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 人魚島から海辺の街へ乗客を運ぶ定期船が沈んだ。


 最初の一報を見かけた新聞記事は小さく、アンリの出張先だとタイラーはすぐに気づかなかった。何気なく目を通していた記事の末尾に、乗組員や乗客の行方不明者名が記載され、そこにアンリエット・ファーマンの名前があり、一気に血の気が引く。タイラーは、手にしていたコーヒーを取り落とす失態をおかした。それが職場の休憩室での一幕だったため、立ちすくむ彼のただならぬ気配に同僚が驚いたことは言うまでもない。


 気が気ではない数日を過ごす。事故直後の連絡先が思いつかず、まずはアンリの家族へ確認するべきか悩むなか、彼女の家族から連絡が入る。事故のニュースが架空のものではないとナイフのように現実を突きつけられた。


 船がなぜ沈んだのか、原因が探られる。高めの波に、小雨が降る天候はいつものことであり航行に問題はない。船体が割れており、何かにぶつかった可能性は示唆された。リバイアサンとぶつかったのではないかとささやかれる。近くに怪我をした竜などいなかったので、遠くに逃げた可能性を言及する者もいたが、専門家なる人物がそれを否定した。船体の破損が大きく、とても逃げれるような傷ではなかっただろうという見解だった。ではなぜ沈んだのか。整備不良や経年の劣化、人的な内部破壊、例はあがったがこれという確証はないとされた。


 事故原因の究明と捜索が進むなか、アンリの母親に彼女の部屋に呼ばれ、しばらくは部屋はこのままにする旨を伝えられる。いずれは引き払う可能性と、タイラーの物は一旦持ち帰ってもらいたいこことと、これより先のことはまだ考えられないと憔悴した顔で宣告された。


 より悲しみ、苦しんでいる人がいる。自分がまだアンリの家族にはなり切れていなかったという事実だけがタイラーに重くのしかかった。


 事故の連絡を最初に受け取る位置に立っていない現状。彼女を失った悲しみを前面に押し出せず、一歩引き彼女の家族から連絡を待つのはもどかしいこと、この上なかった。これが恋人という立場なのかとタイラーは唸るしかない。たとえ、アンリの家族が気遣ってくれても、こちらから頻繁に連絡を入れることは気が引け、自分だけが一人宙ぶらりんのまま取り残された。


 平日は仕事に没頭し、ある程度忘れることができた。週末の方がつらい。出かけることもできず、自宅にてタイラーは、ベッドに座りこみうつむいていることが多かった。仕事がなければ廃人になっていたのではないかと自嘲する。


 小箱を両手に包み、握りしめる。渡せなかったプロポーズリング。タイラーは小箱を開けることができなくなっていた。アンリに渡すか渡さないか迷っている最中には、開け閉め繰り返したというのに。そもそも、この箱を開けた瞬間に見せたであろうアンリの表情は二度と見ることが叶わないのだ。

 迷うという行為や感情にさえ酔っていたのだとタイラーは自覚した。一瞬のプロポーズを味わうためへの予行演習、助走期間が、あの迷いだったのだと。箱を開け閉めする指先の悪戯は意味を失った。

 

 タイラーは小箱を投げつけた。壁にあたって床に落ち、跳ねた瞬間に蓋が開いた。リングが転がり出ると、回転しぱたりと倒れる。


 責めればいいのか、悔いればいいのか。タイラーには自分の感情さえ分からなくなっていた。

 

 数か月後、海難事故の捜索は打ち切られた。生存者はいなく、遺体さえ残らない。アンリは二度と帰らぬ人となったのか。はっきりしないなかで家族はいずれ戻ってくると信じる。そのかろうじて立つアンリの両親の背を見ながら、引いたところでタイラーはぽつんと一人立ち尽くす。

 海難事故の原因は不明として幕は引かれた。


 数か月間そのままにされていた独り暮らしのアンリの部屋は引き払われることになった。実家へと最低限のものが引き取られていく。

 タイラーは彼女の好きだったリバイアサンに関する本を数冊もらい受けた。

 自室にアンリと映した写真を飾り、アンリが残した言葉を反芻し、床に物を置く癖を改めた。アンリだったらどうするだろうか。それが彼のなかの基準となり、失った彼女との唯一のつながりのように感じた。


 アンリはいなくなったものの、彼女を思い出し、彼女と同化するように仕事へとのめりこんでく。

 元々、営業の仕事を軽んじていたわけではない。仕事と割り切って、適当にやっていたわけではなかったのに、アンリならどうするという視点一つ添えるだけで、タイラーの世界の見方が変わる。

 本を読むようになり、部屋も片付けるようになった。床に物を置かなくなれば、アンリの言うように、見栄えは良くなった。使うもの、使わないものに仕分けし、長年使わない物を捨てる。着ない服も処分した。


 アンリと過ごしていた時間がぽっかりと空く。そこを埋めるように仕事の書類を読み込んだ。契約を結ぶためのトークを思案し、顧客を理解することに努めた。ただ空白を埋めるための行動でも、ある意味その行動を突き動かす意識は、タイラーにとって夢中と言い換えてもいいものだった。


 迷った時は、アンリならどうするだろう、と腕を組んで考えた。脳内のアンリとの対話をもって、彼女が確かに自分と共にいたのだとかみしめる。そうやって彼女の姿勢を自身の中に取り込みながら、アンリのいない時間を誤魔化しつつ、彼女と一緒にいるような錯覚を得ていた。


 営業成績は上がっていく。自分一人ではこんな結果は得られなかっただろうと思うほどに。アンリを失って一年後、タイラーは始めて営業成績一位を獲得した。


 営業先へ出かける間際、壁を見れば、張り出された営業成績表でタイラーはトップを走っている。


「今月も、上々じゃないか」

 背後から上司に声をかけられ、タイラーは軽く会釈した。

「今月はたまたま大きな案件を契約できただけです。引き続き、ご縁や紹介をいただけることが結果として数字に表れているだけですよ」

 殊勝に、あたりさわりなく答える。

「いやいや、ここ一年間の半分は君がトップだ。それだけの結果を出していれば、名実ともに君がうちの営業部の一番だろう」

 上司の話は長い。タイラーは手元の書類をちらりと見せて、「これから、お客様とのアポイントがあります。失礼します」

 そう言うと、上司の横を通り過ぎて、営業部を出た。


 もうすぐアンリがいなくなって三年目に近づく。


さっそくブックマークありがとうございます。励みになります。

次回は7日の10時更新になります。

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