タイラーは自ら結論を口にしていた。 


 長い沈黙が続き、ゆっくりと残ったコーヒーを飲んだ。アンリの母親もそれ以上何も言わなかった。

 

 三年前、投げた小箱が壁にあたり転がり落ちたプロポーズリングは元の小箱に戻し、二度と開けることなく放置していた。


 家に帰ったタイラーが自宅の電気をつけると、こざっぱりした部屋があらわになる。アンリが残したものが大きく、彼女がいないと今の自分はない。それだけが救いのようであり、彼女が生きているうちにそうありたかったとも悔やまれる。

 アンリが生きていてくれたなら、彼女によって埋めてられた部分がある。失ったことでそこがうまらない。ぽっかり空いた空洞をがむしゃらに埋めてきた結果がこの部屋なのかもしれない。

 明後日出発するため、明日は休みにした。長い休息になるか、あっという間に終わるか、結局は仕事に忙殺されるか。先は読めなかった。

 

 三年ぶりに小箱を開けた。身に着けるためではなく記念品のような物だと、遊び心を込めて色合いはピンクゴールドとした。どこかの物語に出てきそうなダイヤモンドが華々しくのせられたリングは避けた。色あいだけ鮮明に、後はシンプルに。飾り気のない、ほんの少し側面に刺繍のような彫り物が一部あるデザインとした。

 その当時抱いていたアンリのイメージがリングには込められている。


 懐かしいとタイラーは思った。

 懐かしいと思うほど、過去となっていることにも気づいた。


 良い時期なのかもしれない。

 なにかに呼ばれるように、海辺の街へ誘われるなら、それもそれで縁というものか。


 リングを手に取った。小箱は投げた勢いで破損している。留め金が割れ、かちりと合わせないと閉まらなくなっていた。

 

 ポケットに手を入れて、ビニールの小袋を取り出す。昼休みの合間に勢いで買ってきた細いチェーンが入っている。取り出して、リングを通した。

 プロポーズリングを入れた小箱をゴミ箱に投げ入れる。

 リングを通したチェーンを身に着けた。


 リングをつまみ、改めて眺めまわす。店先でパッと見て決めた。リングを一つ買うことへの抵抗と気恥ずかしさ。先んじて待つカフェで繰り返し開けたり閉めたりしながら、踏み出せないで、まどろっこしい感情に戯れていたこと。最後の夜に、渡そうかと迷い、やめてしまったこと。

 そのすべてが思い出となり、消えるものへと変わっていた。時間とは怖いものだ。アンリがいない。打ちひしがれて、空いた穴さえも、小さくしていく。

 忘れたくないと思っても、忘れずにはいられないのが、人間なのかもしれない。

 

 これを持って海辺の街へ行こう。

 彼女が立ち寄ったという人魚島という小島も行ってみよう。

 アンリの足跡をたどり、彼女を飲み込んだ海に、リングをほおり投げてこよう。

 アンリと別れ、新しい人生を歩き始めよう。

 アンリの残してくれたものは大きい。そこにとらわれて生きることは、さっぱりとした彼女の望むことではない。まだ彼女への想いが残っているうちに、あなたへの想いとともにあなたの眠る海へ還そう。

 リングを握りしめたタイラーは想いを込めて、その拳にキスをした。



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